はじまりの街

ものごとが胎動し始めることのロマン。巨大なものの「はじまり」には、特別なものを感じざるをえない。
例えば、スティーブ・ジョブズが友人と、自宅のガレージで「アップルⅠ」の生産を始めるが、そのガレージを見るものは、何か特別な色合いを帯びて映ることであろう。
その「原点」がありきたりのものであればあるほど、ロマンが広がる。
実際、2013年9月 「アップル創業ガレージ」こと旧ジョブズ宅が歴史的建造物として永久保全された。
さて、我が福岡には、「はじまり」であふれた街が2つあるのに気が付いた。
鹿児島本線沿いに位置する「御供所(ごくしょまち)」と「雑餉隈(ざっしょのくま)」で、御供所町は、JR博多駅に近く、雑餉隈は博多駅から南へ三番目めのJR南福岡駅に位置する。
また二つの街には、町名の「読み」が難しいことや、「供」や「餉」など「食べもの/捧げもの」を連想させる文字が含まれることなどが共通している。
歴史的に「町名」の由来をいうと、雑餉隈の「雑餉」は、大宰府に納めるおさめる食糧、御供所の「供」は筥崎宮に収める食糧からきたものらしい。
さて、「はじまり」といえば、「発祥之地」。それを示す石碑に出会うとしばらく足が止まり、ここで形成された夢や「生みの苦しみ」、成功に至る諸条件などにも思いが至る。
もし、全国で「発祥之地」を示す石碑をさがすと、文明開化の中心地であった東京の銀座・築地、また幕末開港地となった横浜、神戸、長崎あたりが多いのは間違いない。
ただ我が博多は中世以来アジア大陸に近い港町として発展したため、博多は中世期のいわば「最先端」の地であったために、こうした「発祥之地」を示す石碑に多く出会うことができる。
それが「御供所」周辺に集中して存在しているのだ。
例えば、「蕎麦饂飩発祥」の碑・「独楽発祥」を示す旧小山町碑・「ういろう伝来」の碑・「山笠発祥の地」碑・「九州鉄道発祥の地」碑・「濡衣塚」(濡れ衣という言葉の由来となった故事の碑)、そしてなんといっても「扶桑最初禅窟」つまり日本最初の禅寺・聖福寺である。
聖福寺は近代において教楽社という施設をもち九州における初めての活動写真の上映地ともなった。
ところで聖福寺は栄西創建の寺で、日本における「茶伝来の地」でもある。そしてこの聖福寺の和尚として今も博多市民に慕われているのが、仙厓和尚である。
仙厓の功績のひとつは、それまで顧みられることがなかった栄西の「興禅護国論」の価値を再発見したことにあり、その意味で栄西の思想的継承者といえる。
実際に仙厓自身、栄西の生きかたそのものにも共鳴している。
仙厓は聖福寺こそ日本で最初に創建された禅寺であることを自負しつつも、一方で禅僧最高位を示す紫衣を二度も拒否し、福岡藩の悪政に苦しむ庶民の姿を描くという反権力・反骨の姿勢を貫いた人物である。
この仙厓の書く絵をこよなく愛したのが石村萬世堂の三代目社長であった。
三代目社長石村氏はホワイトデーの仕掛け人で1977年バレンタインチョコのお返しの気持ちを「チョコを優しくつつんだマシュマロで」という発想から、バレンタインデーの1ヵ月後にマシュマロデーを設けたのである。
博多はホワイトデーの発祥の地でもあった。
さらに福岡は長崎に近く、中国の菓子や南蛮菓子からつくった和菓子が創案され現在も人々を楽しませている。
銘菓「鶏卵素麺」は、南蛮菓子の趣があるが、中国の点心から発達したものといわれ、 博多の豪商大賀氏が書院・落成式に三代藩主・黒田光之を招いた時に進呈したのがはじまりといわれている。
大賀家の松屋利右衛門が長崎で点心つくりを学び、日本の風土に適応するように手を加えて完成させたものである。
聖福寺に隣接した妙楽寺には「ういろう伝来の地」がある。
元が明に滅ぼされた時、その官職にあった人物が逃亡し博多に来て帰化し、漢方薬としてつくったものをその子供が京都で接客用の菓子として作り直したのである。
これが「透頂香」(別名ういろう)とよばれ評判となり各地に伝わったが、新幹線開通いらい名古屋の「ういろう」の方が有名となった。
また長谷川法世の人気漫画「博多っこ純情」に登場する櫛田神社は、山笠祭りで有名であるが、この神社には公費では世界最古といわれる図書館「櫛田文庫」が付属していたことはあまり知られていない。
また福岡県庁のある東公園あたりはかつて千代の松原とよばれたところで、秀吉はここに千利休や高山右近をまねいて茶会を開いている。
「千利休の釜かけの松」など秀吉主催の茶会の跡が残っているが、茶会もそうした商人達を掌握するためのひとつの手段であったであろう。
福岡の地は13世紀の元寇以来、荒廃していた。朝鮮半島での破壊者・秀吉は、福岡では実は建設者であった。
博多に到来し筥崎八幡宮に本営を置いた秀吉は、博多の町を復興し新たな町割りを行なったのである。
山笠祭りで知られる「流れ」は、この町割りが原型となっており、秀吉の町割りの中心が博多駅から海側に延びる現在の「大博通り」である。
そして秀吉は、福岡滞在の折に様々なものを残している。
「福岡発祥」のものが多いのは、豊臣秀吉の「朝鮮出兵」の兵站基地となったということも関係がある。
秀吉は、物資の調達のために博多の有力商人を多くもちいたために、秀吉は深く博多商人達との関係を築いたのである。
博多の料理の中にも秀吉が遺したものがある。博多郷土料理の筑前煮、別名「がめ煮」は秀吉が朝鮮出兵のおり、唐津名護屋城に滞在中、豊後からすっぽんと野菜、コンニャクを一緒に煮込んだ料理が献上されたことにはじまる。
秀吉や兵たちは精がつく料理として大変喜んだということが伝えられており、大分県では亀煮とよんでいたが、博多に入ってスッポンのかわりに博多特産の鶏をつかって煮〆を作った。
これが博多のがめ煮となったのである。
豊臣秀吉の朝鮮出兵に参加した黒田長政は、朝鮮陶工を福岡に連れ帰り、鞍手郡鷹取山に窯を開かせるが、四代・黒田綱政はその朝鮮陶工の子孫を福岡城下近くの西新あたりに住まわせ、藩の御用窯を作らせた。
これが現在、早良区藤崎にある「高取焼味楽窯」で、製作品を集めた「味楽博物館」がある。
さて、福岡の人々は今でも、中洲をはさんで西側が中世以来の港街・博多とよび、近世期以降発達した東側の新興の地を「福岡」と分けて呼ぶこともある。
その境目の中洲は、九州最大の繁華街として有名であるが、1847年に福岡藩精錬所が開設され、1887年の九州沖縄八県連合共進会から急速に発展し、測候所、電話局、電灯会社、商業会議所、取引所もできて、中洲は九州・近代における「文明開化」の地であった。

福岡市博多区の南部と大野城市西部にまたがる地域で、かつて進駐軍が駐屯した町・雑餉隈(ざっしょのくま)がある。
その後に陸上自衛隊の春日駐屯基地がつくられ、基地とセットのように歓楽街が広がっている。
地元のスーパー「マルキョウ」の創業地であり、日本のセーラー服発祥の地「福岡女学院」も近い。
ところで、町の名前からも連想させるが、この町は雑草のような「草魂」たくましい人々を生み出した町である。
雑餉隈の町工場の経営者・吉村秀雄は、マフラーやカムシャフトなど奇跡の部品を生み出し、その手は「ゴッドハンド」とも言われた。
吉村秀雄は、雑餉隈で製材所を営む家庭に生まれ、横須賀の追浜基地にあった予科練に14歳で入隊し、霞ヶ浦航空隊での訓練中に落下傘事故で入院し、海軍を除隊となった。
太平洋戦争では、現シンガポール支部に転任となったが、1945年の終戦間近には胃潰瘍で実家のある雑餉隈で療養中に終戦を迎えた。
雑餉隈は板付飛行場に近いためアメリカの進駐軍が駐屯していた。終戦後に吉村の実家は鉄工所をはじめたが、商売の足として使用していたオートバイに興味を覚えるようになり、オートバイ屋「ヨシムラモータース」を創業した。
シンガポール赴任で英語を覚えた吉村のもとには、オートバイ好きの米兵が出入りし、米兵はいつしか吉村のことを「POP」(親父)と呼ぶようになる。
そんな吉村に運命の転機が訪れる。1954年進駐軍の兵士からレース用にと「バイクの改造」を依頼されたのだ。そして板付基地で行われたドラッグレースに出場した吉村は、オートバイの加速に飛行機の離陸に通じる魅力を感じた。
そして勝利を重ねる町工場「ヨシムラ」の名は、瞬く間に全国に広がった。
あの本田宗一郎でさえも「ヨシムラ」が生み出す部品に脱帽するほどであった。
1965年、吉村は九州から横田基地のある東京都西多摩郡福生町(現・福生市)に移り「ヨシムラ・コンペティション・モータース」を設立する。
やがて、ホンダから部品を提供してもらいマシーンを改造するという契約を結んだ。
しかし、自らレース専門会社を設立したホンダは、態度を一転させて吉村との契約を断ち、部品の提供をストップした。
そこでアメリカの市場に飛び込んだが、共同経営者に会社を乗っ取られ、再起をかけた新工場も火事で焼失する。 この時、吉村自身も両手が動かぬほどの瀕死の重傷を負った。
そんな「絶体絶命」の吉村の前に現われたのは、「レースで勝ちたい」と願うバイクメーカーの技術者達であった。
そして吉村は家族と共に、一発逆転をかけ1978年「第一回鈴鹿8時間耐久レース」にうって出る。そして並み居る大メーカーを退けて優勝をさらった。そしてその後の優勝を含め、通算4度の優勝を果たしている。
さて「草魂の雑餉隈」二人めは、国際アクション・スターの千葉真一である。
千葉は1939年雑餉隈で生まれた。そして父親が経営していた柔道場があった。父親は大刀洗町に在った陸軍飛行戦隊に所属し、母親は熊本県出身で学生時代に陸上競技をしていたという。
テストパイロットの父親は、空母へ初着艦を成功させるなどしたが、危険な「重責業務」のため給料の半分が飲み代となり、家庭は裕福でなかったという。
千葉4歳の時、父親が千葉県木更津市へ異動となり、家族で君津市へ転居した。
終戦後、父親は漁業組合の役員に転職したが、家計は相変わらず苦しかった。
色々なスポーツをしたが、当時の「体操ブーム」にのって、木更津一高では体操競技に専念した。そして3年生で全国大会優勝を成し遂げ、1957年日本体育大学へ進学した。
同級生には「ヤマシタ飛び」の山下治広などがいて、オリンピック出場を目指して練習に明け暮れた。一方、学費を稼ぐために土方や引越しのアルバイトなどをしていた。
そんな身体を酷使していた最中、大学2年生の夏に練習中に跳馬で着地に失敗して腰を痛め、医者から「1年間運動禁止」と宣告され、もはや選手を続けることが困難となった。千葉が将来を模索していた頃、たまたま代々木駅前で「東映第6期ニューフェイス募集!」のポスターを見かけた。
面接時には日本体育大学の経歴を珍しがられ、2万6千人の応募からトップの成績で合格したが、父親は芸能界入りを猛烈に反対して千葉を勘当したという。
それでも千葉は1959年東映ニューフェイスとして入社し、翌年にはテレビドラマ「新七色仮面」の二代目・蘭光太郎役で主演デビューを果たした。
1968年から、テレビドラマ「キーハンター」に主演し、これまで誰も見たことのないスーパーアクションで人気をさらった。
東映は常にアクションスターであることを千葉に求め続けて、吹き替えしてもらうことなく自ら危険なスタントを演じていった。
その精神は千葉に憧れて映画スターになった香港の大スター・ジャッキーチェンに受け継がれている。
そして「草魂の雑餉隈」最後の人は、ソフトバンク創業者の孫正義である。
孫正義は24歳の時に雑餉隈の雑居ビルで、ソフトバンクの前身にあたる会社を設立している。
その場所は、現在1階に、ソフトバンクショップが入っている「てんぐ屋ビル」の裏手あたりである。
孫は、みかん箱の上に乗ってわずか二人の社員に熱い思い「30年後のわが社は1兆・2兆を数の単位とするような会社にするぞ!世界の人々に情報革命を提供するんだ!」とぶちあげた。
しかし、「この人おかしい」「気が狂っている」と思ったのか二人の社員は辞め、社長一人になってしまったという。
孫正義は、在日韓国人三世で、1957年佐賀県鳥栖市五軒道路無番地で生まれた。
小学校の時、孫一家は北九州に移転し成績も一番だったが、孫の頭の中には「韓国人である自分は日本で受け入れられるだろうか」という思いがめざめていた。
そして、進学した久留米大付設高校の一年生の夏休みに、カリフォルニアに1ヶ月の短期留学をする。
カリフォルニアの青い空と、アメリカという国のスケールの大きさに圧倒され、アメリカで結果を出せば、日本で認めてもらえるという思いが強くなり、アメリカの高校への編入を心の中で誓った。
その時父は病の床にあり、周囲の誰もが「早すぎる」と反対した。
しかし、今アメリカ行きを躊躇したら自分の道は開けない、大義の為には時に人を泣かすことがあると、親類縁者にも累がおよぶ「脱藩」の罪を犯して国家大事を選んだ坂本龍馬の心境に自分を重ねた。
そして自分のアメリカ行きに賛成してくれた唯一の人が、誰あろう父親だったのだ。
1974年2月久留米大学付設高校を1年でやめて、カリフォルニアに旅立った。
その2年後にはカリフォルニア大学バークレー校へと編入が認められたが、仕送りの負担や猛勉強の必要などの条件を満たすためには、発明以外ないと毎日ひとつの発明のアイデアをノートに書き込んでいった。
そして音声付自動翻訳機を考えついたが、これを商品として完成させて儲けを出すには20年はかかりそうだった。
そこでバークレー校の研究者の名簿から一流を選りすぐり、彼らに発明に協力してもらうよう交渉した。
その中にスピーチ・シンセサイザーの世界的権威がいた。若き孫は、この世界的権威氏を「今は金はないから成功報酬で」と説得した。
その世界的権威氏をして、この若者に賭けてみようと思わせたのが、すごいところである。
そして出来上がった自動翻訳機の試作機をシャープに売り込み、それを元手に、在学中の1979年アメリカでソフトウェア開発会社を設立した。
そしてインベーダーゲーム機などを日本から輸入して学費を生み出し、サンフランシスコ郊外のカレッジの英語研修で一緒に学んだ二歳年上の女性と結婚している。
1980年に、カリフォルニア大学バークレー校を卒業し日本へ帰国し、1983年に雑餉隈の地に「日本ソフトバンク」を創業したのである。
そういえばもうひとり、雑餉隈出身の芸能人がいた。「博多出身」を前面にだして実家の売り物であるタバコを盗んでは母親に、「こら!なっばしよっとか」と怒られていたあの人です。
かくして中世以来の「発祥地」の多い御供所町、近代以降の「創業地」の多い雑餉隈、共に「はじまり」のロマン溢れる街である。

高取焼味楽窯は、藤崎近くの紅葉山裏手にあり、中には亀井味楽氏の作品を集めた「味楽博物館」もある。
ここを訪れる人は少ないが、閑静な住宅街の中にあり、なかなか面白い空間である。