粘土の神様

最近、戦時中の史料を読んでいて、見過ごしていたことがあった。日本海軍の戦艦名の「陸奥」「武蔵」「大和」「長門」など、いずれも日本の古代の諸国の名がついているという事実である。
海軍閥の「薩摩」の名がなぜないのかと一瞬思ったが、律令諸国の時代には「薩摩国」はいまだ存在しなかったからだ。
戦艦名に付随して他にも疑問が湧いてきた。皇太子・皇太孫以外の親王は、成年に達すると独立して「宮家(みやけ)」を創設するが、宮家の名はどのようにつけられるのだろうか。
例えば、大正天皇第二皇子の雍仁親王を「秩父宮」というが、武蔵国(埼玉)の秩父嶺が帝都所在の武蔵国の名山であり、雍仁親王邸の西北に位置したことから選定されたという。
また、昭和天皇の第二皇子にあたる「常陸宮」は、古代の「親王任国」である令制国名「常陸国」からとられたものらしい。
また「万葉集」や「古今和歌集」などの「歌枕」となった地名からとられた「宮家」の名もある。
「三笠宮」は、奈良県磯城郡田原本町三笠。奈良盆地中央部に位置する。地名の由来は、当地より三笠山(若草山)が望見できることによる。
また、「高円宮」(たかまどのみや)は、奈良市白毫寺町の東方にある標高432.2mの山で、古くから数多く歌に詠まれており、高円山を題材として詠み込まれたものが「万葉集」では、30首以上に及んでいるという。
さらに、「秋篠宮」は、現天皇の次男・文仁親王が独立したときに創設された宮家で、宮号は和歌の歌枕として有名な奈良県奈良市の「秋篠」に由来する。
秋篠は、奈良県奈良市にある地名、かつては大和国添下郡に属しており、平城京の北西端にあった西大寺の北側に広がる地域にあたる。
秋篠の南側に秋篠寺が建立され、光仁天皇の勅願とか、秋篠氏の氏寺であったなどよくわかっていない。
「東塔・西塔」などを備えた伽藍規模と「脱活乾漆像」の尊像が多く安置されていたところから、「官寺」並みの大寺院であったが、平安時代に兵火による悲惨な災難を被り、伽藍の大半を失い、創建当時の大寺の面影は失われている。
礼宮妃殿下である「紀子さま」の横顔が、「伎芸天像(ぎげいてんぞう)」に似ているという評判が起こり、多くの人々が伎芸天を拝観すべく秋篠寺に観光バスなどで訪れた。
また2006年には、秋篠宮家の長男、「悠仁さま」が誕生されたおり、お寺は一時賑わったという。
さて「秋篠」の地をさらに遡ると、意外な事実につきあたる。
そこは、古くから「土師氏」ゆかりの土地といわれており、782年に土師安人の姓が宿禰から朝臣に改められた際に、居住地にちなんで秋篠安人と改名している。
そしてこの「土師氏」というのは、我が居住の地・福岡とも縁が深い一族である。
実は「学問の神様」として太宰府に祀られている菅原道真のルーツは、意外にも、秋篠宮と同様に「土師氏」なのである。
ここで、「土師氏」のルーツをさらに遡ると、天穂日命の末裔と伝わる野見宿禰にいきつく。
野見宿禰が出雲から呼び出され、殉死者の代用品である「埴輪」を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を与えられたといわれている。
このことは、当時も技術的には出雲が先進であったことを示唆する。
古代豪族だった土師氏は技術に長じ、出雲、吉備、河内、大和の4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間に築かれた古墳時代の、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である。
大阪府藤井寺市、「三ツ塚古墳」を含めた道明寺一帯は、「土師の里」と呼ばれ、土師氏が本拠地としていた所で、その名がついた。ちなみに「道明寺」は土師氏の氏寺である。
さて土師氏が元祖とする野見宿祢は、相撲の元祖として知られた人物である。
「日本書紀」垂仁7年7月7日条にその伝承が見える。
それによると、大和の当麻邑に力自慢の当麻蹶速という人物がおり、天皇は出雲国から野見宿祢を召し、当麻蹶速と「相撲」を取らせた。
野見宿祢は当麻蹶速を殺して、その結果、天皇は当麻蹶速の土地を野見宿祢に与えたという。
そして、野見宿祢はそのままそこに留まって、天皇に仕えた、とある。
やがて土師氏は、桓武天皇にカバネを与えられ、「大江氏」・「菅原氏」・「秋篠氏」に分かれていったのである。
その菅原氏から公家の五条家が出たが、五条家は野見宿禰の子孫であることから相撲司家となった。

さて、福岡市中央区鳥飼に「金子堅太郎生誕地碑」が建っている。
金子は、福岡の出身で家は足軽の身分だったが、藩校の修猷館に学んだ後、福岡第11代藩主の黒田長溥(ながひろ)援助で岩倉遣外使節団に加わり、アメリカに残ってハーバード大学に留学した。
このが時、セオドア・ルーズベルトと同級生であったことが、日露戦争の講和に大きな意義を持つことになる。
また、井上毅・伊藤巳代治とともに伊藤博文を援けて、大日本帝国憲法の草案を作った功績は大きい。
地元福岡にとっての功績は、なんといっても藩校の修猷館を旧制高校として残したことだろう。
実はここでのテーマは、金子堅太郎ソノ人ではなく、金子の生家跡の石碑が建つ「埴安(はにやす)神社」のことである。
金子の本来の生家は、この神社からすこしズレてあったらしいが、土地整備のためこの「埴安(はにやす)神社」の地に移されたという。
それでは、「埴安」とはどういう意味であるか。「埴(はに)」とは埴粘、祭具の土器を作る土。すなわち、赤土の粘土といってよい。
それは古事記や日本書紀にみられる言葉で、イザナミがヒノカグツチノカミを生み、やけどをして苦しんだおりに排泄したが、その排泄物から化生した神が、 ハニヤスビコノカミ・ハニヤスビメの男女の二神である。
「ハニ」(埴)とは粘土のことであり、「ハニヤス」は土をねって柔かくすることの意とされる。
さらには、埴安神は土器の製作を司る「粘土の神様」であり、聖なる埴土で祭器を造り、その神威で国土を安らげることが「埴安」に込められている。
ポーツマス講和条約でルーズベルトと「根回し」を行った金子堅太郎も、幼少のころよりこの神社を幾度も訪問したにちがいない。
さて、「土」に関わる神社といえば、福岡市内に「地禄神社」というものが数多くある。
福岡市博多区に堅粕地禄神社、青木地禄神社、竹下地禄神社など5社。南区に塩原地禄神社、三宅地禄神社など4社。大野城市に白木原地禄神社、釜蓋地禄神社など5社。春日市の春日地禄天神社や、太宰府市の大佐野地禄神社など、かなりの数である。
いずれも村社程度の小規模な社で、多くの同じ宮の名を持ちながらも「本宮」といえるものはない。
予想されることだが、いずれの地禄神社も、祭神は「埴安命」と「埴安姫命」の二神である。
「地禄」とは大地の恵み、土地を富ませるの意味で、農耕における土壌つまり「粘土」の含有量は重要な要素で、農耕の生産の豊穣を祈るため神様としても祀られたのだろうか。
作物を栽培する上でとても大切な土は、岩石・粘土・有機物・水・空気からできている。岩石や粘土などが含まれる固相、水などが液相、気体の部分が気相にわかれていて、これらは「三相構造」と呼ばれている。
そして、3つの相の比率を見ると、土の特徴がわかり、育ちやすい作物や、畑の管理の方法も見当がつけやすくなる。
さらに土の性質を詳しくみると、岩石や、荒砂、細砂、シルト、粘土などでできている。
粘土が25~45%含まれる「壌土」と呼ばる土で、砂が80%で「砂土」、粘土が50%以上で「埴土」という。
農業と「粘土」との関係でひとつ思い起こすのが、リンゴの無農薬栽培の実現に至るエピソードである。
岩手の木村秋則氏が無農薬で育てようと挑戦したが、リンゴの木は、葉は出てくるものの花は咲かず、毎日毎日害虫取りをしたがいくら取っても追いつかず、7年間はホボ害虫と病気の闘いとなった。
収入のない生活が続き、何をやっても害虫の被害がなくならない。
そのうち家も二度追い出され、世間からも「変人扱い」され、木村氏は「農薬」の有り難味を、イヤというほど思い知らされる結果となる。
そのうち、実をつけぬリンゴの木1本1本に「ごめんなさい」と声をかけて回り、ついに気が狂ったと思われたこともあった。
だが、きっと「リンゴは何にもいわないけれど、リンゴの気持ちはよくわかる」と口ずさんだとちがいないと、推測する。
リンゴの「無農薬栽培」を始めた木村秋則氏が岩木山で突然に閃いたのは、リンゴを無農薬で育てるということは「土を育てる」ということにほかならなかった。
そして、その核心は、土の表面ではなく、土の中に粘り(根張り)を作り出すことだった。
絶望に打ちひしがれ岩木山に上って弘前の夜景を眺めつつ佇んでいると、足元の草木等が小さな「りんごの木」に見えてきた。
しゃがんで土をすくってみると、畑の草はすっと抜けってしまうのに、何もしていないのに根っこが張リ抜けなかった。また、土が畑の匂いとぜんぜん違っていた。
この粘り(根張り)こそが肝心だと気づき、大切なのは「土の中」なのだと思い至った。
大豆の根粒菌の作用による「土作り」の知識があったので、6年目に大豆をばら撒いた。
年をおうごとに改善が見られ落葉が少なくなり、花が咲くようになった。
そして、8年目で少しばかり小さなリンゴが実り始めた。
そしてその翌年ついに畑一面にりんごの白い花が咲き乱れた。
木村氏は、その風景を見た時に足がすくんで身動きできなくなり、涙が止まらなくなったという。

「筑前国続風土記等」によれば、殆んどの地禄神社は古く「地禄天満宮」や「地禄天神社」を名乗り、天神梅を社紋として菅原道真を合祀している。
これらの地域が大宰府天満宮に近い所為か、地禄神社には菅原道真の信仰が習合した可能性が高い。
それに、菅原氏が土師氏をルーツにしたことを考えれば、「天神様」と「埴安命」はとても相性がよいといえよう。
ところで福岡市南区の三宅にある地録神社だが、「みやけ」は日本古代の歴史によくでてくる「屯倉」を思い起こさせる。
実は三宅あたりは、我が居住圏であったため、西鉄電車の大橋駅近くの三宅小学校によく野球をしにいった。
野球が終わると三宅小学校の運動場と隣接した若八幡宮の手洗場で手を洗い、自転車に乗って夕遅くに自宅に帰ったものだった。
その「手洗い場」の石が、ある歴史を秘めたものであると知ったのは、「みやけ」を調べはじめた時のことである。
大宰府の前身の「筑紫の大宰官家」こそこの若八幡宮あたりであったといわれている。
663年白村江での敗戦後、海岸に近い今の三宅の地より、内陸の太宰府の地に移転した。
その「筑紫の大宰官家」の初代長官が蘇我日向(そがひむか)である。
この蘇我日向は日本史ではなかなか悪名高き人物で、中大兄皇子に異母兄・倉山田大臣を讒言し妻子ら8人もろとも山田で自害においこんだ人物である。
孝徳天皇が真相究明のために倉山田大臣の自宅を捜索すると、倉山田大臣の無罪が証明された。蘇我日向はそうした血に塗られた事件の首謀者として都をでて「筑紫の大宰官家」にやってきた。
若八幡宮の手洗い場の石こそ、その日向が長官であった時代の「筑紫太宰官家」の礎石だといわれている。
結局、菅原道真が祀られている「大宰府の前身」と三宅の地録神社が近接しているのにも、「粘土の神様」がクッツケたような印象を抱かせる。
ただ、最近の発掘で「筑紫の太宰官家」の位置に関するもうひとつの説として、博多駅に近い比恵遺跡周辺が有力視されていることも付言しておこう。

福岡市西区女原(みょうばる)の山側に位置する「一宮神社」は、雅彦霊神、埴安命、別具都知命を御祭神としている。
そして、この女原の地に居を構えた人物が、日本史の教科書にも登場する宮崎安貞(あんてい)である。
宮崎は、江戸前期の農学者で、大蔵永常、佐藤信淵とともに、江戸時代の三大農学者と言われた一人で、40年以上の歳月をかけて「農業全書」をまとめた。
福岡藩に仕えたが、後に刀を捨てて、自ら農業に従事しながら、鍬を握り、中国の農書や老農の教えを実験。諸国の篤農家を訪れて農業を研究し、その成果を「農業全書」にまとめた。
大蔵永常、佐藤信淵は、大名のもとでその手助けをし、大名を豊かにすることが目的であったが、安貞の最大の目的は農民の救済であった。
安貞は「農民が技術的に水準が低く、そのために、豊かで明るい生活の道をたてられない」ことを嘆き、自分の能力を顧みず農業の書を著すことを思い立って、この「農業全書」を完成させたのである。
安貞は、志摩郡女原村 (現在の福岡市)を農業研究のフィールドとし、 自分も鍬をふるって耕し、村民を励まして開墾を奨励し、その合間を縫って中国の「農業書」を読みふけった。
時間に余裕があると近畿、中国、九州の各地に出かけて経験の深い老農の話を聞き歩き、村に帰るとそれらの話を元に、実際に自分の農地で実験したのである。
安貞はそんな生活を40年も続けながら、その成果を「農業全書」としてまとめた。
また、本草学者で同じく福岡藩に仕えた貝原益軒と、その兄である楽軒と「世の中のことを考え、農業を発展させたい」という同じ思いを持つ仲間として親交を深めた。
益軒には農業全書の序文を書いてもらい、楽軒には、内容についての訂正や出版の世話を頼む仲となった。
その結果、本文の10巻の他にもう1冊、付録として付け加えられることになった。
また、徳川光圀公がこの書物を目にとめて誉めたたえたのは、当時無名の宮崎安貞だけの力では難しく、水戸にいた楽軒の知人を通して光圀公のもとに届けられたからだといわれている。
「農業全書」は、1697年に刊行され、各地に普及し、明治になって西洋の自然科学による農学書が出るまで、ほぼ200年間、近代農業の発展に寄与してきた。
「農業全書」では農業技術のことだけではなく、農民が貧しいことを愁い、穀物の蓄積、倹約に勤めることなど農政についても説いている。
また、植物の名前をはじめ、ほんとんどの漢字には、読みやすいようにふりがながふられ、イラストも数多く掲載している。
女原から2キロぐらいの地にある今宿公民館で、20年も前に、この鮮やかなイラストのある原本を見る機会があったが、その印象は今も消しがたい。
この農業の研究家兼実践家でもある宮崎安貞が、飯盛山の北のふもとにある埴安命を祀る「一宮神社」のすぐ近くに居を定めたことにも、宮崎安貞の中で、なにがしかの意図もしくは祈りが込められていたのではなかろうか。
その小住居は今も神社すぐ近くに保存され、現存している。