ジャズと「今ココ主義」

1980年代前半、サンフランシスコの夕暮れ時の金融街。休日で人影まばらなビル街の、どこからか聞こえるジャズの音色が、五臓六腑に沁みこんだ。
ビルの壁に囲まれた空間が自然の「音響効果」となったのか、ただ一度の音響体感だけでジャズに痺れるとは、想定外の「事故」のようなものだった。
帰国後、幾分ジャズに親しむようになって、世界的なジャスピアニストである秋吉敏子が福岡で演奏していた時期があったという話を聞いた。
秋吉が岩田屋の上にあったダンスホールや呉服町近くの「将校クラブ」で演奏を始めたのは、わずか17歳の時。 その1年前の1946年、秋吉一家は満州から日本に引き揚げてきた。
秋吉は、6歳の頃からクラシック・ピアノをはじめていたが、ピアノを含む家財道具一切を捨ててきた。
一家は、両親の故郷である大分県の中津に身を落ち着けたが、いとこがが住む別府に時々遊びにいった。
別府にはアメリカの兵隊達が闊歩し、ダンスホールで「ピアニスト求む」の広告が秋吉の目に入った。
何よりピアノが弾けることに胸が高鳴った。
秋吉は、医学を学ばせようと思っていた父親に内緒で働き、彼女のピアノを聞いた見知らぬ男が、彼女の運命のトビラを開きはじめる。
ジャズレコードの収集をしていたその人は、秋吉のジャズの素質を見出して、いろいろな曲を彼女に聞かせた。
最初に聞いたのがテデイ・ウイルソンの「スイート・ローレン」で、秋吉は、なんと美しい演奏だろうと感銘をうけ、憑かれたようにコピー演奏 をし始めた。
その後、前述のとおり福岡にで進駐軍の出入りするクラブで、デューク・エリントンやハリー・ジェ-ムスの曲を演奏した。
福岡でのめりこむようにジャズを吸収した秋吉にとって、地方で学ぶべきものは何もなかった。
1948年、19歳の秋吉は東京にでてジャズのプロフェッショナルをめざすことにした。
東京の街は、進駐軍とともにアメリカの文化があふれ、米軍放送を通してジャズがどんどん流れていた。
東京にでて3年目に22歳の時、自分のバンド「コージーカルテット」を結成した。このメンバーの中には渡辺貞夫などもいた。
そして秋吉が西銀座の「テネシー」というジャズ喫茶の店で仕事をしていたところ、階段の暗がりで彼女は、神様といわれたオスカー・ピーターソンの姿をみかけた。
どうしよう、と思う間もなく、気を取り直して舞台にあがったが、手足がぶるぶる震えてコーヒーカップさえ握れないほどであったという。
当時、有楽町にあった日劇でオスカーピーターソンは3日間演奏するのであるが、そのピーターソンが誰かに案内されて秋吉が演奏していたジャズ喫茶を訪れたのであった。
秋吉の演奏を聞いたピーターソンは、秋吉をすぐにプロデューサーに紹介し、彼によるトリオのレコーデイングのはこびとなった。
当時日本のジャズピアニストとして売り出し中だった秋吉は24歳にして、ジャズの本場アメリカにも立派に通じるプロとしてのテクニックをもっていたことになる。
さらにこの時のレコーデイングがきっかけとなって、1956年ボストンのバークリー音楽院への留学することになった。
卒業と同時にサックス奏者と結婚し一児をもうけるが、離婚し秋吉が子供をひきとることになる。
その後、生活が不安定で定期的収入を売る道として、一時コンピュータのプログラマの勉強などもしたが、ニューヨークの有名ジャズクラブが彼女を採用し、何とか定期収入の道が開かれた。
1974年、秋吉が当時最も心酔していたデューク・エリントンが肺炎を起こして亡くなった。
デュークへの「追悼文」の中で、いかに彼が黒人であることに誇りをもっていたか、彼の音楽がいかに黒人の伝統に根付いているかという内容に、秋吉はハットした。
それは彼自身の歴史であると同時にそれはアメリカ黒人の歴史であったことに気づき、秋吉は、日本の文化をジャズに融合させる努力をしなければならないこと。
つまりジャズ・ミュージシャンとして自分が創るものは自分の歴史でなければならないと思った。
そればかりか、自分のミュージシャンとしての勝負は自分の「死後」にあるとさえ考えたという。
そして秋吉は宮本武蔵の「五輪書」や世阿弥の「花伝書」をよく読み、特に「花伝書」は能楽の奥義だが、所謂、「道」を極める茶道、華道、書道、「~道」全てにに通じる、日本の伝統文化の精髄を伝える書として大きな感銘を受けた。
ジャズは外国の文化でも、自分しかできないジャズとは、自分の歴史に根ざすほかはない。
実際、秋吉は「能」の世界を取り入れたジャズ音楽を創作したが、そのタイトルは「孤軍」。そのタイトルは、秋吉の人生そのものを映している。

日本とジャズの心を結んだ(と思われる)秋吉の先人がいる。それは、意外にもラフカディオ・ハーン(小泉八雲)である。
ラフカデイオ・ハーンは1850年6月にギリシアのイオニア諸島のレフカス島に生まれた。父はアイルランド人、母はギリシア人である。
少年時代には不幸があいついだ。両親の離婚、事故による左眼失明、父の旅先での死、経済上の理由での退学、その後ロンドンに出て造船所で働き、日のあたらない生活を送る人々の中で成長していく。
1869年ロンドンまたはフランスのル・アーブルから移民船に乗って大西洋をわたり、無一文でアメリカに渡った。
移民列車で多くのアイルランド人が住んでいたオハイオ州のシンシナティにやってくる。
彼はここで、給仕、廃品回収業、行商、電報配達員、ビルのガラス磨きなどの職を転々とし、底辺から資本主義の暗黒面への批判や文明化への疑問をもつようになる。
この頃、黒人混血女性と同棲するが、心傷つき、この関係を清算するためにニューオリーンズへ行く。
ここで文才が認められ新聞記者となりハ-ンの前途にようやく光明が射す。
ニューオリーンズの新聞社の編集長としての成功し、ハーンと日本との接点が、1884年から翌年にかけて開催されたニューオーリンズ万国博覧会で、そこの日本館の展示品を通して、日本文化に眼を開いた。
そんな折、ハーパー社との間で日本行きの企画がもちあがった。19世紀後半の欧米は、旅行と旅行記に対する関心が非常に高まった時代であった。
1890年4月4日ハーンはハーパーズ・マンスリー誌から特派され横浜に上陸する。
時に39歳、わずか2ヶ月の滞在予定ではあったが、まもなく社との契約条件に不満をもち、ただちに社とは絶縁する。
しかし日本への関心はますます高まり文部省からの斡旋で日本の山陰にある辺鄙な町・島根県松江にある中学校の英語教師として赴任する。
1890年8月ハーンは東京をはなれ、新任の地、島根県松江へと向かった。途中、鳥取県下市の妙元寺境内で行なわれていた盆踊りを見て生涯忘れえぬほどの感動をおぼえたという。
ところで、ハーンが生活したニューオーリンズは、ヨーロッパ系白人とアフリカ人奴隷の混血や異文化の接触・融合による独自の混淆文化を開花させた町。そこは何といっても「ジャズの発祥地」である。
ニューオーリンズは一般的な北米の都市とは異なり、混淆的・非キリスト教的・呪術的な文化を特色とし、ハーンは、街のすみずみを歩き回り、諺、音楽、料理、ヴードゥー教、墓、怪談など魅力あふれる独特のクレオール文化の探求にのめりこんでいった。
ハーンが松江の町をこよなく愛したのも、ニューオリーンズのそうした側面と一脈通じるものを感じたのかもしれない。

ジャズには、日本文化が通じ合う要素があると思える。それを単純な言葉で表すと「今ココ」主義とでもいおうか。
日本人の精神構造について思うのは、「過去の経過(=いきさつ)」や「将来の展望」よりも、「今のこの時・この場」を大事にする傾向があるということである。
例えば、マスコミはさんざん持ち上げハヤシたてた人間を、何かをキッカケとして一転してタタキまくる。
その「持ち上げ/たたき落とす」プロセスになんら自省も遠慮の気持ちもはたらかない。
かつて北朝鮮はマスコミよって「理想の楽園」と持ち上げられていた時期があったことは、今の若者はほとんど知らないのではないか。
「風向き」がかわったと見るや、そういう過去のことはすべて「御破算」となったかのように、「今」と「この場」における「空気」を大切にする。
人々も、そんなコンスチュエンシーのない新聞やテレビを、大した抵抗もなく読みつづけ見つづける。
こうした態度が「今ココ主義」であるが、芸術面で思い当たるのは、歌舞伎。
本来、幾場面もある物語の一部をきりとって演ずるので、全体の物語を知らないものにとっては理解不能だが、日本人はその切り取った場面の迫力や情感だけでも、十分に堪能できるのである。
評論家の加藤周一に「日本文化の時間と空間」という論考がある。
日本人は「今=ここ」に生きている、つまり、時間においては「今」に、空間においては「ここ」に集約される世界観に生きているということである。
「古事記」の時間は、始めなく終りのない時間意識であり、無限の直線としての時間は、分割して構造化することができない。
すべての事件は、神話の神々と同じように、時間直線上で、「次々に」生れるものであるから、そこでは人は「今」に生きることになる。
例えば、ユダヤ・キリスト教的世界における歴史的時間は、始めと終りがある時間、両端が閉じた有限の直線(線分)で表現される。
古代ギリシャの時間は、始めも終りもない無限の時間であったが、「無限の時間」の表現には2つあるという。
1つは、一定の方向をもつ直線で、時間はその直線上を無限の過去から無限の未来へ向かって流れる。
もう1つは、円周上を無限に「循環」するという時間である。
仏教の「輪廻」の思想で、生死は限りなく繰り返されるから、時間は無限に循環するものである。
日本人の「時間意識」をもうひとつ加えると、四季の区別が明瞭で、規則的であり、その自然の循環するという"農耕社会"の日常的な時間意識を決定したと考えられる。
かくして、日本文化の中には、3つの異なる「型」の時間が共存したとする。
歴史的時間としては、始めなく終りのない「次々に」の直線的時間であり、日常的時間としては、始めなく終りない円周上の(四季折々)の循環的時間であり、人生の普遍的時間としては、「花が咲き散る」始めがあり終りがある。
加藤氏によれば、この3つの時間どれもが、「今」に生きることに向かったという。
加藤周一氏は、この「今」に生きる態度を、「連歌」から明らかにしている。
連歌の流れはあらかじめ計画されず、その場の思いつきで、主題を変え、背景を変え、情緒を変えながら、続くのである。
その魅力は、作者にとっても、読者にとっても、当面の付句の意外性や機智や修辞法であり、要するに今眼の前の前句と付句との関係の面白さである。
「今眼の前の前句と付句との関係の面白さである。
ソノ面白さは現在において完結し、過去にも、未来にも、係わらない」と。
連歌とは、過ぎた事は水に流し、明日は明日の風に任せて、"今=ここ"に生きる文学形式である。
その文学形式こそが、日本文学の多様な形式のなかで、数百年にわたり、史上類の少ない圧倒的多数の日本人の支持を受け続けたという。
「今ココ」を生きる日本人は、その精神的態度として、過去は水に流し、明日のことは「風まかせ」という態度で生きるとになる。
日本の絵画などは、「構造的」なものではなく、瞬間的な「変化」を捉えていているものが多い。
時空間の「今=ここ」を、それ自身として完結した部分の洗練へ向う。
都市の景観作りも全体から考えるのではなく、「建て増し」の傾向をもち、シンメトリー(左右対称)が生まれない。
最近、新聞で「ジャズと私」というコーナーがあり、ジャズを語る人々の名言に心ひかれた。
そしてそこに「今ココ主義」の真髄が語られていた。
岡田暁生氏は、京大人文科学研究所教授で音楽学者。
岡田氏がクラシックを専門にしたのは、発生生物学者だった父の影響だが、ライブハウスで、同い年のピアニストの演奏を聴き、僕は一瞬でほれ込み運命だ」と感にいり、その場で弟子入りを志願した。
その師匠は岡田氏に、「見るからダメなんだ」と楽譜を取りあげた。電気を消し、暗闇の中で鍵盤をまさぐる「音だけの世界」にたたずんだ。
すると、これまでになかった「何か」が自分の中から引き出されていくのがわった。
ジャズでは即興がすべてで、「即興」とはつまり、一瞬を命がけで生きるということである。
最高度の集中力で「今」と向き合い、欲しい音を真剣に探す。
そうして生み出されるものすごい密度の音楽が、あぶくのようにその場で消える。
このはかなさが音楽芸術の本質。ジャズを知り、逆に僕はクラシックのすばらしさを再確認できたし、権威化されたクラシックが置き去りにしているものも見えるようになった。
ジャズは他者との関係の築き方を教えてくれる。人間のたわいもない感情を、どこまでも繊細に音にする。どんな人生も否定せず、受け入れる精神から最高のセッションが生まれる。
たった数人の客を相手に、今なおものすごく濃密な世界を提供しているジャズマンたちのけなげさ。ジャズには「偉大さ」を目指さぬ謙虚さと品格がある。
恋愛の官能ではなく、恋が始まる瞬間の恥じらいを表現するジャズで、オトナの社交の神髄を見るという。
また、東大教授で数学者の中島さち子さんは、中学時代に数学にはまったのも、発想の自由さにワクワクしたからだという。
そして大学時代はジャズ研究会にはまった。
数学とジャズは、どちらも理と感性の間を行き来しながら、常に過去を脱ぎ捨てて、新しいものを生み出そうとする。
世界的な数学者の故・岡潔は、数学は、道端に咲く花に気づく情緒を養うために必要な教育だと言った。
数学は、論理が全てと誤解されがちだが、「気付く」ことは情緒がものをいう。
「定理」一つにせよ、感性をフル活用して多様な角度から世界を見ていて、ふと、大切な本質が見えてくる。
凝り固まった先入観から自分を解き放ち、自由な視点で瞬間を捉えることこそ、ジャズの本質である。
逆に、ジャズの即興はとにかく自由だと思われがちでだが、普段から頭も使って自分の引き出しを増やしておかないと、展開がマンネリ化していく。
21世紀は、これまで異分野とされてきたもの同士をつなげて新しいものを生み出していく、クリエーティブな時代。
マニュアルのない問いに自由な発想から試行錯誤し、時には失敗や偶然の産物から心が動いたり道が開けたりもする。
人生の旅路のように、ジャズや数学の世界は奥深く、何度も苦難にぶつかっては初心に立ち返り山を越える、の繰り返しである。
ジャズの即興でも、人と人が「今」という瞬間を一緒に創る醍醐味に無心に立ち返れた時、「奇跡の瞬間」が訪れる。