反転する世界

ひとつの立場で生きた人生が、ある時点で全く反対の立場で生きることがある。
日本では労働者が「経営参加」することはないが、労働組合の幹部から「転じて」会社の経営陣に入るケースが一般的に見られ、それは欧米ではまずあり得ないことである。
日本では戦後、「労使一体」で戦後復興を果たしてきた労働組合が「人事管理」に大きな力をもっている。
だから、社長といえども組合の力を借りないと、「人事管理」ができないという面がある。
会社の「人事部」に組合役員がかなりいたりして、早くから管理職になって「人事部長」の地位についたりしている。
そこで日本は、労働組合の役員のポストが「出世コース」といわれるほど「リバーシブル」な社会なのだ。
また、法曹界で、検事として長年生きた人が弁護士として生きるケ-スなどが一番分かり易い例である。
コンピューターのデータを盗む天才ハッカーが服役後、今度は警察サイドに雇われてハッカ-防止に生きるという「反転」もよくある。
それは、警察内で「ハッカー防止係」を育てるより、よほど効率的だからである。
そもそもハッカーにはそれほど罪の意識がなく、ゲーム感覚でハッキングをやっているケ-スが多いので、「正義のハッカー」になれば、まったくのゲーム感覚で「ハッカー防止」をやってくれるにちがいない。
さらに、単なる消費者クレーマーから大企業の社長に転じた人もいる。元ソニ-の社長の大賀典夫である。
1950年 ソニー((当時、東京通信工業)が最初のオーディオ・テープレコーダーを出した時、大賀典夫は東京芸術大学の声学科の学生だった。
大賀はこのテ-プレコーダーの愛好者であったが故に、いち消費者として新製品に対する辛辣きわまりない批判をソニーに提出した。
その内容はソニーの側からして、納得できるものが多かったため、このひとりの音楽大学の学生の意見に注目するようになった。
そして大賀が学生時代であった1953年、嘱託としてソニ-と契約し、ソニー専属の有給の批評家になった。
そし大賀の思いつきは、常に斬新で魅力に富んでいた。
1959年に大賀はソニーに入社し、昼はソニーの社員として働き、夜はバリトン歌手として音楽活動をするつもりであった。
しかし過労からオペラ公演で失敗し、やがてソニーに専従することになる。
そし井深・盛田両氏の下で、第二製造部長、広告部長などを経て、1982年には52歳の若さでソニー代表取締役社長に就任している。
大賀の一番の逸話は、CDの開発におけるフィリップス社との調整交渉にあたったこと。フィリップスは記録時間の長さで60分を主張し、ソニーは「記録時間の長さは音楽の楽曲の時間から逆算して決めるべきだ」と主張。
大賀は音楽家としての視点から、ベートーベンの交響曲「第九」の収録など主要な楽曲をコンパクトディスク1枚に収めるには直径12センチで75分間の容量が必要だと強く訴え、結局この意見がとり入れられた。
また、大賀が社長在任中に、「ウォークマン」開発に関与し、「ソニ-の旋律」を生んだといわれる。
CDやウォークマンの開発には、大賀典夫のクレイマ-からソニー社長への「反転人生」があった。

芸術や文学の世界に目をやると、先日亡くなった作家の赤瀬川原平は多彩な才能のある人で、「宇宙の缶詰め」という創作がある。
ただ単に、蟹缶のラベルを剥がして缶の内側につけて「反転」を演出をした。
ただそれだけのことだが、缶詰内に人がいて「密封」されたのなら、人間はいつしか食べられるのをジット待つ存在にほかならない。
宮沢賢治の物語に「注文の多い料理店」というのがある。山猫の狩にきた二人の男が腹が減って料理店に入ると、扉を通るたびに様々な注意書き(注文)が書いてある。
髪をきちんとして靴のの泥を落して下さいから始まり、鉄砲と弾丸をここへ置いて、帽子と外套と靴をおとり下さい、ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡、財布、その他金物類、ことに尖ったものは、みんなここに置いてください、と続く。
さらに、壺のなかのクリームを顔や手足にすっかり塗ってください、早くあなたの頭に瓶の中の香水をよく振りかけてという注文になり、最後には壺の中の塩をたくさんよくもみ込んでください、という奇妙な注文になっていく。
そしてようやく二人は気がつく。通常、お客はレストランに入れば、食べたい料理を注文するが、この料理店の「注文」というのは、向う側がこちら「注文」を出しているということなのだ。
つまり、山猫を食べに来たお客が、山猫に食べられそうになるという「反転の世界」なのだ。
「注文の多い料理店」が刊行されたのは1924年だが、この5年後に世界恐慌がおこり、日本もいわゆる「軍国主義」の時代に突入していく。
「反転の世界」といえば、鉄格子を挟んだ看守と囚人との関係が逆転する辻仁成の芥川賞作「海峡の光」がある。
この小説の舞台は、閉じ込められたような「砂州の街」函館の海を背景に、函館青年刑務所である。
物語は刑務官である主人公の前に、かつて自分を残酷なイジメで苦しめた優等生・花井が囚人として入ってくることに始まる。
監視されるはずの刑務官たる主人公が、いつか自分の過去がばれるのではないかと、花井という囚人に監視されているような思いにかられる。
しかもその花井というのは、人の気持ちを弄ぶことができる天才的ないじめっ子だった。
そして刑務官は、何も言わない花井に自分のすべてを読まれているような気がしてくる。
さらに主人公は刑務所の規律の中に自分を浸して生きるのに、花井はむしろ世の中の外側にいられることの自由を満喫しているように見える。
つまり主人公の目には、花井が刑務所の「内側」に居場所を見つけたようにも見えてくる。
そして刑務官は、この囚人と共生していく他はないという、「囚人」のような気持ちにさせられていく。
現実の世界でも、囚人の方が看守を「感化」するといったドラマがあるようだ。
1909年、安重根は日本による植民地統治下、伊藤博文を暗殺して、朝鮮では豊臣秀吉の朝鮮出兵を打ち破った李舜臣将軍と並ぶ「二大英傑」とされている。
個人的には、日本の植民地支配があったとはいえ、テロリストを国家的な英雄とすることには少々抵抗を感じる。
とはいえ安重根は事件後逮捕されて「旅順監獄」に収監されたが、その姿は日本人の検察官や判事、看守にまで深い感銘を与えたという。
安重根が正義感に富んだ高潔な人物であることを知り、日本人が獄中の安重根に「揮毫」を依頼し、その数は約200点に及んだという事実がある。
看守の一人であった千葉十七は安重根の真摯な姿と祖国愛に感動し精一杯の便宜を図った。そして、死刑の判決を受けた安重根は処刑の直前、「為國獻身軍人本分」と揮毫し、千葉に与えた。
韓国総督府での勤務を終え故郷の宮城県に帰った千葉十七は、仏壇に安重根の遺影と遺墨を供えて密かに供養し、アジアの平和の実現を祈り続けた。
1979年安重根生誕100年に際し、密かに守られてきた「遺墨」が韓国に返還された。
宮城県の若柳町大琳寺には千葉十七夫妻の墓があり、1981年、遺墨の返還を記念して、安重根と千葉十七の友情を称える顕彰碑が建立さた。
また安重根に感銘を受けた日本人として、当時、旅順監獄の典獄(刑務所長)であった栗原貞吉がいる。
栗原は安重根の国を思う純真さに魅せられ、煙草などの差し入れをしたり高等法院長や裁判長に会って助命嘆願をするなどしていた。
処刑の前日に栗原が何かできることはないかと尋ねると、安は「国の礼服である白絹を死装束としたい」と言った。そこで栗原の祖母や姉達が夜通しで編み上げた白絹の礼服が安に差し出された。
そして安は1910年3月26日にその礼服を身につけて処刑となった。
栗原は安を救えなかった慙愧の思いからか職を辞して故郷の広島に帰った。
広島では医学関係の仕事につき、役人の世界に戻ることなく1941年に亡くなっている。
ソウルには安重根の偉業を伝える「安重根記念館」があるが、説明書によれば、安が処刑の時に身につけた白装束は、栗原の家族ではなく安の母親が編んだと説明されている。

アメリカ・サンフランシスコ在住のノンフィクション作家レベッカ・ソルニットは、「災害ユートピア」という本を書き、1906年(明治39年)のサンフランシスコ大地震について検証している。
ソルニットによれば、大災害が起きると、秩序の不在によって暴動、略奪などが生じるという見方が一般にあるが、本来的には、災害のあと被害者の間にすぐに「相互扶助的な共同体」が形成され、「利他主義」が支配するのだという。
サンフランシスコで被災した女性が公園で始めたスープキッチンが瞬く間に協力者が次々と現れて皿や調理道具、食材が集まり200~300人規模になっていった。
東北でも、被災して店を流された料理人が、食材を集めて熱い味噌汁を皆にふるまうなど同様のシーンが見られたが、人間はこうした災害を前にして、お互いを助け合っていこうという気持ちが働く。
また、2005年、ニューオーリンズを襲ったハリケーン・カトリーナの際も、被災者の間および外から救援にかけつけた人々の間で、「新たな共同体」がほどなく形成されたのだという。
実は、サンフランシスコの大地震に遭遇した幸徳秋水が、ソルニットと同じようなことを書き残している。
そもそも幸徳秋水が当時なぜサンフランシスコに行っていたかというと、日本で社会主義者への弾圧が強まるにつれて遙かサンフランシスコに渡る者もいて、サンフランシスコは一時日本の「社会主義革命」の拠点とさえなっていたのだ。
たまたま、サンフランシスコにいた幸徳は大地震にあい、あれほど念願した「ユートピア」が出現されるのを目の当たりにしたと書き残している。
だが、社会主義者が未だに成し遂げ得なかった革命を、自然はわけなく成し遂げたとはいえ、そこには夥しい数犠牲者が横たわり、私有財産や貨幣価値が無効となったうえでの「平等な世界」ということになる。
そんなこと誰も望んではないのだが、皮肉なことに、その時多くの人々は利他的になり、自身や身内のみならず隣人や見も知らぬ人々に対してさえ、思いやりを示すようになったのだという。
このことは、被災時において他人とつながりたい、他人を助けたいという気持ちがエゴイズムの欲望より深いという事実をしている。
つまり災害は、人心を荒廃させるどころか、新たな社会や生き方を教え導く機会にもなる。
人間は、本来的に「ホモコントリビューエンス」(貢献人)なのかもしれない。
したがって災害からの復興は、その「ユトーピア」からの離脱を意味することになる。
ところが、ソルニットは、こうした「災害ユートピア」が混乱に陥ってしまうのは、意外にも「政府官憲」側にあるという。
混乱の実態は、必要以上に「特定の集団」の暴動を恐れた政府官憲が、意図的にデマを流して「封じ込め」をはかった結果起きることによってかえってパニックを招いてしまう。
サンフランシスコ大地震では、市長が軍と警察に略奪者の即時殺害を通達したり、2005年のカトリーナ襲来でも、暴徒の乱入を恐れて近隣地域は橋を武装保安官で封鎖し、威嚇射撃でニューオーリンズからの避難民を追い返したとという。
日本の関東大震災で、大量の朝鮮人虐殺がおこったし、無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝夫妻の殺害は、日頃から弾圧しているからこそ、非常時にその報復を恐れるという面があるからなのだろう。
日本の官憲は、1919年の「3・1独立運動」で7500人もの朝鮮人を殺害したために、報復を恐れるにたる十分な理由があったわけだ。
管理者側は、情報を操作することも容易で、大きな力を行使できる立場にあり、「管理者パニック」は民衆のパニックより大きな影響を与えることになる。
日本でも安保をめぐる政治闘争が最も激しさを増した1960年6月、国会周辺を30万人の人々が取り囲んだことがあった。
この時に東大の女学生が機動隊ともまれ死亡するにおよび、人々は参議院の承認を経ないままに新安保の自然成立へともちこもうとする岸内閣への怒りを高めていった。
この時、岸首相は、警察隊ばかりではなく「自衛隊の投入」を強く主張した。
しかし、防衛大臣の赤城宗徳は「自衛隊を出したら、同士撃ちになり、まちがいなく自衛隊は国民の敵になる」といって反対した。
この時もしも、赤城宗徳氏が自衛隊投入に強く反対しなかったならば、国会議事堂周辺は大量の流血の騒ぎになり、1986年の中国の天安門事件と同様の事態が発生することになったであろう。
近年、防災相の何某が、「東北でよかった」との失言で辞任したが、前後の文脈が切り離されていた面があったにせよ、防災相の言葉には失望したという人々が多くあった。
その一方で、東北の人々は悪い言葉を反転して「東北でよかった」と応じてみせた。
その東北に対する差別的ととらえられることをユーモアに転じたのである。
この世では 誕生があり やがては死を迎えるのが人間の在り様で、誰も死からまねかれる人はいない。
人は今日という日が明日も同じように続くと思いこんでいるが、実はその日常ははかなくてもろい「幸運」に支えれているにすぎない。
誰しもが生と死という共通したものに囲まれた時間を生き続けるのに、日常の中でそれを忘れがちだ。それが予期せぬ災害によって打ち砕かれる。
日本人的は、悲しみの根源である「無常感」というようなものを共有しているのではなかろうか。
東北震災後、多くの人々が悲しみの只中にあったにもかかわらず、どこかふっきれような表情があったことを思い出す。
特に日本人には、言外の言葉の意味を探ったりする、豊かな情動の部分が形成されているのだと思う。
かつて上智大学の宗教学教授・宗像巌は、公害で被害を受けた水俣について次のような報告を書いている。
「悲劇の渦中に置かれたにも関わらず、水俣漁村の人々の日常生活には、生きる生命の充実感が満ち溢れている。家族の中の被害者を中心とする助け合いの生活に接すると、この人々の深い悲しみ にもかかわらず、ときおり意外なまでの明るさをそこに見出すのである。
家族や漁村共同体の多くの人々をつつみ込んだ悲しみの共同体験は、人々の間に一時的な不安と緊張を起こしたにもかかわらず、やがて人々の心の奥に流れる生命の連続環を媒介にして、純度の高い愛の共同体験として展開されている」。
結局、人々は同じ地盤にたつ、命がつながる存在であることが、思わぬかたちで露呈された時、「災害(災難)」は「ユートピア」へと反転する。
石牟礼道子の「苦界浄土」という言葉にそれが表れているが、水俣は浄土宗門徒の地盤であることも断っておこう。
アメリカの作家マーク・トゥエインには次のような名言がある。「人間に関することはすべて悲しい。ユーモアそのものの隠れたる源は喜びではなくて悲しみである。だから天国にはユーモアがない」。
地球の南北の磁気は太古以来、数回反転したという。世界は、「反転」というユーモアに溢れている。

異常気象で、ニューヨークが大洪水に見舞われるが、東京でゴルフボールくらいの雹(ひょう)が降りそそぎ、イギリスではスーパー・フリーズ現象が起き、ロスでは巨大な竜巻が街を飲みこんでいる。
ただ、この映画を見て一番驚いたのは、地球の南北が逆になる「地磁気逆転現象」である。
磁気の発生メカニズムは、まだ完全に解明されていないものの、地球内部のコア(核)が巨大な「発電機」となり、磁力を起こしていると考えられている。
そのため地球は北極がN極、南極がS極の巨大な「磁石状態」となっているので、方位磁石が北を指すのである。
地磁気が逆転すると、 停電や電子機器の故障は当然ながら、強烈な日光が降り注ぐ反面 寒冷化のすすむ地域もある。
実は、地磁気は、生物にとって有害な宇宙線を防ぐバリアの役割をしているのだが、逆転すると現在の5分の1程度に弱まると考えられている。
すると太陽からの電磁波やプラズマが大量に地表に届き、電線や発電所に過剰な電流を起こし故障する。
それでは、地磁気の逆転などという現象が本当に起こりうるのだろうか。実は、現在わかっているだけでも、地球の南北は7回も入れ替わっているという。
過去の地磁気逆転でも、生物を「絶滅」させるほどの破壊力はなかったようだが、地磁気をたよりに移動する生き物は、我々の想像以上に多く、長距離を移動する鳥やチョウ、サケやカメなどの回遊性の動物、ウシやシカなどの大型哺乳類に至るまで数多く知られている。
テレビでアメリカ大陸の蝶々が3世代にわたって南北に移動するのを見たことがある。蝶々は3世代にわたって移動するので、一個の個体が移動する「渡り鳥」とは根本的に違う。
北アメリカのオオカバマダラは、1年のうちに北上と南下を行うことが知られている。ただし南下は1世代で行われるが、北上は3世代から4世代にかけて行われる。
オオカバマダラは、産卵がすむとまもなく一生を終えるものの、卵から孵り成長し、成虫になった「次世代」のオオカバマダラがさらに旅を続けるのだ。
これらのオオカバマダラの移動距離はナント約3500kmを世代を繋ぎつつ約3ヶ月で移動する。
この世代を超えた自分の移動ルートを一体、何によって知るのか疑問だったが、体に「地磁気」を感じながら移動すると考えれば説明がつく。
「地磁気」の変化は、当然ながら生き物の移動ルートをかえてしまう。
それが地球の生態系を完全に変えてしまうことはいうまでもない。
最近、道筋が変わりつつあるのは、台風の進路、生き物が通るみち筋、ネット利用で変調を起こした男女が出あう道、などなど。