「結(ゆひ)」の経済

買う人と売る人を結びつけるのは主に企業の存在である。しかし最近、スマホ・アプリの普及で人と人とが直接結びつくようになった。
ちょっとした日常の不足を埋めるサービスが、一般人同士によってなされている。
これは、江戸時代の「結(ゆひ)」を思わせるが、この現代版「結」は地縁で結びつくのではなく「情報配信基盤」があって結びつく。
10年ほど前、二つのプラットフォームの提供企業が米カリフォルニア州に突如出現した。
話題をさらった一つは「ウーバー」で、携帯電話の簡単な操作で「タクシー(相乗り車)」を呼び、運転手に指示し、運賃を支払うプラットフォームを生み出した。このサービスは急成長し、あらゆる人々が空き時間に「ー運転手」になることができる。
もう一つは「エアビーアンドビー」で、世界中の人が全く見知らぬ人に空いた室をいつでも貸し出せる、効率的で信頼できるプラットフォームを作った。
「エアビーアンドビー」は急成長を続け、今では毎年、ヒルトン系列のホテル全体に匹敵する部屋数を増やしているという。
見知らぬ者どうしが、車に同席したり同じ屋根の下で過ごすと、トラブルや犯罪が起きる可能性が高まる。そこでこうしたプラットフォームは、利用者がサービス提供者を評価するなどして「安全性」や「安心感」をどう保証していく仕組みに仕上げている。
こうした「シェアリング・エコノミー」の発展は、経済人類学者カ-ル・ポランニーの「市場の勃興/埋め込み」という概念を想起させる。
ポランニーは、「市場の勃興」を近代社会に見られる特異な現象であって、経済というものは本来は社会に「埋めこまれて」いたという。
つまり貨幣を媒介とした価値だけで結びつく抽象的な経済ではなく、知ったもの同士、顔を知らなくとも「通婚圏」とか、葬式があったら集まる仲間とかいった社会的に色づけられた圏域に応じて経済的な関係をも取り結ばれ、そこには人間と人間との永続的な関係を前提とした「交換」が行われていたのだ。
つまり社会的関係が経済行為より優位にあり、「互酬」が原動力となり、市場原理が働いたとしても、伝統社会の秩序を壊さない程度に「埋め込まれた」ものでしかない。
例えば日本では江戸時代まで、農村共同体では「ユイ」という労働交換、「モヤイ」という共同作業、そして「講」(金融講)などの機能などが存在していた。
家を建てるために隣の人の労働力を借りた人が、次の年に家を建てた人に労働力を貸すといったものが「ユイ」であり、「モヤイ」というのは、川の堤防つくりや木の伐採など村人達が、協力して行う作業である。
こうした共同体でのふるまいは金銭(市場)を媒介にするのではなく「互酬」が中心で、違反者に対する「村八分」などのサンクションなどで秩序化された。
しかし究極的には、「運命共同体」的な意識ではないかと思う。
筑豊の生活を描き続けた山本作兵衛は、炭鉱に働く人々のそういう意識や互いに労わりあう姿を、日本人の「原風景」として残したものであろう。
農村の経済生活の面で特質すべきは、「ゆひ」と「もやひ」である。
「結(ゆひ)」とは、主に小さな集落や自治単位における共同作業の制度である。
一人で行うには多大な費用と期間、そして労力が必要な作業を、集落の住民総出で助け合い、協力し合う「相互扶助」の精神で成り立っている。
それは、田植え、屋根葺きなど一時に多大な労力を要する際におこなう共同労働の形態のことであり、頼むべき家々をまわって労力の共同を申し入れ、それによって助けられれば自分の家もそれに応じて「返す」ことを前提としていた。
「ゆひ」は「もやひ」と称されることもあるが、厳密には「もやひ」が「共にあるものが共に事を行う、あるいは共にもつ」協働であり、互いに「労力」を貸し借りする観念はなかった。
つまり「ゆひ」は「互酬」の経済、「もやひ」は「贈与」の経済といえる。
ただ、近代化・高度成長などによって共同体は解体され、人々は「個」として生きることを余儀なくされていく。
しかしながら、最近では、インターネットのネットワ-クによって互いの情報なども交換できるので、人々が繋がりあい協力していこうとする「シェアリング・エコノミー」が拡大しはじめた。
ただ、昔の共同体は空間的にも時間的にも恒常的に生活のすべてが一つに繋がっていたが、今日のシェアリング(共同体)は問題や関心によっていくつもの重層するネットワ-クの環の一つとして成立し、課題が解消すればそこからいつでも離脱できる。

先日、貧しい人に無担保で少額の金を貸すバングラデシュの「グラミン銀行」が、日本進出が報道された。 ユヌス氏は、国民の40%が一日1ドル以下で生活するといわれるバングラデシュで、貧しい人たちのための銀行「グラミン銀行」を設立し、マイクロクレジット、つまり無担保で小額のお金を融資して貧しい人達の自立を助けてきた。
グラミンとは「村」という意味だが、ユヌス氏の取り組みは、貧しい村の人たちの暮らしを良くするために、電話などの通信の整備、教育のための奨学金、貧しい子どもたちの栄養改善など多岐にわたっている。
こういう地域への市場参入をはかる世界的な食品会社や日本の衣料品会社との「合弁事業」も行うまでになった。
ユヌス氏の取り組みは、政府が行き届かない分野、つまり「草の根」の働きで着実に成果を出しているといえる。
「グラミン銀行」は1983年設立で、米国や英国などにも進出。米国ではのべ9万人に計約800億円を融資した。
ノーベル平和賞を受賞した創設者ムハマド・ユヌス氏と、その協力者である日本の大学教授が「グラミン日本」の設立で合意したという。
「グラミン銀行」は、就労や起業に必要な資金を低利・無担保で融資する。金利水準は検討中であるが、初回の融資額は最大20万円の予定で、返済が順調なら増額もできるという。
バングラデシュでの事業と同様に、5人一組の互助組織で借りる形とし、そのうち1人の返済が滞ると、全員の融資の増額ペースが落とされる。融資後は週1回、お金の使い道や就労の取り組みについて確認する。
寄付や出資を募って貸金業者として登録し、10年後をめどに、「預金取扱金融機関」への移行を目指すという。
さて、この「グラミン銀行」を知るにつれ、日本の江戸時代に生まれた庶民金融を思い浮かべる。
江戸時代の終わりごろ、「お伊勢参り」が流行したことがある。
実は、その流行の一端を担った者たちこそが、「御師」(おし/おんし)とよばれる者達であった。
彼らは特定の寺社に所属して、その社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする御師は街道沿いに集住し、「御師町」を形成し、この御師らの活動と伊勢信仰の広まりは深く関わっている。
しかし、いざ参拝となると伊勢近郊の者ならともかく、遠隔地よりの参拝となれば膨大な金額がかかる。
庶民にはそういう大金をつくることがで出来ないので、それを解決するために「伊勢講」というシステムが考え出された。
伊勢講とは町や村などある一定の組織の中で、各自が少しずつをお金出し合い、クジビキや話し合いなどによって「代表者」を選出する宗教的「互酬」システムである。
その代表者が「代参」という形で伊勢参拝をする、つまり村、町の人たちの代わりにお伊勢参拝するのだ。
また日本には「無尽」とよばれた金融の一形態がある。「無尽」とは、一定の口数と給付金額を定めて加入者を集め、定期的に掛金を行い、一口ごとに抽選ないし入札により、すべての加入者が「順番」に給付を受ける資格を取得する「互恵的」仕組みのことである。
この無尽は、庶民の金融システムとして、鎌倉時代中期に生まれた「相互扶助システム」がその起源とされ、今日の金融組織の母体といわれている。
江戸時代において、「無尽講」あるいは「頼母子講(たのもしこう)」として全国に広がっていったものが、明治時代になると、企業化した無尽講が現れるようになり、1951年に「相互銀行法」の制定により無尽会社は「無尽」を継続する会社と、銀行業務を行う「相互銀行」に分かれた。
日本の庶民の「金融」は社会的(宗教的)必要性に組み込まれていたという意味で、ポランニーのいう社会に「埋め込まれた」存在であった。
またムハマド・ユヌス氏の「グラミン銀行」の取り組みから、日本人の「先人」のアイデアが発想元になったのではないかとさえ思った。
それは二宮尊徳の「報徳仕法」である。実は、「二宮尊徳」は内村鑑三が英語で書いた「代表的日本人」に登場し、JFケネディは大統領就任の際、その中の一人「上杉鷹山」を最も尊敬する人物にあげている。

「グラミン銀行」の重要なコンセプトは、生活に困窮する人々を孤立させないことである。日本でも貧困者を孤立させない様々な試みが行われている。
10年ほど前、TVで、横浜の日雇い労働者の町で300円でおいしい定食をだしている食堂を紹介していた。
コンビニエンスの店では、賞味期限切れ3時間までにオニギリなどを回収廃棄することになるらしいが、かろうじて賞味期限内という約束のもとでそうした食材をその食堂に急いで届ける。
こういう食材を届ける役割を果たしているのは、あるNPO法人によるボランティアに基づくものだなのだ。
面白いのは、その食堂の料理長をみんなが「シェフ」とよんで敬愛の念を抱いていることである。
「シェフ」はもともと「一流ホテルの料理人」を目指す専門学校で学んだが、周りとの競争に違和感をおぼえ、皆が目指す料理人とは違う方向をめざした。
「シェフ」は、横浜の食堂でホテルで残った食材も調理し、時に高級食材も手にいることがある。
「シェフ」は厨房の中で仕事をするため、客と直接話すことは少ないが、一人一人の客のことをよく知っていて、老齢の人には細かく切って出すなど、できるかぎり料理の中に自分の気持ちをこめる。
「シェフ」は、300円という制約のもとで、あくまでも最高の料理をめざすことを心がけている。
さらに最近TVで紹介された「未来食堂」は、「ただ飯」さえも食べられる夢のような食堂で、東京都千代田区一ツ橋に実在する。
「未来食堂」のメニューはカンタンで、「カンブリア宮殿」で取材されたころのシステムは、定食は、毎日1種類だけで、ごはんは自分でおひつから盛り、おかわりも自由。
「まかない」というものがあり、お店の手伝いを50分することで、定食が1回ただで頂くことができる。
店の清掃をしたり、客の注文聞きとか様々あり、「マニュアル」あって、誰でもできるようになっている。
そして、働いたけれども、食べないという人は、その定食券(権利権)を入り口に貼って帰る。
すると来店した人は、その「まかない券」でタダ飯を食べることさえできる。
働いたけれど食べない人というのが結構いて、これが未来食堂のキモといってよい。
「あつらえ」というものがあり、本来の意味は、特別に注文して作ってもらうと言う意味だが、「未来食堂」では、用意してある食材の中から2種類を選んで、店主に「あたたかいもの」とか「しょっぱいもの」とかリクエストできるもののことである。
ただ、これは、夜のみのサービスで、定食プラス「あつらえ」で1300円となる。
店主の小林せかいさんは、1984年まれの32歳で、大阪府出身。高校生の時に、家出をして2カ月間、親とも連絡を取ることをせずに都会で暮らしていた。
その間、「人といっしょにごはんと食べること」をとても大切だと思ったという。
東京工業大学数学科に進学し1年生の時から、学祭で喫茶店をやっていて、3年連続人気度1位となって気をよくし、将来は飲食店を出そうと思うようになった。
大学卒業後、日本IBM、クックパッドでエンジニアとして働いた後に、サイゼリヤや、大戸屋、オリジン弁当などで働いた経験と、ITの知識を生かして、「未来食堂」を始めた。
行動のコンセプト:あなたの”ふつう”をあつらえます。
思想のコンセプト:誰もが受け入れられ、誰もがふさわしい場所を作ります。
信念:人は一人一人が特別であり、同時に平凡な存在である。
ただ飯さえも食べようと思えばできる「未来食堂」だが、大切なことはどんなに貧しくとも「繋がる」こと。その点で「グラミン銀行」と同じコンセプトだが、小林さんの弁によれば、このモデルよほど緻密な計画がなければ成功しないという。

聖書「創世記」に、ヘビにそそのかされて神が禁じた「善悪の木」の実を食べた人間が、自らが裸であることを知って、イチジクの葉をつづりあわせたものを腰につけたとある。
この「イチジクの葉」は、人間が最初に行った「過剰」といえるかもしれない。つまり、元来それなしで生きてこれた人間が、それなくしては生きられない「過剰」への第一歩だったということだ。
フランスの哲学者ジョルジュ・バタイユは、必要以上のものを過剰に生産し過剰に消費する、そこに快感を覚えるのが人間であるという。
バタイユの思想に啓発を受けた人類学者の栗本慎一郎は、金銭・性行動・法律・道徳や戦争までを「パンツ」という比喩で表わし、人間を「パンツをはいたサル」と表現した。
とするならば、文字でさえも栗本氏のいうところの「パンツ」、聖書でいう「イチジクの葉」といえるかもしれない。
そして重要なことは、人間が生きるに必要なだけの食糧や金で生きられる存在ならば、きっと核兵器をもつことも、遺伝子を操作することも、スマホで空しい時間を過ごすことも、人間の能力を超える人工頭脳を制作することもなかったに違いない。
そしてこういう抑えがたき「過剰さ」こそが、人間の最大のリスクになっているのではなかろうか。
我々は気付かぬうちに「市場思考」にならされている。余剰とえばすぐに「交換」が頭に浮かぶが、余剰は交換せずに、神にささげればよいし、破壊・破棄すればよいし、また人に贈与しもよい。
実際、「過剰さ」が危険であることを古代社会は知っていたのか、「過剰」は蕩尽されるべきものという意識があったようだ。
人類学者のマリノフスキーが明らかにした南洋諸島の「ポトラッチ」という言葉は、食物を供給するとか共食の場所とか贈与を意味する。ポトラッチの競覇的性格は、しばしば、競争相手の面前で大量の毛布やカヌーを燃やしたり、銅板を打ち砕いたりといった財の「破壊行為」すら導く。
経済人類学者のポランニーがいう「市場が社会に埋め込まねばならない」とは、互酬と贈与の経済によって「ひとり勝ち」で富を独占しようという生き方を抑制する社会である。
スマホ・アプリ、人工頭脳によって、サービスやモノにおける必要者と提供者の時間的・空間的折り合いを見事にマッチングさせる技術が、現代版「結(ゆひ)」の経済を生んでいる。
今、経済を「公(政府部門)/「共有(シェアリング)/私有(企業)」に分類すると、例えば「相乗り」普及でタクシーに乗らないなど「共有部門」が成長している分、「企業部門」が縮小するのかもしれない。
それは「フロー重視」から「ストック重視」の経済への転換でもある。
また、一般人どうしのシェアリングでは「所得が発生しない」、もしくは「所得の捕捉」が難しいため、自然と「政府部門」が縮小する可能性も考えられるが、当面は「政治の問題」といえよう。

今でも「わからない問題」をネットにアップすると誰かの答えが返ってくる。
人助けもなかなか楽しいし、自分のちからにもなる。そんな人々を結びつけることが可能になってきている。