「日田」隠しⅡ

中国・魏の皇帝が、邪馬台国からの使者に「親魏倭王」の称号と、銅鏡100枚を渡したことが「魏志倭人伝」に書いてある。
数多くの銅鏡「三角縁神獣鏡」が近畿周辺で見つかったため、近畿に邪馬台国があったという説が有力となった。
特に桜井市の纒向遺跡は、邪馬台国の最有力候補である。しかし、その銅鏡の製造年について中国にはない年号「景初4年」が鏡に記されてあったために、これらの銅鏡は中国ではなく日本で作られたモノではないかという疑義がでて、近畿「邪馬台国説」は幾分色あせた結果となった。
ちなみに、「魏志倭人伝」には魏の皇帝が送った銅鏡が「三角縁神獣鏡」とは書かれていない。
近畿出土の「三角縁神獣鏡」に対して、1933年に九州においても、今まで見たことのないような「鉄鏡」が見つかった。
それは、中国の皇帝クラスしか持てないといわれる「鉄鏡」であった。
この「金銀錯厳朱龍文鉄鏡」は重要文化財の指定をうけ、現在、太宰府の九州国立博物館の「常設コーナー」で見ることができる。
しかし、様々な事情から、この鏡がもつ本当の「価値」は捉えきれていないようで、1931年に、直良信夫によって発見された「明石原人」の人骨の運命を、いくぶん思わせるものがある。
1933年、久大線の敷設工事で、大分県日田市日高町(当時)において、崖の横穴から思わぬものが出現した。
土地の所有者の渡辺音吉が、刀、馬具、勾玉とともに、錆だらけの「鉄の塊」を見つけたのである。
渡辺氏は、「鉄の塊」に持ち手のような突起物を見出し、それが鏡だと気づいて近くの小学校に寄贈した。
戦況の悪化とともに、この「錆(さび)の塊」に興味を抱く者は皆無となり、誰かが持ち出したのか、その行方は杳として知られなかった。
ところが1960年、この「錆の塊」は日田からは随分と離れた奈良において出現した。
京都大学の有名教授が奈良の古物商から買い取ったもので、教授は中国の鉄鏡特有の「象嵌」が認められたこと、北部九州で見つかったということに興味を持って買い取ったという。
そして、その錆の下からは腰を抜かすほどの「装飾」が表れた。
1962年に天理大学に依頼して研ぎだしてみると、鏡の全貌が明らかとなった。
直径21センチ、鏡の裏側には8匹の竜が金と銀であしらわれ、目の部分は緑色に石英が散りばめられていた。
それは、日本でそれまで発見されたことのない鉄製の後漢鏡であった。
日本の土壌は酸性度が高いので、鉄の鏡が出現することはほとんどない。そのため他の場所にも複数埋められていた可能性が高い。
科学的な年代測定によれば、この鏡は5世紀のもので、卑弥呼の時代とは2世紀の開きがあり、邪馬台国と繋がる物証とはならない。
だが重要なことは、日田において他と比べようもない「超一級の鏡」が見つかったという事実である。
そして、この貴重な鉄鏡が「国宝」クラスの扱いを受けなかった点については、かなり「人間くさい」要素がからんでいる。
まず第一に、渡辺音吉氏の発見の状況が不明確であったこと。第二に、この鏡を最初に評価した教授が多くの業績を残しながらも、関係者たちからは嫌われ者だったこと。
教授が興奮して鏡の価値を強調すればするほど周囲はシラケていき、ついにはこの鏡が邪馬台国論争の中で取り上げられることもなくなったのである。
ただ、日田に関する興味深い事実は、3世紀にヤマトの纒向遺跡には、忽然として人工都市が表れたが、同じ時期、日田盆地の北側の高台の「小迫辻原遺跡」で、3世紀の環濠と日本最大級の居館跡が見つかったということである。
この遺跡からは、山陰やヤマトの土器が出土して、あたかも纒向遺跡の動きと連動しているような動きを見せているのである。
3世紀、ヤマトが「大陸に進出」するために必要だったのは、瀬戸内海から玄界灘へ通じる「海の道」で、瀬戸内海だけではなく、対岸の北部九州の東側の陸地を支配することが不可欠であり、真っ先に押さえてなくてはならない場所が日田であった。

「日田隠しⅠ」では、邪馬台国の北部九州説に立って西晋の「魏志倭人伝」の作者・陳寿が、邪馬台国への道程について「誤った」のではなく「ボカシ」たのではないのかという仮説を提起した。
そこで、作者がその行程をボカすか、「曖昧な位置情報」しか得られないことの中にこそ、邪馬台国の位置に関するヒントが隠されているのではないか。
「邪馬台国」への道程を、江戸時代の「シーボルト事件」と関連づける人はほとんどいないにちがいないが、本質的に同じ問題が潜んでいるのではないか。
「シーボルト事件」は、幕府の役人がシーボルトに地図を渡したことで、多くの関係者が処分された事件である。
この事件は、地図というものが、「国防上」とても重要な意味をもつものであることを示している。
それは古代にあっても全く同様、というよりも日本と大陸との間に今以上に頻繁な交流がみてとれるだけに、”地図匹敵”情報はそれ以上に価値あるものだったにちがいない。
思い浮かべていほしい。日本が朝鮮半島に「任那」(伽耶諸国)に拠点を置いたのも、鉄資源の獲得のためであった。
そして、大陸から比較的近い場所で、地政学上、最重要な場所として思い浮かぶのが、福岡県と大分県の県境にある「日田」という土地である。
「日田隠しⅠ」では、江戸時代に天領となった日田の重要性について、金山との関係を書いたが、この稿では国際情勢および地政学上の観点から、その重要性について敷衍したい。
さて、日本は弥生時代の到来とともに、朝鮮からやってきた北方系の人々と、中国大陸から船を漕ぎだした稲作民族があったと考えられる。
「魏志倭人伝」に記された倭国の風俗(入れ墨や海にもぐって魚をとる)など、大陸南方の稲作民族のそれとよく似ている。
倭人とは「ちっちゃな人」を意味するので、北方系ではなく南方系であることも推測できる。
つまり、邪馬台国にもそうした地域から移住してきた人々が多くいたにちがいない。
それでは邪馬台国は、なぜ「呉」ではなく「魏」に使いを出したのか。実は朝鮮半島の「帯方群」を支配していたのは「公孫族」で「呉」との繋がりが深いが、卑弥呼が魏に使いを送ったのは、「魏」が帯方群を奪還した直後にあたる。
つまり女王卑弥呼は、大陸の動静に素早く反応して「親魏倭王」の称号をうけたのである。
そんな不安定な状況の中で、邪馬台国の「位置情報」を知られることは危険である。例えば「魏」に敵対する「呉」に邪馬台国と好(よしみ)を通じる機会を与える可能性もある。
さて、筑紫島(九州)は海に囲まれ、その北半の海に面した各地に律令形成時に「筑紫国」・「火国」・「豊の国」が成立していた。
現代人は、あまり気がつかないが、近畿から瀬戸内海を通る船は大分県の東岸に到着し、陸路日田に出て川に沿いながら、有明の海や玄界灘に出るルートがあった。江戸時代の日田街道に沿って行けば太宰府にも出ることができる。
7世紀の百済救援をはかった斉明天皇の居所「朝倉宮」は、現在の福岡県の朝倉町と杷木町の境辺りの筑後川に近いところで、北部九州の道の結節点となるところである。
この朝倉宮の傍らには、博多湾から南下し日田を抜けて豊後の別府湾に至るいわゆる「豊後道」が通る。
この道は、別府湾で豊与海峡を横断する航路に繋がり、伊予国の石湯(道後温泉)を中継地として難波に至る。
また、朝倉宮から豊後道を日田まで行き、山地にはいって山国川に沿って下る道をとると周防灘の中津に出る。
また、宮から北の秋月に行き、筑豊に出て京都郡の津に行くこともできる。そこから瀬戸内海を内海を難波へ行く航路がある。
こうした別府湾・周防灘に面する地域全体がひとつにまとめられたのが「豊国」で、ここを支配したのが大分国造である「大分君」である。
日田は九州において「全方位」に通じる中心点であり、日田以上の場所はなかなか見当たらない。
それは内陸にありながらも、河川を通じて玄界灘・有明海・瀬戸内海にも通じている。
日田はそうした物資の経済流通上の「優位性」をもっていて、現代でいえば「首都機能」を果たすにふさわしい場所ではあるが、便利な分、軍都にはなりにくいという弱点がある。
その一方、日田盆地を西側を屏風のように仕切る「耳納連山」は、古代より「軍事上」の要衝であった。そして耳納連山の中でも、久留米の高良山は軍事上とても重要な場所である。
高良山に登ると、筑後川が眼下に見えるが、日田盆地の近くから耳納連山が筑後川に並行するように走っている。
「磐井の乱」もこの近くが最終決戦の場となり、南北朝時代に、懐良親王が高良山に陣を張り、敵を打ち破っている。
また、豊臣秀吉も、九州制圧の際にこの山に発心城を築いている。
高良山には、高良神社が鎮座するが、古代より神籠石で囲まれる神域のようになっている。
古代より久留米は九州全体を制圧する軍事的拠点として重要な位置づけを与えられた。
高良大社付近には社を取り囲む形で神籠石があり、南北朝時には毘沙門嶽(現つつじ公園)に懐良親王の九州征西府が置かれ、その空堀の跡が残っている。
近代久留米が「軍都」としての性格を強めた背景には、このような「地政学的要因」が存在するからに他ならない。
久留米には1897年に歩兵第48連隊と第24旅団司令部がおかれ、1907年には第18師団がおかれ、旧帝国陸軍の中枢となった。

山川出版社の「日本史B」の教科書には「邪馬台国連合」という言葉がでてくる。
本文には、「魏志倭人伝によると、倭国では2世紀の終わりごろ大きな争乱がおこり、なかなかおさまらなかった。そこで諸国は共同して邪馬台国の女王卑弥呼を立てたところ、ようやく争乱はおさまり、ここに邪馬台国を中心とする30国ばかりの小国の連合が生まれた」と記述されている。
本文にある通りだと、邪馬台国は30ばかりの小国の連合の首長国家である。といより邪馬台国は連合国家の首都のようなところである。
そうすると当時の日本の様子は、正確には邪馬台国を中心とした「筑紫倭国連合」というべきである。
つまり「邪馬台国」という名の連合国家はなく、おぼろげな倭国の「首都」が邪馬台国と見た方がよい。
歴史をみると、都市というものは通常、物資や流通が盛んな場所が次第に発展して形成されていく。
古代における九州日田は、首都機能に近いものを果たしつつ、宗像と宇佐を結ぶ中間点にもなっている。
宇佐八幡の祭神は応神天皇ということになっているが、社殿が三つ並んでいる真ん中が「宗像三神」にな っているばかりではなく、宇佐神宮の宮司の宇佐氏は筑紫国の「宗像三女神」の子である菟狭津彦の後裔と されている。
「記紀神話」によれば、宗像三女神(田心姫神(たごりひめのかみ)、たぎ津姫神(たぎつひめかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめ))はアマテラスとスサノヲの誓約(うけい)から生まれ、「海北道中(宗像より朝鮮半島に通じる道)」に降臨した。
また宗像大神には「道主貴(みちぬしのむち)」の別称がある。「最高の道の神」という意味である。
万葉集にも歌われた金埼(玄海町鐘崎)の宗像君(朝臣)氏の氏賎も本来的には海人であり、鐘崎海人の潜水活動は近代にまで及んでおり、壱岐・対馬・長門・石見。そして遠く能登へ至ったという。
「魏志倭人伝」には3世紀の「倭人」が入れ墨をして水に潜り漁労にいそしんでいた様子が描かれている。
水中での作業はサメやウミヘビなどの危険が伴い、これを避けるために体や顔に「入れ墨」をしていたと言われる。
海人族は航海だけでなく漁労に携わっていたであろうから、そうした「入れ墨」をした人々が居た可能性がある。一説には「宗像」は、もともと「胸形あるいは胸肩」と記していて、これは胸に入れ墨をした人という意味があるらしい。
古代海人族としては対馬や壱岐、志賀島を拠点として、対馬海峡・玄界灘をわがに庭のごとく通交していた「安曇族」の方が先輩格で、1世紀の奴国の栄枯盛衰に関わりがあることが推測できる。
「住吉族」も、元々は安曇族の中から出て来た海人族と考えられているが、後にヤマト王権により、摂津の住之・住吉を拠点に大陸までの航路を守る航海守護神として住吉大神が創出され、摂津の津守氏を祭祀氏族としたとも考えられている。
しかし宗像族はあくまでも筑紫の神ノ湊、鐘崎辺りを拠点とし、筑紫を出た形跡はない。
磐井の乱後ヤマト王権の筑紫支配が進んだ頃からヤマトに呼応した一族である。
527年の「日田石井」にルーツをもつ筑紫国の磐井の乱以降、敗れた磐井側についた安曇氏が筑紫を去り、ヤマト王権に呼応した宗像氏が筑紫に残って外交祭祀を執り行うようになったのではないだろうか。
かつて信州の安曇野に行った際、内陸にある穂高神社で、「御船祭り」がおこなわれている理由が境内の説明書きにあり、志賀島の安曇族が、朝廷より強制移住させられてこの地にやってきたと書いてあったのを思い出す。
現在、宗像の古代祭祀跡から見つかった遣納品には中国だけでなく、朝鮮半島の新羅や百済の文物が多数含まれており、大陸との通交を生業としていた宗像族と朝鮮半島諸国の王朝、航海民が共に航海の安全を祈念して奉納したものが数多くある。
特に、宗像三社の中の沖之島は「海の正倉院」ともよばれ、現在でも神職以外立ち入り禁止で、島からの持ち出し禁止なのである。
ソノ点で、志賀島の「金印」といい、日田の横穴における最高級の鉄鏡といい、発見場所があまりに「お粗末」なのは、沖津島の古代祭祀の場所から、誰かが「持ち出した」可能性が考えられる。
ところで海人文化といっても、広く山と海のサチの競合や交換という文化態様を考えなければならないし、鉄を保有する朝鮮半島との軍事上・交通上の交渉に海人が関与したことも考えられる。
「邪馬台国」の記述に海の気配が感じられると同時に、建造物で使われる木材の豊かさなど、山の気配も感じさせる。
明治時代に発見され東洋一の金山として栄えた日田に近い「鯛生金山」の名前に、この海の民と山の民との交流(交換)が秘められているようにも思える。
実は、日田の名前は「久津媛」という女王の名に由来する。
そのJR日田駅から歩いて20分ほどでつく会所山がその古墳といわれている。
この「久津媛」が卑弥呼であるといえるほどの「根拠」はなく、日田に邪馬台国があったなどということはできない。
しかし中国大陸からの進出者達が、邪馬台国を含む「倭国連合」全体を防衛上、危殆に瀕せしむるほどの中枢に入り込むのだとすれば、行程を誤魔化してでも防がねばならない。
そうした中枢に位置するのが九州の「日田」であり、江戸幕府が「天領」(幕府直轄地)を置くだけの価値がある場所なのだ。
「魏志倭人伝」の作者による邪馬台国への道程の曖昧さは、「金山秘守」および「倭国防衛」両面からの「日田隠し」に因するのではないだろうか。

 ところで現在、「邪馬台国」という言葉が当たり前のように使われている。
しかし、中国の文献に「邪馬台国」では出ていない。魏志倭人伝の「邪馬壹国」か後漢書などに出てくる「邪馬臺国」のいずれかである。「臺」を「台」と呼ぶことにもんだいはないのだろうか。
というのも、「邪馬壹国」をヤマト=大和につなげたいがために、「邪馬台国」としているだけのことではないか。ちなみに卑弥呼の後継者は、同じ「邪馬壹国」と同じ「壹与」のままにしている。
魏志倭人伝の「邪馬壹国」が「邪馬台国」にして妥当なのか、あらためて検証する必要があろう。