カナリアの死

今時になってその人の死の重さを投げかけるものがある。それは「カナリアの死」にもなぞらえることができる。
カナリアはガスを探知するために炭鉱に放たれた。帰ってこなかったらガスが充満していることを「死」をもって教える。
最近、世界的知性といわれるフランスの人口人類学者エマニュエル・ドット氏が「日本人はまるで少子高齢化を楽しんでいるかのようだ」と皮肉っている。
日本人にとって、少子高齢化が最重要課題なのに、それに対してほとんど無策・無関心ということだろう。
確かに、出生率を回復させたフランスと比べたら、日本人の出生率は低下するのみで、「本気度」に欠けるようにみえるのかもしれない。
昭和のはじめ、現在とは方向性は異なるものの、都市の人口と貧困の問題に「命がけ」で戦った日本人がいた。
「生めよ増やせよ」の国策の時代に、人口増による貧困を訴え産児制限を唱えたが、右翼によって暗殺された。学者出身の国会議員・山本宣治の死は、わずか39歳の時であった。
山本宣治は若い頃アメリカ大陸に渡って、当時の日本には無かった「自由と民主主義」の思想を身につけ、学者になってからも、ただ学生に学問を教えるだけで満足せず、貧しい労働者・農民に入って社会を改善する運動に身を投じた。
やがて労農党の代表として衆議院議員に当選し代議士になってからも、戦争へ戦争へと国民を引きずって行こうとしていた政府の政策に真っ向から反対し、軍国主義者から命を狙われた。
実は、人々が「山宣」と呼ぶほどに親しんでんだその人は、現在も宇治川のほとりにある料理旅館「花やしき浮舟園」の若主人でもあった。
画家・竹久夢ニもこの料亭で、絵筆をふるっている。
今でも、宇治の町では山本宣治の命日である3月5日、善法の墓地で「山宣墓前祭」をひらき、彼の意志を受け継ぐことを誓い合う集いをもっている。
墓碑銘にある「山宣ひとり孤塁を守る。だが私は淋しくない。背後には大衆が支持しているから」は、官憲によって塗りツブスまで建立を許されなかったものである。
しかし何度塗りつぶされても、いつのまにか誰かが彫りナオシ、「山宣ひとり孤塁を守る」の墓碑銘が浮き出したという。
山本は1925年成立の治安維持法が改正されて「天下の悪法」となった1929年3月5日に暗殺された。
その死は、それ以後の日本社会の「暗黒」を先駆けて暗示する「カナリアの死」なぞらえられる。
ちなみに、治安維持法違反で逮捕され1933年に警察署内で虐殺された小林多喜二の遺体を検視した医師・安田徳太郎は、山本宣治の従弟にあたる。

安倍晋三首相は2月1日の衆院予算委員会で、南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に派遣されている自衛隊に死傷者が出た場合、「辞任する覚悟はあるか」との質問に対し、「もとより(自衛隊の)最高指揮官の立場でそういう覚悟を持たなければいけない」と述べた。
この言葉に対して、日本初のPKO活動にて亡くなった「文民警察官」のことを思い浮かべた。
「国際貢献」が問われていた1990年代、日本がはじめて参加したのがカンボジアPKOだった。
UNTAC(カンボジア暫定統治機構)より、日本は、軍事部門に自衛隊 文民部門に警察官による「貢献」を求められた。
自衛隊の任務は、道路修復・橋架け替えであったが、憲法上の批判もあり、その他に「文民警察官」の名前で各都道府県から選抜された警察官が派遣された。
当時の宮沢首相は、警察官派遣の危険性に対する認識はあまりなかったようだ。
宮沢政権の下、河野洋平官房長官は、PKOを管轄する国際平和本部の副本部長として事件の報告をうけていたものの、それは自衛隊に関するものが中心で、「文民警察官」は危険な場所に派遣されるはずもなく、その動きを毎日注意深く追うことはしなかったという。
しかしPKOの現場で、文民警察官達は何に直面したのか、隊員達は20年以上の時を経て、重い口を開き始めた。
NHKの特集で、現地で彼らが撮っていた未公開の映像や隊員が綴っていた日記から、我々が知ることのなかった寄る辺なく孤立した彼らの姿が浮かび上がる。
1993年5月4日、亡くなったのは岡山県警の高田晴行さん。33歳、二人の幼い子をもつ父親だった。
PKO「参加の5原則」は、①停戦合意の成立②紛争当事者の合意③中立的立場の厳守④原則が崩れた場合の撤収⑤必要最小限の武器使用が守られていること。
警察官の任務は、現地カンボジアの警察への助言、指導、監視であり、「武器の携行」は認められない。
1992年10月14日、日本の文民警察隊がカンボジアが到着。UNTAC44カ国のひとつとして参加した。
カンボジアに派遣されたのは、各都道府県から選抜された75名の若い警察官だった。
参加を打診され、警察官という仕事を使命感をもって選んだ以上、断っててもいいよといわれても断れるハズもない。
亡くなった高田さんは、そして文民警察官に選ばれたことを「光栄」に思い世界平和に尽力したいと書き残している。
隊長の山崎さんはプノンペンの本部で連絡調整にあたり、隊員たちは29箇所に分かれて配置された。
しかし、UNTACと連絡手段のない場所すらあったし、任務地には、事前に危険だと通告されていたアンピルも含まれていた。
アンピル近くに派遣されたのは、班長の川野邊さん、亡くなった高田さんら10名で、そこに「丸腰」で任務地にむかう隊員達の姿があった。
UNTACの最大のミッションは、公正な選挙を行い民主国家としての基礎を作ることであった。
カンボジアでは、長年4つの勢力による内戦が続いており、ポルポト派が「選挙」への協力を拒んだため、停戦合意が危ぶまれる事態が進行していた。
もっとも注意をうけたのが、ポルポト派の勢力が強い北西部アンピルで、実際ここは無法地帯で、毎日のように殺人が起きていた。
プノンペンにいる山崎隊長のもとには連日、治安の悪化を示す情報が送られてきていた。
派遣された10人は、プノンペンから400キロと遠く、3つの反政府勢力の拠点であるアンピルから20キロ離れたフォンクーに配置された。
二つの地域が行きかう国道にはポルポト派の支配地域がせまっていた。
隊員の日記には、プノンペンが遠い存在となっていることに失望感が漂う。我々は八方塞がり、出口のない場所に突然迷い込んでしまったようだとある。
日本のほかに12カ国の国の兵士や警察がが選挙の実施に向け配置され任務にあたていた。隊員たちの宿舎は小さな茅葺屋根の家だった。
電気やファックスなど最低限の通信手段もなく「陸の孤島」であり、当初は懐中電灯で暮らす日々が続いた。
班長は、この地域を統括していたポルポト派の司令官となんとか関係を構築し安全を確保しようとした。
というのも、このような状態をUNTAC本部は知るハズもないし、絶対にUNTACは助けにきてはくれないという確信があったからだ。
彼らの任務開始にあわせるように、ポルポト派の「選挙妨害」は活発化し、日本人宿舎にも手榴弾がなげこまれるようになった。
ある夜ポルポト派が彼らの宿舎をアタックするかもしれないという情報がはいった。
日記によると、ロケット砲4、5発。銃声何発か聞くとある。家の発電機を止め、電気を消して籠った。まるで灯火管制だった。
1993年1月12日には、攻撃は日本の文民警察官にもむけられ1月には、宿舎が40人の武装集団に襲撃された。
その時、5名が不在だったのは、不幸中の幸いだった。
出発の前に活動の「実施要領」をうけとり、そこには隊員の生命に危険が及ぶ場合には、一時業務を停止できるとあったが、具体的に業務の一時停止はどうやってやるのか。
隊長は、日本でだけが最初に尻尾をまいてヤメマスとはいえないだろうと思ったという。
隊長は、何も部下にしてやれず、ただただ皆が危険に対する嗅覚を身につけ難を自ら逃れていただきたいという願うだけだった。
実際、身を守るのは防弾チョッキだけで、隊員たちの精神状態は限界に達しようとしていた。そして隊員たちは、自らの安全を確保する方法を模索する。
一部の隊員は原則に反して自動小銃を入手していことを明らかにした。 弾と本体、あわせて30ドルの銃を現地の兵隊から入手した。
カンボジアの将来のために自分の命までなげだせというのかという疑念、最後にやられるときは、抵抗してやられたということにしたいという思い、生きて帰ることが一番の任務ではないのかと、様々な思いが交錯した。
ある隊員は、一時期、「職場放棄した」ことがあったと告白した。バングラデッシュの貧しい家族のために任務についていた青年に、今日一日、ワキタとして任務して欲しいいって100ドル紙幣を握らせた。
しかし、ワキタさんと代役になっていた青年銃撃され重傷を負い、その時の無線内容を聞いて、なんといけないことをしてしまったのかと体が震えたという。
さらに隊員たちは、PKO法に定められていない任務まで求められるようになった。
それは武器の携行が認められていない隊員たちにはあまりにも過酷なもののだった。
その任務は、現地警察への助言指導監視であったが、武装勢力の襲撃にそなえ、政党事務所の警戒、政党要人の警護、そして逮捕権の行使まで加えられたのだ。
現地の実情に合わせるべきだというUNTAC、一方PKO法にない任務は認められないという日本政府。その調整にあたる隊長の山崎さんは板ばさみになっていた。
現場の隊員たちにバレないようにやってくれ、自分はタッチしていませんという抗弁ができるようにふるまってくれという他はなかった。
そしてついにその日がやってきた。そして1993年5月4日、UNTACの各国メンバーはフォンクーで治安に関する会議を開く予定で国道を通っていた。オランダ海兵隊が先導し護衛にあたった。
日本人は2台目と3台目。後続にはインド人とノルウエー人が乗って、高田さんは2台目の車を運転していた。そして、ポルポト派支配地域近くの国道で、突然現れた7~8人の兵士に突然車を止められ、車から引きずり出された。
ある隊員は、コメカミに小銃を突きつけられた時、妻や子供に「ごめん おとうさん 帰れないや」とあやまった。
自動小銃をつきつけられ現金や時計を奪われた。その後は真っ白で、どうなったかはわからない。
十数人の兵士が現れ、いつやむともわからない銃撃戦がくりかえされた。オランダ海兵隊の4人はみな大怪我を負っていた。
生き延びるためには逃げるしかなかったが、高田さんの運転する車は側溝に足をとられ動けなくなった。
スウェーデン文民警察官が救助に駆けつけたのは、襲撃から2時間後だったが、班長は何年たってもあの修羅場を忘れることができないと語る。
高田さんは、酸素マスクに押し当てて吸えと耳元でどなったら、口を尖らせて本当に吸おうとしたことが忘れられない。少なくともその時までは彼は生きていたのだ。
事件の後、ポルポト派の仕業ということは否定され、UNTACも正体不明の武装勢力と結論づけた。
つまり、UNTACは「停戦合意」という前提がくずれていないという立場を捨てなかったのだ。
仲間を失った隊員たちは、総選挙実施のためにカンボジアに残り、任務を遂行した。
隊長は、歯をくいしばって残りミッションをやりとげることが亡くなった人々に報いることだと思ったからだ。
しかし帰国後、派遣の実態は詳細に検証されることはなく、隊員たちに発言の機会が与えられることもなかった。
隊員たちは20年以上の間、「停戦合意」が成立した国での過酷な任務や仲間の死が「埋もれる」ことにつき、やり場のない思いを抱き続けたという。
高田さんは、岡山県倉敷市の海をみながら眠っている。
ここを定期的に訪れる山崎隊長は、埋もれたままの現実を知って欲しいと当時の200ページの総括文書および国連に提出した文書をNHKに提供された。
平和な日本から自衛隊が紛争地帯にも踏み込む今日にあって、「文民警察官」高田さんの死も「カナリアの死」になぞらえられようか。

1970年代後半、大平正芳内閣当時、ア~ウ~と答弁する首相の下での政局の混乱ばかりが目についた。
大平氏の首相在任中、福田赳夫氏との政権抗争、60日間抗争やら国会の空転、増税などで散々タタカレまくり、良い材料はほとんど見当たらなかった。
1981年、与党内造反による「不信任」可決によるハプニング解散で「衆参同時選挙」が行われ、その選挙期間中に大平氏は「急逝」した。
その「弔い」ムードが自民党の追い風となり、自民党は当初の劣性を大挽回し、勝利することができたのである。
大平正芳が首相になったのは1978年、第二次石油ショックが起きた時代で、なんとか「第一次石油ショックを乗り越えた時期だった。
大平首相は、「財政再建」を第一の使命とした戦後最初の首相といってよい。
その中で大平首相は、「一般消費税」の導入をうちだし、国民は大反発した。「天下り」など放置しておいて、なんで国民に負担を押し付けるのかという雰囲気であった。
ただ大平首相はこの時「増税」を、様々な措置のうちの一つの可能性として取り上げたにすぎないのだが、マスコミと野党はこの部分を大きく取り上げ、大平首相の意図は「歪曲」されて国民に伝えられていった感がある。
そこで与党の候補者ですら「一般消費税の反対/増税反対」を訴え、野党提出の内閣の不信任案の議決に際して「造反欠席」しての、ハプニング的解散・総選挙となったのである。
日本は1973年の第一次オイルショックで戦後はじめての「マイナス成長」を記録するが、1975年度の予算編成で、三木内閣の蔵相であった大平正芳氏は連日の省議の末、やむなく2兆円の「赤字国債」発行を決断した。
今から思えば大平氏は官僚出身だけに、日本にとって赤字国債発行が「パンドラのふた」であることに気づいていたのだ。
大平氏は、もともと「小さな政府」論者であったが、このことをひどく無念として「万死に値する」とまでいい、さらには大平氏は「一生かけて償う」とまで周囲に語っていた。
とはいえ今日の時代から見て、大平首相の一番の貢献は、遡る蔵相時代に、官僚たちによる赤字国債発行の「恒久化」への要望を退け、毎年毎年しっかり議論すべきこととして、1年限りの「特例法」にしたことである。
また、大平氏が打ち立てた9つの研究会の1つに「家庭基盤充実研究」グループがある。
亡くなる直前の1980年5月末に報告書「家庭基盤の充実」が提出された。
報告書は「自助努力/セーフティ・ネット/家族福祉」の路線を打ち出し、これから「少子高齢化」が進めば、年金財政の破綻も必至であり、生活保護費の急増も財政を逼迫させていくことが示されていた。
今日の日本社会にあって「大平構想」がいかに先見性にとみ、その方向性が正しかったか、今になって知ることができる。
その意味で、大平首相の「消費増税」の理解を求めた選挙期間中の急死もまた、我々の時代への教訓に満ちた「カナリアの死」といってよいかもしれない。

UNTACの明石康氏は、どんなに情勢が厳しくなっても、総選挙への決意はゆるがなかったという。
毎月1億ドル。100億円の予算を使っており、国連のきめた日程にそって着々と自由選挙に向けて進むということだったと振り返る。