心のインフラ

ここのところのニュースは、人が人を信じられなくなる人間不信を煽るような出来事に溢れている。
先日、成立した「共謀罪」は、東京オリンピックにむけてテロ集団の取締上、「国際組織犯罪防止条約」を締結することで、外国との捜査共助を進める上でも利点があるといわれている。
しかし、運用の仕方によっては、戦前の治安維持法のように、「相互監視/密告社会」への入口となるのではないかとの疑念を払拭できないままの成立となった。
最近、官は市民の情報を多く集める一方、市民は官の情報にアクセス出来にくくなる官民の「情報格差」の拡大が大きな問題だ。
旧約聖書には、現代社会を預言的に描写したような内容のものがある。
「あなたがたは隣り人を信じてはならない。友人をたのんではならない。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。 むすこは父をいやしめ、娘はその母にそむき、嫁はそのしゅうとめにそむく。人の敵はその家の者である」(ミカ書7章)。
ところで、東北大震災後、被災者の沈着冷静で礼儀正しさが世界のメディアに伝えられ賞賛を浴びる一方で、政府の原発事故についての「対応の遅れ/情報の秘匿」などが、世界から批判を浴びた。
アメリカ・サンフランシスコ在住のノンフィクション作家レベッカ・ソルニットは、「災害ユートピア」という本を書き、1906年(明治39年)のサンフランシスコ大地震について検証している。
ソルニットによれば、大災害が起きると、秩序の不在によって暴動、略奪などが生じるという見方が一般にあるが、本来的には、災害のあと被害者の間にすぐに「相互扶助的な共同体」が形成され、「利他主義」が支配するのだという。
サンフランシスコで被災した女性が公園で始めたスープキッチンが瞬く間に協力者が次々と現れて皿や調理道具、食材が集まり200~300人規模になっていった。
東北でも、被災して店を流された料理人が、食材を集めて熱い味噌汁を皆にふるまうなど同様のシーンが見られたが、人間はこうした災害を前にして、お互いを助け合っていこうという気持ちが働く。
また、2005年、ニューオーリンズを襲ったハリケーン・カトリーナの際も、被災者の間および外から救援にかけつけた人々の間で、「新たな共同体」がほどなく形成されたのだという。
実は、サンフランシスコの大地震に遭遇した幸徳秋水が、ソルニットと同じようなことを書き残している。
そもそも幸徳秋水が当時なぜサンフランシスコに行っていたかというと、日本で社会主義者への弾圧が強まるにつれて遙かサンフランシスコに渡る者もいて、サンフランシスコは一時日本の「社会主義革命」の拠点となる雰囲気さえあったのだ。
たまたま、サンフランシスコにいた幸徳は大地震にあい、あれほど念願した「ユートピア」が出現されるのを目の当たりにした。
だが、社会主義者が未だに成し遂げ得なかった革命を、自然はワケナク成し遂げたとはいえ、そこには夥しい数犠牲者が横たわり、私有財産や貨幣価値が無効となったうえでの「平等な世界」ということになる。
そんなこと誰も望んではないのだが、皮肉なことに、その時多くの人々は利他的になり、自身や身内のみならず隣人や見も知らぬ人々に対してさえ、思いやりを示すようになったのだという。
このことは、被災時において他人とつながりたい、他人を助けたいという気持ちがエゴイズムの欲望より深いという事実をしている。
つまり災害は、人心を荒廃させるどころか、新たな社会や生き方を教え導く機会にもなる。
人間は、本来的に「ホモコントリビューエンス」(貢献人)なのかもしれない。
したがって災害からの復興は、その「ユトーピア」からの離脱を意味することになる。
ところが、ソルニットは、こうした「災害ユートピア」が混乱に陥ってしまうのは、意外にも「政府官憲」側にあるという。
混乱の実態は、必要以上に「特定の集団」の暴動を恐れた政府官憲が、意図的にデマを流して「封じ込め」をハカッタ結果起きることによってかえってパニックを招いてしまう。
サンフランシスコ大地震では、市長が軍と警察に略奪者の即時殺害を通達したり、2005年のカトリーナ襲来でも、暴徒の乱入を恐れて近隣地域は橋を武装保安官で封鎖し、威嚇射撃でニューオーリンズからの避難民を追い返したとという。
日本の関東大震災で、大量の朝鮮人虐殺がおこったし、無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝夫妻の殺害は、日頃から弾圧しているからこそ、非常時にソノ報復を恐れるという面があるからなのだろう。
日本の官憲は、1919年の「3・1独立運動」で7500人もの朝鮮人を殺害したために、報復を恐れるにたる充分な理由があったわけだ。
結局、相互扶助的なコミュニティを崩すのは「失うものが多い者」つまりエリートで、そうした人々が官憲に圧力をかけることにもなる。
パニック映画の名作「タワーリングインフェルノ」や「ポセイドン・アドベンチャー」などで、必ずといっていいほど「自分だけ助かればいい」というような者がいたり、デマを流したりするものが登場する場面がでてくる。
そういう人というのは大概、社会的階層が高い者、つまり「失うもの」が大きい人ということだ。
管理者側は、情報を操作することも容易で、大きな力を行使できる立場にあり、管理者のパニックは民衆のパニックより大きな影響を与えることにもなる。
日本でも安保をめぐる政治闘争が最も激しさを増した1960年6月、国会周辺を30万人の人々が取り囲んだことがあった。
この時に東大の女学生が機動隊ともまれ死亡するにおよび、人々は参議院の承認を経ないままに新安保の自然成立へともちこもうとする岸内閣への怒りを高めていった。
この時、岸首相は、警察隊ばかりではなく「自衛隊の投入」を強く主張した。しかし、防衛大臣の赤城宗徳は「自衛隊を出したら、同士撃ちになり、まちがいなく自衛隊は国民の敵になる」といって反対した。
この時もしも、赤城宗徳氏が自衛隊投入に強く反対しなかったならば、国会議事堂周辺は大量の流血の騒ぎになり、1986年の中国の天安門事件と同様の事態が発生することになったであろう。
また自衛隊の憲法論争は、さらに違った形で展開していたかもしれない。
その意味で、新安保成立の舞台裏で行われた赤城防衛大臣の自衛隊投入の反対は、「現代史の分岐点」になったといえる。
この出来事は、管理者は、民衆のパニックを何よりも恐れるあまり、情報を操作し民衆の生命をかえって危機に陥れる傾向があることを如実に示している。

中国は世界一厳しい受験戦争が行われているが、カンニングする学生が少なくない。
それも「ハイテク・カンニング」といったもので、耳の中にいれるワイヤレスの「米粒イヤホン」は、ほとんど外からでは発見できない。
消しゴムに内臓されたカメラで問題を写して外部の業者に問題を送って、その解答が「米粒イヤホン」によって送られるという。
学校側もそれ認知しており、一部の学校では電波からイヤホンの場所を突き止める「機器」を試験官に持たせている。
ニュースを見て驚いたのは、親の不満は「カンニング」にたいしてではなく、「カンニング」の取り締まりが試験会場によって差があり、なぜ自分の子供の会場だけがチエックが厳しいのかと訴えていた。
カンニングをして役人になった者がさらに汚職で私腹を肥やすとなると、それこそ誰も信用できない社会となってしまう。中国政府はそうした人間不信の広がりに応じるように、「個人の信用度」の格付けまでも行っている。
そこで中国では、ビッグデータを活用した「社会信用システム」を導入し、人々の好ましい行動と、悪い行動を記録し、それに応じて褒美と閥を与えることにより、問題を解決していこうというわけだ。
中国では以前から、政治的に都合の悪い情報を公開しているウェブサイトへのアクセスを遮断するインターネット検閲システムを活用し、社会統制の強化に取り組むなどしていた。
中国共産党は2020年までに「社会信用システム」と呼ばれる新しい社会管理システムの導入を計画しており、現在36以上の地方都市で「試験導入」しているという。
「社会信用システム」とは、不正乗車や信号無視、「二人っ子政策」を含む家族計画規則などの違反行為に罰点を科し、システム上で管理されている個人のスコアから罰点分の点数が引かれるというもの。
社会信用スコアが低くなればローンや融資の審査、就職、子供の学校入学などさまざまな日常生活に影響が出る可能性がある。
自由主義諸国であれば、政府に依る監視強化を懸念する声がすぐに湧き起こりそうだが、中国では社会的信頼の欠如の解決策になるとか、日常生活の面利なツールになると歓迎する声も多い。
さらには、違反行為を犯した国民を「ブラックリスト化」するシステムの構築がすでに始まっている。
これが乱用されると、生活の一部の「悪い行動」が他の部分に影響を与えることだ。駐車違反の罰金を支払わないと、列車の予約ができなくなったり、食品安全スキャンダルに関与したら、子供が特定の学校に入学できないかもしれない。
さて日本では、行政や人事において、AIやロボットを使うことがはじまっている。本来、採用における不正をなくすことが目的ではないが、情実採用などをなくす一つの手段たりうる。
新聞情報によれば、AIが人間の代わりに採用面接を行い、応募者の資質を分析して診断結果データを提供するサービス「AI 面接官」をこの5月から提供し始めたという。
面接希望者は、エントリー後に届くメールに書かれたリンクから専用アプリをダウンロード。候補者の都合の良い時間・場所で採用面接を受けられる。
また、スマートフォンを使えない候補者に対しては、人間の面接官の代わりにソフトバンクの「ペッパー」が設置された特設会場などで、面接が受けられるよう開発を進めているという。
AIが人間の代わりに面接することで、筆記試験などを省略することができ、人間の個人差による評価のばらつきも改善され、採用基準も統一しやすくなる。
また24時間いつでもどこでも面接が可能となるため、機会損失も最小限にすることができると、いいことづくめの「AI面接官」のようにも見える。
だが、人間は何も話さなくても「初対面の印象」でほとんどで決まるといわれている。果たしてそうした「印象」までも「AI面接官」が読みとることができるだろうか。
人間にはデータには表れないたくさんの要素があるはずなので、こうした「AI面接官」の記事には、かなり違和感を覚えた。

防災相が、「東北でよかった」との失言で辞任したが、前後の文脈が切り離されていた面があったにせよ、防災相の言葉には失望たという人々が多くあった。
その一方で、東北の人々は悪い言葉を裏返しにして「東北でよかった」と応じてみせた。
その東北に対する差別的ととらえられることをユーモアに転じたのである。
アメリカの作家マーク・トゥエンは、「人間に関することはすべて悲しい。ユーモアそのものの隠れたる源は喜びではなくて悲しみである。だから天国にはユーモアがない」といっている。
この世では 誕生があり やがては死を迎えるのが人間の在り様で、誰も死と罪からまねかれる人はほとんどいない。
人は今日という日が明日も同じように続くと思いこんでいるが、実はその日常ははかなくてもろい「幸運」に支えれているにすぎない。
誰しもが生と死という共通したものに囲まれた時間を生き続けるのに、日常の中でそれを忘れがちだ。それが予期せぬ災害によってい打ち破られる。
日本人的は、どういうわけか、悲しみの根源である「無常感」というようなものを共有しているのではなかろうか。
東北震災後、多くの人々が悲しみの只中にあったにもかかわらず、どこかふっきれたゆな表情があったことを思い出す。
ところで、インフラストラクチャー」とは、主に道路、鉄道、港湾、水道、ガスなど生活・産業発展に必要な基盤的なものを指すものである。
日本は近代化の過程で、産業面インフラの充実は早い段階からやってきたが、生活面でのインフラのたちおくれはしばしば指摘されてきた。
歴史的にみて、インフラ整備で最も古くて有名な国としてローマがあげられる。
しかしそのローマ帝国も、帝国末期にはそうした大規模インフラの維持コストが高まりのため、財政危機と軍事力衰退をまねき、帝国滅亡の引き金の一つとなったとされている。
また水道管として使われた鉛管から、水中へ溶け出した鉛イオンが、市民たちの体内に長年蓄積した結果、市民の健康被害が広まり帝国衰退の原因となったといわれている。
こういうハ-ドとしてのインフラは、その貧困さも充実度も、体験的にも視覚的に知ることができるため、その整備も時間をかけていけば、なんとかなるものだ。
しかし最近思うことは、人間にとって「心のインフラ」とでもいうべきものがあり、この「心のインフラ」が貧弱であったり痩せ衰えていったりすることは、国の存亡にかかわるということである。
人間はその存在を堀りさげていった時に、他者との共通の「基盤」みたいなものがあって、その「共有」する部分が 人との交流の中で感情のやりとりや言外の言葉の意味を探ったりする、豊かな情動の部分を形成しているのだと思う。
山本作兵衛や上野英信が残した「やまをいきる」には、炭鉱で、生きるも死ぬも運命を共にして生きる人々のローカルな「心のインフラ」がよく描かれている。
また、東北大震災で露わになったのは、日本人が共有する無常感が、「心のインフラ」の一要素になっている。
かつて上智大学の宗教学教授・宗像巌は、水俣について次のような報告を書いている。
「悲劇の渦中に置かれたにも関わらず、水俣漁村の人々の日常生活には、生きる生命の充実感が満ち溢れている。家族の中の被害者を中心とする助け合いの生活に接すると、この人々の深い悲しみ にもかかわらず、ときおり意外なまでの明るさをそこに見出すのである。
家族や漁村共同体の多くの人々をつつみ込んだ悲しみの共同体験は、人々の間に一時的な不安と緊張を起こしたにもかかわらず、やがて人々の心の奥に流れる生命の連続環を媒介にして、純度の高い愛の共同体験として展開されている」。
さて、水俣病多発地帯には、浄土真宗の源光寺や西念寺の門徒が多くいたことを付言したい。
これが、石牟礼道子の「苦海浄土」という言葉の背景にあることなのかもしれない。
これは、ローカルな「心のインフラ」の強固さを表すものだが、国民単位でソレを考える時に、人々がその国の成り立ちである「神話」は、「心のインフラ」の最も典型的なものだといえる。
日本の場合、「古事記」や「日本書記」というと、戦前の軍国主義教育を思い浮かべるが、実はもっと素朴な形で記紀神話の神々は、「鎮守の森」の祭神として息づいていたのである。
目に見えぬ尊いインフラが、相互不信をまねくヘタな社会統制によってどんどん崩れていくことが、一番大きな問題である。
結局、人々は同じ地盤にたつ存在であるという「心のインフラ」が、何かの折には露出するくらいには、脆くてはかないものではないことを願う。