イランと日本音楽

イランはホメイニ革命(1979年)以後、反米色を強めイスラエルとの対抗上、核兵器の開発をすすめてきた。
1981年にはイスラエル空軍が、イランの核施設を急襲して世界をアットいわせたこともある。
これを「バビロン作戦」というが、歴史を俯瞰すれば、イランとイスラエルの関係は、何千年も前からのの怨念を今にまで引きずった「仇敵」といってよい。
イランとイスラエルとの関係で特筆すべきことは、紀元前6Cにヘブライ人(イスラエル)がペルシア(イラン)王国へ捕囚として連れ去られたことである。これを「バビロン捕囚」という。
イラン人はアラブ人とは民族的には異なるが、同じイスラム教世界に属し、シーア派(イスラム教原理主義)が主体である。
そもそもイスラエル人とアラブ人の対立は、紀元前30Cのアブラハムの子イサクの子孫と、奴隷の女との間にできたイシマエルの子孫との戦いの延長である。
また出エジプトからカナンの地に帰還したユダヤ人と留守中に住むついたペリシテ人(パレスチナの語源)との闘いは、イスラエルとパレスチナ人との確執そのものといってよい。
中東の歴史をみると、人とはいつまで同じことを繰り返す存在なのかと呆れるが、イランで古来長く続いている風景といえば「バザール」(市場)である。
バザールは1979年のアメリカ大使館人質事件を描いた映画「アルゴ」(2012年)では、大使館員が逃げ込む緊迫した場面に登場した。
現在のバザールには安値で可愛らしい柄のスカーフがたくさん売られていて、ファッション・ストリートと化している。
さて、日本では1973年のオイルショック以来、中東への関心が高まり、1979年の「日中友好条約」締結と、平山郁夫画伯が1966年以来中央アジア深くに入って描いたシルクロードの絵が脚光を浴びた。
1978年、ゴダイゴの「ガンダーラ」には、オリエンタルな雰囲気が漂っていた。
そんなオリエンタル・ブームの中で久保田早紀の「異邦人」(1978年)が140万枚を超えるメガヒットとなった。
この異邦人の歌詞の中にも、「バザール」が登場するのだが、その風景とは久保田が東京で見かけた公園で遊ぶ子供たちの姿をイランのバザールに移植したものだった。
久保田は、東京・国立(くにたち)の通訳の父に生まれ、4歳頃からピアノを習い始める。
小さい頃から教会にかよい、教会音楽特にバッハが好きだった。
子供の頃、父が仕事で「イラン」に赴いた際に購入してくれた現地のアーティストのアルバムを繰り返し聴いたことが、「異国情緒」をともなう音楽性を養うことにつながった。
そして自分で曲を作り、自分で歌う女性歌手に憧れをもつようになる。
久保田が心酔した松任谷由実も教会音楽に親しみ「バッハ」の音楽に心酔していた点で共通している。
高校の頃に、詩を書く文学少女がいて、彼女に曲を書いてといわれて曲を作りはじめた。
短大時代、八王子から都心へと通学する電車の中、広場や草原などで遊ぶ子供達の姿を歌にして「白い朝」というシンプルな曲を書いた。
そのには、「子供達が空に向かい 両手をひろげ 鳥や雲や夢までもつかもうとしている」という歌詞もあった。
そして、自分の曲がプロの世界で通用するかチャレンジしてみようと、自分の歌を弾き語りで録音したカセットテープを送った。
そしてこのテープにある「哀愁のある声」に注目した、新進の女性音楽プロデューサーがいた。
その音楽プロデューサー金子文枝は、前述の「魅せられて」の制作スタッフの一人で、久保田の声の「哀愁」に自分が探していたものに「出会った」と感じ、ポルトガルのファドという音楽のレコードを送った。
金子文江に、次はオリエンタルなもので行こうという思いと、レコードを聴いた久保田の中に、「恋愛」を歌う必要はないという思いが重なった。
そして、中森明菜のヒット曲などで知られる萩田光雄に「編曲」を頼んだところ、萩田は、シルクロードの雰囲気をだすために「ダルシマー」というペルシアの民族楽器を使い「シルクロード」のイメージを完成させた。
そして、分厚いオーケストラと「ダルシマー」の音色が溶け、久保田の透明な声がよく響き合い、そして壮大な「郷愁の世界」を築きあげた。
さらに「異邦人」ヒットには、CMタイアップの「仕掛け」もあった。
シルクロードをコンセプトとする「企画」を狙っていたプロデューサーにより、「シルクロード」を背景とした大型カラーテレビのコマーシャルソングとして使われた。
そのオリエンタルで神秘的なムードのCMソングに注目が集まり、ジワジワと売上げを伸ばしてブ大レイクする。
久保田本人によれば、自分のデビュー曲がCMにも流れ「雲の上を歩いている」感じだったという一方、「夢の中」のような物語は、久保田にとっては大きな「悩みの種」となった。
電車の中で作ったシンプルな「白い朝」が、音楽や画像の専門家集団によって「異邦人」という曲に変えられてしまったのである。
久保田自身は努力をしたわけでもなく、ナゼ曲が売れたかわからない中で、ヒットするとはどういうことかわかってるよね、とプレッシャーをかけられた。
次の曲を作っても、最初の輝きを越えることはできず、音楽がイツシカ「音苦」になっていた。
そして久保田は自分は何者か、自分のルーツは何かと自分自身に問うようになる。そして久保田がタドリ着いたのは、幼い頃に聞いた教会音楽であり、賛美歌であった。
1985年に結婚とともに引退し、今は「音楽宣教師」として各地の教会をまわっている。
東北の被災地の教会でも賛美歌をピアノ演奏した。
リクエストがあれば「異邦人」を演奏するという。

近年テレビで、映画「アナと雪の女王」の主題歌で大ブレイク中のMayJが、母・ホマさんと念願のイランへの里帰りをした時の様子が紹介されていた。
イランの民衆による騒然たる暴動を見ただけに、「MayJ里帰り」で見たイランは一頃より随分落ち着いた感じがする。
彼女によれば「日本の次に血が濃いのに、イランに行ったことがなかった」ことがずっと心にひっかかっていたという。
つまり今回の里帰りは自分のルーツを確かめる旅でもあった。
MayJは、関西出身の日本人の父とテヘラン出身の母との間に生まれたハーフである。
ホマさんは、35年前に留学のために来日し、東京大学の大学院で建築を学び、博士号も取得したという才媛である。
MayJは、本名、橋本芽衣で、「メイ」という名前には、イラン語で「才能豊かな」という意味が込められているという。
イランといえば、イスラム文化を色濃く残す国とばかり思っていたが、それほどでもなかった。
May.J自身、故郷イランに来るまでは、女性は全身黒のイメージでを抱いていたが、町行く女性たちはカラフルなスカーフを巻き、派手目なメイクでオシャレを楽しんでいるように見えたそうだ。
イランでは、厳しい制約の下、最大限のお洒落を行うため、ヒジャブやスカーフはとてもお洒落になっているという。
イランには「イスファハーンは、見ずしてペルシアを語るなかれ」という言葉がある。
MayJの故郷帰りでも 当然に親族とともに世界遺産イスファファーンを訪れた。
そしてMayJは、ペルシャ芸術の黄金時代の粋を集めたエマーム広場にあるモスクで“アナと雪の女王”を熱唱する体験をする。
女性が人前で歌うことはほとんどないイランで、ましてやモスクで歌を歌うなどということが、特別とはいえ許されたのだから、イランもある程度自由になっているようた。
しかも、彼女が歌った「地点」というのが、広場全体に声(祈り)がよく通るように特別に設計された場所で、いたる所に絢爛たる「ペルシアン・ブルー」のデザインが施されていた。
イラン人で、世界的に知られている歌手やダンサーの数は多くはない。
これは、イスラム教の厳しい規制のせいで、政府の中には「音楽を飲酒や豚肉食と同様に、神に反する行為である」と考える人たちがいるからだ。
イランのポップ音楽は1970年代に誕生し、イランの若い歌手は、国内だけでなく、トルコやヨーロッパでも活躍するようになった。
英語の歌を歌い、アメリカのスポンサーに支えられ、アメリカ音楽市場に出るきっかけも手にしたが、1979年の革命より、イスラム聖職者が音楽を禁止し、多くの若者の夢は泡となって消えていった。
革命を担い、新たな政府の下で権力を持った活動家たちは、前パーレビ国王政権の時代に活躍していた歌手や音楽家たちを「国王勢力」として断罪し、彼らの命さえも危ぶまれたのである。
革命を成就させたホメイニ最高指導者は、音楽を「ハラーム」とみなした。
イスラムで「ハラーム」は、「神様が禁止」している行動や物を指す。
ハラームの範囲は時代の流れに変化し、フェイスブックも現在、ハラームに指定されている。
ホメイニ師の決定を受け、イランの若い音楽家たちは絶望に直面し、多くの有力な音楽家たちは革命が起こるとほぼ同時にイランを発ち、アメリカやヨーロッパに移民していった。
ホメイニ師は81年に、音楽の一部について扱いを「ハラル(聞いても構わない)」に変更し禁止令は解かれたが、政府による厳しい規制は残った。
例えば、ダンス向けのリズム、愛や異性をテーマにした歌詞を持つ楽曲は、作ることも、歌う・演奏することも、聞くことも許されなかったのである。
さて、MayJは、イスファハーン訪問後母ホマさんが青春時代を過ごした思い出の地をめぐった。
その中には、川のなか席をもうけ、まるで京都のような風情の中食事をする場面などもあった。
そして、美形ぞろいのイトコやハトコと会いすっかり打ち解けた様子であった。
その時、4年前に他界した祖母ファリデさんが幼きMayJを抱いた写真をいつも知人に見せ、日本で歌手をしていることを自慢していたことを知る。
祖母はロシアから亡命しイラン人男性と結婚し波乱の生涯を送った。
そしてMayJは、会うことがかなわなかった祖母の墓参りをして、花を手向けた。
ところで、イラン人はもともと、音楽とダンスが大好きな国民である。
楽器はなくても、机や容器など、手元にあるものを叩き、皆で一緒に歌を歌うことで雰囲気を盛り上げる。
どんな狭い場所でもクラブの雰囲気に変えてしまうのだ。
イランの人々は、「Let It GO」と歌うMay.Jのブレイクを、遠い憧れをもって見ているのかもしれない。

日本人とイラン(ペルシア)の関わりは、意外なところに隠されている。
ペルシアの古代の宗教に、ゾロアスター教で「拝火教」という名で知られている。
この「拝火教」の影響が京都の「鞍馬の火祭」などのに残っているといわれている。
また、「お水取り」や、「お松明」という行事には、ペルシャ時代のゾロアスター教の儀礼に類似した部分があるという。
ちなみに、拝火教の師を「マギ」からマジックという言葉が生まれた。また、日本の自動車会社「マツダ」は、アフラ・マズダー(Ahura Mazda)に由来し、英語名に表示すると「MAZDA」となっている。
マズダーを東西文明の源泉的シンボルかつ、自動車文明の始原的シンボルとして捉え、また世界平和を希求し自動車産業の光明となることを願って名付けられたという。
さて15年以上も前に、日本古代の渡来人・秦氏のことを調べるために瀬戸内海に面した赤穂近くにある坂越という港町を訪れた。
坂越は秦氏が日本に渡来した際に上陸した地点といわれ、聖徳太子のブレーンとなった秦河勝が太子の死後、蘇我氏の追及を逃れて避難した場所でもある。
大避神社の境内に坂越の船祭りで使う船が奉納してあった。
その説明書に意外な名前を見つけることができた。
この秦氏からいくつかの氏族が分れたのだが、その一つの氏族が「東儀氏」なのである。
この時、当時雅楽演奏でテレビによく出演される東儀秀樹氏が秦氏の子孫であることをはじめて知った。
さっそく東儀秀樹氏のホームページを開くと、東儀秀樹氏が長年夢見ていた自分の祖先である秦河勝の墓を訪れ雅楽を奉納することがついに実現した時の思いが記載してあった。
そして、この坂越という港町には生島という小島が浮かんでいる。
この生島は秦河勝の墓があるところで、対岸の大避神社には秦河勝のマスク(面)が保存されている。
そのマスクは鼻梁の特徴などから中近東ペルシア人の顔の特徴を著しくもつものであった。
雅楽のルーツをたどると、中近東のペルシアあたりからの流れと中国からの流れとがあると聞くが、こういう点からみても、秦氏や東儀氏は中国経由とはいえそのルーツは中近東にあるのではないかと勝手に推測した。
ところで、日本の古代文化はきわめてコスモポリタンな文化であった。
そのことを示す最大の証拠は奈良の正倉院にある。
正倉院の宝物は、中国・朝鮮の宝物ばかりではなく、シルクロードをつたわってきた中近東ペルシアの文物も含んでいる。
この正倉院宝物の多くは聖武天皇のものだといわれている。そして、正倉院にはインド起源とされる五絃琵琶や古代ペルシアが起源とされる四絃の「螺鈿紫檀(らでんしたん)」の琵琶が現存する。
聖武天皇は、古代国家が氏族の闘争により分裂しかかった頃、仏教の力で国をおさめようと国ごとに国分寺をつくらせ、全国各地にある国分寺のセンターとして奈良に東大寺をつくったのである。
752年、東大寺大仏の開眼式では、僧正が手にした筆から伸びた紐を聖武天皇・光明皇后などが手でもって大仏に目をいれたのである。
そしてその式典は同時に日本国主催による国際音楽祭の様相を呈したのである。
日本ではあるコンサートホールが建つとその建造物の権威を高めるために、一流のオーケストラなどが招かれ演奏会がおこなわれる。
東京・丸の内の日生劇場ではベルリンオペラが開催されるといった具合である。
東大寺の完成式(開眼式)では、アジア各国の楽人達が独自の演奏をおこなったのである。
中でも、奈良時代にペルシアから(中国経由)より渡来した琵琶は「楽琵琶」として、現在でも雅楽の演奏に用いられている。
「楽琵琶」では声楽は伴わず、合奏の一部として用いられている。
琵琶を弾きながら「平家物語」を語るのを平家琵琶といい、鎌倉時代に始まったといわれている。
また、薩摩琵琶や筑前琵琶によって宗教色を脱し、明治時代には一般にも広がるが、ポップスの流行とともに普及したギター人気などに押されて次第に廃れていった。
ただ、家系の中に琵琶奏者を抱える芸能人は数多く、小椋桂、永瀬正敏、樹木希林、高峰三枝子などがそれである。