少女からの「贈り物」

近年日本で、近代絵画の巨匠・バルデュスの展覧会が開かれた。バルデュスは、2011年に亡くなっているが、日本人夫人が新聞やテレビに登場され大きな注目をあびた。
夫人自身が、扇情的な少女のイメージを描き続けたバルデュスのモデルでもあったからだ。
バルテュスはポーランドの貴族の流れを組む家柄の伯爵として、1908年にパリに生まれた。
幼い頃から多くの芸術家たちに囲まれて育ち、芸術家としての資質は自然と身についたが、ルーブル美術館で過去の巨匠たちの作品を模写することによって、独学で絵画技法の基礎を身につけたという。
バルデュス29歳の時、高貴な家柄の女性結婚し、一児をもうけている。
その後離婚するが、離婚後も互いの友情は絶えることがなかったらしい。
第二次世界大戦に従軍するが負傷してパリに戻り、モルヴァン山地のシャシーという小さな村に住んだ。
ここで兄の妻の連れ子だっ美少女と、約30匹ほどの猫と一緒に7年間ほど共同生活を送る。
この間、彼女を題材に「少女のエロテシズム」を数多く描いたために、様々な誤解や中傷をうけるが、バルデュス自身は、「これから何かになろうとしているが、まだなりきってはいない。要するに少女はこのうえなく完璧な美の象徴なのだ」と語っている。
そして自分の信じる美しさのみを描き続けつつ、ここでの生活の間に風景画を数多く残している。
ところが、田舎暮らしに引き篭もるバルデュスに転機がおとづれる。
当時のフランスの文化大臣で熱烈な日本美術のファンであったのアンドレ・マルローが、バルテュスをローマにあるアカデミー・ド・フランスの館長に任命したのである。
バルデュスは、この頃ほとんど絵画の制作はしていないものの、生涯で最も幸福だった時期だと振り返っている。
そして59歳の時、マルローから任されたのがパリのプティ・パレ美術館での「日本美術展」であった。
そのの準備のために東京を訪れたバルデュスは、当時20歳だった上智大学の学生であった出田節子と出会う。
そして彼女をモデルにして絵を描いたことがきっかけとなり、その後に彼女と結婚している。
バルテュスの作品の中で「夢見るテレーズ」がよく知られるが、個人的には、手鏡をもってダラリと弛緩した肢体でこちらをみている少女の絵「美しい日々」がインパクトがあった。
絵を見た一瞬、少女の腹部に「短剣」が刺さっているのかとドキッとするが、それは尖った手鏡との見間違いだった。
もちろんそれは画家の計算の上のことで、少女の死のイメージさえ描きこんだに違いない。
またその絵は、扇情的というよりは、どこか中世の宗教画のような聖なる雰囲気を纏っている。
そして、絵画ではなく、現実の世界にも「その死」をもって自らを「永遠化」したと思われる少女達が存在している。
しかも、その短い生涯は人間の歴史文化にとっても大きな「贈り物」だったように思える。

イギリス人グラヴァーは、薩摩長州に武器を売り込んだ人物として有名だが、対する幕府側(東北諸藩)にも、武器を売り込んだジョン・ヘンリー・シュネルという人物がいた。
しかしシュネルは、戊辰戦争で敗れた「幕府・東北諸藩」を見限り、新天地アメリカに日本人の村を建設して、一儲けしようとたくらんだ。
そしてカリフォルニア州エルドラド郡コロマのゴールドヒルに渡り、茶の栽培と絹を生産して売れば成功間違いないと考えた。
そして、戊辰戦争の敗戦によって前途を失った今の福島県会津若松の武士とその家族たちを説得し、1869年にたくさんの茶の実と蚕を携えて船に乗りこむ。
しかし、この渡航は新政府の全く知らぬことであり、そのことが会津若松から入植した日本人の存在を「埋もれさせる」結果となった。
旧会津藩のサムライとその家族たちは勤勉に働き、茶の木は立派に育っていた。シュネルは1870年のカリフォルニア州フェアにこれらの物産を出展する計画を練っていたと伝えられている。
そして約1年間と少しダケ、このコロニーは確かに存続したのだが、何らかの原因で崩れ去った。
日照り、資金不足、あるいは病の流行によるのか、よくはわからない。
1871年4月、経営に行き詰まったシュネルは日本で「金策」をして戻って来ると言い残してこの地を去った。
しかし、二度とコロニーに戻ってくることはなく、あとに残ったのは、言葉もわからず生きる術もなく、途方にくれる外はない入植者達であった。
さてこの「若松コロニー」の存在が明らかになったのは、アメリカの邦人記者・竹田雪城が草むらに「おけいの墓」を発見したことがきっかである。
竹田は、この地の墓に眠る少女「おけい」を調べ、彼女が住み込みで働いていた白人家庭を探し当てる。
その白人家庭の子孫が「おけい」のことを覚えており、それによって土に埋もれていた「若松コロニー」の存在が明らかになったのである。
おけいは、シュネル家の子守として彼らについて渡米したらしい。
コロニーの経営失敗後には、その白人家庭に引き取られ使用人として働いた。しかし1年足らずで体調を崩し、この地亡くなっている。
少女の墓には日本語で「おけいの墓」と書かれ、英語で「1871年没、19歳、日本人の少女」と書かれていた。
さてその後の「若松コロニー」の人々の行方は杳として知れない。

白一色の世界に出現した1点の鮮やかな赤。1950年ごろの札幌に、まさしくそんな女子高生がいた。
少女の名は加清純子。15歳で北海道展に入選。中央の女流画家展にも出品し、「天才少女画家」の名をほしいままにした。
地元紙は「画壇のホープ」と書きたてた。
髪は茶色に染め、高校にもあまり行かず、深夜まで喫茶店や居酒屋に入り浸り、気鋭の画家やダンディーな新聞記者ら、複数の男性との交際するほど、大人びていた。
その一方、当時の同級生の中には「妖精みたいでした」というものさえいた。ぬきんでて色白で、結核を患っているとのうわさだった。
厳冬の校庭で雪像を制作した際、完成間近いロダンの「接吻」像に血を吐いたことがあったという。
1952年1月の深夜、交流のあった男たちの家の前に、一輪のカーネーションを残して失跡した。
雪解けの4月、純子は阿寒湖を見下ろす釧北峠で凍死体となって発見された。
息をのむほどきれいな死に顔だった。
睡眠薬の空き箱が近くに落ちており、警察は自殺と断定した。遺書はなく、純子がなぜ命を絶ったのかは、わからない。
彼女の同級生に優等生の男子生徒がいた。
彼女の劇的な死は彼の人生に深く刻印され、それから約20年後に「阿寒に果つ」という物語に結実する。作家の名は「渡辺淳一」。
「阿寒に果つ」は、1978年五十嵐淳子主演で映画化された。
近年、渡辺淳一が加藤純子の思い出を「日経新聞」に寄稿していたので、少女の実像を初めて知ることができた。
彼女の姉によれば、「騒がれたわりには自信がなくて、シュールに走ったのではないか、自殺の理由は、絵で行き詰っていた上、付き合っていた男性と何かあったからではないか」と語っている。
加藤は、交流のあった男たちの家の前に赤い花を置いていくなど、自らの「死」を美しく演出しようとする形跡がある。
雪像に喀血したのは絵の具を使った細工で、実際は病気ではなかったという。
ともあれ、作家・渡辺淳一が作家になる原点に、夭折の天才画家・加藤純子の存在があったことは確かなようだ。

「阿寒に果つ」というタイトルに、もう一人の北海道で生まれた「天才少女」の死を思い浮かべる。
日本語学者・金田一京助と15歳の少女・知里幸恵(ちりゆきえ)との出会いは、日本人にとっての真の意味での「アイヌ発見」であり、「邂逅」とよぶべき出会いであった。
知里はアイヌ酋長の家柄で、明治36年登別市で生まれ母の姉である金成マツの養女となって旭川に移った。 1918年のある日、アイヌ語研究をしていた金田一京助が旭川の幸恵の家を訪れ、幸恵の言語能力の素晴らしさに驚く。
幸恵はアイヌの口承叙事詩ユーカラの伝承者であった伯母の金成マツの養女となり、十代の少女であるのにもかかわらず多くのユーカラを諳んじていた。
幸恵はアイヌ女性としてはめずらしく女学校を卒業しており、当時においてもほとんど老人しか話せなくなっていたアイヌ語をよどみなく話し、さらにそれ以上に美しい日本語を操った。
幸恵は金田一をして、「語学の天才」「天が私に遣わしてくれた、天使の様な女性」と言わしめる存在だった。
金田一と出会う以前の幸恵は、明治期の政策で、アイヌの人々は文化を否定され民族の誇りを失いかけていた。
学校では日本人教師たちから「アイヌは劣った民族である、賎しい民族である」と繰り返し教えられ、幼い頃から疑うことなくそのまま信じ込み、幸恵も「立派な日本人になろう」と、自らがアイヌであることを否定しようとしていた。
しかし金田一から直接「アイヌ・アイヌ文化は偉大なものであり自慢でき誇りに思うべき」と諭されたことで、独自の言語・歴史・文化・風習を持つアイヌとしての自信と誇りに目覚めたのである。
アイヌ研究者金田一京助にとってみれば、幸恵は願ってもない存在であり、幸恵は金田一の熱意に応じて上京し、そのユーカラ研究に身を捧げた。
金田一京助のアイヌ語研究が、やがてアイヌ学の「代名詞」にまでなるのに、幸恵の存在ぬきに考えることはできない。
その後、幸恵はアイヌの文化・伝統・言語を多くの人たちに知ってもらいたいとの一心からユーカラをアイヌ語から日本語に翻訳する作業を始めた。
やがて、ユーカラを「文字」にして後世に残そうという金田一からの要請を受け、東京の金田一宅に身を寄せて心臓病という病をおして翻訳・編集・推敲作業を続けた。
「アイヌ神謡集」は1922年9月18日に完成したが、幸恵は同日夜、心臓発作のため19歳の短い生涯を終えた。
金田一にとって知里幸恵との出会いはアイヌ学者としての将来を約束したが、突然訪れたその死は、深い罪責の念を与え、金田一は19歳の墓石にすがり付いて泣いたという。
事実、それからの金田一京助の生涯は、ある部分償いの日々を思わせる。
幸恵の弟の知里真志保に大学教育の機会を与え愛弟子として様々な世話をした。
知里真志保は室蘭中学から東大に進み、天才言語学者といわれる存在となり、アイヌ初の北海道大学教授となっ。しかし、金田一と千里真志保の師弟は、やがて決別する。
さて、知里幸恵の「アイヌ神謡集」の「序」は感動的である。
「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう」という切なる言葉で始まっている。
知里幸恵は、聖書の「一粒の麦死なずば」の言葉がよく似合う存在であった。

ゴ-ギャンは1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父は共和系のジャーナリストであり、ゴ-ギャンが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米ペルーのリマに亡命した。
しかし父はゴ-ギャンが1歳になる前に急死し、残された妻子はペルーで数年を過ごした後、1855年フランスに帰国した。
フランスに帰国後、ゴ-ギャンはスペイン語しか話せない自分が異邦人のように感じたという。
神学校、航海士、海軍に在籍し普仏戦争に参加後、パリで株式の仲買人をすることになる。
デンマーク出身の女性メネットと結婚したが、メネットはこの時、生活力のあるゴーギャンが芸術という「呪い」に染まっていくなど予想だにしていなかったに違いない。
この頃のゴーギャンはごく普通の勤め人として、五人の子供に恵まれ、絵を印象派展には出品するだけの一介の日曜画家にすぎなかった。
株式相場が大暴落して勤めを辞め、突然画業に専心しだすが、株式仲買人を相談もなくやめたことに妻は激怒しデンマークに帰ってしまう。その後、ブルターニュの町にある安宿で画に没頭する。
40歳の時に「説教のあとの幻影ーヤコブと天使の戦いー赤い大地」を描くが、タヒチの美術館ではなんとそれが日本の「相撲絵」と並べてあり、その構図がまったく同じことに驚かされる。
ゴッホと並んでゴーギャンがいかに日本の浮世絵の影響を受けたかがわかる。
また遺作となった大作「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」では人の一生をタヒチの風景を背景に右から左へと描き、日本の絵巻物の手法を思わせる。
ゴッホは浮世絵にあるような光を求めてアルルにいくが、ゴーギャンを呼びよせて共同生活をしたことがある。しかしゴーギャンにとってペルーの光に比べてアルルの町はなんということはない町だった。
そして個性的な二人は2か月後にはげしくぶつかる。 ゴ-ギャンは「ひまわりを描くゴッホ」を描くが、
ゴッホはそれを「狂気の自分だ」と激怒し耳を切り落とした。
しかしゴ-ギャンのタヒチ行きをすすめたのはゴッホであり、ゴーギャンはその勧めに従い43才でタヒチに渡った。その意味で、ゴッホはゴーギャンの生き方を決定づけたともいえる。
ゴーギャンの「我々はどこから来たのか~」には土色にかがやく人間の肌をえがかれている。それぞれのポーズの中に暗示的なものがあり、中央には知恵の実をとろうとする人間の姿が描かれている。
そして人間の知恵がいかに大地を犯してきたのか示しているようだ。
実はゴーギャンの絵の背後には「13歳の少女テフラ」との出会いがあった。
ゴーギャンは褐色だが黄金のような肌に無垢の美しさを見た。そこに装飾のないまぎれもない美しさを見出し、彼女の一瞬一瞬の表情やしぐさを燃え立つような色づかいで描いた。
ただ絵の方は依然売れるほどのことはなく一度は貧窮のためにフランスにもどり、再び訪れたタヒチでは、海岸に掘立小屋をたてて現地の女性と同棲したりもした。
貧窮は相変わらずで、最愛の長女が20歳の若さでなくなった知らせをうける。
フランスで乱闘した時の傷の痛みや病も進行し、死を決意して最後の一枚ときめて書いたのが「われわれはどこから来たのか~」である。
ゴーギャンが死を決意し人生の総決算として書いたその絵には、強くその命に引き込む力をもっている。
南太平洋におけるゴ-ギャンとタヒチの娘の出会いは、北の大地における金田一と知里幸恵との出会いとの近似性を感じさせる。
それは、原始と近代の相克ゆえに悲劇性を孕んでいたといえようか。