市場にWクジラ

およそ1か月前の節分の日、近くのスーパーで見た風景は異様だった。夜10時過ぎても売れずに残る「恵方巻き」の山。売り棚が、まるで死体置き場に見えたのは、誇張ではない。
店が販売予想を仕損なっての大損失なのならまだ救える。実は、毎年「売れない」と分かっていて仕入れているのだと知って驚いた。
オーナーは本部に絶対に逆らえず、コンビニ本部の社員がオーナーに恵方巻きのノルマ(目標)を課す。もちろん目標を受け入れたからには、本部から大量の恵方巻きを仕入れる。
1年に1度のイベントとあって全力で恵方巻きを売るのだが、値段は結構高くて、そんなに売れるもんじゃない。困ったオーナーはアルバイトにノルマを課す。
翻ってみれば、コンビニ本部に所属する地区担当員もまた会社からプレッシャーをかけられているのだ。
「恵方巻き」の方は、当然大量廃棄処分となる。
本部は、実際の需給均衡価格より「格段高い」価格設定で品物を売り抜け利益を確保する一方で、店では、売れそうもない品物を引き受け四苦八苦する。
結局、「恵方巻き」は、コンビニ本部が各店舗から「上納金」をまきあげるシステムなのだ。
毎年繰り返される「恵方巻き」狂想曲とは何か。上層の人間が確実に儲けるために「市場を曲げている」ということに他ならない。
最近、「恵方巻き」の屍のことが蘇ったのは、ある新聞の中に「二頭のクジラ」株高演出という記事をみたからだ。
数年前、「もしも女子高生がドラッカーを読んだら」という本が売れたが、今の日本で「もしも年金生活者がドラッカーを読んだら」どうだろう。
ドラッカーが50年以上も前に予言したのは「年金が支配する社会」なんていたら、うっそ~というかもしれないが、この「クジラ」の支配こそ今日の日本の姿を言い当てているのだ。
ところで、日本のある著名な企業経営者が「右手に聖書、左手にドラッカー」と言った。それは、両者とも世の中をよく見て先を読むのに欠かせぬ「情報源」だからだ。
しかし「経営学」の大家ドラッカーは、旧約聖書の預言者とは異なる。
ドラッカーは、”今”を冷静にみれば、その中に未来の種子を見つけることができるということを示しているにすぎない。
それはドラッカーの著書のタイトル「すでに起こった未来」がそれをよく表している。

「一頭目のクジラ」の話をする前に、年金積立の基本的な話をすると、個人年金は個人が保険料を支払い、積立てられた資金を元に年金で受けとるものだが、「企業年金」は企業が保険料を支払い、退職後に従業員が年金として受け取るものである。
さらに公的年金には、自営業者とか無職の人が保険料を支払う「国民年金」と、会社と従業員が「折半」して保険料を支払う「厚生年金」とがある。
間違い易いのは、公的年金たる「厚生年金」と、企業年金である「厚生年金基金」である。
企業年金なのに「厚生年金基金」なんて混乱しやすい名前をつけるのは、厚生年金基金は、サラリーマンが入る厚生年金(公的年金)の積立金の一部(代行部分)を国から預かって、厚生年金に上乗せするする企業年金と一緒に運用しているからだ。
したがって基金が積み重ねる保険料は、代行部分を企業と社員が半々で払い、上乗せする企業年金部分は企業が保険料を払うカタチだ。
しかし、厚生年金基金は、主に中小企業が業界ごとに集まってつくっているが、長引く不況による財政難で解散が続いてきた。
以上は日本における混み入った仕組みだが、アメリカでは企業年金は企業が保険料を支払うとシンプルに考えておけばよい。
ここで注意したいことは、アメリカは「企業年金中心」の社会であり、日本は「公的年金中心」の社会であるということである。
さて、ドラッカーはこの企業年金の「基金」こそは膨大な「原資」を形成し、企業年金が経済を「社会主義的」に支配するようになると予想したのである。
まずドラッカーは、アメリカにおいて1950年代より企業や公務員の年金が著しく成長したことに着目し、アメリカ企業の最大の所有者は「年金基金」になったとことを指摘した。
アメリカで早くから「ものいう株主」が実現しているひとつの理由は、自分達の老後のための年金資金が、リスクの高い「株式」で運用されるからからである。
ということは、アメリカでは、サラリーマン・公務員といった多くの「年金加入者」が、企業を「間接的」に保有するオーナーということになる。
だからアメリカの企業文化の特徴である「株主重視」は、年金基金が大株主となった場合にサラリーマンや公務員といった「年金加入者」の利益保護にツナガっており、大資本家を利するダケのものではない。
そして早くから実現している「モノ言う株主」は、時に会社側の提案議案に反対の議決権行使をしたり、独自の議案を提出したり、役員を送り込んだりして「経営改革」を迫ることもある。
例えば、カリフォルニア州の公務員の米国最大の公的「退職年金基金」であるカルパースは、総資産は円換算で26兆円にも達するという。
その運用スタイルは年金基金にしては驚くほど積極的で、新興国の株式やヘッジファンドへの投資なども行っている。
そして、ガルパースがその存在感を最も示したのは、GMの経営トップを退陣に追い込んだ出来事であった。
ドラッカーはこのように、公務員や労働者が「退職給付原資」(=基金)を通じて資本を支配していることを指して、アメリカが「社会主義化」したと指摘したのである。
実際にアメリカでは、1970年代当時でさえ、すでにアメリカ企業の株式のうち、約1/4を「年金基金」が所有していたのである。
そして、1990年代には「年金基金」の持株比率は3割に達しており、さらにアメリカはこれを「原資」として、日本でいう「投資信託」のようなミューチャル・ファンドにも多くの株式を保有している。
ただし、アメリカの膨大な「年金基金」の存在は、簡単には株式を売却できないことにつながる。なせならそれは株価暴落につながるからだ。
そこで彼らは、投資先の企業に対して「経営の透明性」を求め、長期的な「株価値向上」を促しのたのである。
そうすることで、企業の社員は年金の保護という名目で、株式の値上がり益ばかりではなく、企業の利益の一部(配当)も手にすることができるからである。
ドラッカーのいう社会主義化というのは、国家的意思により資金を計画経済的に運用するのではなく、あくまでも「市場経済」を前提とした上で、公的マネーが、その資金運用面において企業経営に影響力を行使しうるということにすぎず、マルクス・エンゲルスの社会主義とは根本的に異なっている。

日米の経済文化の違い「年金基金」の観点から見ると、アメリカの年金制度は企業年金や公務員年金など「私的年金」が中心であり、その運用は積極的な株式投資を行ってきている。
一方、日本の年金制度の中心は「公的年金」であり、「国民年金」や「厚生年金」は、資産の7割を「国債購入」にあてている点である。
ところが今、日本の年金基金にも「積極的な」資金運用の波が押し寄せている。
というのは、1990年代後半以降、銀行・企業間の持ち合い構造が崩れる中で、日本の株式市場においても、外国人投資家が大幅に増加したからである。
1993年には、前述の「カルパース」が、株式を保有するいくつかの日本企業の株主総会において、経営陣が提出した議案に「反対投票」を投じ、企業の経営にたいして積極的に発言する姿勢を見せた。
その流れに乗るカタチで、今では国内の年金基金・投資信託の中にも「モノ言う株主」として活動するところが多くなっていったのである。
ただ、日本の場合「年金基金」が株式投資しても、企業の「内部留保」が多く企業の「配当性向」が低いため、株の値上がり益までは期待できても、アメリカのように老後にその「配当」を受けるというところには至っていない。
ところで、今の日本で、ドラッカーのいうところの「社会主義化」が起きつつあるのではなかろうか。
それは日本における、「年金積立金管理運用独立行政法人」(GPIF)の巨大化である。
GPIFは、厚生労働省の外郭団体で、自営業者や会社員が払う保険料を原資とした積立金を株式や債券などで運用する。
2014年10月に運用基準を見直し、債券から「株式」の割合を増やした。
ここで「年金積立金」と言うのは,国民の納める厚生年金・国民年金の保険料から年金として支給された分を差し引いた後の積立金のことである。
この年金積立の運用は元々、国が自前でしてきたが、財政投資融資制度の改革で01年度に特殊法人の運用基金に移され、16年度にGPIFに衣替えされた。
厚生労働省が定める運用の基本方針に沿って、具体的な資産構成などを決める。
そしてGPIFに委託されている運用の総額は130兆円にもなり、世界最大規模となっているが、それがソレが200兆円近くに達するという。
要するに、日本のGPIFは 世界最大級の「機関投資家」となるのだ。コレゾ「一頭目のクジラ」のことである。
東京証券取引所の時価総額は450兆円であるから、その半分近い額となり、GPIFの采配ひとつで株価を動かせるということである。
ところで、日本人は世界でまれに見るほど貯蓄性向の高い国民で、年金の積立は老後の生活設計の土台であるから、その運用には慎重の上にも慎重を期さなけれならない。
そこで、資金の運用にあたっては安全・安定に徹するために、厚生労働省により基本ポートフォリオ(資産構成の割合)というものが決められている。
最近のその割合は、国内債券55%で安定した価額の債券中心の運用ということである。
一方、相場変動の激しい株式での運用の目安は、12%とされておりソノ上下6%の範囲の中で保有することが認められる。
ところが今、株式保有の割合を実に20%台にまで引き上げるようという動きが起きている。
これもアベノミクスの一面と思いたくなるのは、GPIFが巨額の株式を買い増ししており、「株価を下支え」していたという側面を無視できない。
つまり、「消費税増税」や「成長戦略の弱さ」、粉飾決算などによる外国人投資家撤退などで低迷気味の株価を年金マネーが下支えしたのである。

株高演出に一役買っているのは、GPIFばかりではない。市場には「もう一頭のクジラ」がいる。
日本銀行は、国債を年80兆円を銀行から買い込んでマネーを市場に流しこんでいるとばかり考えてはならない。
アベノミクスが「異次元緩和」といっただけあって、ETF(上場投資信託)を年6兆円のペースで購入しているのだ。
EFTとは、複数の株式に分散投資し、証券取引所に上場する「投資信託」で、個別企業の株式と同じように売買できる。
日本銀行は、ETFの購入額を年間6兆円に増やした。株式市場の不透明感を減らし、株式を持つ企業や家計の投資や消費を活発にすることをねらったものだった。
日本のように政府部門が株式を大量に購入する異例の政策には、1998年8月、アジア通貨危機に襲われ、株価が大暴落した香港でも起きたという。
香港政府は、株式先物と香港ドルの投機売りを仕掛けたヘッジファンドに対抗するため、わずか2週間で当時の香港市場の時価総額の約6%にあたる約1180億香港ドルを投入して、株式を買い入れた。
また、買い入れた株式を市場で一気に売れば、株価急落は避けられないので、複数の株式でつくるETFにより放出することを決めた。
買い入れから約1年後の99年秋から、香港政府は段階的に放出を始め、最後の売り出しとなった2002年までの間に株価は回復したばかりか、1650億香港ドル(同約2・4兆円)超の収入をあげた。
こうした一連の介入と放出は「成功した」との評価が定着しているが、香港の場合、2週間の危機対応の後始末に約3年をかけた。これに対し、8年目に突入した日銀のETF購入はまだまだ続いており、規模も香港を大きく上回っている。
ETF購入を減らせば、日銀が出口戦略に入ったと市場は受けとり、国債市場や金融市場に大きな混乱が広がる可能性もある。
ただ、アベノミクスが演出する相場が「官製度」が高いほど、誰も梯子がおろせなくなっている。

年金マネーと日銀マネーあわせて今や約40兆円にも及び、それらはいまや日本市場の「隠れた巨大株主」になっている。
その「2頭のクジラ」とも呼ばれる公的マネーに支えられた「官製相場」によって、安倍内閣は今や「株価連動内閣」とまで称されるに至った。
最近の新聞では、公的マネーが、東証1部の半数980社で大株主になっていると聞いて、これはもはや「新しい資本主義社会」の到来ではないかという気がした。
巨額の公的マネーが安定した業績や高収益の企業に向かうのは当然としても、問題は公的マネーの「株価」押し上げ効果によって、「実力以上」の株価をもたらすことになりかねないということである。
例えば、GPIFと日本銀行の実質的な「保有比率」が約12%と高いのが、カジュアル衣料「ユニクロ」を運営するファーストリテイリングである。
両者の割合が多くを占めるため、一般投資家が買いにくい状況になっていて、投資家からは「企業の実力と比べて株価が割高になっており、手が出せない」との声もあがっている。
実際、最近のユニクロの事業は低迷しているというニュースが多いにも関わらず、株価は上昇傾向にあり、それをみても、「企業業績」と株価の連動がどんどん薄まっている傾向が指摘されている。
株式会社では、市場における「株価の変動」を通じて、事業再編や取締役の選任などが行われ、ひいては「稼ぐ力」の向上を促す企業統治(ガバナンス)の強化にも繋がることになるのだが、二頭のクジラのおかげでその機能が実質的に失われているということだ。
とはいっても、GPIFや日銀は株式総会で「モノ言う株主」として存在しているかというと、そうではないらしい。
GPIFも日銀も、企業経営への「官」の介入を避けようと、株主総会での議決権行使は信託銀行などに「任せて」いる。
その点に関して、公的マネーが”もの言わぬ与党株主”になる恐れがあるという問題点も指摘されている。
ところで安倍政権は、本来企業が自ら決めていたことに対して「賃金をあげろ/雇用や投資をふやせ/女性をもっと活用せよ」などと喧しいが、際立つのは株式市場にオカネを誘導する政策を次々に打ち出している点である。
株価はもはや「官製相場」であり、正しい鏡を曇らせているどころの話ではない。それは公的マネーによる「市場のネジ曲げ」ということなのだ。
長年続く超低金利政策は、政府がいつでもお金を借りやすくする環境づくり、つまり「官製相場」であり、本来の「市場」という鏡に自分を正しく映さなかったことへのツケが、今日に至る財政赤字の累積を招いたということでもある。
しかしいつまでも「化けの皮」を身につけ続けるわけにはいかない。
実態よりも高い株高で確実に利益をえていく々もいる半面、官製相場に乗っかって大損するかもしれない人々の姿が今から浮かぶのは、節分の日に見かけたアノ夜の「恵方巻き」のイメージが脳裏からはなれないからかもしれない。

その代表が、公的年金資金を運用する世界最大の機関投資家GPIF(年金積立金管理運用独立法人)をめぐる動きである。
GPIFが株式への資金配分を増やす方針変更を「政治主導」で進めその比率を高めた。
昨年のクリスマスの日、日本の金利は史上「最低水準」を更新し、もはや金利をとらないイスラム教の規範に限りなく近づいていることを意味する。
そもそも、日本がこれまでの財政赤字に陥った主因のひとつは、金融市場にオカネを流し込んで市場が「警告音」を出さないようにしてきたことにある。
財政赤字は政府が国債を民間に売ることによって財政資金をファイナンスすることによって生じるが、それを民間が買い入れる時につく値段が「国債の利回り」(長期金利)であり、国債の利回りはいわば「財政赤字の価格」ということがいえる。
超低金利政策は、それをタダ同然にしているということだ。
したがって財政出場をして橋とか道路をつくっていくと、普通は長期金利が上がって国債マーケットが財政出動に「歯止め」をかけることになっている。
しかし日銀が大量に国債を買いまくって金利を低く誘導しているため、「財政赤字の価格」はあがらず国の借金が1000兆円に届くに至るまで増えていったのである。
長年続く「超金利政策」で経済が活性化する条件を整えている一方、政府が「借金しやすい」条件を作ってきたことを意味している。
さらに超低金利政策は国債の需要面だけをターゲットとしたものではなかった。
長期金利が上がる気配があると長期国債の発行をやめて供給を減らすことによっても、長期国債の価格があがり、長期金利が下がった。
かわりに1年国債、2年国債といった短期国債をどんどん発行して、10年国債の発行を減らしたのである。

脳裏に浮かぶのは、なぜかあの夜に見た廃棄処分を待つ「恵方巻き」の山。 今、日本の国債は、海外に魅力的な資産がないのか、よほど国民が愛国者なのか、その9割が国内で消化・保有されている。
ただアベノミクスの異例の金融緩和で、その国債保有が日本銀行に偏りつつあり、市場での取引が究めて少なくなっている。
日銀の国債保有高は、政権交代の直前には110兆円程度であったが、現在は210兆円にもなっている。
こういうときに国債が大暴落するとなると、日銀の資産は一気に劣化してしまい、日本経済自体がたちゆかなくなる。
日銀もETFを買い、特定の株式を買う仕組みにはなっていない。ただ、その「巨体」を市場は無視できなくなっている。