空と海の制約下

ある事情で、福岡県の糸島半島のつけねにある港町・加布里の一軒の家を訪問したことがある。その際、壁に飾ってあった額縁入りの「漁船の刺繍」に惹きつけられた。
家の主人にその刺繍の由来を聞いたところ、加布里の漁民達が遭遇した「福洋丸事件」のことを知った。
1952年1月19日、韓国の李承晩大統領が国際法を無視するかたちで「一方的」に設定した水域境界線を「李承晩ライン」という。
それまでのマッカーサーラインよりも日本に近かったため日本側は抗議したが韓国側は受け付けず、域内に入る日本漁船を次々と拿捕し抑留した。
そこには、間違いなく日韓併合などに対する日本への「報復」の意図が込められていた。
この時代は日韓基本条約(1965年)による「日韓関係正常化」以前で、抑留された加布里漁民達は帰国の見込みもなく釜山の収容先で不安な日々を過ごすことになった。
そこで漁民達は、古い糸を拾い集めだれかれとなく刺繍を縫い始めたである。
漁民達は結局、不安な2年間以上の時を過ごした。主人はさらに、当時の記録をよく保存しているという別の御宅に連れて行ってくれた。
そこで出会った老人は2時間ばかりの間、網の修理をしながら、当時の事件の様子を話してくださった。
壁に目をやると、そこにもやはり額縁にはいった「バラの刺繍」がかかげてあり、福洋丸の29人の乗組員の絆がそれぞれの「刺繍」に編み込まれているようにも見えた。
加布里の漁民との出会いは、日本人ががいかに「国境(領域)」を意識せずに生きているかということを教えてくれた気がする。それは、「竹島問題」を想起すれば、よくわかる。
韓国側は「独島」(ドクト)とよび、「独島ツワー」をもうけて聖地化しているのに対して、日本人の多くは島根県の「隠岐の島」のさらに沖に位置する場所さえ、よく知らない。
ところで、自分の記憶の中にある日本人が遭遇した「国境」をめぐる事件は2つほどある。
その一つは、2009年の尖閣列島周辺でおきた中国漁船員が海上保安庁の船に体当たりした事件で、「逮捕」から「釈放」に到る過程において日中感の緊張した雰囲気であった。
従来、尖閣諸島は日本が「実効支配」してきたから日本にとって「領土問題」ではなかった。
中国が「領有権」を主張して漁船がやって来ても追い返せば良かったが、事を荒立てると、「領土問題」に発展する可能性があった。
日本政府は、穏便に中国人漁船員を「釈放する」選択をしたところ、中国に戻った漁船員は「英雄扱い」されたようだ。
またこの出来事の後、中国船が日本に押し寄せてくるのではないかという「風評」が一部に立って、少々緊張した。
それは、1976年9月のソ連ミグ戦闘機の日本侵入直後の「緊迫した」雰囲気を思い起こさせた。
ソ連防空軍所属のミグ25戦闘機数機が、ソ連極東のウラジオストク近くにあるチェグエフカ空軍基地から「訓練目的」で離陸した。
そのうちの「一機」が演習空域に向かう途中、突如コースを外れた。
これを日本のレーダーが13時10分頃に捉え、「領空侵犯」の恐れがありとして、急遽航空自衛隊千歳基地のF4EJ機が「スクランブル」発進した。
北海道の函館空港に接近し、市街上空を3度旋回したあと13時50分頃に滑走路に「強行着陸」した。
パイロットは「抵抗の意思」のないことを明らかにするため、空にむけて空砲を一発うった。
そして警察が到着すると共に函館空港周辺は、北海道警察によって「完全封鎖」された。
北海道警察の取り調によれば、ミグ25戦闘機にのっていたのは、ヴィクトル・ベレンコ空軍中尉で、この時、燃料はほとんど残っていなかった。
べレンコ中尉はアメリカへの亡命を希望していることを語り、その希望通りアメリカに亡命した。
ベレンコの亡命理由については諸説あるが、本当の理由は「待遇の悪さと、それに伴う妻との不和による衝動的なもの」という説が有力である。
ところで、このミグ戦闘機侵入という「突発事態」は、日本という国がもつ様々な問題を浮き彫りにした。
その第一の問題は、日本の「防空網」の脆弱さである。
航空自衛隊は地上のレーダーと空中のF4EJ機の双方で日本へ向かってくるミグ25機を捜索した。
しかし、地上のレーダーサイトのレーダーはミグ25機が低空飛行に移ると「探知」することができず、またF4EJ機のレーダーは「ルックダウン能力」つまり「上空から低空目標を探す能力」が低いことが判明した。
そのため、ミグ25戦闘機は航空自衛隊から「発見されない」まま、ヤスヤスと侵入できたのである。
この事件ではパイロットが「亡命」ではなく「攻撃目的」であったらならば、重大事態を引きおこした可能性が高い。
このため、日本のレーダー網や防衛能力が「必要最低限」にすら達していないということが露呈された。
この事件を契機に、「早期警戒機」E2C機の購入がなされている。
また、日本の自衛隊と警察の間で「管轄権」のチガイによる「縦割り行政」のイキスギが明らかなった。
ミグ戦闘機の侵入事件の際には、「領空侵犯」は軍事に関わる事項であるが、空港に着陸した場合は「警察の管轄」に移行することになっている。
警察によって「封鎖」された空港現場から、その「管轄権」をタテに陸上自衛隊員は締め出されたのである。
しかし、「非常事態」にソンナ「管轄権」を言う場合ではないことは明らかで、新たな協力体制の構築の必要性が浮上した。
さらには、「情報」または「風評」への対応も問われた。
ミグ25戦闘機が函館空港に「強行着陸」した直後、ソ連軍が特殊部隊などを使って機体を「取り返し」に来るとか、機密保全のため「破壊し」に来るとかいうウワサや憶測が広がった。
この当時、米ソは「デタントの時代」であったが、「予断」を許す状況にはなく、函館周辺は緊迫した。
実際に、函館駐屯地で開催予定だった「駐屯地祭り」の展示用として用意されていた61式戦車、高射機関砲が基地内に搬入され、「ソ連軍来襲時」には、戦車を先頭に完全武装の陸上自衛隊員200人が函館空港に突入、「防衛戦闘」を行う準備がなされた。
また、ソ連からの「機体返還要求」に対する対応がある。
ソビエト連邦からは機体の「即時返還要求」があったが、当時「親ソ連」の最大野党であった日本社会党はコレに「同調」した。
それに対し、日本(および同盟国のアメリカ)は、国際「慣例上」認められているとされる「機体検査」のためにミグ25を「分解」することに。
そのために、アメリカ空軍大型輸送機にミグ戦闘機を搭載して百里基地(茨城県)に移送する。
機体には「函館の皆さんさようなら、大変ご迷惑をかけました」と書かれた横断幕が掲げてあった。
機体検査の後、11月15日にソ連に返還された。
アメリカは、これまでミグ25戦闘機を「超高速戦闘機」として恐れており、それを意識する形もあってかF15機を開発していた。
ところがミグ25戦闘機当時の水準としては著しく「時代遅れ」なことが判明し、「ベレンコ旋風」は、アメリカの「対ソ連軍事戦略」にも大きな影響を及ぼしたのである。
この事件はソ連においても、国境部の空軍基地に駐屯しているパイロットの「待遇改善」の契機ともなったという。

「国際政治のリアル」は、ごく身近な我々の「日常」に潜んでいる。
実は、日本の飛行機が米軍の制限の下で飛行していることは、あまり知られていない。
数日前の中国メディアからのニュース「知っていたか? 東京の一部上空は日本のものではないのだ!」とする記事であった。
記事が紹介しているのは、東京とその近隣県にまたがって存在する「横田空域」についてであった。
「この空域は米国の管制下に置かれ続けているが、それは民用航空機を含む日本の飛行機が自由に通行できないことを意味する。それゆえ、日本の各航空会社は東京から航空便を出発する際、この空域を迂回しなければいけないのだ」と説明している。
さらに、中国や韓国へ飛ぶ国際線もこの空域を迂回しなければならないため、日本の民間航空会社では大量の燃料や費用の損失が生じているとも。
最後に、「日本になにより最大の屈辱は、70年にわたり一国の首都の上空を自国の飛行機が自由に飛べない状況が続いていることだ」と締めくくっている。
実は、「横田空域」は1992年と2008年に一部が返還され、それまでの飛行上の制約が大きく改善されたのだが、中国が「横田空域」を紹介したのは、今の日本がいかに米国の管轄下にあるかを強調したかったのだろう。
確かに、米軍の制約下にある「日本の空」なのだが、思い起こすのは、NHK「プロジェクトX」で知った沖縄上空域の制約のことである。
それは、意外にも沖縄に入り込む危険のある「害虫」を駆逐することから生じた問題であった。
1970年、沖縄は本土復帰に湧いていた頃、植物防疫官のは、沖縄本島の南300キロの宮古島に飛来したウリミバエを懸念していた。
多くの野菜に卵を産みつけて腐らせてしまう最悪の害虫で、沖縄本島に上陸を許せば、沖縄から本土への野菜の輸出が規制されることは確実であった。
一般の人々の盛り上がりとは裏腹に、沖縄本島は厳戒態勢を敷いていた。
農林省の担当官が根絶方法を探すと、アメリカの学者が唱える、放射性物質コバルト60で不妊化したメスばえをばらまき、繁殖を阻止するという奇想天外なものを発見した。
そして植物防疫官の下でスタッフが飼育室に泊まり込んでハエの世話をした。ハエを駆逐するために、ハエを育てるというのも奇妙な仕事だった。
1974年11月、コバルト60の照射によって100万匹の「不妊虫」が生産された。
実は、敵たるウリミバエ達はすでに米軍基地に潜んでいたが、そこは彼らには手出しできない場所だった。
植物防疫官はヘリで基地内に不妊虫撒くしかないと米軍に訴えるが、「調査だけなら認める」という回答を得るものの、ヘリから「何か」を撒くなどということは、絶対に許されないことであった。
しかし、米軍兵士の中にひとりの昆虫学の研究者がいて、ウリミバエの恐ろしさをよく知っていた。
そして与儀達は自ら持参したデータと、アメリカの昆虫研究者に間にたってもらって交渉した結果、ようやく基地司令の許可が下りる。
基地上空から「不妊虫」をばらまく撲滅作戦が始まって1年半後、ついに沖縄からウリミバエは根絶される。
この出来事は、ウミミバエの恐ろしさよりも、日本の「空の制約」を教えられる出来事であった。

フィリピンのドゥテルテ大統領は 天然ガスなどの資源が豊富にあるとされる南シナ海にの資源開発に前向きな姿勢を示している。
ところが最近の演説で大統領は、北京で行われた習近平主席との会談について触れ、「自分たちのものだから採掘するつもりだ」と中国側に表明したところ、習主席から、「私たちは友人だから争いたくないが、強行するなら戦争になる」と警告を受けたという。
ところで、17世紀、国際法の父グロティウスが早くも「公海自由の原則」というのを唱えている。国際法は戦時法と海洋法の歴史で、戦時法はともかくとして、いろんな資源が眠る海に対する共通の国際法作成は難航してきた。
第二次世界大戦終結後、1950年代から3度の国連海洋法会議を経て、ようやく「国連海洋法条約」が締結され。
領海以外で沿岸国の大きな権利が認められる権利といえばいわゆる「200カイリ水域」、正確には「排他的経済水域(EEZ)」が知られている。
北朝鮮のミサイルが「日本の経済水域」の外に落ちたという最近のニュースを思い浮かべる人も多いであろう。
しかし、もう1つ、同じように大きな権利が認められているものが「大陸棚」についての権利。つまり海洋ではなく海の地下資源の権利である。
「大陸棚」の権利は、難航の末の「妥協の産物」という趣があり、まだ煮つめられていないというのが実際で、そのひとつが「大陸棚の限界線」についてである。
国連海洋法条約では、大陸棚は「自然の延長」として350カイリまで設定可能なので、排他的経済水域とは違い、200カイリ以上の設定することも、場合によっては可能である。
大陸棚とは「地学的」には大陸棚とは200mまでの海底をいうが、国連海洋法条約にはそのような定義はなく、「領土の自然の延長」という表現をしている。
これが200カイリ以内なら問題はないが、 問題は「自然の延長」が200カイリを超える場合である。
これは海底の地形によって変わってくるため、結論を言うと「最大350カイリまで設定するか、水深2500mの線から100海里まで加えて設定するか」のどちらかを沿岸国は選べることになっている。
そこで、条約締約国会議で、2009年までに、「ここからここまでがうちの国の大陸棚だ」というデータを「大陸棚限界委員会」に提出して、認めてもらうことになった。
しかし、太平洋ならいざ知らず、200カイリといえば370キロメートルくらいになり、他の国とぶつかって200カイリとれない国も多々ある。
実は、国連海洋法条約は、排他的経済水域についても大陸棚についても、「衡平の原則」にもとづいて国際司法裁判所などで合意するように、と規定しているにすぎない。
「衡平の原則」とは、必ずしも物理的な「中間線」をさすとは限らないからややこしい。
そこでよく引き合いに出される有名な国際司法裁判所の判例が1969年「北海大陸棚事件」である。
北海は油田があることがわかり、多くの沿岸国がその権利を主張したのだが、北海はすべて「大陸棚」なので、その「境界線」を決めることになった。
大陸棚を、沿岸国の沿岸と等距離になるよう区分すると、ドイツ(当時は西ドイツ)の大陸棚は狭くなってしまいます。
国際司法裁判所は、「衡平な原則」とは当事者間同士が合意できることだ、として、ドイツの大陸棚を「等距離原則」より広くとった。
つまり、国際司法裁判所は、当事者が合意できれば、等距離とか中間線などが必ずしも大陸棚の境界線ではなく、「衡平な原則」は「その海域によって違ってくる」ということを示したわけである。
排他的経済水域についても、国際司法裁判所は「中間線」にこだわらず、「漁場としての価値」などを考慮して境界線を決めている。
地図を見ると、東シナ海には中国から「伸びている」ようにみえる大陸棚がたくさんある。
最近緊張が高まる「尖閣諸島」が日本人が「先占権」を主張し実効支配をしているものの、尖閣諸島が大陸棚に乗っかっているのも事実なのである。
古来、中国の皇帝は、周辺の国々に経済的な恩恵を与えることと引き換えに、緩やかな従属関係を求め、これによって中国への侵略を防ごうとした。
具体的には、言うことを聞かない国に対しては交易を止め、経済制裁を科した。
2月17日のトランプ・安倍会談後の「共同声明」で尖閣列島の防衛を盛り込んであったため、日本政府もひとまず安心したが、大陸棚という「陸地の延長」という領域に、中国古来の思想が頭をもたげるのは、サモありなんという気がしないではない。
 

今回、北京にやってきたのは約130カ国の代表。うち首脳は29人にも上った。言うまでもなく、「桃やすもも」は、中国の巨大な経済力である。
何しろ今後5年間で約17兆円をシルクロード地域に投資するという。私たちの取材に対して、アジアを中心とした多く国の代表団の人々が「支持する」と答えたのも、ある意味、当然なのだろう。
習氏は同時に、「中華民族の偉大な復興」という演出を、中国の人々に見せたかったのだと思う。
各国の首脳たちは順番に、習氏の前に進み、1人ずつ握手をして記念撮影をするという儀式に参加させられた。
故宮博物院所蔵の絵に描かれていた皇帝の謁見(えっけん)の光景だった。さすがに3回ひざまずき、9回頭を地につけるという「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼」はなかったが、まさに「朝貢外交」のイメージである。
国営テレビは約40分間もこの様子を生中継で伝え続けた。しかも、同じ儀式は各国首脳たちが会場に入るたびに、2日間で2度、繰り返された。
多くの首脳は気づかなかったかもしれないが、記念撮影の会場の壁に掲げられた高さ6・5メートル、幅9メートルの巨大な中国画には、「中国の美しさの前にはどんな英雄も頭を下げる」といった趣旨の毛沢東の言葉が書かれていた。
一方で、こうしたやり方は、中国の伝統的な安全保障観に合致したものだとも言えるかもしれない。