「青」の挑戦

「ジャパンブルー」。幕末から明治にかけて来日した欧米人の目をとらえたのは、町を埋め尽くす藍色だった。
作家の小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、藍染めののれんや着物であふれる町並みを見て、「日本は神秘的なブルーに満ちた国」と評した。
万葉集の「あおによしと奈良の京の咲く花の におうがごとく いまさかりなり」と歌われた平城京の青い甍の情景なども脳裏に浮かぶ。
さて、どんな色にも何かしらの意味をみつけようと思えば、きっと「何か」が見つかるだろう。しかし、「青色」は特別な気がする。
それは、海の色、空の色であることから、「生命の始源」と結びついた色なのではないか。
「青」が生命の本源と結びついた色であることを印象づけたのは、ソ連の女性宇宙飛行士・ガガーリンの一言「地球は青かった」という言葉が大きい。
それに、日本の古墳で時折見つけられる青銅器や勾玉も、元来は鮮やかなショッキング・ブルーであったに違いない。
また、青が特別なのは、青を表現する「ハードルの高さ」にあるのではないか。
それは、ピカソがこだわったいわゆる「青の時代」や、フェルメールの絵「真珠の耳飾の少女」に登場する青いターバンの色などからも想像できるように、青は多くの画家が本能的に「挑戦」してみたくなる色なのではなかろうか。
近年、サントリーがバイオ技術によって青いバラを実現できたことがニュースになったくらいに、「Blue Rose」は不可能の代名詞とされてきた。
確かに「希望の薔薇色」と「暗欝のブルー」が合わさったのも屈折していて面白い。
ノーベル賞の中村修二による「青色ダイオード」の実現により、「赤色ダイオード」「緑色ダイオード」と「三原色」がそろって、ようやくLED電球で「白」を実現することになった。
そのおかげで街の信号も、真正の「赤色・青色・黄色」になったのは、教育上も喜ばしいことだ。
それまでは、どうみても「緑」信号を「青」信号と強引に教えていたのだから。
さて、自然の世界には、青が「生命の始原」と繋がる色であるということを匂わせる生き物がいる。
オーストラリアのケアンズあたりにいるアオアズマヤドリという鳥のオスは繁殖期になると小枝など平行に組み合わせた構造物(あずまや)を作り、それはメスへの求愛の印で、中央を飾ってメスを導きいれようとする。
面白いのは、巣の周りに青色をした、ペットボトルのキャップ、ボールペン、ビニールテープ、紙等青いものなら何でも集めて飾り付ける。
そしてメスは、オスの芸術的センスを試すかのように、あづまやの周りをめぐり歩き、気に入ったらついに「バージンロード」を通ってオスと結ばれる。
さて、地中海の島々は、オーシャンブルー・一色の世界といってよい。
中には「青い洞窟」の荘厳なる世界で泳げるメイス島などの隠れたスポットもある。
南イタリアでもっとも有名な海の洞窟、ナポリのカプリ島にある「青の洞窟」。
断崖絶壁にわずかに開いた入り口から内部に入ると、まさに絶景。水面から放たれる深い青色の輝きが暗い洞窟内を包み込む神秘的な空間が広がっている。
ギリシャのクレタ島にあるクノッソス宮殿に、イルカと一緒に共存していた人たちの姿が描かれている。
シンクロ・ナイズド・スイミングの小谷実可子さんはギリシアを音連れた時、その古代壁画にある特別なメッセージを受け取った。
シンクロはスポーツであるが、水を讃え、水を表現する水の巫女のような要素があるという。
小谷さんにはシンクロ競技中に、水の中で息を止めてもほとんど苦しくなくて水と一体化するような体験があったという。
小谷さんは、ソウルオリンピックに出場し銅メダルをとった後、名も知らぬアメリカ人の男性から突然電話をうける。
「君の演技は素晴らしかった。でも水の中には君よりももっと美しく泳ぐもの達がいるから会いに行こう」と何度も誘われるようになった。
「シンクロだけが全てじゃない」とまで言われ、まったく余計なお世話だと思ったものの、次のバルセロナオリンピックで補欠になりアスリート人生に不安を覚えた頃、その人の言葉が蘇った。
そして1993年、その人のいうとおり、イルカを見に南米バハマに行った。
そしてイルカと並走するように泳いだ時に、体の中に電流のようなものが走った。 海と一体化した時、自分のちっぽけさを知りつつ幸福感に浸った。
それは、メダルを獲得した以上の体験であり、そこから人生観が変わった。
イルカは、こちらがカメラを意識するような邪心が少しでもあると近寄ってこないことを知った。
以来、イルカと対面するために一層ピュアな気持ちでいようと心がけるようになった。
小谷さんは、ギリシアの島々を囲む青い海と古代壁画との出会いや、オリンピック後にイルカと泳いだ体験も合わせ、すべてが「生命の根源」に導かれるためではなかったかと思うようになったという。

2020年の東京五輪エンブレムや、サッカー日本代表のユニホーム。日本を表す色に、藍や濃紺が使われることが多い。
それは、この国に長く続く「藍染め」の伝統があるからかもしれない。
もっとも、化学染料が中心の今日にあって、天然原料を使った「藍染め」に出会うのは難しくなっている。
ところで「藍」とは、染料に使う藍草のことで、藍草で染めた布は藍草よりも鮮やかなブルーとなる。
藍染のきものは、鎌倉時代にはすでに武家の間で愛用されていたようだが、そもそも「藍の実」は漢方薬として中国から伝わったともいわれている。
蓼藍には解熱、解毒、血液浄化などの作用があるといわれ、防虫、防カビ、防臭効果もある。
昔から仕事着に広く用いられてきたばかりか、蚊帳、産着、手拭などの日用品に藍染が多く用いられているのも、日本人が藍の効能をよく知っていたということにほかならない。
ところで、ブルー・ジ-ンズは、日本で最初からそれほど好意的に受け入れられたわけではない。
1960年代、マイク真木が紅白歌合戦にジーンズ・Tシャツで「バラが咲いた」を歌ったら作業服で出るな、Tシャツででたら下着は見せるなとと苦情がきたという。市議会に議員がジーパン姿で登場すると、何事かと問題化される時代でもあった。
しかし、最近ではジーンズが最もよくにあうタレントに賞を与えるなど「美しく見せるためのスタイル」というようにジーンズに対する意識もまったく変わってしまった。
反対からいうと、ジーンズは広く市民権を得たため、「反抗のシンボル」などといった「何か」をシンボライズするものではなくなったともいえる。
ジーンズといえばアメリカの「Levi's(リーバイス)」がイメージされ、「ジーンズ=アメリカが本場」という印象が強い。
だが海外には、「EDWIN (エドウイン)」や「BIG JOHN (ビッグジョン)」「BOBSON(ボブソン)」といったメーカーがあり、それに負けないクオリティのジーンズが日本国内で製造されている。
実はジーンズはアメリカ発祥ではなく、「ジーンズ」という言葉の起源は、イタリアの港町ジェノバである。
フランス南部の町ニームで製造された「サージ織り生地」が原型で、フランスの伝統産業の青い丈夫な「帆布」のことで、ジーンズはデニム生地をインディゴ(藍)の自然染料で染めたのがはじまりである。
藍染はインディゴは、そのにおいが虫除けや蛇避けになると言われている。
ニームから輸出された生地はフランス語でセルジュ・ドゥ・ニーム、すなわち「デニム」とよばれた。
イタリアのジェノバで布地で作ったパンツを履いた水夫たちを「ジェノイーズ」と呼ばれたが、これが現在の「ジーンズ」の語源だと言われている。
ところでリーバイ・ストラウスというドイツ・バイェルンの生まれの兄弟が、14歳の時ニュ-ヨ-クに移住した。
兄弟は、1860年代ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアで、殺到した試掘者や開拓者たちに日用品を調達する仕事に従事していた。
リ-バイの会社(リ-バイス)は、こうした男達の「作業服」として、デニムの布とジェノヴァの水夫のズボンを「組み合わせ」たのである。
また、槌や道具がポケットに収まるよう縫い目を馬具用の「真鍮の鋲」で補強することを思いついた。
こうしてアメリカのドイツ移民が、フランスの素材とイタリアのスタイルをもちいて、典型的なアメリカ製品を生み出したのである。
ジーンズはゴールドラッシュによりブレイクし、いつしかアメリカの若者文化のシンボルとなり、リーバイスにより大量生産され、日本にも輸入された。
一方、日本にも優れた「藍染」の伝統技術をもつ職人達がいた。
戦後、アメリカより大量に輸入されてくるジーンズをみて、その染めムラが気になり自分ならモットいいものが作れると思ったのが、広島出身の藍染職人・貝島定治である。
貝島は女性の作業服のモンペなどの染色を行っていたが、農業の比重の低下と都市化進行によるモンペ需要減少のため、方向転換を模索していた。
そんな中、貝島はアメリカ産ジーンズの「染めムラ」に染色職人としての血が騒いだのである。
しかし貝島は「染めムラ」のないジーンズを生産できたにもかかわらず、アメリカ産と比べ、何かが欠けていることに気がついた。それを一言でいえば、「風味」といったものである。
貝島製とアメリカ製とは、生地を縦糸と横糸を交互に編むという方法は共通しているのだが、デニム(生地)を紡ぐ糸ソンモノに原因があった。
アメリカ産のデニムは芯は白く糸の外表だけを青く染めたもので、ジ-ンズが古くなると白い繊維が浮き出て独特の風味が出てくるのである。
そこで貝島は、糸をそのまま藍にツケテ染めるのではなく、糸をピーンと張り伸ばしきった状態で染めることにより、芯は白く表面だけが青いアメリカ産のデニムと同じものを作ることに成功した。
貝島は、岡山に会社工場をつくり国産ジーンズを生産し始めた。
岡山県倉敷市児島地区はもともと、日本三大絣の一つ「備後絣」の産地で、「織り」と「染め」の技術を持った職人がたくさんいた。
その技術を活かし、現在の広島県と岡山県は、世界に名だたるジーンズ生産地として有名になったのである。
というより、「聖地」となったといってよい。
現代人はジーンズを、「破いてはく」、「崩してはく」、わざと「古く見せる」などして「粋」を楽しんでいる。ジーンズの色落ちによる独特の風雅は、日本人の伝統的な「わび/さび」の世界に案外と通じるのかもしれない。

「海賊と呼ばれた男」出光佐三は福岡県宗像郡赤間に生まれた。
門司にあった石油を扱う零細な商会に就職し、知人より資金を得て独立するが、陸の石油販売店網はエリアが仕切られており佐三が入りこむ余地は少なかった。
そこで海上にでてポンポン船にコストが安い軽油を補給した。これが大当たりして出光商会発展の契機となった。
また、出光石油飛躍の原因のひとつとしてあげられるのが、「オーダー油」の発想である。
それまで機械油は、親会社のものをソノママ納めていたが、石油の研究をしていた佐三は使用する機械に応じて「微妙に」配合を変えたのである。
こういう「オーダー油」の発想は藍問屋であった佐三の「実家の家業」と関係があるのではなかろうか。
出光佐三の実家は、旧赤間宿において営まれていた「藍問屋」で、その微妙な色具合をつけるのために、染料を色々と調合していた。このことが、「オーダー石油」の発想につながったのかもしれない。
佐三の父は徳島から藍玉を仕入れて、藍で染める青色にも、濃淡その他の差が自然にあることを強く意識していた。いわば「絵心」があり、「原料の配合」にも気を遣ったのである。
佐三は、父が藍玉を収めるのに注文主の織物の種類によって「匙加減」を変えていたのを覚えていたに違いない。それは次のような場面で行かされた。
佐三は、当時満州に進出していた日本軍の満州鉄道の車軸の油に注目していたが、満州で利用されていたアメリカ製の油は、気温が低い満州では適合せずに、鉄道はしばしば立ち往生していた。
ところが、佐三が納めた、微妙に成分を変えた油によってそうした列車の停滞はほとんどおこらなくなっていった。
さて、福岡にはもう一人の「青を基調」としたデザインを生んだ人がいる。久留米出身の井上伝である。
久留米絣は綿織物で、藍染めが主体。あらかじめ藍と白に染め分けた糸(絣糸)を用いて製織し、文様を表す。
久留米絣は、伊予絣、備後絣とともに日本三大絣の一つともされ、小説家・太宰治は久留米絣を用いた着物を好んで着ていた。
江戸時代の後期に、この「久留米絣」を生みだしたのが当時12歳の少女であった。
恐るべき12歳・井上伝は、1788年、久留米藩の城下・通外町に生まれた。父は米屋を営んでいたが、あまり豊かではなかった。
伝は7~8歳(現在の小学校1~2年生)のころから、木綿織りの稽古を始めた。
その後も寺子屋に通っていたという記録はないが、小さい頃から縫い物が好きだったようで、師匠について本格的に織物や裁縫の勉強も始めたようである。
伝は12~13歳のころになると、大人も及ばないくらいに木綿織りが上達し、白木綿や縞を織り上げては売りに出していた。
ある日、着古した藍染めに「白い斑紋」を見つけ、後の久留米絣の元になる技法をひらめいた。
誰でも気が付いているにも関わらず何も感じない中で、自然の面白さへの疑問を解きほぐし、それを実践した。
一度で「斑紋」を織り上げるのは難しく、何度も試行錯誤を繰り返し、「霜降(しもふり)」「霰織(あらひおり)」と呼ばれるようになる白い斑紋の織物を完成した。
伝は「加寿利」と名付けて販売し、城下でたちまち評判となり、15歳のころには、二十数人の弟子が集まったと言われている。
21歳の時に結婚し、城下原古賀町(現在の久留米市本町)で「久留米原古賀織屋おでん 大極上御誂(だいごくじょうおめし) 」の証票を添付して久留米絣を売り出し、弟子の指導も続けていた。
次の目標である「絵模様」の絣を織り出すことに苦心するが、同じ久留米出身の「からくり儀右衛門」こと田中久重の協力を得る。
15歳の久重は絣の「板締め技法」を考案し、それによって伝は絵模様も織り出すことに成功した。
伝は27歳の時、夫の病で亡くし、3人の子どもを連れ、なじみ深い通外町に戻る。
生家の斜向いの小さな家で弟子の指導を続け、40歳のころには、弟子が1000人にも及び、3棟が並ぶ建物を建設した。
また、弟子の内、400人程が各地に散らばり、機業を開業している。これによって絣は個人の趣味的生産から産業として形成され、久留米は絣の産地として確立した。
久留米藩は、久留米絣を産業として奨励し、一時は年間200〜300万反を生産したこともあった。
戦後は洋装化により絣の需要が激減、現在は少量の生産にとどまるなか、久留米絣を用いたスニーカーやカバンといった新商品開発など、新たな動きも出てきている。
西鉄久留米駅近くい五穀神社には、「東芝」創業者の田中久重と井上伝の胸像が並んで立っている。