私の城下町

福岡県の南部筑後地方柳川は、有明の海に面する水郷の街として全国的に知られている。
ゆれる柳を映す水面を船頭の巧みな櫂捌きに揺られながら、赤レンガや白壁を眺めながらの川下りは、今なお優しく人々の心を包んでくれるようだ。
その川くだりの途中で、船頭さんが、「ここがオノ・ヨーコさんのご先祖の家です」という声が聞こえ、ハットとして目をあげると「黒い門構え」が見えた。
ジョン・レノン夫人のルーツは、こんな古くて穏やかな風景の中に隠れてあったのかと驚いた。
オノ・ヨ-コの家系を辿ると柳川生まれの小野英二郎という明治の著名な財界人を見つけた。
彼の先祖は、戦国時代柳川藩・立花宗茂の家老で、小野鎮幸という人物である。
関ヶ原後は加藤清正に仕え、「日本七槍」・立花四天王の一人に数えられる勇猛な武士であった。
小野英二郎の長男である小野俊一は東京帝大中退後ロシアの大学に留学し動物学を学んだ。
そこで知り合った帝政ロシア貴族の血を引くアンナ・ブブノアという女性と結婚する。
そして二人は駆け落ち同然にして日本にやってきたが、後に離婚する。
この小野俊一の三男が小野英輔で、オノ・ヨーコの父にあたる。小野英輔は横浜正金銀行サンフランシスコ支店副頭取などした銀行家である。
しかし小野英輔は、アンナとの間にできた子供ではないので、オノ・ヨーコにロシア人貴族の血が流れているわけではない。
オノ・ヨーコの父・小野英輔はいつも海外出張で、母は色々な交際で多忙のため、母の里にある別荘で育ったという。
小さい頃から人がやらない変わったことばかりをやっていて、作文を書くと学校の先生からはこういうものはいけないといわれ、かえって彼女の「常識」というものに対する戦いの様相を呈するようになる。
彼女の感性の「ヤリ」で既成概念をツキくずしてきたわけだが、その感性のトンガリ具合が1966年11月9日ロンドン個展の会場にジョン・レノンという音楽界のヒーローを呼び寄せることになる。
ちなみにジョン・レノンの方も、当時の教師から成績簿に「絶望的」と書かれたぐらいだから、そのトンガリ具合から似たもの同士だったのかもしれない。
翻ってみて、オノ・ヨーコほど世界中からタタカれ日本女性はいないのではないか。
ところでオノヨーコのルーツ柳川は立花家の城下町であるが、こここで長年料亭「御花」を経営されてきた立花花子さんは、幾分オノヨーコを彷彿とさせる人でもある。
立花さんは、柳川立花伯爵家の一人娘として生れ、テニス日本チャンピオンに耀き、最初に「テニスの柳川」を全国にアピールした人といえるかもしれない。
三男三女を育て、料亭「御花」の女将として逞しく時代を生き抜いた最後の「お姫さま」である。
自伝「なんとかなるわよ」を読んで思ったことは、かつて人々からかしずかれる立場から、人様にサービスをする立場への転換は本人の中でも様々の葛藤をよびおこした。
一方で、「お姫様に何ができるか」といわれて反発したという。オノヨーコに似て、どこか尖がったところのある「お姫様」あったのだろう。

城下町で育ったミュージシャンといえば、B'zのボーカル稲葉浩志を思い浮かべる。
稲葉氏の実家は岡山県の津山市で化粧品店を経営していて、今なお津山観光の目玉になっているという。
津山は桜が美しい山間の城下町で、1603年信濃川中島藩より森忠政(森蘭丸の弟)が18万6千5百石にて入封し、津山藩が立藩した。
ちなみに森蘭丸は信長に仕えた美男の小姓として有名で、津山には、稲葉浩志の他に俳優のオダギリジョーやTVアナウンサーの押坂忍といった美男の系統が多い。
ところで、松任谷由実(荒井由美)が東京八王子の老舗呉服屋「荒井呉服店」の娘であることは、知る人ぞ知るである。
裕福な家庭に育った荒井由実が、音楽環境においても一般水準を越えて恵まれた環境にあったことは推測できる。
きっとバロック音楽に通じる格調やノン・ビブラート(チリメン・ビブラートとの説もあり)のドライな感じは、彼女が立教女学院というミッション系の学校に学んだことも大いに関係もあろうし、調布にあった「在日米軍基地」の存在もなにがしかの影響を与えたにちがいない。
母親は、娘・荒井由実の思い出を、「むかし、日曜日によく米軍の将校さんが車3台くらい店の前に止めて来ていたんです。
当時お店に生地を切る台があって、まだ幼稚園の由実ちゃんがその上にポンと乗ってね、”東京ブギウギ”を歌ったら彼らがお金をくれたんですよ。それで覚えて、お店を見ていて外人さんが来ると飛んでくるわけ。その時からステージに上がる喜びがあったんでしょうね」と思い出を語っている。
また地域の名士として、八王子の町も松任谷のヒットにずいぶん協力してくれたという。例えば八王子教育委員会から、小学生の誘拐事件が多発した際に、荒井作曲の「守ってあげたい」のメロディを市内に流したいという。
レコード会社に電話すると、本来なら版権で相当のものを払う必要があるのにすぐにOKが出て、全部無料で午後1時半に全市で流れたこともある。
そういうわけで松任谷由実の音楽にとって、八王子で育ったという歴史環境も、その「資質」とは無関係とはいえないかもしれない。
ところで八王子という町は16世紀に、当時の武蔵国(東京都八王子市)に存在していた日本の城がある。
北条氏の本城である小田原城の支城であり、関東の西に位置する軍事上の拠点であった。
913年に華厳菩薩妙行が山頂で修行中に牛頭天王と8人の王子が現れた因縁で、916年にこの城の山頂に「八王子権現」を祀ったことから、八王子城と名付けられた。
1571年ごろより北条氏康の三男・氏照が築城し、1587年頃に本拠とした。
しかし豊臣秀吉の小田原征伐の一環として1590年7月、八王子城は天下統一を進める豊臣秀吉に加わった部隊1万5千人に攻められた。
当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内にはわずかの将兵の他、領内から動員した農民・婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠ったに過ぎなかった。
氏照正室・比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。
八王子城攻防戦を含む小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は兄・氏政とともに切腹した。その後新領主となった徳川家康によって八王子城は「廃城」となっている。
徳川の時代には、八王子は江戸を甲州口から守るための軍事拠点としての役割も担い、「千人同心」の根拠地となっていた。
しかし、江戸末期には彼らは実質「浪人化」するのだが、有力者の「用心棒」として採用されるために、日頃から剣術を磨いていたという。
というのも、八王子は、甲州街道中、最大の宿場町として、また多摩地域の物資の集散地であり、特に桑畑が広がる養蚕が盛んな地域であり、絹織物産業・養蚕業が盛んであった為に「桑都(そうと)」という美称があったほどだから、守るべき「金蔵」がたくさんあった。
「新撰組」が組織されるにあたり、日ごろから用心棒として腕を磨いていた彼ら浪人が採用されたのはそういう背景があったからだ。
ちなみに近藤勇は、現在の東京都調布市野水出身、土方歳三は在の東京都日野市石田出身で、いずれも八王子と近い出身である。
八王子は、明治維新期以降は「織物産業」が繁栄し江戸時代からの宿場町を中心に街も発展した。
特に生糸・絹織物については市内で産するだけでなく、遠くは群馬・秩父や山梨・長野からも荷が集まり、輸出港である横浜への「物流中継地」としても機能していた。
長野・山梨を主産地とした生糸は八王子から町田を通って横浜へ運搬され、八王子―横浜間の約40kmの道は「絹の道」(シルクロード)と呼ばれるようになる。
そういうわけで松任谷由美の実家のような多くの呉服問屋が繁盛する土地柄であったのだ。
ところで、荒井由美の名を一躍世に知らしめたのが1973年の「ひこうき雲」という曲である。
「ひこうき雲」のメロディーをはじめて聞いた時、あれが「死者」を歌った歌だとは気づかないくらい、明るくさわやかな曲調であったのを覚えている。
しかし歌詞の内容といえば、「空にあこがれ 空をかける」ことを望んだ夭折の友人の死を歌っている。
出だしの「♪ゆらゆらかげろうが あの子を包む/誰も気づかず ただひとりあの子は昇っていく♪」という歌詞は、葬場から上って行く煙の情景を重ねて歌詞にしたのかもしれない。
誰もが早すぎる死に悲観するなか、「けれど幸せ」と死を肯定的にとらえようとする一方、「ほかの人には わからない」と二度強く「打ち消した」フレーズに悲しみが伝わる。
ちなみに夫である松任谷正隆とは、「ひこうき雲」のセッションで最初に出会い、正隆はこの曲のコード使いの意外性それ以上に世界観に驚き結婚を決めたと後に語っている。
さらに、「空へ」あこがれる松任谷自身の気持ちを反映した初期のヒット曲に「中央フリーウエイ」がある。
♪この道はまるで滑走路 夜空に続く♪となるという歌詞にあるとおり、高速道路がいつしか「滑走路」に見えてくるのは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を思い出させる。
個人的な話だが、東京から甲府への長距離バスで中央高速道を利用した折、車中から全神経をとがらせて「中央フリーウエイ」の風景を探したことがある。
♪右に見える競馬場 左はビール工場♪という歌詞の内容どうりに、在日米軍の調布基地、サントリー武蔵野ビール工場、東京競馬場などの風景が現れた時は、「オチョコ三杯分」ほどの満足感に浸った。

沖縄には「金城」という姓が多いことから、沖縄にも「金城」なるものが存在するのだろうかと調べてみると、首里城に続く城下町が「金城町」であった。
沖縄の歴史を見ると、沖縄を引き裂いてきたのは、本土との関係や米軍基地との関係ばかりではないことに気がつかされる。その深層にあるのは、むしろ中国との関係もしくは中国への意識なのではなかろうか。
14世紀には、沖縄本島に3つの政治勢力が生まれ、大陸に成立した「明王朝」に朝貢しつつ、互いに勢力を争ったが、1429年には統一されて「琉球王国」が成立した。
この琉球王国は、自国民には貿易を禁じていた明に貿易を代行する役割を与えられ、東南アジアや室町時代の日本、朝鮮にに船を送ってさかんに交易をおこなった。
そのため、東南アジアの香料や日本の刀剣などの品ものを朝貢と通じて中国に供給し、おおいに栄えたのである。
この頃に、首里城や石畳の城下町は「金城」(カナグスク)とよばれるようになったに違いない。
ところが本土で東京周辺や軍隊で「キンジョウ」に読み替えられた(もしくは呼ばれていた)人が、その呼び名をもって沖縄に帰ってきて、都会らしい響きをもつ「キンジョウ」とよばれるようになったのではなかろうか。
ところで、琉球の洗練された文化が保存されたのは、日本側の都合にもとずく意外な理由からであった。
1609年、薩摩の島津家は琉球に侵攻し、琉球は徳川幕府から薩摩の領地の一部と認定されたが、他方では中国と日本との関係を取り結ぶため、中国への朝貢を続ける「異国」とも位置づけられた。
そうした微妙な関係の中で、徳川幕府と島津家は、「国内向け」に、日本が「異国を従えているよう」に見せるために琉球を利用したというのである。
琉球の使節が島津家にともなわれて江戸に向かう時は、中国に近い「異国風」の姿をするように求め、そのためもあって日本の内地とはかなり異なる文化が保存・強化されることになったのである。
さて、沖縄出身の「金城(キンジョウ)」という名で思い起こす人がいる。
TV番組「ウルトラマン」の脚本家・金城哲夫(きんじょうてつお)である。
今考えると、この人の名が「キンジョウ」であることの中に、彼の生涯の「悲劇性」が暗示されていたのかもしれない。
金城哲夫は、1938年生まれ。沖縄県島尻郡南風原(はえばる)町出身だが、生まれたのは東京港区の芝で「東京タワー」の麓で生まれたことになる。
金城が手がけた「ウルトラマン」は、金城が幼き日に体験した「沖縄戦」の戦中・戦後の記憶を色濃く映している。
金城の母は1945年3月、南風原の自宅で米軍の機銃掃射に逢い左足を失っている。6歳の金城は母を残し、砲弾をくぐって山中に逃れた。
戦火に追われた沖縄の住人の中には、数多くの者たちが日本軍の「聖戦」の犠牲となった。
そのため金城は主人公たるウルトラマンの「敵」たる怪獣や異性人を、一方的な「悪」として描くようなことはしなかった。
そしてウルトラマンによって、建物や国土を破壊する怪獣や異星人を抹殺するのではなく、宇宙に送り帰した。
その「ウルトラマンシリーズ」は高度成長期の真只中の1960年代の後半に大ヒットした。
その一方で金城らはブラウン管の外の「現実」に苦悩を深めていった。
故郷の米軍基地からは連日、ベトナムの空爆機が飛び立ち、反基地運動と安保闘争が全国で激化していた。
さらには、日本周辺の海域がヘドロの海と化し、公害問題が表面化していた。
1972年に沖縄返還(祖国復帰)が実現したものの、沖縄の住民が求めていた「本土並み」返還は実現しなかった。つまり、沖縄の米軍基地はそのまま残留したのである。
ウルトラマンやセブンが地球を無償で守る構図は、安保体制化で米国と日本、さらには本土と沖縄との姿が下敷きとなっていた。
米国や祖国の正義と善意への無条件の信頼が崩れたとき、金城らはこれ以上書き進めることができなくなり、どこかで「区切り」をつけるべきだという思いを抱くようになる。
そんな金城らの気持ちが反映されたのか、これまで順調に視聴率を上げてきた「ウルトラマンシリーズ」が、大人向けの特撮を目指した1968年製作の作品で低迷し、挽回を図った「怪奇大作戦」で視聴率は回復したものの、スポンサーからの支持はえられず早期打ち切りとなった。
円谷プロは経営状態の悪化に伴い大幅なリストラを敢行し、金城らがいた「文芸部」も廃止された。
そして金城はシナリオライターではなくプロデューサーに専念することを迫られたため、1969年これを機に金城は円谷プロを退社する。
ウルトラマンから離れた金城は、沖縄で復帰を迎え本土と沖縄との「架け橋」になりたいという思いを抱いて故郷へ戻った。
そしてラジオパーソナリティーや沖縄芝居の脚本・演出などで活躍し、1975年開催の「沖縄海洋国際博」の演出を引き受けた。
金城は、これを沖縄を発信する好機会と捉えたが、漁師らから「本土の回し者」とナジられた。
地元では、海洋博は環境破壊と批判されていただけに、金城は沖縄と本土との間で引き裂かれて、酒量はしだいに増えていった。
1976年2月23日、泥酔した状態で自宅2階の仕事場へ直接入ろうと足を滑らせ転落。直ちに病院に搬送されたが、3日後に脳挫傷のために亡くなった。享年37。

小村寿太郎が生まれたのは1855(安政2)年。その2年前、1853(嘉永6)年にはペリー提督の黒船が浦賀に来港し、翌年は日米和親条約、日露和親条約が結ばれました。
小村家は飫肥藩の下級武士で18石取り。町別当(まちべっとう)という役職でした。町別当は農村でいえば庄屋にあたる役職で、飫肥城下の商人町・本町に屋敷を構え、商人たちと親密なつながりを持っていました。
小村家の屋敷内には「客屋(きゃくや)」があり、藩を訪れた客は、まずここに泊まりました。そして、用向きを、小村家から藩へ取り次いでいました。全国地図を作った伊能忠敬も、小村家に泊まったそうです。
小村家は経済面にも明るく、藩外の情報も早く入る、そんな家だったのです。
寿太郎は7人きょうだいの2番目、長男として生まれました。大家族の中で、よく寿太郎の面倒をみていた祖母は、義経や弁慶などの話から武士道を語り、武勇だけではなく心に誠が必要、と繰り返し話して聞かせたといいます。
寿太郎は武士としての教えを学ぶ一方で、常にそろばんを手元に置き、広い農地を持つ叔父の農作業も手伝うなど、商売も農業も身近に接しながら、身分の別のない日々を送っていました。
寿太郎の母・梅子は商家の出身で、そのため小村家は商人とのつながりも深かったのです。
母方の祖父は藩校「振徳堂(しんとくどう)」ができたとき、安井息軒から学んだ人で、藩が飢饉で苦しんだ時にはよそから高い値で米を買い、それを安くで人々に売ったというエピソードもあります。儒学の教えを実行した人でした。
体が小さく病弱だった寿太郎ですが、振徳堂に入学すると8年間無欠席。句読師(教師)の間でも将来を有望視される成績のいい少年でした。しかし、家が貧しいため学費を免除してもらうかわりに、門番や給仕の仕事をしなければなりませんでした。寿太郎は短い時間に人一倍の努力をして勉強を続けました。
振徳堂を卒業する時、寿太郎は進路に迷います。長男であったため父の後を継ぐか、更に学んで儒学者になるか。また6歳年上のおじが戊辰戦争で官軍に派遣されたことから、自らも鼓手(太鼓を叩き兵を鼓舞する役目)として出て行こうかと、あれこれ悩んだようです。
それを導いたのが、安井息軒の三計塾(江戸)にも学んだ小倉処平(おぐらしょへい)でした。振徳堂で教え、寿太郎の才能を高く評価していました。小倉処平は「飫肥の西郷」と呼ばれた人物で、その後も寿太郎を導き、大きな影響を与えます。
その頃、小倉処平は飫肥藩の長崎出張所にいて、そこで佐賀藩の大隈重信が作った英語学校致遠館を見ます。これからは英語が大事と感じた小倉は藩費留学を藩主に進言し、振徳堂で教えた中から何人か選び、長崎で英語を学ぶよう勧めました。
これによって小村寿太郎は長崎へと旅立ちます。父は、これから外国語が大切であると、寿太郎を応援したそうです。
期待に胸を膨らませて長崎に行ったものの英語学校はすでになく、憧れの英語教師フルベッキ先生は新政府に招かれて東京の大学南校へ去った後でした。
しかし寿太郎はくじけることなく『英語独案内』を買って勉強を始めます。長崎には外国人も多かったため、外国人をみつけては英語で話しかけ、体当たりで英語を習得していきました。
翌年、寿太郎は東京の大学南校に貢進生として入学します。
大学南校(東京開成学校 現・東京大学)は、現代の大学と文部科学省が一緒になったようなところで、開設されてまだ1年。全国からエリートが集まっていました。
大藩の出身者が多く、寿太郎のような小藩出身者には狭き門でしたが、ここでも小倉処平が活躍し、藩の規模に応じて入学できるよう政府に「貢進生(こうしんせい)」を進言。これによって入学を果たし、貢進生の中でも優れた50人にも選ばれて官費生(学費を免除される学生)となります。
そこで寿太郎は、5人の学友と留学運動を起こし、政府に建議書などを送り、西洋文明に直接ふれ、国の将来に役立てたいと強く訴えました。その結果、大学南校(現・東京大学)から11名が選ばれ、寿太郎も第1回文部省留学生としてハーバード大学へと留学を果たすのです。
1875(明治8)年、寿太郎はアメリカのハーバード大学法学部に入学します。
寿太郎はここでもずば抜けた記憶力を発揮し、気に入った論文は全て暗唱していました。素晴らしい成績で1877(明治10)年6月に卒業し、さらに1年専修科で学び、弁護士を目指して2年間法律事務所で実務研修をしています。
1880(明治13)年、司法省刑事局に就職し、翌年朝比奈マチと結婚。判事として裁判の仕事をし、4年後英語と法律ができることが決め手となり外務省へ。
しかし、上司を批判したことから翻訳局という閑職に追いやられ、ちょうどその頃父の事業が失敗し、1886(明治19)年小村家は破産。これによって小村家は多くの借金を抱え、寿太郎も苦難の時代でした。
やがて外務大臣・陸奥宗光によって、寿太郎は日本外交の中心人物となっていきます。1893(明治26)年、清国公使館参事官として北京に着任したのが外交の初舞台でした。
外務次官、駐米公使、駐露公使、駐清公使と、次々に大事な役職を経て、1901(明治34)年で外務大臣になり、日本の国際的な地位を確立することを掲げ、1902(明治35)年に世界最強のイギリスと日英同盟を締結しました。
1904(明治37)年日露戦争勃発。日本は超大国ロシア相手によく戦っていましたが、アメリカのルーズベルト大統領が仲介に入り、戦争の終結を図ります。
1906(明治39)年、寿太郎は講和首席全権としてポーツマス市に赴きました。日露講和条約を締結したポーツマス会議です。
そこで寿太郎が国の未来のために選択し、命がけで決断したのは平和でした。戦いは優勢に見えましたが、国の財政は苦しく、これ以上戦争を続けることはできない状態だったのです。
こうして結ばれた日露講和条約は日本に平和をもたらしました。しかし、当時の国民からは「弱腰外交」とののしられ、日比谷焼き討ち事件が起こるなどしました。
寿太郎は一言の弁解もせず、後に飫肥に帰郷した時にこう語っています。「政治の難局に、我が身を忘れ国のために将来を思い、目的通り責任を果たした」。
このとき、ふるさとに帰った寿太郎を2万人の人々が歓迎し、提灯行列などでもてなしました。そして、これからの自分たちがどうすべきかを口々に問いかけたといいます。
1908(明治41)年、寿太郎は桂第二次内閣の外務大臣となり、平和維持と国の発展のため、幕末に結んだ不平等条約の改正に乗り出します。
関税自主権の回復、治外法権の撤廃を求めて米・英・独・仏との条約改正に臨んだ寿太郎は、ここでも見事な外交手腕を見せ、役目を果たします。
当時日本の最大の外交課題といわれた難題が解決したことで、1911(明治44)年日本は事実上の独立国家として認められるようになりました。
その年、寿太郎は『誠の一字』という自叙伝風手記を青少年向けに発表し、「私は人より特に優れたところがあろうとは思わない。もしあるとすれば、それはただ『誠』の一字に尽くされると思う」と書き記しました。
1997(平成9)年、アメリカの大学で発見された『My Autobiography』は、寿太郎が18歳のときに東京開成学校で書いた英文の自叙伝です。寿太郎の記録は意外にも少なく、それは当時の外交上の機密が多く含まれたことから焼き捨てられたと考えられています。
そんな中で発見された『My Autobiography』は、激動する日本政治の混乱や独自の世界観などが、端正な英文でつづられていました。東京開成学校時代の恩師グリフィス先生も、18歳の若者が書いたとは思えない深い内容を絶賛しています。
さかったものの、成績抜群の寿太郎は学生からも尊敬される存在で、寿太郎に会うと、彼らは「いちいち帽子をとって」敬意を表したあいさつをしました。寿太郎は、普段の行いが誠実で一点のごまかしもなく、また法律問題でも筋道の立った議論をしたため「日本人にしては感心だ、ぐらいに思って」くれた結果だろうと、手記『誠の一字』に書いています。
ハーバード大学に留学した時に申請したパスポートによると、身長は156cm。
外交官時代、側近の秘書官から外交官としての心得を教えて欲しいといわれた寿太郎は、即座に「まず『嘘』を吐かぬことです」と答えました。
外交官は相手の信頼を得ることが大事。しかし時には国のために“大ぼら”をふかなくてはならないこともある。「普段から嘘が多い奴は、こんな時に効き目が無くなります」と付け加えました。
906(明治39)年ポーツマス平和条約を締結し、大役を果たした寿太郎は、帰国後県立宮崎中(現・宮崎大宮高校)で講演を行います。その時、寿太郎の講演はたった1分。
「諸君は正直であれ。正直と言うことは何より大切である。」諭すようにこれだけを話すと、寿太郎は演壇を降ります。大国との会議の様子など、雄弁な語りを期待した生徒たちに対して、この短いスピーチは強い印象を残しました。