トランプ壁と竹原壁画

ドナルド・トランプは、ヒラリー・クリントンを破り、まさかの勢いで第45代米国大統領に就任した。そして今、ツイッターでのツブヤキで株が上下するなど、「トランプ現象」なるものが出現している。
本来、アメリカは、移民が自己責任で築いた国、規制を嫌い、効率を重視し、小さい政府で企業の利益を妨げないことを大事にしてきた。
つまりアメリカは、企業が活動しやすい国なのだが、大資本をもつ経済的強者は、その活動のシヤスサを世界に広げるため、米国政府を使って他国の市場をコジアケてきた。
その分かりやすい例が、日米構造協議や環太平洋経済連携協定(TPP)などである。
そして、米国政府の外交力で他国に制度を変えさせ、米国の資本は海外で稼ぎを増やすというシステムが確立した。
ただ、アメリカの大資本が商売をするのをハバムのが、社会主義圏からイスラム原理主義圏に変わったということだ。
アメリカは、政治家は減税に力を入れるが財政赤字は膨らんでいる。その財政の多くが、イスラム国を代表とする新たな敵対勢力への軍事費に注がれ、社会を安定させる「富の再配分」には回らない。
トランプは、「アメリカ・ファースト」のスローガンの下、アメリカのそうした「介入主義」の流れを押しとどめようとしている。
メキシコとの国境に壁をつくり、移民を制限する強攻策を早速実行し始めた。そことが支持された一面でもある。
その背景には、アメリカの白人労働者を中心とする「中間層」の没落がある。
1990年代より、アメリカはモノづくりから金融へと産業の主力が変わる。そこには「冷戦終了」で軍事から解放された最優秀なクゥォンツ達が金融界に流れ込んだことも大きな誘因となった。
製造業は自前で工場など持たず、海外で安い生産者に生産を委託し、特許など知的財産で稼ぐ。
アメリカ国内では雇用は生まれず、職場は機械やコンピュータに置き換わり、雇用の構造は一部の知的職業と、その他大勢の安い労働に分極化している。
大学を出ても安定した仕事を確保するのが難しく、内陸部の工業地帯では白人の工場労働者の職場が脅かされている。
さらには巨大資本や業界などのロビイストが有力政治家と結びつき、社会のルール作りにまで大きな影響を与えている。
アカラサマにいうと、重要法案は企業や業界が雇うロビイストが原案を書き、天井知らずの政治献金で議員への多数工作をする。
その一方で、アメリカは、豊かな国を標榜しながら国民皆保険さえない。金持ちは高い塀を巡らし銃を持った警備員が常駐し、貧乏人を寄せ付けない「分断社会」が広がっている。
そういう貧者には「多数派工作」などというものとは縁がなく、政治的に排除される。
ヒラリークリントンは豊富な選挙資金を集め、有利な戦いと見られていたが、その資金の多くは後に利害が絡む「企業献金」と見られている。夫のビルが設立したクリントン財団が政治献金の受け皿であることはメディアが指摘している。
今度の大統領選は、そうした「エスタブリッシュメント」に対して政治不信を持つ人々が、既存の政治家ではないトランプに期待した結果なのである。

トランプ大統領の手法は、自分に不利な場面にあると、誰かが情報を操作したり偽ニュースを流したという。 クリントンとの選挙戦においても、不法移民の不正な票がながれているとか、クリントンがイスラムに資金提供しているとか、まったく根も葉もない言説を繰り返した。
また、地球温暖化防止条約に対しても、中国の偽情報に踊らされている結果だと嘲笑った。
トランプの手法は、人々の不安をあるターゲットに転化させて分断させ、あたかも自分だけが本当の味方だとして支持を集めるタイプであることが見えてきた。
こうしたトランプの手法を見ながら、アメリカに以前似たような人がいたと思い至った。
その人の名は、1960年代に登場したマッカーシー上院議員。
ヨーロッパ中世の「魔女狩り」が、自由と民主主義を標榜した現代のアメリカにおいても、突然に蘇ったような「マッカーシー旋風」。
マッカーシーは、アメリカの政府内にソ連と通じるスパイがいることを声高に語り、人々を疑心暗鬼にさせ、その分断の中で、多くの人々の「社会的生命の抹殺」どころか実際の命さえも奪った。
これが「魔女狩り」と言われた所以は、「思想調査」の公聴会に出席した際に、共産主義者ではないというだけでなく、仲間の名前を言わなければ、身の潔白を証明することができなかったからだ。
自分が助かりたいばかりに罪のない人の名を告げ、密告を恐れて、古くからの友人同士が口もきかなくなったりした。
あのウォルト・ディズニーでさえも「自由の国アメリカから共産主義をあぶり出すべきだ」と先頭をきったほどだった。
最近、アメリカ・グラミー賞の授賞式で、女優メリルストリープが障害をもつ記者を揶揄したとして「反トランプ」の立場を表明したが、ハリウッド映画界は「表現の世界」に生きる人々だけに、昔から政治に最も敏感な業界だといってよい。
実は、「マッカーシー旋風」の最初のターゲットとなったのが、ハリウッドの映画界であった。
そんな風潮の中、トランプとよく似た名前のトランボという脚本家がヤリダマにあがった。
彼は「証言しない」ことで赤狩りに抵抗したものの、1950年6月、アメリカ最高裁はトランボに実刑判決を下し、トランボは10ヶ月間投獄された。
しかし、トランボは投獄が決まってからも、「架空の名前」で脚本を執筆し続け、トランボが書きあげたのが「ローマの休日」であった。
この映画の舞台設定をローマにしたのは、ハリウッドからローマにいけば自由に映画活動ができるという狙いもあった。
ワイラー監督も、ローマだったら「赤狩り」で追われた人間とも仕事ができるし、自由に新人俳優も入れて、オール・ロケーションで映画を撮れる。内容に注文がついても、「知らなかった」ですまされる。
実は、主役のグレゴリー・ペッグは、赤狩り反対の抗議団体にいち早く参加した俳優であった。
、 ワイラーは信頼できる人物だけをローマに連れて行き、1952年夏 ローマで撮影が開始された。
そして「アン王女」役では、オーディションでオードリー・ヘップバーンを発掘した。
オードリー・ヘップバーンは1925年5月4日ベルギーで生れだが、オランダのファシズム政権下で秘密裏にレジスタンスを支援した少女であった。
「ローマの休日」はヨクヨク考えると、王女と新聞記者が二人とも「ウソ」をつきあっているが、ワイラー監督は、嘘つきが手を入れると手を失うという伝説がある「真実の口」のシーンをとりいれた。
そしてワイラー監督とグレゴリーペックは、オードリーを実際に驚かすために、脚本にないこの名シーンをつくったという。
さて、アメリカのような国でどうして「マッカーシー現象」のようなことが起きたのか。
アメリカは、清教徒(ピューリタン)が、聖書にある「千年王国」の如き理想を目指して、清新(ピュア)な世界から「不純物」を排除するかのように住み着いたのである。
パスカルの言葉に「人は天使でも悪魔でもない。ただ天使のマネゴトとをしようとして悪魔になる」というのがある。
マッカーシー旋風も、長い「悪夢」が続いているようなものだったが、ある時点を境にツキモノが落ちるようにおさまり、マッカーシーは失脚した。
そこには自由の国アメリカの「健全な良識」が働いたということがいえる。

トランプ大統領の手法を見ながら、よく似たタイプの一人の日本人「改革者」を思い浮かべた。
この人物は、小トランプというより「マイクロ・トランプ」とでもいってよいが、全体像を見失った「聞こえのいい改革」がいかなる暴走を生み、いかなる結末を迎えるかを示す「トランプ占い」の絶好の材料を提供してくれる。
鹿児島県の西に位置する阿久根市は日本有数のイワシ漁の拠点で、最盛期には年間75億円を生み出した豊かな町であった。
しかし近年、温暖化のせいか漁獲高の落ち込みとともに、町は一気に沈み込んだ。
そして閉塞感にあえぐ市民は、「官民格差」の解消を訴える一人の男の「改革」に期待を寄せた。
市民の平均年収188万円に対して公務員の年収は633万円という3倍以上の格差があったのだ。
その改革を訴える男とは、市議会議員一期半ばの竹原信一氏(当時49歳)であった。
選挙選で、市の職員や議員たちの給与を大幅にカットし、市民のために予算を使うと公約した。
そして竹原氏の改革は市民の心をつかみ、2008年8月に新市長が誕生した。
、 だが、最初の議会冒頭に、議員定数16人を6人に減らすと公言し、すべての市会議員を唖然とさせた。
そして阿久根市のホームページには、全市議議員の給与を1円単位で表示し、市役所の窓口には官民の「給与格差」を書いた紙を貼り出した。
この竹原氏の経歴は、防衛大学卒業後、航空自衛隊に幹部候補生として入隊するも、1988年に二等空尉で退官している。
帰郷して、実家の親族が経営している地元の小さな会社に就職した。
たまたま、市営住宅の建設を請け負った時に、設計の変更を提案したところ、市の職員は自分達が住むわけでないので変えなくていいと答え、公務員に対する怒りを覚えたのがきっかけだった。
この「怒り」を原点に市議から市長へと立候補するのだが、市長就任当初、山間部の老人の便宜のために、200円タクシーを走らせるなどをして、高齢者の支持を集めた。
一方で、竹原氏の政策は「ゴミ袋半額」に見るように、「思いつき」と批判されることもあった。
ゴミ袋代にはもともと、「ゴミ処理費用」が含まれていたため、ゴミ袋を半額にしたのは良いが、結局、市の財源から年間1千万円近くにもなるゴミ処理代を捻出しなければなり、結局、住民の税金が増すだけの結果となった。
さらに、漁獲高が減少する町で燃料費は高騰しており、そうした課題に対して何の対策も考えられていなかった。
市民の中には市政から置き去りにされていることを感じ、「竹原改革」への疑問を感じる者もいた。
そして市議会は、竹原氏の改革をことごとく否決し、「不信任」をつきつけた。
とはいえ、「竹原氏でなければ何も変えられない」と考える高齢者を中心に、その根強い支持は消えてはいなかった。
そして出直しとなった市長選に立候補して再選を果たし、絶対的な信任を得たと思ってしまったのか、竹原氏の市政は次第にオカシナ方向へと走りだしていく。
一度否決された、議会の定数削減に加えて職員の給与引き下げ、生活保護世帯の市営住宅の賃貸料を無料にすることなどの政策を次々に打ち出した。
またリコール成立後の失職中に、窓口に貼っていた官民の「給与格差」の紙を剥ぎ取った職員を、イキナリ懲戒免職にした。
その後、裁判所はこの免職が無効であり、市長に職員の職場復帰を命じたが、それを無視しつづけた。
そのうち市役所内では、何か言ったならば「首を切られる」という異様にハリツメタな雰囲気につつまれるようになる。
そんな中、市長は市民との「懇親会」と銘打って市民800人を前に、竹原改革に「消極的な」職員を壇上に並べさせ、改革に協力するつもり否かコメントを求めた。
それはあたかも「人民裁判」の様相を呈し、その壇上で職員達は「答えるべきものは何もない」とノーコメントの姿勢を貫き、竹原氏はせいいっぱいの抵抗を示した。
会場は様々な感情が入り乱れる中、裁判所が命じた職員の復帰をなぜ認めないのかという質問に、市長の命令をきかない職員をおいておくことはできないし、裁判所は神様ではないとまで言い放った。
ところで、竹原改革の象徴として「シャッター・アート」(「竹原壁画」)がある。
元気のない商店街に元気を与えるという名目で500万円をかけて、商店街のシャッターすべてに一人の画家に絵を書かせたのである。
街が「竹原一色」に染められようとした中、これがまともな改革といえるかという疑問が次第に渦巻いていった。
そんな中、竹原氏が日々の感情をブツけるようにブログに書いた「一文」が大きな波紋を巻き起こすことになる。
それは、「高度医療のおかげで自然淘汰されていくものや機能障害のものを生き返らせている。結果、養護施設にいくものを増やしている。センチメンタリズムでは社会をつくる責任を果たすことはできない」という一文であった。
全国から「障害者差別」だと抗議が殺到し、県内外の障害者団体が謝罪を市長に要求したが、竹原氏は、謝罪をすればこの問題にふれることはタブーとなり、議論する場がもてなくなると謝罪を拒否した。
こうした抗議運動の中心にいたのが、5歳の障害児を持つ西平良将氏であり、後に竹原氏の「対抗馬」として市長選に立候補する人物である。
連日マスコミも押しかけるようになり、市長室には目隠し用のフィルムが貼られていたが、マスコミがいるかぎり、市長は議会には出席しないと宣言した。
また県知事に呼ばれ事情を聞かれた際には、集まるマスコミに対して、時には撮られる立場にたってみろ、とカメラをかまえながら取材陣を映して歩くことまで行った。
次年度の予算も組めない状況の中で、議会を召集もせず、出席をしない市長に対して、市職員200人が意を決して「議会召集」を直訴したが、市長はそれには一切目を通さずにシュレッダーにかけさせた。
この時、竹原氏にはすでに「ある考え」が芽生えていた。それは日本の地方自治を揺るがす前代未聞のことであった。
地方自治法では、災害などのキワメテ緊急の時に、市長が議会に諮らずに「専決処分」ができるという規定があったのだが、竹原氏は、これを全てに適用できると解釈し実行した。
2010年4月27日、「専決処分」として、市役所前に一枚の紙がはられた。
職員のボーナス半額カット、固定資産税減額、職員報酬を月額制から1日1万円の日給制にするという内容だった。
副市長も勝手にきめ、その後も(注)「専決処分」を繰り返し、合計19件にも達したが、そのほとんどが議会で一度否決されたものであった。
(注:日本の地方自治は、アメリカの大統領制を導入しており、トランプが乱発する「大統領令」とも重なる)。
ひとりの人間が誰の意見も聞かずに物事を決定していたもので、「専決処分」をめぐって議会でもみ合いや乱闘にまで発展して、市民をアキレかえらせた。
そしてついに若者たちが、竹原の「独断政治」に対して立ち上がった。若者50人を中心に「阿久根の将来を考える会」が結成され、竹原市長に対するリコール運動を行った。
リコールは賛成7543、反対7145で僅差で成立し、竹原氏は再び失職したが、次期の市長選(三選)にも出馬することを発表した。
そして前述の西平良将氏が友人達の推しによって、この市長選に立候補し、2011年1月16日が西平氏が勝利し、「竹原旋風」は終わった。
西平氏は、竹原氏の指摘した「問題点」は評価しつつも、その「改革手法」があまりに独善的であったことをあげ、これからは市民との「対話」を重視することを強調した。
阿久根の人々は、およそ840日におよぶ竹原市政の下で、改革を夢見て改革に踊らされた感がある。
阿久根のシャッター街の「竹原壁画」は、新市長誕生とともに白く塗りつぶされた。