それぞれの「戦影」

博多の街には、「冷泉町」という名の町がある。
「冷泉町」は、禍福の十字路のような街である。
そもそも町名の起こりからして、めでたくもまた怪しい。
1222年、博多の漁師の網に人魚がかかった。それがなんと150メートルもある巨大な人魚だった。
人魚が上がったという報告は京都の朝廷に伝えられ、朝廷は「冷泉中納言」という人物を博多に派遣する。
一方、博多の町は人魚が上がったということで大騒ぎになった。
好奇心旺盛な博多っ子のことだから、早速 食べようかとしていた時、冷泉中納言と安倍大富という博士が到着した。
安倍大富がこの人魚について占うと「国家長久の瑞兆なり」つまり、国が末永く続く前兆であると出たため、食べるのはやめて手厚く葬ることに決定した。
古地図には冷泉中納言が宿泊した場所も記されており、しばらくの間ここに滞在したことから、現在の「冷泉町」の名前はこの出来事に由来する。
冷泉中納言が宿泊していた龍宮寺(当時は浮御堂と言っていた)に人魚を運び、塚を作って埋葬した。
その「人魚塚」は現在でも龍宮寺に残っており、希望すれば「人魚の骨」といわれる実物を見ることができる。
博多の街に出現した「人魚=瑞祥」の記憶を町名に秘めた「冷泉町」だが、その冷泉町が太平洋戦争末期における福岡大空襲の「爆心地」となった。
その「グランウンド・ゼロ」の地点は冷泉公園として整備され、園内にはそのことを示す「記念碑」がたっている。
秋の気配漂う10月になると、この冷泉公園にて、「日独交流を記念する祭り」が行われている。
会場には大テントの下にビアガーデンが開かれ、設置されたステージでは音楽や踊りで盛り上がる。
この場所で、「日独交流」のビール祭りが行われているのも、何かの因縁だろうか。
日独の交流の始まりは、幕末の「安政の五か国条約」に少し遅れて1860年に遡るが、冷泉公園で開かれているこのビール祭りは、日独交流150年を記念してミュンヘンのビール祭りにならい始まった。
ドイツ・ミュンヘン市では毎年10月上旬に「オクトーバーフェスト」という名で世界最大のビール祭りが開催されている。
期間中には国内外から約600万人がミュンヘンを訪れ、ドイツビール・ドイツソーセージを楽しみ、ドイツ伝統音楽に乗って歌い踊る。
「西日本日独協会」の下、在福岡ドイツ企業・地元企業・自治体が実行委員会を組織し、ドイツと福岡のの交流促進のために開催することになったのもので、正式には「福岡オクトーバーフェスト」よばれるものである。
ちなみに、冷泉町に隣接する西中洲には、かつて「大博劇場」という映画館があった。
この大博劇場こそは、ドイツ生まれのユダヤで天才物理学者・アインシュタインが1922年に福岡て講演を行った場所である。
ユダヤ人迫害を逃れアメリカに移住したアシンシュタインは、結果として原爆製造の「マンハッタン計画」の一翼を担うことになる。
太平洋戦争末期にアメリカは日本の大都市(福岡を含む)をことごとく空襲によって破壊し、その最後の仕上げが広島・長崎の原子爆弾であった。
アインシュタインは、原爆はドイツに対抗して開発されたが、それが日本で使用されたことにつき、痛恨の思いを湯川秀樹に明かしている。
原子爆弾投下の約2ヶ月前の「福岡大空襲」の爆心地・冷泉公園で、第二次世界大戦で同盟を組んだ日本人とドイツ人が「ビール祭り」で友誼を深めているのも、「禍福」入り混じる冷泉町らしい。

日本の高度経済成長のただ中、映画「無責任」シリーズで一世を風議したのが植木等であった。
調子のよさそうな男が、厳しい状況下の人々の前に現れ「およびでないっ?およびでない。こりゃまた、失礼しました!」とチャカす。
植木が演じたのは、閉塞した空間を一瞬にして破壊し、チャラにしてしまう「無責任男」。
しかし植木の実像は、細やかな気配りをする人物であったそうだ。
植木の父は三重県の浄土真宗・常念寺の住職で、幼少時代から僧侶の修行に励んでいたが、音楽青年だったことから東洋大学卒業後、1957年にハナ肇が結成した「クレイジーキャッツ」に参加した。
クレイジーのメンバーと出演したバラエティ番組「シャボン玉ホリデー」では「お呼びでない」など数多くのギャグを大流行させ、また1961年には、青島幸男作詞の「スーダラ節」が大ヒットした。
この植木の「付け人」だったのが、博多出身の小松政雄である。
実は、冷泉公園と通りをはさんで隣接しているのが、博多山笠や「博多っ子純情」の舞台として有名な「櫛田神社」で、この神社のすぐ裏手に自宅があった。
小松は7人兄妹の5番目として育った。実父は地元の実業家で名士だったが、早くして病死。以後、小松の家族は貧窮を極めた。
小松は、1942年生まれだから福岡大空襲においてはほぼ「爆心地」付近で遭遇していることになる。
少年時代の小松は自宅前の「焼け跡」で行われていた露天商の口上をよく見聞しており、サクラがいるのを知っていたという。
コメディアンの小松政雄の原点は、遊び場とした冷泉・川端あたりの露天商や大道芸人の芸や口調から、自然と身についたその芸にある。
そこから生まれた芸が、一時宴会などで使われた「電線音頭」ではなかろうか。
福岡高等学校・定時制を卒業し、1961年に俳優を目指し上京した。
魚河岸などさまざまな職業を経験し、横浜トヨペットのセールスマン時代には相当な収入を得たという。
しかし目指すは芸能界、何のツテもなかったが、公募により100人を超える希望者の中から選ばれ、憧れの植木等の「付け人兼運転手」となり、そのことが嬉しくて仕方がなくて誰かれとなく吹聴し、その後芸能界入りを果たす。
小松は帰福すると、国体道路に面した「かろのうろん」でゴボウ天うどんを食べるのが常で、テレビ取材の際に「少年時代の味」そのままだと語っている。

シンガーソングライター兼俳優の福山雅治は長崎生まれで、戦争の影が付きまとっている。
華やかな芸能活動とその影を重ねると、「禍福の十字架」を背負っているといえるかもしれない。
福山は、小学校の五、六年生の頃から新聞配達のアルバイトをしていて、将来は音楽の先生になりたかったようだが、家庭の事情で進学をあきらめた。
福山は、長崎の工業高校時代に兄とバンドを組んで音楽活動をはじめいつしかミュ-ジシャンに憧れるようになる。
福山はギター、兄はドラムを敲いていた。
そんな福山は、意外なことに茶道部に所属していたそうだが、その理由はお菓子が食べられるという単純なものだった。
福山はバスで学校に通っていたが、近くの女子高生のファンクラブができて「バス停の君」といわれていた。ちなみに、自分は通学時において「バス停の隅」にいました。
兄は自衛隊に就職し、福山も高校卒業後地元で電機会社で数か月働いたが、あまり仕事には身が入らなかったという。
そのうちミュ-ジシャンを目指して上京する決意をするが、さすがにミュ-ジシャンになるとはいえず「古着屋」になると言って上京したという。
福山がデビュー時のオーデションで歌った歌が泉谷しげるの「春夏秋冬」である。
あの歌の歌詞に「♪季節のない街に生まれ、風のない丘に育ち 夢のない家をでて 愛のない人に会う♪」といったフレーズがあるが、当時の福山の心境を物語っているようにも想像する。
福山はある面接で、特技を聞かれた際に「材木担ぎ」と答えた。
福生で生活していた時にピザ屋の配達、日雇いの運送屋のアルバイトそして材木屋でアルバイトをしていた。
福山は、ミュージシャンをめざし上京しはじめて東京で生活をした町が昭島市の福生である。
福生といえば横田基地の町で、村上龍の芥川賞受賞作「限りなく透明に近いブル-」の舞台となった町だ。
ライブ活動をしながら1988年にあるオーディションに合格し、俳優デビューしている。
1993年フジテレビ系ドラマ「ひとつ屋根の下で」で人気に火がつき、歌手としてもブレイクした。
そんな福山が2009年8月のラジオ番組で、自ら「被爆者2世」であることを告白している。
番組の中で福山は、「父親はもろに被爆しました。母親 も厳密に言うと被爆してる。だから僕は被爆2世ということになる」。

広島生まれの実力派シンガーの高橋真梨子も戦争の「影」を背負っている。
父・森岡月夫は広島鉄道局、母・髙橋千鶴子は広島市内銀行に、それぞれ勤務時、原子爆弾に被爆している。
父は国鉄務めの傍ら鉄道局のブラスバンドでサックス奏者として活躍していた。
このブラスバンドが母親の働くダンスホールなどにも出演していた。
これが、出会いとなり結婚し高橋が生まれた。
父方の実家において祖父が内務省の役人を勤めた堅い家柄で、三人兄弟の仲で音楽にのめりこむような人間は父ひとりだったそうだ。
父親は元々手先が器用で、時計やラジオを分解して組み立てたり、カメラをやれば暗室を作って現像まで自分でやるようなタイプであった。
耳がよかった彼はジャズプレーヤーとして精進の傍らピアノの調律まで手がけていた。
戦後、父はプロのジャズクラリネット奏者として広島市内のクラブで働いたが、被爆が原因で長らく後遺症に苦しんだ。
そして父の音楽活動を阻んだ脱疽という不治の病で、血流障害が循環不全を起こし生体組織を死滅させる恐ろしい病気。
近年は糖尿病に起因することが多いが、被爆との関連などはいまだ明確にはされていない。
朝鮮戦争時、米軍基地が多くジャズが盛んでな福岡に移り、まもなく当時1歳だった真梨子も母に連れられて博多に転居した。
そして、父は両足を失い、痛み止めのモルヒネを毎日打たないと耐えらえない状況で、母は生活費とモルヒネを買うために働き続けていた。
そんな生活に消耗する母と父はケンカの毎日だったという。
高橋真梨子の「フレンズ」の歌詞の中にそんな様子を表現したような箇所がある。
母はクラブのホステスなどをしながら家計を支えたが、父親は、妻の稼ぎで糊口を凌ぐことが耐えられなかったに違いない。
高橋が幼い二三歳のときに父の方から家を出て、小学校3年の時に父母の正式に離婚した。
そして真梨子は、母親の「髙橋」姓となる。父は広島に戻り、被爆の後遺症に苦しんだのち39歳でなくなった。
この時、高橋は17歳の時の多感な時であったが、母は福岡市内でバーをやりながら娘を育てた。
若い頃の高橋には、父と別れた母の姿が許せず、新しい父の存在によって、自分を第一に考えてくれない母を恨んだ。
母を憎み、新い父を嫌い、早くから才能を見せ始めた歌で辛うじて自分を保っていたという。
地元のコンクールに出場して優勝しその歌声が評判となり、「ペドロ&カプリシャス」のボーカルになる。
そこで、後にかけがえのない伴侶となるヘンリー広瀬と出会っている。
高橋も後年、ウツ病を体験するなかで、夫のかけがえなさを知るにつれ、母親の孤独を理解できるようになったという。
その母をコンサートに招待すると、母で一番好きな曲「フレンズ」の、涙を流して聞いていた。
母にガンが見つかってからは、病室でよく語りあうようになったが、母はしばらくして亡くなっている。

日本では太平洋戦争が近づくにつれ、ジャズ演奏の場が相次いで閉鎖され、ジャズメン達は心おきなくジャズ演奏ができる土地を探した。
それが上海で、アングラ女優・吉田日出子のハマリ役となった「上海バンスキング」は、そんな時代の男女の姿を描いた劇である。
「バンスキング」とは1930年代後半から40年代前半にかけ、上海に渡った日本人ジャズ・ミュージシャンの総称で、「前借王」という意味である。
上海に渡った興行主から楽器の購入や生活のために報酬を「前借り」していたことに由来している。
終戦後、上海からの帰国船の「第一寄港地」が門司港だったことが縁で、バンスキングの一部が門司にとどまり、今日なお門司港レトロの店ではジャズの音色が響いている。
「ジャズの街」門司はこうして生まれたのである。
さて、門司に近い小倉には戦争中に軍港があり、米軍は原子爆弾を投下する予定であったが、天候が悪く長崎投下に急遽変更したという経緯がある。
松本清張は占領時、朝鮮戦争に転任予定の黒人米兵が集団(300人)で小倉で強姦・略奪・殺人等を行った実際の事件を題材に「黒地の絵」を書いている。
1951年正月、米軍が38度線を越えてきた中共軍のため、再びソウルを放棄したことを伝えた。
小倉に増派された黒人兵達は、いつも自分達が戦争では最前線に立たされているということをよく知っていた。
「黒地の絵」の中には小倉祇園太鼓の響きと追い詰められた黒人の精神状態について、次のように描かれている。
「彼らが到着した日も、小倉の街に太鼓の音は聞かれていた。
黒人兵たちは不安にふるえる胸で、その打楽器音に耳を傾けていた。音は深い森の奥から打ち鳴らす未開人の祭典舞踏の太鼓に似通っていた。
黒人兵士たちは恍惚として太鼓の音を聞いていた。彼らは鼻孔を広げて、荒い息遣いをはじめていた」。
事件当時は国連軍が連戦連敗の劣勢で、黒人達は危険な戦場に送られる恐怖と自暴自棄に陥り、それが脱走・強奪につながったと推測される。
実際に生き残った逮捕者は朝鮮半島の激戦地に送られ、ほとんどが戦死したという。
大事件ではあったが、当時の日本がGHQの占領下であったことから、「情報規制」のためほとんど報道されず、被害の詳細は今でもわかっていない。
草刈の父親はアメリカ軍の兵士であったが、日本人の16母親が草刈を妊娠していた最中、朝鮮戦争で戦死した。
草刈が生まれる前のことであり、母子は四畳半一間の生活を身を寄せるように送った。
貧しい家計を少しでも楽にしようと小学生より新聞配達と牛乳配達の仕事を掛け持ちして登校した。少年時代は現在の小倉北区昭和町あたりで過ごし、「小倉祇園太鼓」にも参加している。
中学卒業後は本のセールスマンとして働きながら小倉西高等学校定時制に通い、軟式野球部のピッチャーとして全国大会に(控えとして)出場している。
たまたま出会ったバーのマスターの強い勧めもあり、福岡市で開催されたファッションショーを観に行った際スにカウトされ、17歳で高校を中退し上京した。
1970年に資生堂専属モデルとしてデビューし売れっ子モデルとなった。
草刈は、つらかった故郷のことを忘れようと小倉との繋がりを失っていたが、近年、自分の土台はふるさと小倉にありとようやく気づき、地元の祗園太鼓の舞台にも積極的に参加するようになった。
そして朝鮮戦争で戦没した国連軍兵士を祀る「メモリアルクロス」のある足立山から小倉の眺めを楽しむのだという。

、この場所が現在の龍宮寺であると言われていている。