宿場町の「怪人」

黒田藩と「目薬」との関わりは深い。スケールは異なるが、ローマ帝国がメディチ家(メディソンの語源)という医薬品を扱った家の財力で支えられたのを連想させる。
黒田藩はもともと、琵琶湖畔・賤ヶ岳近くの木の本町あたりに「源流」があったが、軍令にそむき近江を追われ(岡山)の備前長船に一旦落ち着く。
備前長船の地は刀鍛冶が多く目を病む者が多く「目薬」を作って売っていた。
富を得た黒田氏は、ある種商人的発想で近燐の地侍や小豪族達を家臣に組み込んでいく。
そして備前福岡に移り一党を担って播磨に進出するのである。
黒田官兵衛(如水)の時代に、関が原の戦いでの功績により黒田家は九州北部の豊前にはいる。
豊前中津は後に藩医に前野良沢がでて幕末には洋学が発展した土地柄で、福沢諭吉の生誕地であることで知られる。
そして官兵衛の子・黒田長政の時代に中津から福岡にきた黒田藩は、高場順世をはじめとする眼科の名医に恵まれたのである。
天正期、日本で最初の医学校を開いたのはポルトガルの外科医ルイス・アルメイダである。
彼は晩年天草に住んだため、天草には古くからポルトガル系の治療法が伝わり、高場順世もその系列に属していた。
高場順世は、その後牢人の身としてさすらい、現在の福岡県粕屋郡須恵村に落ち着き眼科医を開業した。
高場順世の門下生・田原順貞、高場正節らが独立し、その医術を子孫に伝えていったのである。
というわけで須恵村は「眼療宿場」として栄え、目薬の里として世に知られるようになった。
眼医者では洗眼・点眼を繰り返し時には簡単な手術もおこなった。
効果を確かめるために、最低75日の滞在が要求されたために、「宿屋」が必要とされたのである。
村人が眼病人宿屋を兼ね、またある者は目薬の製造販売を行ったのである。
最盛期には、59軒の宿ができて人々は宿屋稼業・目薬販売・行商と忙しく働いた。
田原眼科の人気は高場眼科に優り、参勤交代の折に藩主に同行する機会が増えると、江戸で大名家に招かれて治療したためにその名声は全国に広がった。
今現在、須恵町に行ってみると、「田原眼科屋敷跡」の石碑が建っている。
石碑には田原眼科が江戸後期において大眼科であったこと、上須恵町が眼療宿場として繁栄したことが書かれてある。
その一方で、高場正節は藩医・岡家の名取養子となり「高場眼科中興の祖」とよばれている。
さて、JR博多駅近くの全日空ホテルのほぼ向かいあたりは「人参畑」があった。
福岡藩で厳重な監視の下、高麗人参を栽培していた場所で、こには江戸末期に興志社、通称「人参畑塾」という私塾があった。
この私塾を興した女傑・高場乱(たかばおさむ)は高場正節の三男・正山の娘にあたる眼科医で、玄洋社につらなる人材を多くこの私塾で育てた。
高場眼科は上須恵町から博多の町に進出し、櫛田神社から萬行寺に面する道に面してあったが、玄洋社社主・頭山満が高場乱に出会ったのは「眼の治療」のためであったといわれている。
高場家や田原家など、福岡における眼医者の繁栄もまた、日本近代史を「綾なす」ひとこまである。

日本の近現代史において教科書に載らない「キーパーソン」をあげるならば、そのナンバーワンは杉山茂丸という人物ではなかろうか。
福岡を拠点に中央政界を動かし、朝鮮や中国に対しても「奇策」を講じた杉山は、黒田藩・士族に生まれた。
1873年、西郷隆盛による士族の反乱・西南戦争に呼応して、福岡でも「福岡の変」が起きるが、14歳の茂丸もこれに参加した。
決起した福岡士族約500名のうち54名が戦死し457名が刑に処された。この時、杉山は未成年ということで無罪放免されたものの、一家は筑前山家(いまの筑紫野市)に移転した。
ところで「福岡の変」の首謀者とみなされた武部小四郎の辞世は、いまも福岡市の平尾霊園の「魂の碑」としてのこっている。
杉山の息子・夢野久作は、少年達は、武部が弾圧され検挙され叫んだことを忘れてはおらず、その絶叫が中央政府とは異なる路線を歩む玄洋社を生むこととなった。
杉山は21歳のころ伊藤博文暗殺計画をいだき、伊藤邸に忍び込むが不在のため、暗殺を断念した経緯がある。そうした杉山の考えを転換したのは、頭山満との運命的な出会いがあった。
明治17、8年の頃、まだ22歳であった杉山は、31歳になっていた玄洋社の頭山に向かって、「薩長藩閥憎し」の気持ちをぶつけようとした。
しかし頭山は、行動に駆り立てる情熱は、その場しのぎではなく、奥深い所から発せらべきこととして「沈思」の大切さ説く。
さらに九州を「アジアの窓口」にすることを説き、杉山はアジアを視野におさめた郷里「福岡の開発」の意義に目覚める。
実際、1883年に鉄道敷設の声が上がったものの進展しておらず、杉山は郷里・福岡の開発の先鞭として鉄道敷設を行おうとした。
そこで、杉山が最初にとりかかったのが、伊藤博文に顔のきく安場保和を福岡県令に迎えることだった。
安場は熊本細川家臣で、横井小楠門下で開国派に転じて以来、神風連に睨まれ、それ以後、大久保利通の庇護を受けている。
杉山は、東京芝の宿屋で安場と会い福岡県令になって欲しいと懇願し、最初は乗り気ではなかった安場を説き伏せている。この時の様子は尾崎士郎の小説「風粛々」に描かれている。
博多駅に近い出来町公園には、「九州鉄道発祥の地」と刻まれた3mばかりの鉄道の車輪のオブジェがあるが、これは杉山の「遺構」といっても過言ではない。
反対に、筑豊炭田を玄洋社の「資金源」とする方法を頭山に教えたのは杉山の方で、玄洋社は次々と筑豊炭田を買収していく。
日清戦争後の「三国干渉」で、遼東半島を中国に返したものの、政府内部では、その遼東半島を支配しようとするロシアに対する「主戦論」と、世界最強の陸軍を誇るロシアとの戦いを避け外交努力で事態を打開しようという「慎重論」に分かれていた。
前者が桂太郎・井上馨・山県有朋らで、後者が伊藤博文や井上馨らのグループで、実は杉山は、外交努力に固執する伊藤に見切りをつけ、山県サイドにに乗り換えていた。
ちなみに「主戦論」というと侵略者のような印象を受けるが、当時の実情に即して言えば、ロシアの圧力に対して、座して死すか、戦って死すかという悲壮な覚悟をもって唱えられたということを付言しておこう。
また、日露戦争の「外債募集」といえば、教科書的には高橋是清を思い浮かべるが、実はもうひとり、伊藤博文が「外債募集」を任せたのが、杉山茂丸である。
杉山は、徒手空拳の身でありながら、「外資導入」のために金融王・モルガンを動かして、日本興業銀行の創設を献策したり、日露戦争後は児玉の依頼で満州鉄道創設の立案をし、後藤新平を総裁にすることなどもお膳立てした。
さらに「日英同盟」といえば、教科書的には首相の桂太郎や外相の小村寿太郎であるが、それの陰の「立役者」こそが、杉山茂丸である。
杉山茂丸は山県に日露開戦にあたってイギリスの助けを求めるために、「日英同盟」が必要と訴え、首相の桂太郎もそれに同調し、「日英同盟」を認めた。
しかし日本からイギリスに同盟を申し出ることで、大きな代価を支払う必要が出ることを心配していた。
ここで杉山が「策士ぶり」を発揮する。
杉山は桂に「日本から同盟を申し込めば、戦争に勝った以上にイギリスからとられるでしょう。ですからどうしてもイギリスから日本に同盟を申し込ませる必要があります。それには伊藤公をロシアに向かわせ日露同盟論を説かせるのです。そうすればイギリスの方から日英同盟を申しこんでくると思います」と説く。
伊藤をつかってイギリスの危機感を煽って同盟を結ばせるというものだった。実際に1912年、伊藤が日露交渉で日本を留守にしている間に、日英同盟が結ばれるのである。
また、八幡製鉄所の北九州誘致において杉山の奮闘は、教科書には登場しない。
第一次松方内閣で第二回帝国議会に「製鉄所設置案」は提出されており、4000万円を超える設立予算が通っていた。
日清戦争後の第二次松方内閣で、杉山は知人のアメリカ人モールスより、資本主義を学ぶならアメリカの工業資本を手本にしたらよいというアドバイスをうける。
その件を渡米経験のある金子堅太郎に話したところ、金子も賛成しモールスの紹介状をもってアメリカ各地の鉄鋼会社や貿易会社を視察する。
帰国後、農商務大臣を辞めたばかりの榎本武揚を招き、日本にも近代的な製鉄所が必要であると杉山は力説し、計画は実際に動き出したた。
杉山はそれ以外にも、よくゾここまでと思われるビジョンを次々提示し、自らもそれに参加している。その点では坂本龍馬にも似ている。
「日英同盟」締結で政治生命を失ったかに思えた伊藤博文に、杉山は立憲政友会の設立資金をポンと出し、その第四次伊藤内閣において、伊藤に警視総監にならないかと打診されるが、杉山は「野武士」でいることが一番よいと応じなかった。
今なら地検かマスコミに叩かれただろうことを平然と豪胆に実行していった杉山茂丸について、人々は国粋主義者、アジア主義者、政商、フィクサー、ホラ吹き男まで様々な評価を下す。
しかし、ただ一点、杉山が我が身をかえりみず、「国事」のために奔走したといえそうだ。
個人的には、杉山は政界の最重要人物・伊藤博文を「影で操っていた」という印象さえある。
その杉山家(杉山茂丸→夢野久作→杉山龍丸)は、もともと黒田藩の「馬廻り組」で、代々長崎街道「原田宿」において代官をつとめた家柄である。

JR九州の「教育大学駅前」には、依然として赤間宿の家並みが残っている。出光佐三は、1885年に福岡県宗像の「赤間宿」で生まれたが、その宿場の並びに出光佐三の生家が残っている。昔は大きな藍染屋で、馬車を止めるために、街道から少しひっこんでいる。
出光は、福岡市呉服町あたりにあった福岡商業から神戸高商にすすむが、門司にあった石油を扱う零細な商会に就職し、そこで大きな志を秘めながら商人道を学んだ。
その後知人より「天祐」のような資金を得て独立するが、陸の石油販売店網はエリアが仕切られており佐三が入りこむ余地は少なかった。
そこで海上にでてポンポン船にコストが安い軽油を補給した。当時、元売りの日本石油の門司の特約店は対岸の下関では商売をしないという協定があったが、出光は、伝馬船(手漕ぎ船)を使って、海の上で軽油を納品した。
日本石油の下関支店に出光商会を何とかしろという抗議が殺到したが、この気骨ある若い男の芽を摘んではならないという支持者も現れ黙認された。
そのうち、出光商会の伝馬船は「海賊」と呼ばれ、関門海峡を暴れまくった。
また出光発展の原因として「オーダー油」の発想があった。それまで機械油は、親会社のものをそのまま納めていたが、石油の研究をしていた佐三は使用する機械に応じて微妙に配合を変えたのである。こういう「オーダー油」の発想は藍問屋であった佐三の「家業」と無縁ではないであろう。
出光の父が藍玉を収めるのに注文主の織物の種類によって匙加減を変えていたのが「オーダー石油」の発想につながったのかもしれない。
そのうち、第1次世界大戦が始まる。日本は、日英同盟を根拠に、ドイツの租借地・青島(チンタオ)を占領した。
出光は、当時満州に進出していた日本軍の満州鉄道の車軸の油に注目していた。
満州で利用されていたアメリカ製の油は、気温が低い満州では適合せずに、鉄道はしばしば立ち往生していたが、出光がおさめた油によってそうした列車の停滞はほとんど起こらなくなくなっていった。
そして出光は、東洋最大の会社「南満州鉄道」で、アメリカのスタンダード石油のシェアを奪う。
その後、アメリカが石油の日本への輸出を禁止し、窮地に陥った日本は、東南アジアの油田地帯を占領するため、米英に宣戦布告。
日本石油や日本鉱業など4社の石油部門が統合され、国策会社「帝国石油」が誕生した。
日本の石油政策は国策化され、敗戦により、佐三は、海外の資産を全てを失い、膨大な借金だけが残った。
仕事は皆無という状態でも、ひとりの社員も解雇せず、出光商会のことよりも国家のことを第一に考えよと語った。
、 いわれのない罪状で公職追放を言い渡されたときは、「君らは神を信じるというが、その神に恥じることはないのか」と怒鳴りつける。
係官は「パージを受けて、抗議に来た者は、あなたがはじめてだ」と告げ、逆に敬意を表するようになった。
出光は官僚的な石油配給公団や、旧体質の石油業界に反発しながら、タンクを購入し、タンカーを建造する。
日本の石油会社は屈辱的条件で外資の傘下に入り生き残りを始めていたが、出光は、外資が入っていない「民族資本」の出光商会がなくなれば、日本の石油業界は外国に支配されるという危機感があった。
やがて、朝鮮戦争が勃発。日本はアメリカ軍の補給基地化となり、また反共の防波堤として、日本に製油所施設や精錬能力が必要とされるようになった。
そんな時、出光のもとに「イランの石油を買わないか」という申し出が舞い込んだ。
1950年代に、イラン国民の間で、「イランの油田を国有化する」という運動が起こり、イランの政治家・モサデクを委員長とする「石油委員会」が、議会にイランが悲惨な状況から抜け出すには石油国営化しかないと答申し、議会は石油国有化を可決した。
利権を失ったイギリスの国営会社アングロ・イラニアンは猛反発し、イランの原油を積んだイタリアのタンカーを拿捕。さらにイギリスは、「イランの石油を購入した船に対して、イギリス政府はあらゆる手段を用いる」と宣言した。
「セブン・シスターズ」を中心とする国際石油カルテルも、「イランの石油を輸送するタンカーを提供した船会社とは、今後、傭船契約を結ばない」という通告を発布する。
モサデクが首相となると、イランにタンカーを送る会社はもはやなくなった。
出光は「イランの苦しみは、わが出光商会の苦しみでもある。イラン国民は今、塗炭の苦しみに耐えながら、タンカーが来るのを一日千秋の思いで、祈るように待っている。これを行うのが日本人である。そして、わが出光商会に課せられた使命である」と重役会議で宣言する。
イギリス軍をはじめ、アメリカのメジャー、日本政府など、あらゆる方面に秘密が漏れないようにし、所有するタンカー日章丸をイランへ向けて出港させた。
日章丸の行き先は船長にしか伝えられずに極秘のうちにすすめられ、イランの港に巨大タンカーを横づけした出光佐三は世界をアッと言わせた。
出光佐三は、神戸高商の水島教授の「金の亡者になるなかれ」という言葉を肝に銘じ、内池教授の「今後、商人は不要になる。従来の投機的な問屋的商人はいらなくなる」という教えを胸に、生産者と消費者の商品の円滑な流通を使命とした。
以上まとめて、「須惠眼病宿場」の高場乱、「原田宿」の杉山茂丸、「赤間宿」の出光佐三と、福岡の宿場町には「怪人」が潜んでいた。  

鉄道敷設においてなしたことが大きい。1883年に鉄道敷設の声が上がったものの進展しておらず、杉山は郷里・福岡の開発の先鞭として鉄道敷設を行おうとした。
そこで、杉山が最初にとりかかったのが、伊藤博文に顔の効く安場保和を福岡県令に迎えることだった。安場は熊本細川家臣で、横井小楠門下で開国派に転じて以来、神風連に睨まれ、それ以後、大久保の庇護を受けている。杉山は、芝の宿屋で安場と会い福岡県令になって欲しいと懇願し、最初は乗り気ではなかったものの、説き伏せている。この時の話は尾崎士郎の小説「風粛々」に描かれているという。
安場が福岡県令になると、九州鉄道の敷設は一気に進捗していった。明治19年に「民設」が認可され、明治21年には九州鉄道株式会社が設立された。こうして1年後、九州初めての「博多-千歳川」間に蒸気機関車が走るのである。この最初の蒸気機関車の光景を北九州人は忘れてはいけない。
福岡の開発は、アジアを統一するという視野から新国家を形成するべきだという大望を抱いたのだ。
そこで頭山は茂丸にいくつかの指針を暗示した。そのひとつは福岡を開発することだった。頭山は九州に鉄道を敷き、海軍予備炭として封鎖されていた筑豊炭田を開発して、炭鉱運営を通して玄洋社の資金を潤沢にし、これをアジアや日本の建設にあてようというシナリオを考えていた。
安場は細川家の家臣の家に生まれて横井小楠(1196夜)の門下に入ると開明派として鳴らし、大久保利通に気にいられていたエリートの一人だが、岩倉欧米使節団に入っていながらも途中で嫌になって帰ってくるような日本主義者でもあった。
杉山茂丸の骨は夫人の骨と一緒に静かにぶらさがっていた。東大本郷の医学部本館の3階の標本室である。
そこには漱石の脳など、近代日本を象徴する数々の日本人の“標本”が展示されている。
そこに杉山茂丸は自分の体をまるごと提供した。「死体国有論」を唱えた杉山の遺言による。