ジャズ育ち

「あの男、ジャズをやっているに違いない」という予想が、「タモリ発見」につながる。
きっかけは、ジャズ・ピアニストの山下洋輔との出会い。1972年、タモリが大分県日田市のボウリング場支配人だった時に始まる。
当時の山下は、ライブ後ホテルで乱痴気騒ぎをすることを常としており、渡辺貞夫のツアーメンバーの1人として福岡を訪れた際も同様であった。
サックス奏者の中村誠一が部屋にあったゴミ箱を頭にかぶり、メンバーで歌舞伎の踊りや狂言など「虚無僧」ごっこをして遊んでいた。
タモリは、渡辺貞夫のマネージャーと学生時代の友人同士であったために同じホテルで飲んでいたところ、廊下まで響くその騒ぎを聞きつけ、鍵の開いていた部屋へと乱入し、ゴミ箱を取り上げて自ら歌舞伎を踊り始めた。
中村は、その非礼をインチキ朝鮮語でなじったところ、タモリがそれより上手なインチキ中国語で返答したために、中村は笑いがトマラなくなってしまった。
タモリはひととおり騒いだ後、「虚無僧」のごとくその場を去るが、メンバーは「あの男」のことが忘れられない。
「あの男、ジャズをやっているに違いない」と確信した山下らが、博多のジャズバーに片っ端から問い合わせた結果、とあるジャズバーで発見された。
その後、山下洋輔、森山威男、坂田明らによって結成された「森田を呼ぶ会」のカンパによって、1975年6月に上京を果たす。
新宿のバーでのリクエストに応じた即興芸は全員を感動させ、そのひとりの赤塚不二夫は、「この男を博多に帰してはいけない」と引き留め、自らの家に「高級居候」させた。
さて、この「タモリ発見」の記念すべき場所となったホテルが、西鉄薬院駅に近い「タカクラホテル」で、タモりが常連となっていたジャズバーが、中洲川端の「リバーサイド」である。
ところで、福岡においてその歴史からみて「ジャズの本場」といえる場所は博多ではなく、門司の方である。
1938年、日中戦争が勃発し、日本は急激に戦時色が濃くなってゆき、ジャズ演奏の場が相次いで閉鎖された。日本のジャズメンにとって、彼ら心置きなくジャズ演奏ができる土地を探した。
そして、ジャズメンの多くは上海に生活の糧を求めて渡っていった。
アングラ女優・吉田日出子のハマリ役となった「上海バンスキング」は、そんな時代の男女の姿を描いた劇である。
「バンスキング」とは1930年代後半から40年代前半にかけ、上海に渡った日本人ジャズ・ミュージシャンの総称である。
「バンスキング」の「バンス」とは英語の"advance"の「前へ」という意味で、「前借王」という意味である。上海に渡った興行主から楽器の購入や生活のために報酬を「前借り」していたことに由来している。
終戦後、上海からの帰国船の「第一寄港地」が門司港だったことが縁で、バンスキングの一部が門司にとどまり、今日なお門司港レトロの多くの店ではジャズの音色が響いている。
ところで「上海バイスキング」が演奏する舞台に、アメリカ生まれのティーブ釜萢(かまやつ)という男が加わっていた。
ティーブ釜萢は、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス生まれのジャズ・ミュージシャン兼シンガーで、日本のジャズの「草分け的」な存在である。
日系アメリカ人ニ世として、洋服店を営む日本人の両親のもとロサンゼルス近郊で生まれた。
このティーブ釜萢と「奇縁」で結ばれたのが、同じ時期にサンフランシスコで育った森山久である。
アメリカへと移民として渡って行った森山祖父は写真術を学びサンフランシスコで「写真屋」を始めた。
彼らは中国大陸における日米の利害対立に発する日系移民に対する「排斥」の機運を身に感じつつ生きていった。
そして1929年の大恐慌は彼らの運命をも大きく転じていった。
アメリカで日系人が職につく機会が極めて限られていたために、日本でジャズをやればカネになるという話があり、1933年、釜萢は日本に渡り、その翌年には森山も日本に渡った。
ティーブ釜萢は、戦前より東京をベースにジャズシンガーとして活躍していた淡谷のり子のバックバンドに加わった。
淡谷のり子が日中戦争が勃発した1937年に「別れのブルース」が大ヒットし、スターダムへ登りつめていた。
ブルースの情感を出すために吹込み前の晩酒・タバコを呷り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌い、数々の曲を世に送り出した。
そして戦時下、「モンペなんかはいて歌っても誰も喜ばない」「化粧やドレスは贅沢ではなく、歌手にとっての戦闘服」といった、当時としては問題発言をしつつ慰問活動を行った。
その後の第二次世界大戦中には、禁止されていたパーマをかけ、ドレスに身を包み、死地に赴く兵士たちの心を歌で慰め送っていった。
淡谷氏の慰問中に行った数々の非行行為は、積み重なった「始末書」の厚みで知ることができる。
例えば、英米人の捕虜がいる場面では日本兵に背をむけ、彼等に向かい敢えて英語で歌唱する、恋愛物を多く取り上げるといった行動および発言で「始末書」を書かせられる羽目になり、それが積み重なってヤマとなった。
そのバックで演奏していたティーブ釜萢にとっても、冷や汗がでたのではなかろうか。
一方、森山の方は昼間レコード会社 のスタジオでトランペッターをし、夜は赤坂のジャズ・ホールで歌った日々を送っていた。
アメリカ生まれの釜萢と森山の二人の接点は、そうしたセッションの中、自然に生まれたものだったであろう。
二人とも日本語は下手でも、日本でのジャズ演奏はカネになることは確かであると実感し、日本に「帰化」することを選んだ。
仮にアメリカに帰っても「仕事がない」どころの話ではなく、収容所に送られることは目に見えていたからだ。
森山久は、1910年サンフランシスコ生まれ、ディーブ釜萢は1911年ロサンゼルス生まれであるから年齢も近い。
日本にとどまった釜萢は日本人女性と結婚する一方、森山も釜萢の家に遊びにゆくうちに、家に出入りしていた釜萢夫人の妹と仲良くなり、やがて結婚する。
二人は「ジャズ/日系二世/日本帰化/妻が姉妹」という「奇縁」で結ばれたである。

ティーブ釜萢が、バンドに参加して演奏していたもう一人の女性ボーカルが石井好子である。
石井好子といえば福岡県久留米出身で、日本におけるシャンソンの「草分け」といってよい。
そして父親は佐藤栄作内閣時代の石井光次郎自民党幹事長である。
石井は東京藝大学卒業後クラシック歌手をめざしていたが、そのうち人気が高まったジャズバンド「ニュー・パシフィック・バンド」に入り、ボーカルを担当した。そして、このバンドにいたのがテーブ釜萢や森山久であった。
そしてアメリカ軍の将校クラブやキャンプ等で演奏活動をするうち、バンド仲間の一人と結婚をする。
しかしアメリカ育ちの夫と価値観があわず結婚生活は4年で破綻した。石井は、すすむべき音楽の道を模索するなか、手探りでシャンソンを歌い始めた。
しかし、離婚の痛手から立ち直れず、目標も定まらない中、石井はアメリカに渡ることを決心した。
裕福な家庭で育ったこともあり、サンフランシスコの音楽学校に入学が許可され、プライベートレッスンに通う毎日の中でオペラからミュージカルまで色々なものを見て過ごした。
そんな中、石井は当時「黒真珠」と呼ばれたジョセフィン・ベーカーの歌うシャンソンの虜になっていった。
授業をさぼってベーカー出演の劇場に入り浸りするうち、劇場の支配人がベーカーと会わせてあげようと声をかけ、石井を楽屋へ連れて行ってくれたのである。
ステージを見るだけでも感動なのに、話までできたのだ。その時ベーカーは石井に、シャンソンをやりたいならパリへ行くのがいいとアドバイスしたという。
「パスドックの家」という店で、歌手としてのテストを受けた時、一人の紳士がこの歌を作ったのは私だと近寄ってきた。その紳士・ミシェル・エメの推薦でその店で歌うことになり、石井は自分の進む道がシャンソンであることを確信した。
そんなある日、当時パリで名声を得ていたいた画家・藤田嗣治が、石井の舞台を訪れた。フジタが花を捧げた歌手として、石井を観る観客の目が変った。それほど、フジタはパリで知られた存在だった。
その後、モンマルトル広場にある「ナチュリスト」で歌ううち、このままパリの虜になり居ついてしまいそうな気がしてきた。
石井は日本でスベキことがあるように思い帰国すると、父が自由党の幹事長ということもあって世間は放っておくはずはなかった。
そして、かつてのボーイフレンドがいるニューヨークへ向かうが、そこで彼女が出会ったのは、読売新聞の特派員の土居通夫。
土居とは小学校の同級生で「運命の出会い」と感じた彼女は、4年の時を経て双方再婚する。
しかし、石井が歌手生活35周年を迎えたようとした年、最愛の夫がなくなりその9ヵ月後、父・光次郎も逝ってしまう。
そして、石井が傷心の帰国した1957年頃、日本ではシャンソン・ブームがおこり、紅白歌合戦でも石井、越路、淡谷のり子など多くのシャンソン系の歌手が登場した。
そして、石井がジャズを歌っていた時代の渡辺弘とスターダスターズの専属歌手には、学校を出たばかりのペギー葉山がなっていた。
1962年、石井は銀座に音楽事務所を設立し、田代美代子やキングレコ-ドの推薦で岸洋子も加わった。
岸洋子は1964年「夜明けの歌」で日本レコード大賞歌唱賞を受賞している。
小さな事務所でははみだしそうな広がりとなり、石井好子を会長に「シャンソン友の会」が設立された。
シャンソン友の会設立と並行して、日本におけるシャンソンの普及をめざしてコンクールも行った。
その第2回コンク-ルで優勝したのは、東大の3年生の加藤登紀子であった。
石井好子は多くの日本人シャンソン歌手を育て、2010年7月87歳で亡くなった。
ちなみに、父石井光次郎の胸像を久留米陸上競技場にみることができる。

ティーブ釜萢は1911年ロサンゼルス生まれだが、1916年、同じロサンゼルスにアイバ・戸栗(戸栗郁子)という娘がロサンゼルスに生まれている。父は、輸入雑貨店「戸栗商店」を創業した戸栗遵である。
時を隔てて二人の運命は、東京の地で交差する。
アイバ戸栗は成長し、医者を目指してカリフォルニア大学院に通ったが、1941年7月発病した叔母の見舞いのため、突如、日本へと行くことになった。
ところがここで「運命の悪戯」がおきる。
アメリカのパスポートを正式に取得しないまま日本に来てしまった彼女は、帰国の準備に手間取るうちに、太平洋戦争が勃発してしまったのだ。
彼女にすれば「敵国」日本に、ひとり取り残されるハメになってしまったのだ。
周囲の勧めがあったのだが、アイバは日本人帰化を断り、そのまま「アメリカ人」として、敵地で生きてゆくことを決意する。
1943年、NHK海外局のタイピストとしてパート勤務していたアイバ戸栗は、思いもかけぬ「誘い」を受ける。
NHKがアメリカ兵に対して行っていた「謀略放送」のアナウンスを担当してほしいというものだった。
この頃のNHKは、敵のアメリカ兵にホームシックや厭戦気分を起こさせるため、意図的に情報(心理)操作をした番組を仕掛けることを計画していた。
その番組では女性アナウンサーがササヤクように英語で語りかけてきた。
「アナタがそこで戦っている間、アナタのワイフは自宅に男を呼び込んでいるのよ、気づ かないの?」。「アナタの可愛らしい娘さん、毎晩”パパ!”と言って泣くんですって」、てな具合である。
その間で「スターダスト」「私の青空」といったジャズの生演奏が流れ、そして彼女の甘い声が暗に「戦争なんかやめちゃって故郷にかえろうよ」と誘った。
実はこの番組「ゼロアワー」の「発信源」は、当時NHKがあった東京千代田区内幸町の放送会館で、驚くべきことに、この放送はアメリカ兵にとって大の「人気」となってしまったことだ。
彼らは極東の国から流れてくるトロケルような声の持ち主に対して、いつしか「トーキョー・ローズ」と名づけたのである。
そうしてこうしたジャズによる「篭絡演奏」に加わっていたのが、ほかならぬ森山久(もしくは)ディーブ釜萢だったのである。
ただし釜萢に関しては日本兵として出兵し、中国で終戦を迎えたという資料もあるため、「真偽」のほどは確かではない。
しかし、「トーキョーローズ」による戦意喪失をネラッタ放送の成功したにもかかわらず1945年8月、日本は敗戦国となった。
そして日本に上陸したアメリカ軍は、(好奇心もあって)早速「トーキョー・ローズ」を探した。
実は何人もの女性がこの放送に参加しており、アイバ戸栗はその一人に過ぎなかったのだが、アメリカ兵をひきつけたヒロインは、なんといってもアメリカ国籍のアイバ戸栗であった。
戦後帰国したアメリカにおいて、「反逆者」の烙印を押され、国家反逆罪で起訴され、禁固10年、米市民権剥奪の判決をうけた。
アイバは仮釈放まで6年以上服役し、1977年(同52)に当時のフォード大統領令により「特赦」を受け、ようやくアメリカの市民権を回復した。2006年90歳で死去している。

森山久とディーブ釜萢は、敗戦3ヶ月後からNHKで放送開始された「ニュー・パシフィック・アワー」で、思う存分ジャズの演奏に取り組むことができるようになった。
釜萢は、スターダスト・オーケストラの専属歌手を経て、日本初のジャズボーカルの専門学校である「日本声専音楽学校(のちの日本ジャズ学院)」を開校した。
そこからペギー葉山、平尾昌晃、弘田三枝子らが育っていった。
一方、森山久には1948年に女の子に恵まれ、「良子」と名づけられた。
ティーブ釜萢がつくった日本ジャズ学院の生徒の一人に息子「かまやつひろし」がいた。
ある時、父親が”th”の発音を「かまやつ君、発音がおかしいからやってみなさい」と皆の前であてられたことがあった。
息子は、父親が一生懸命に「先生」になろうとしているのが痛々しく、それ以来学校に行かなくなったという。
また、どこへ行っても「ティーブの息子か」といわれるため、意識的に自立をはかるようになった。
新宿駅の南口でに行っては、手配師にトラックの荷台に乗せられて、横須賀や御殿場の米軍キャンプに行って、ジャズではなくカントリーをやるようになった。
そういえば、ヒット曲「我が良き友よ」はカントリー調である。
1960年代ビートルズのように「虫」をや「動物」にちなんだバンド名が人気になっていた。
当時組んでいたバンドのリーダーである田邊昭知から、英語のできるオヤジにアイデアを聞いてみてくれと頼まれたという。
ティーブ釜萢は息子に「蜘蛛はどうだ?」と一言いった。
こうして堺正明、井上順らが加わった、「ザ・スパイダース」が誕生した。

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