ミスター”観測”

村井俊治・東京大学名誉教授の「MEGA地震予測」が、驚異の的中率を示している。
全国1300か所に設置された国土地理院の「電子基準点」のGPSデータから地表のわずかな動きを捉え、1週間ごとの基準点の上下動による「異常変動」、地表の長期的な「隆起・沈降」(上下動)、「水平方向の動き」の3つの指標を主に分析し、総合的に予測している。
その村井教授には、熊本地震を予測できなかったという「痛恨の思い」がある。
熊本地震が予測できなかったことで、村井教授のメルマガ脱会者も多く、そこには「失望の声」が多く寄せられていた。
極度の失意に陥ったが、自分がやめれば、この研究は終わってしまうと思いなおし、地震予測の「精度」をあげる研究を続ける決意をした。
それでは何が足りなかったのか。国土地理院の電子データでは、1日の平均データでしかなく、1日の中でどんな変化が起きているかをとらえられない。
そこで村井教授は、リアルタイムで変化を捉えることができる「プライベート電子塔」をもうけことで、その精度をあげている。
そして現在、NTTドコモの協力のもとにプライベート電子観測点の設置を、16箇所に設置することができ、これからもその数を増やそうとしている。
その成果は、村井教授の地震予測における不気味なほどの「的中率」として表れている。
先日テレビ取材で、村井教授が、熊本地震以後、自分がこれほど弱い人間と知ったのは初めてだったと語ったのがとても印象的だった。
その涙に、「観測」にかける人の誇りと執念を見る思いがした。
ところで、2016年夏公開の映画「ハドソン川の奇跡」は、バード・ストライクで制御不能となった飛行機をハドソン川に不時着させ、150名余りの人々を救ったパイロットの実話に基づくストーリーである。
「英雄」と称されたパイロットだが、航空機事故調査委員会で、一転して空港に「帰還可能」な段階での不時着は誤った判断であり、逆に大勢の乗客の命を危険にさらしたと、追求されることになる。
コンピュータのシュミレーションによれば、確かに別の空港に安全に飛行機を誘導できたはず。
しかし、そこにはコンピュータには表れない「ヒューマン・ファクター」が存在していた。
この事故後のストーリーの展開をみるにつれ、人命が守られればすべて良しというわけではなく、それが「ベストの選択」だったのか「検証」に耐えねばならないとは、パイロットにとってなかなか厳しい世界だ。
この「ハドソン川の奇跡」が起きた2009年から遡ること34年の1975年、ニューヨーク国際空港において航空機事故が起き多数の死傷者がでた。
当初パイロットの「操縦ミス」と考えられていたが、ひとりの観測者の研究が、「真相」を明らかにした。
その人は、福岡出身で「ミスター・トルネード」と呼ばれた人物である。

背振山は福岡市と佐賀県神埼市との境に位置する標高1055メートルの山である。
福岡市方面から見ると緩やかなピラミッド状のカタチをしていて、現在は山頂にある航空自衛隊のレーダードームがシンボルとなっている。
この山頂から見ると、福岡市の全景が開け、博多湾に浮かぶ玄界島・能古島・志賀島等の島々が霞んで見える。
古い歴史をいうと、背振山麓には霊仙寺があり、「日本茶栽培発祥の地」の石碑が立つ。
日本に禅宗を伝えた栄西は、宋からの帰国時に持ち帰った茶の苗を植え、博多の聖福寺にも茶の苗を移植したのである。
近年この背振山が東北の北上山地とともに、世界の物理学者達が熱い視線を注ぐ国際的な巨大プロジェクトの「候補地」となった。
結局背振山は東北北上に敗れたかたちとなって 「背振」が世界に名を知られる機会を失う結果となったものの、実は「背振」の名はすでに世界的に知られる出来事が起きていた。
1936年11月19日の夕方、佐賀県との背振の山麓で、耳をつんざくような爆音がすぐ頭の上を通り過ぎ、ふいに音が途絶えたかと思いきや地を切り刻むような音がした。
山懐の住民は、何事が起ったのか訝しがったが、大音響がおきた現地へと向かったところ、機体に挟まれて呻くひとりの外国人の若者を見出した。
実は、この事故の5年前の1931年8月26日、単独大西洋無着陸横断で「世界的英雄」となったアメリカのリンドバーグが、博多湾の名島にも着水して颯爽と舞い降りて、福岡市民の「大歓迎」を受けたことがあった。
今度はフランスの飛行機野郎・アンドレー・ジャピーが日本に来ようとしていたのだが、そのことを知る人々を知るものはほとんどいなかったし、まして背振の山中にそんな「有名人」が墜落するなど想像することさえできなかったに違いない。
一方、フランスの人々にとって「ジャピーの命運」は大きな関心事であった。というのもジャピーは、これまでにも数々の冒険飛行に成功している「空の英雄」であったからだ。
そんなジャピーが今回挑んだのは、この年フランス航空省が発表した「パリからハノイを経由して東京まで100時間以内で飛んだ者に、30万フランの賞金を与える」という主旨の「懸賞飛行」であったのだ。
当時ハノイのあったベトナムは「仏領インドシナ」と呼ばれるフランスの植民地であり、ハノイ経由の懸賞旅ジャピーが香港経由で日本の長崎県の野母崎上空まで来た時に、燃料が足らないことが判明し、福岡の雁ノ巣飛行場に一旦不時着することにした。
しかし濃霧の為に迂回をすると、しばらくすると突然眼の前に山の形が浮かび、木製の軽い機体は、山オロシの「下降気流」にたたき落されたのである。
そして、ジャピーは、背振の人々に発見され、翌日には福岡の九州大学病院に収容された。
傷が癒え、別府の温泉で体力を回復したジャピーは、日本に深い感謝の思いを残しつつ、約2週間後には神戸から船でフランス帰国の途についたのである。
脊振山山頂近くにあるジャピー機の墜落現場には、現在「ジャピー遭難」の記念碑が建っている。

大リーグで、その独特の投球フォームから「トルネード投法」(竜巻投法)と呼ばれた投手・野茂英雄が近鉄バッツファローズに入団した1990年、アメリカ・シカゴ大学では、もう一人の「ミスター・トルネード」が定年の日を迎えていた。
「竜巻研究」の権威として世界にその名を残した藤田哲也である。藤田は、1920年、福岡県企救郡(現・北九州市小倉南区)生まれた。
旧制小倉中学(現小倉高等学校)に学び、旧制明治専門学校(現九州工業大学)機械科に進んだ。
卒業後は、明治専門学校で助手を務め、1カ月後には助教授に「昇進」したりもした。
そして1945年、藤田は広島・長崎の原爆投下による「被害調査」に派遣され、現場の状況を観察し、原爆が爆発した「高度」を特定したこともある。
ところで、藤田の真骨頂はその徹底した「実証主義」にある。
1947年、脊振山の「測候所」で気象観測を続けていた藤田は、解析したデータから雷雲の下に「下降気流」が発生していることを発見した。
ジャッピーを脊振山中にたたき落としたアノ「下降気流」である。
実は、藤田がアメリカに向かい竜巻の研究にむかう契機となったのが、背振山における研究を「論文」にまとめたもので、アメリカ・シカゴ大学のバイヤース博士に送ったところ、藤田をアメリカに招待したいという返事がきたのである。
1953年、藤田はアメリカに渡り、以後、竜巻の研究に没頭していく。
アメリカでは1年間に数百個のトルネードが発生するが、 藤田は、竜巻が発生したと聞くや、何をおいても「現地」に飛んでいく。
風と気圧の変化を「実地調査」をし、被害状況を詳細に分析し、竜巻の「メカニズム」を次々と明らかにしていった。
そして、親雲から発生した渦が地形と気象との関連により地上に達成した時、トルネードとして発生することを推論し、この「発生メカニズム」を実験室で再現して見せた。
こうした藤田の研究は、「竜巻の現場」に限らず、思わぬところで生かされることになった。
1975年、ニューヨーク・ケネディ空港で、イースタン・エアライン66便が着陸直前に地面に激突するという「大惨事」が起こった。
政府関係者が割り出した事故原因は、「パイロットのミス」であったが、これを「不服」とした航空会社が「再調査」に白羽の矢をあてたのが、藤田哲也であった。
調査の結果、墜落の原因は上空にあった雷雲から激しい「下降気流」が発生し、それが地面にぶつかって「放射状」に広がったためであるとした。
従来、空気のような粘性のない流体は、流れが弱いため、仮に「下向きの気流」が発生したとしても「地面に到達すること」などあり得ないとされてきたのだが、それが間違っていることを明らかにしていった。
この強烈な下向きの風は、藤田によって「ダウンバースト」(下降噴流)と名付けられた。
さらに藤田は、ダウンバーストの動きを探知するために「ドップラー・レーダー」を活用するよう提言した。
ドップラー・レーダーとは、ドップラー効果による「周波数の変移」を観測することで、位置だけではなく観測対象の移動速度を観測する事の出来るレーダーである。
藤田の提言を受けて、世界中の空港に「ドップラーレーダー」が設置され、墜落事故は「激減」していった。
藤田のこうした「功績」が讃えられ、藤田には「世界的な賞」がいくつも与えられ、人々は藤田のことを「ミスター・トルネード」と呼ぶようになる。
それは、ちょうどアメリカ大リーグ界に野茂が「トルネード旋風」を巻き起こした時期と重なった。
1998年11月、藤田は、シカゴでの78歳で亡くなり、故郷・小倉の曽根の地に眠っている。

終戦からまもなく出された「流れる星は生きている」(1949年)は、満州から日本に引き揚げた人々の実体験を語ったもので大ベストセラーとなった。
この本の著者は「藤原てい」で、夫は戦争中満州にあった気象台に勤めていた。
日本の敗戦が決定的になり、男は軍の動員命令があって不在。女ばかりとなった観象台(気象台)にあって、藤原ていと三人の子供達は、他の家族と共に日本への決死の逃避行を行った。
「流れる星は生きている」が大ベストセラーになったことに一番刺激を受けたのが夫の藤原寛人である。作家に転じて「新田次郎」のペンネームで知られるようになる。
ちなみに藤原夫妻の次男は「国家の品格」で知られる数学者・藤原正彦である。
新田次郎(藤原寛人)は、長年気象庁で気象観測の実務に携わってきた。富士山測候所に勤務した体験をもとに、小説「芙蓉の人」(1975年)を書くが、実体験にもとづくだけに、富士山頂の冬の苛烈さの描写には、鬼気せまるものがある。
実は「芙蓉」とは、美女を意味する言葉で、富士山が別名「芙蓉峰」とよばれることと、測候所に生きた人々の生き様を重ねて表したものである。
新田次郎は、富士山の二面性をは次のように描いている。
「霊峰・富士は、自身の頭頂部にまで侵入しようとする人類に怒りを表現するかのように、これでもかとばかり過酷な試練を与えるが、それに打ち勝ち、知恵と技術の結集が状況を凌駕した時。祭られている女神は初めて彼等に微笑を見せる」。
さて、小説の主人公である野中到(のなかいたる)は、筑前国(福岡県)早良郡鳥飼村で黒田藩士野中勝良の長男として生まれた。鳥飼といえば、伊藤博文に重用された黒田藩士・金子堅太郎の生家のあるところでもある。
野中は日本に高地観測所がなく、様々な自然災害を防ぐことができないでいることを憂い、私費で富士山頂に気象観測所を設置することを志し、1889年(明治22年)、東京大学予備門(後の第一高等学校、東京大学教養学部)を中退して気象学を学んだ。
野中到の父・野中勝良は東京控訴院(現東京高等裁判所)判事であったため、そうした息子の志について容易には理解しなかった。
その父親が心を動かしたのは、同じ福岡市出身の東京天文台長・寺尾寿の言葉であった。
寺尾は東大物理学科出身で、フランスで天文力学を修め、29歳の若さで東大星学科教授に就いていた。
その長男である寺尾寿は、初代国立天文台長として日本天文学会をつくった人物。
続く次男・享が法学博士で東大教授、三男・徳は医学博士で、四男・隆太郎は弁護士で裁判官という「スーパー・ブラザーズ」である。
当時3776mという高地で冬季の気象観測をしている国はなかった。
野中到の父親である勝良は、たまたま東京天文台長の寺田寿から、「もし、富士山で冬期の気象観測に成功したら、それこそ世界記録を作ることであり、国威を発揚することである」と聞いてから俄然息子を応援するようになり、その資金捻出のため、福岡県の旧宅を売り払った。
野中は1893年に、福岡藩喜多流能楽師の娘・千代子と結婚し、この妻千代子が富士山測候所の建設に果たした役割ははかりしれない。
野中と妻千代子との間には当時2歳の娘・園子がいたが、野中が御殿場に滞在して観測所建設の指揮を執ると、妻千代子は姑の反対を押し切って、御殿場に向かい会計を担当した。
千代子から見て、野中の計画は綿密だが、食料や衣料の準備に甘さがあると感じたからである。
御殿場でそれらの調達を担当しながら、自分も夫と共に富士山頂で越冬観測をしようとひそかに決意した。福岡の実家で防寒具を整え、山で足腰を鍛えた。
藤原は、千代子について次のように書いている。
「野中千代子は明治の女の代表であった。新しい日本を背負って立つ健気な女性であった。封建社会の殻を破って日本女性此処にありと、その存在を世界に示した最初の女性は、野中千代子ではなかったろうか」。
ただ、野中がいかに気象観測のエキスパートであったとしても、野中夫妻は山に関してはまったくの素人であった。
氷点下20度以下の寒さや強風の中でともに倒れ、心配して登ってきた慰問隊にようやく救出されたりしたこともある。
藤原寛人は、実際に野中夫妻と面識もあったため、野中夫妻が高山病に苦しむ惨状をも描いているが、野中夫妻は10月から12月まで82日間もの間観測を続け、後に山頂に国の観測所が造られ、「通年観測」が行われる土台を作ったのである。
さて、藤田寛人は作家活動を続けながらも、同時に気象庁職員として長年勤めて1966年に退職するが、公務員時代の最後の大仕事が、気象庁測器課課長として携わった富士山頂の気象レーダー建設であった。
それは、野中夫妻が最初に気象観測を行った地点において取り付けに成功したものである。
つまり、明治期の野中夫妻の80日を越える「冬季観測」の成功という先例の上に建つもので、藤原にとって野中夫妻は、尊敬する先輩という範疇を超えた存在であったといえる。
富士山に気象観測レーダーの建設責任者となったが、そこには世界最初の高層観測所という名誉のために、国家の為に見返りを求めずに打ち込む姿があった。
そして、野中一家の誰もが、前人未到の「高層観測」という同じ方向に向かった。
息子は自らの夢のために一筋に進み、父は私財を投げうって息子の夢を支え、それに従う妻がいた。
新田次郎(藤原)は、彼らの姿を「芙蓉の人」いうタイトルに込めた。