「帰還」その後

「帰還」という言葉は、それににまつわる幾多の場面を想起するためか、深山を彩る紅葉のような深さと多彩さを湛えているように思える。
それは単なる物理的な移動ではなく、心の奥深くにまで染められる出来事なのにちがいない。
小惑星探査機 「はやぶさ」 の奇跡の帰還が人々の感動を呼んだことが記憶に新しいが、意味をやや拡大して考えてみると、最近台頭している宗教的民族主義にせよ原点に立ち帰ろうという意味では「精神的帰還」ともいえる。
そのようなことを思いつつ、或る華々しい「帰還」の場面を思い浮かべた。
イラク戦争時、ブッシュ政権によって戦場に送りこまれたアメリカ軍兵士達の帰還である。
テレビの映像で見る限り、イラクやアフガニスタンなど中近東を戦場として戦った多くの兵士達が、盛大な紙吹雪をもって迎えられた。
ただ彼らの多くが、戦場で倒れ、ある者は棺に納められ、ある者は肉体的、精神的に傷つき、大量に「帰還」しているということに関しては、その映像の中に見出すことはできなかった。
もともと彼らの大半は、低所得者層の若者、就職できない若者、生活困窮者、米国籍を求める不法移民等々によって構成された人々。
イラク人に対しては加害者、侵略者であるが、彼ら自身もまた、「犠牲者」ともいえる。
彼らの帰国後の社会復帰を困難さは、彼らを「英雄」として受け入れる素地が、実際はそれほど残っていないことを物語っている。
イラク戦争中に公開された映画「父親達の星条旗」(2006年)は、一枚の「戦場写真」が人々の運命を翻弄していく悲劇を描いた実話に基づく物語であった。
太平洋戦争の末期、硫黄島の戦いの最中、アメリカ海兵隊員らが山の頂上に「星条旗」を立てる姿を撮影したもので、史上もっとも有名な報道写真の一つで、1945年度の「ピューリッツァー賞」の写真部門を受賞している。
写真に写っている6人のうち、3人は硫黄島で戦死したが、他の3人は生き残って一躍有名人となった。
後にこの写真をもとにアーリントン国立墓地近くに海兵隊戦争記念碑が造られている。
さて「父親達の星条旗」の原作は、ジョン・ドク・ブラッドリーの「FLAGS OF OUR FATHERS」で、主人公は「父の沈黙」に秘められた真実を知るため、何年もの歳月を費やし、父が見た硫黄島の真実に辿り着く。
そこでわかったことは、アノ歴史に残る写真は、敵方の砦を奪いとって旗を立てた「写真撮影」が失敗し、もう一度撮り直しをすることになった際に写された写真だったということである。
つまり、実際に戦ったのでもない人々を使って写真の「撮り直し」が行われたのだが、ブラッドリーの父を含む3人は帰還後アメリカの「英雄」として盛大な式典をもって迎えられることになる。
彼らはいわば「偽りの英雄」としてふるまうことを余儀なくされるが、それに上手に乗っかって甘い汁を吸って生きていこうとする者もいる一方、その「偽り」の重さに耐え切れず身を持ち崩していく人もいる。
その人は、アメリカの「星条旗」の下に居住地や財産を奪われた歴史をもつインディアンの血をひく男で、帰還後、酒におぼれて暴力事件をおこしてしまう。
「有名人」だけにそれがマスコミの恰好のネタにもなる。
結局、「父親達の星条旗」のような映画が作られるのも「アメリカの正義」についての疑念と分裂があるからに違いないが、この物語の面白いところは、「同じ出来事」に遭遇した人々それぞれが、それに拘束されながらも、それぞれ異なる生き方をしていく点である。そこで思い浮かべたのが九州の四人の少年の「帰還その後」のこと。

1582年6月、九州の大名は、「名代」として四人の少年を派遣し、少年達はローマ法王と謁見されることを許される。
四人の少年は、有馬・大友・大村氏の三大名が送り出した、見目麗しき13歳前後で少年達であったが、彼らは帰還後、「病死/海外追放/棄教/殉教」とそれぞれ異なる歩みをしていく。
この「天正遣欧少年使節」の仕掛人は、イエズス会の司祭で日本でカトリックを伝えていたアレッサンドロ・ヴァリニャーノである。
ヴァリニャーノが「少年を選んだ」理由は、長く保つ「生き証人」が必要であったことと、「4人を選んだ」ことについては、ヴァリニャーノの脳裏には、旧約聖書の「ダニエル」書に登場する「4人の少年達」のイメージがあったのではないかと推測する。
新バビロニアの王ネブカドネツァル(在位:BC605~562)がエルサレムを攻めてユダヤ人を捕囚として首都バビロンに連行した。
間もなく、ネブカドネツァルはユダヤ人の王族や貴族の中から、見目麗しい才能と知識と理解力に富んだ少年を集めて教育し、宮廷に仕える能力のある「四人の少年」を自分に仕えさせたという話である。
さて、イタリアの名門貴族出身で、巡察師として日本を訪れたヴァリニャーノは、キリシタン大名・大村純忠と知り合い、財政難に陥っていた日本の布教事業を立て直しをはかった。
そのために、次代を担う日本人司祭育成のため、使節をローマに派遣しようしたことに加えて、イエズス会の宣教の成果をローマ法王に直接アピールして、それ以後の宣教の支援を引き出そうとしたにちがいない。
そこで、九州の各セミナリヨで学んでいた4人の少年達がヨーロッパに派遣され、それを迎えたローマ教皇グレゴリウス13世は、滝のような涙を流して感激したと記録されている。
その涙の奥には、宗教改革以来、イギリスなどをプロテスタントに奪われた無念と、地球を反周りもしなければならない遠方の地にキリシタンが育っていたことへの感激が重なったにちがいない。
少年4人は、70人以上の行列をくんでメディチ家を訪問し、2年後にはポルトガル、スペインで国王などの歓迎を受けた後、最後の訪問地ローマでは、ローマ市民権の証明書の授与など大歓迎を受けた。
彼らは一大ブームを巻き起こし、ローマ教皇は、イエズス会に巨額の援助を約束する。
また彼らが持ち帰ったグーテンベルク印刷機により、長崎の教会でイソップ物語などの日本語訳などが出版され、以後訪れる宣教師のために日本語の教義本もこれによって印刷されることになる。
さて、ローマ法王に謁見するという栄誉を担って1590年7月に帰国した4人だが、彼らを待ち受けていたのは出発前とはまったく異なる日本の姿であった。
保護者である大村純忠、大友宗麟の死に加え、豊臣秀吉が博多滞在の折に突然に「バテレン追放令」(1587年)を出したことである。
ただ、外交人宣教師に対する立ち退き令であり、長崎の「二十六聖人の殉教」(1597年2月)を除いて、信者に対する弾圧はソレホド徹底したものではなかった。
帰国の翌年には、聚楽第にて豊臣秀吉に会い、その前で西洋音楽を演奏し、秀吉が3度アンコールしたと伝えられている。 とはいえ、日本宣教への希望に胸を膨らませていた彼ら4人ではあったが、彼らを預かる藩にとって、それほど歓迎されるものではなかったにちがいない。
江戸時代に入り、一般のキリシタンへの弾圧が強まるにつれ、彼らもまた信仰と棄教の選択を迫られる運命に巻き込まれていく。
ここで、天正遣欧少年使節4人の経歴を簡単の述べると、次のとおりである。
千々石ミゲルは、肥前国領主千々石直員の子で有馬晴信の従兄弟で、大村純忠の甥にあたる。遣欧使節では正使となり、もっとも期待されていた少年であったといってよい。
同じく正使・伊東マンショは、日向国(宮崎)都於郡出身で、大友宗麟の遠戚にあたり、四人の少年の中で最年長である。
帰国後、天草の修練院でイエズス会に入会し、1601年マカオで神学を学び、1608年長崎で司祭となるが、布教活動の長旅で体を壊し、1612年に43才で長崎にて病死している。
副使・原マルチノは、大村領・波佐見出身で、四人の少年の中で最年小であった。帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会し、1608年長崎で司祭となり、布教活動を行うが、徳川幕府の「禁教令」によりマカオに脱出し、1629年マカオにて病死している。
副使・中浦ジュリアンは、大村領中浦出身(現在の西海市)で、中浦領主中浦ジンクロウの子である。帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会し、1601年マカオで神学を学び、1604年長崎に戻り、司祭となっている。
さて、日本に戻ってきた四人は、「司祭」になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた。
「司祭」とは、信徒に「ゆるしの秘跡」つまり「ゆるしの言葉」を与える権限をもつ聖職者で、司祭にならない限りは、日本人の信徒を直接に救いに導くことができないのだ。
そして1598年秀吉が亡くなり、翌年4人はそろって「イエズス会」に入会し、ここまではホボ「同じ歩調」で歩んでいたといってよい。
ところが江戸時代になって、「元和の大殉教」にみられるように、次第にキリスト教への弾圧は激しさをまし、かつての「四人の少年達」の歩みに大きな齟齬がみられるようになる。
特筆すべきことは、彼ら四人の中で、一人の「殉教者」と一人の「離脱者」が出たことである。
殉教者とは中浦ジュリアンで、棄教者とは、大村氏の親族でもっとも期待されていた千々石ミゲルである。
殉教者となった中浦ジュリアンは、農民に変装して布教を続け、自分には4千人もの信者の世話が残っていると、十字架のメダルなど信仰心をよびこす品々を信者達に配るなどして、信者達を励まし続けた。
20数年にわたって地下活動を続けていたジュリアンであったが、1632年小倉で捕縛されて長崎へ送られて翌年、3人の修道士とともに穴吊るしの刑に処せられている。
1637年に、天草四郎の下に3万人が集まり、この地域の住民ほぼ全員がなくなるが、中浦ジュリアンが配った品々が彼らが立てこもった原城の跡から見つかっており、中浦ジュリアンの殉教は彼らの記憶の中で生きていたにちがいない。
さて、江戸幕府の「禁教令」により大村氏は領内におけるキリシタンをどう取り扱うかで緊迫する。
特に、大村氏といえば身内に四少年の千々石ミゲルを抱えていただけに、その立場を明瞭に示す必要があったからだ。
実際、大村氏は、キリシタンを処分する忍びなさに、一時幕府に「転封」を願い出たほどだった。
しかし、ミゲルは「禁教令」が厳しさを増す1601年には、既にイエズス会を退会し信仰を捨て、「清左衛門」と名乗っていたのだ。
他の3人が神学をより奥深く学ぶためマカオへ留学したのに対し、40歳前後で司祭となっている。
他の3人に比べ、身体虚弱で勉強も中々捗らなかったミゲルは留学を許されず、その事に対する反発心からイエズス会を退会するに至ったという説もある。
実際、イエズス会の記録では病気が原因としているが、ミゲルが仕えた大村家の文書の中に、「キリスト教は来世をとくが、国を奪うはかりごとをしている」と書き遺しており、ミゲルは他の3人とは違った観点からキリスト教をみているように思われる。
キリスト教は、戦乱の世にあって来世に救いの成就を求めるというもので、一向宗がそれほど大きな勢力とならなかった九州において信者が増えていった。
ミゲルは、この地域の多数派であるキリシタンが神社や寺院を襲い始め、仏像につばをはき、割られるのを見て、異文化を軽視する様を見て離脱していったと推測することもできる。
しかし、日本一有名な「棄教者」になった千々石ミゲルもまた、他の3人と違ったカタチで、茨の道を歩まざるを得なかった。
結婚し、しばらく長崎で暮らしていたが、後半生はさまざまな苦難に会い、従兄弟にあたる大村喜前や有馬晴信からも疎まれ、晴信の家臣に暴行され、失意のうちに死去している。
なお、息子・玄蕃により建てられた清左衛門夫妻のものと思われる墓所が2003年、長崎県西彼杵郡多良見町(現・諫早市)で発見されている。
この墓石に伝わる伝承に「大村に対して恨みをもって死んだので大村の見えるこの地に、大村を睨みつけるように葬った」とある。
ところで遠藤周作が「沈黙」の執筆のきっかけとなったのは、ひとつの文字との出会いによる。
江戸時代、東京小日向の地には「切支丹屋敷」があったが、このキリシタン名簿を見た時に外国人宣教師らしい「棄教者」(フェレイラ神父)に目がとまったことによる。
遠藤氏は、この外国人宣教師の内面を、自分さえ信仰を捨てれば多くの信者を殉教や迫害から救うことが出来るという葛藤を通して描いている。
遠藤周作にみるように作家の想像力は殉教者よりも「棄教者」の方によく働くのだろうか。
村木嵐が書いた小説「マルガリータ」(松本清張賞)もまた、「棄教者」千々石ミゲルの内面を描いている。小説のタイトル「マルガリータ」は、ミゲルの妻となった「珠(たま)」という女性の目を通して、その謎に迫ったことによる。
村木女史は会社勤めをしていた1995年11月、司馬遼太郎宅に「あこがれの作家の近くにいたい」と電話をかけ手紙を書いて、司馬家11代目のお手伝いとして飛び込んだ人である。しかし残念ながら、その3カ月後、司馬さんはこの世を去った。
村木女史はテレビ時代劇の監督だった父の影響で時代劇好きであった。21歳でキリスト教の洗礼をうけるが、千々石ミゲルの棄教についてずっと疑問だったという。
「マルガリータ」で描かれた千々石ミゲルが抱いた疑問とは、あまりに高潔な殉教に対するものといってよく、それは作家自身の疑問でもあるようだ。
果たして、磔(はりつけ)になったり、熱湯を浴びせられたり、穴吊りにされたりするのだが、死ぬことが本当に神からよみされることなのか。それよりも普通に生きていった方が、よほど神の「意思」にそったことではないかという疑問である。
村木女史は、ミゲルに「この国のことはこの国の司祭がひきうける。南蛮人ののぞむ殉教など、この国のものには一人もさせぬ。生きて天主の道を歩む」といわせている。
また、「南蛮人司祭は、名誉を重んじて死を選ぶ武士の生き様を、信仰を守っていく殉教者に似ていると申された。だから私たちは天主教を学ぶにふさわしい民なのだと教わった。ミゲルはこれを聞いてとても怒っていた。まさか日本への殉教者を募りにきたわけではあるまい」とも語らせている。
小説「マルガリータ」の最後に、潜伏して信者を支えた中浦ジュリアンが捕われ代官所に呼ばれるが、取り調べに立ち会わされたミゲルとその妻の口述には、中浦の命を救いたいという気持ちに溢れている。
作家はここで、棄教者よばれる者と殉教者となる者を交錯させつつ、作者の思いをブツケているように思う。
村木女史の「千々石ミゲル像」は、たとえ日本一有名な「棄教者」となっても、信仰を捨てたわけではなかったというものであった。
先日、NHKの「天正遣欧少年使節」をめぐる番組で、ある大学教授が外国人宣教師が去ってキリスト教の信仰はようやく日本人の庶民の信仰になったと語っていた。
外国人宣教師がいるうちはYESかNOつまり「殉教」というところまでいく他はなかったけれど、外国人宣教師が去ったあとでは、庶民の中には「棄教」を装いながらも、信仰を守り抜い者もたくさんいたという。
とするならば、千々石ミゲルは、「棄教者」ではなく、「殉教」という英雄視されがちな道を選ばなかった日本人キリシタンの「先がけ」といってよいかもしれない。