不安のオイコノミア

最近、社会に覆う「不安」のため、平常の経済理論が通用しないようなことが目に着く。
例えば、平穏時では、減税をすれば消費が伸びるが、減税がまねく「国家財政破綻」への不安がそれ以上に増せば、消費は伸びない。「減税」が、それ以上の大増税を招くという不安のためである。
マネー拡大による低金利政策は、「将来不安」が大きければ、さっぱり投資拡大に結び付かない。
つまり、社会全体をおおう不安が、平穏時のインセンティブを打ち消してしまい、通常の経済理論が通用しないのだ。
こうした事態を「不安のオイコノミア」(=「不安の経済学」)とよぼう。
アベノミクスは、マネタリストの立場「インフレは貨幣的現象」という理論に依るものである。
つまりマネーサプライを増やせば、必ず物価が上がるというのが、過去のデータからいえることなのだが、現在までいくらマネーを増やしても、物価上昇の気配が見られない。
アベノミクスの失敗は「平穏の経済学」に立ったためで、「不安の経済学」では、マネタリストの「物価はモノとマネーの相対的「量」関係で決まる(「貨幣数量説」)」というテーゼは通用しないのだ。
こうした「不安のオイコノミア」では、平常時とは異なるお金の流れを生んでいる。
さて、不安の根源には、「戦争のうわさ」から「災害の予兆」まで様々あるが、人為的部分でいえば、様々な問題の「先延ばし」が累積した結果、将来「不安」が増幅していることではなかろうか。
それは、日本社会の「問題解決能力の欠如」といいかえてもよい。
例えば、アベノミクスで「異次元緩和」では、出口が出せぬままの状態が続いているのがその典型だが、他にも見ること聞くことの多くが「不安要素」として我々の目にイチイチ飛び込んでくる。
例えば、長崎県の諫早湾でギロチンが一斉に降りる風景。
諫早湾干拓30周年をむかえるが、日本社会の「問題解決能力の欠如」を、まざまざと見せつけられる状態が続いている。
それは地域的問題とはいえ、何かの「縮図」を見ているようでもある。
政府・農林省の旗振りで、諫早湾という自然の貴重なu宝庫を埋め立てることにした。
そのため海水の流れをふせぐ堰(ギロチン)を造ったのだが、漁民は漁獲量が減ったので門をあけて被害調査していほしいと訴える。
一方、農民は門をあけたら塩害をうけるので門を開けないで欲しいと訴え、それぞれ訴えた裁判所で「開門/閉門」という矛盾した判決(仮処分)が出てしまった。
国は、両方の矛盾した判決を果たす責を負うことになり、ギロチンを開門しても閉門しても、どちらかに経済的補償をする必要がある。
現状では「閉門」を続けることによって、漁民に対する被害補償が続く事態となっている。
必要とも思えない農地を作ったのも、政治家(農政族)・官僚・業者を儲けさせるためで、自然を壊し、農民と漁民の対立を生みだし、しかも一般国民の税金の「垂れ流し」が続いている。
もうひとつ、「先延ばし」問題の典型的な出来事に、「プルトニウムの累積」がある。
核兵器を保有せず、「核兵器廃絶」に熱心なはずの被爆国がなぜ、核兵器の材料になるプルトニウムをこんなにも大量に持ってしまったのか。
日本が所有するプルトニウムは48トン。軍事用も含めて、地球上にあるプルトニウムの約1割にあたり、核兵器を持たない国としては圧倒的な量である。
ウランを使い果たさないよう、再処理で取り出したプルトニウムを使って発電し、使った以上のプルトニウムを生み出す「高速増殖炉計画」が、夢のエネルギーになるとされ、世界各国で研究されていた。
しかし、すでに全世界の原子力発電で必要な500~1千年分のウランが発見されて、経済的な前提条件が崩れている。
「高速増殖炉」では、ナトリウムを冷却材に使う必要がありますが、ナトリウムは水と爆発的に反応してしまう。日本の「もんじゅ」だけではなく、世界中で技術的な問題が解決されていない。
そのため、英米を含め、多くの国が「高速増殖炉計画」から撤退している
プルトニウム利用に経済合理性がないことも、核テロの観点から危険なことも明白なのに問題解決が「先送り」されている。
勇気を持った「出口戦略」が必要だが、官僚制の弊害で、だれも「方針転換」の責任を取りたくないようだ。
最近、「問題解決能力の欠如」→「問題先延ばし」→「不安の増大」という図式がすっかり定着している。

一国の経済を支えるのはごく普通の人々で、勤勉に働きそれなりの収入を得て消費をする。
企業は消費拡大を期待して投資を増加させ生産性が上昇すれば、経済は成長していく。
しかし、今はごく普通の人々で構成する「中間層」自体が縮小しつつあるだけではなく、多くの家計が将来不安を抱き消費を抑制している。
企業もまた新たな消費には及び腰で、少子化がそれに拍車をかけ、経済成長が鈍化するのは自然な流れではある。
グローバル社会のなか、厳しい競争に苦しむ産業や地域の労働者、移民に反感を抱く国民が、彼らを守ろうとしなかった既存のエスタブリッシュメントに反旗を翻したという構図だろう。
それは「取り残された人々」の反乱ともいえる。
それが英国のEU離脱やトランプ大統領を生んだ。
これからITO(モノのインターネット化)、人工頭脳などのイノベーションは、取り残される人々をさらに増やすことになろう。
最終的な勝者(圧倒的な富裕者)は、高度な知識や技術をもつエリートであり、中間層は消失し、多くの労働者が低賃金の仕事に就くことを余儀なくされる。
高度経済成長期の「三種の神器」(冷蔵庫、洗濯機、テレビ)あるいは、新「三種の神器」(自動車・カラーテレビ・クーラー)のように、生活の向上とともに全国的に売れ行きが伸びるような製品はもはや存在しない。企業は需要を探すというよりも、「作り出す」必要ににせまられている。
社会が「必要を満たす」時代から「欲望を作り出す」時代への「転換」にもなったことを意味する。
今、売れスジの「スマホ」という、手のひらサイズのコンピュータがその典型であろう。
ディマンド・サイド重点で経済が成長した素朴な時代から、サプライ・サイド重視で経済を成長させなければならない。
そこで構造改革、自由化、規制緩和減税、法人税が前面に出され、デキル者ガンバッタ者に厚く報いるべし、つまり不平等は容認して、「悪平等」をなくすべしという方向に向かった。
供給サイドの重視は、政府に構造改革・自由化をもたらし、格差を広げていく結果を招いた。金持ちは、全体の富からすれば消費は限られているから、経済の活性化につながらないし、投資収益のある場所はそれほど見当たらなくなってくる。
金融工学などによる「欲望の創出」が「不安の創出」として、結果的に社会を委縮させる結果になってしまっている。
こうした不安の創出は「お金」の流れ方や売れ筋にも大きな変化をもたらしている。
経済が元気になるとオカネがサラサラと血液のように循環してモノの供給や需要をうみだしていくのだが、景気後退に至ると、オカネの流れのパワーが弱まり、いたるところで血流がとまってしまう現象がおきる。
その結果、市場の力が弱まり経済の復元力が失われていくというのが、ケインズ的な世界観であった。
本来、オカネというものは、利子を生むものであり、手元に置くと損をするものなのである。だから人々は銀行にオカネを預け、利子を払う以上の投資収益を期待できる者が資金を受容する。
古典派経済学では、オカネは貯蓄されてもスグニ供給サイドで投資需要として表れ、、オカネのサラサラ状態は維持されると論じたのだが、実はケインズは「オカネ」の不安定性つまり「オカネの滞り」に注目したのである。
つまりオカネにも回転速度というものがあり、ケインズはオカネの回転速度の低下に気がついたということである。
ケインズはオカネを物に換えないで、利子もとらずに手元においておく理由を3つに分類した。
一つはオカネの取引需要で、これはモノを買うことに備えてしばらく手元におくオカネである。
もう一つは、債権の値下がりつまり長期金利の上昇に備えて、オカネを手元におく行為である。どうあれ、手元においている限りはオカネは回ってはいないし、有効な需要として顕れないのである。
三番目は「予備的需要」で、不測の事態に備えて余分にオカネをもっておこうとするものである。
「不安の経済学」では、ケインズが三番目にあげた「予備的需要」と大いに関係するものではなかろうか。
すなわち不測の事態に備えてオカネを手元におくということである。
一般的には病気やトラブル、事故に備えて我々が財布に余分のオカネをいれておくということである。
ケインズは、マネーの循環の滞りを家計の「予備的需要」からみたが、マネーの滞りとは異なるが、その企業版が「内部留保」に拡大ということにならないだろうか。
「内部留保」とは、企業が経済活動を通して獲得した利益のうち、企業内部で蓄積した部分のこと。
つまり家計のオカネの滞りも、企業の「内部留保」の拡大も、「不安の経済学」の事例といってよいであろう。
例えば、アベノミクスの初期の成果で、企業は過去最高益を出しているのに、従業員の給料は減っているのは、企業が“内部留保”としてため込んでいる結果である。
例えば、日本企業の業績回復は「円安」がもたらしたもので、経営者たちは長期にわたってそれが続くとは思っておらず、タマタマとしか思っていない。
今日、地球の裏側で起きたことでも、自分たちの経営を狂わす「衝撃波」となって襲ってくるという「不安感」から、業績が上がっても従業員にやすやすとは「分配」することができないのだ。

ところで、社会不安はマネーの流ればかりではなく、面白い「売れ筋」を生むことがある。
日本の「平安時代」は、まさに「不安のオイコノミヤ」が適用できる。
歴史を振り返るに、平安時代は藤原氏全盛の時代だが、日本では浄土信仰に加え「末法思想=終末思想」の影響で日本全体でかえって仏像つくりが盛んになった。
大量生産に応えるために、「一木造り」からプラモデルをつくるような「寄木造り」に変化することにもなった。
さて、こうした不安心理は、マネーの流通にも変化を起こすこととなった。当時の日宋貿易でやたら目立ったのが「宋銭」の輸入だが、そんな大量の宋銭が本当に必要だったのか、それらが本当に流通したのか疑問である。
実は、中国から銅銭を輸入するなんていう「発想」は、平清盛によって生まれたモノではない。
それは、「銅」がほしかった寺社勢力によるものだった。寺社が「銅」が欲しかった理由というのが面白い。
仏像を大量につくる為には仏像の素材たる「銅」が必要になったからである。
最初、中国の貨幣を材料に「経筒」(経典を収める筒)が作られたようになり、それが「仏像」にまで発展していったのだ。
仏教勢力は貨幣としての「名目」よりも、素材としての「実体」に目をつけたということだ。
それをヒントに、この宋銭を日本でそのまま「通貨」として流通させるということを思いついたのが、平清盛だった。
通常、外国の通貨をそのまま国内で流通するなど、「不敬」のキワミだが、平家は年貢を「宋銭」で支払わせるまでに至ったのである。
当時、人々は絹・米の代わりに「宋銭」を貨幣として受け取ったとしても、仮に「通貨として何物にも交換できなくとも、そこから「仏具」になるし、経筒の「材料」となるという気持ちあったのである。
さらに、平清盛は、絹や米と格段違って「貨幣」というものが取引を一気に拡大させ、それがサラニ膨大な「税(年貢)収」を生む可能性を認識していたのだ。
もし「宋銭」が全国に普及すれば、その輸入を平家が独占的に担うことにより、宋銭の「販売益」を独占できる。
そればかりか、朝廷が握っていた「通貨発行権」を実質的に自分の側に引き寄せることにつながる。
それで、瀬戸内海の各地で行われた大規模工事の賃金を「宋銭」で払ったり、平家の勢力が及ぶ広大な領国・荘園において年貢を「宋銭」で納めさせた。
こうして平清盛は、不安な社会情勢の中で、宋銭を流通させ「特異な徴税力」を握ったのである。
結局、平清盛が輸入した宋銭の通貨価値を保証したのは「末法思想」ということになる。
それによって、皆が「宋銭は、誰にとっても価値がある」と思われる状況が出来ていたということである。
平安時代は、「不安」が作った特異な経済社会だったといえる。
現代においても、「不安」は面白い「売れ筋」を生んでいる。その一つが「金庫」の売れ上げの増加である。
2015年10月に施行された「マイナンバー制度」。個人資産の情報を捕捉されたくないとの理由から、「10月以降、急激に売り上げが伸びた。そしてもう一つは、昨年年1月に日本銀行が発表した、「マイナス金利」の導入だ。
マイナンバーやマイナス金利の導入で不安に駆られた人々が金庫を買っているのではないか。
売れれ筋は1万1800円の金庫で、購入者はどちらかといえば、年配の男性が多い。大人二人で持ち運びができる重さ40キログラムの金庫。鍵形式が人気を集めているという。
金庫は小売店だけでなくネット販売でも好調だという。
またここ数年、故人の遺志で「献体」を申し出るケースが飛躍的に増えてきた。2012年度は解剖数3728件に対し献体数は3639件(献体比率97.6%)。献体でほぼすべての「解剖実習」を賄えるようになっているから驚き。
要するに「献体ラッシュ」が起きているのだ。
大学側から積極的に献体を呼びかけるような広報・宣伝活動はほとんど実施していない。
「基礎医学」を支える献体の世界に何が起きているというのか。献体とは大学医学部の解剖実習のため、死後、自らの身体を捧げることである。
それは、社会貢献の1つのカタチとして「献体」が位置づけられている。
30年前は、解剖実習に使われる遺体の多くは警察から提供を受けた「身元不明」の死体だった。
東日本大震災以降、「自分の死に関心を抱くようになった」という人が増え、献体を選択する人も一部で現われ始めた。
こうした人々の多くは、「人はいつ何時、死ぬか分からない存在。葬送を自分で決められる献体を選ぶことで、前向きに生きられる」との理由を挙げている。
しかし、核家族化によって、独居老人が増え、孤独感、死後の不安感ゆえに「献体」を申し出るケースが多いのが特徴である。
献体すれば、死後、防腐処理が施された上、大学で一定期間保管され、解剖実習後は遺骨となって遺族の元に還される。引き受ける遺族がいなければ遺骨は大学内の供養塔などに収められる。
大学では、定期的に慰霊祭を実施している。つまり、献体することによって、「死後」が見える安心感が得られるからなのだろう。
平安の時代も平成の時代も「不安のオイコノミア」は、予想外のお金の流れや売れ筋を生んでいる。