アジアの架け橋

最近、「佐賀弁ラジオ体操第一」がユーチューブ等で評判になっている。
その一部分を抜粋すると、「腕ば前さい、くぅ上げてから、がばいふとぉ、しぇのびの運動」(腕を前に、ぐっと上げてから、大きく背伸びの運動)、「そいぎ、腕ばごいごいごいで回さ んば」(腕をぐるぐると回しましょう)、「足ば横さいひっとだかして」(足を横に開いて)、「ごちゃばそいくいかえらしぇんば」(体を反らせます)」など。
というわけで、佐賀県民以外はほぼ意味不明に近い「ラジオ体操第一」のだが、失礼ながら「笑い」をこらえなければ体操できないのは、「腹筋」にもいいのかもしれない。
ところで、静岡の出身でありながら、佐賀県の方言を研究し、それを基に「佐賀方言辞典」を編纂した小学校の先生がいる。
その人は、意外にも中国の作家・魯迅に日本語を教えたこともある、松本亀次郎である。
それでは、静岡の小学校の一教師に過ぎなかった松本が、どうして「佐賀方言」と関わり、なおかつ世界的文豪と「接点」を持つに至ったのか。
東京の文京区関口の江戸川橋から神田川沿いに東にある西五軒町あたりには中国人留学生が日本語を学ぶための施設である宏文学院があった。
この西五軒町あたりは出版社が密集しており、今、宏文学院の場所を確認することは困難だが、ここには魯迅も通っていたという。
この宏文学院で、多くの中国人留学生に日本語を教えたのが松本亀次郎である。
西欧列強の脅威を前にして、清国政府は1905年から1910年にかけて1万人を超える中国人留学生を日本に送った。
宏文学院は当時、東京高等師範学校の校長をつとめていた嘉納治五郎が、清国政府の要請をうけて開いた中国人留学生のための予備校だった。
それは、帰国すれば近代中国建設の中心的役割を担う留日学生を育てることを目的に設立されたもので、日中友好の「架け橋」になるに違いないものであった。
実は松本は、それ以前に小学校・師範学校で15年間、国語科の教員を続けてきたが、1903年37歳のとき突然辞職した。
そして松本が、まったく未知の、中国人留日学生に日本語を教えるという仕事に飛び込んでいったきっかけとなったのが、嘉納治五郎が書いた一文であった。
それは、小学校で真に力のある教育家が多年小学教育を担当すれば、児童の将来の心身発達の基礎を作ることができると強調している一文であったが、今までの教育界において、小学校教育の大切さをこれほど世に向けて発信した人物はいなかった。
そして松本は小学校教育の大切さを認めてくれた嘉納に心ひかれ、何らかのコンタクトをもったことが推測できる。
松本は静岡袋井の人だが、佐賀県師範学校で勤務したことがある。その時の校長が、静岡師範・静岡中学在職中の校長でもあったため、この校長が招いたものだろう。
松本は佐賀師範で、「方言辞典」を編纂するという思ってもみない仕事を託された。
そして1902年6月に出版された日本で最初の方言辞典を編纂完成した。
そして松本はこの「佐賀県方言辞典」の出版により、初めて国語学者として世に認められた。
1902年といえば、嘉納治五郎は中国を訪問し清国政府の要請を受け、宏文学院の教授陣の強化が迫られた時期でもある。
嘉納は世に出ていない優れた人材を見つけだすことを常に心がけていたが、1903年4月嘉納はこの松本亀次郎を宏文学院に招いたのである。
松本は、尊敬する嘉納により招かれたことを誇りに思い、今後宏文学院に自らの人生を託すことにして、中国人留学生に日本語を教えることは自分の天命だと感じたようだ。
結局、松本は約80年の生涯のうち35年余りを中国人留学生教育に捧げることになる。
松本は1903年4月から1908年2月まで宏文学院で勤務したが、その中には後に世界的文学者となる魯迅もいた。
松本によると、魯迅は言語感覚において非凡さをすでにみせていて、松本に「流石に」の適訳がないといって嘆いていたこともあったという。
魯迅の日本文の翻訳は最も精妙を極め、原文の意味をそっくり取って訳出しておきながら訳文が穏当でかつ明瞭であったために、学生間では「魯訳」といって訳文の模範にしていたという。
このように日本最初の中国人留学生の教育機関として期待を集めていた宏文学院だが、留学生の激減により1909年7月に閉校を余儀なくされた。
しかし松本は1914年12月留日学生のための学校「日華同人共立東亜高等予備学校」を創立した。
予備学校創設という事業は同じであっても、嘉納の依頼者は清国政府であったが、この東亜予備校設立の依頼者はたった一人の中国人留学生であった。
その時松本は東京府立第一中学校の教諭をしていたが、その時に湖南省出身の曽横海が、松本に日本語講習会の講師を依頼してきた。
湖南省出身者だけでも400人以上の留日学生がいることを知って、松本は私財を投じて学校を設立する決意をする。
そして東亜高等予備学校には、毛沢東の朋友となる周恩来が学んでいる。
個人的な話だが学生時代に神楽坂近くに下宿しており、この界隈が中国革命の震源地のひとつと知って20年も経て、魯迅や周恩来の足跡を辿ったことがある。
神楽坂を下って文京区の関口方面に歩くと山吹町界隈につくが、このあたりに周恩来が下宿していた時期がある。
山吹町あたりは細い路地が迷路のように重なりあった所で、その場所を特定することはできなかった。
ところで日露戦争後、「日本の近代化に学ぼう」と多くの中国人留学生が日本にやってきた。
しかしその中国人留学生達は、その出身地によって違いがあった。
黄興をリーダーとする「湖南省出身者中心」の華興会 孫文をリーダーとする「広東省出身者」中心の興中会で、この二つのグループを結束して「中華革命会」が結成され、それによって東京は辛亥革命の拠点となったのである。
そして両方の出身者の合同会が開かれたのが、東京神楽坂の「鳳楽園」という中華料理店であった。
神楽坂には中国留学生達が集まり中国革命同盟会の機関紙「民報」などが発行された。
神楽坂から近い神田や神保町に中華料理店が多いことも、かつてそこに多くの中国人留学生が学んだことと関係している。
周恩来がよく通った「漢陽楼」は、当時の猿楽町から小川町へと少し場所を移動したが、そのまま神田で店をだしている。
初代店主は、周恩来と同じく紹興人であり、周恩来は同郷の味をもとめてここに通ったと思われる。
神保町の白山通り近くに「愛全公園」という小さな公園があるが、1913年秋、松本亀次郎が中国留学生のために創設した東亜高等予備学校があった場所で、「周恩来ここで学ぶ」の石碑がかろうじて当時の面影を残している。
ところで魯迅は宏文学院を卒業後一人仙台に向かい、現在の東北大学医学部に学んだ。
彼はこの大学で彼自身の人生を「転換」せしめる決定的な体験をする。
ある日のこと大学の階段教室で幻灯の上映が行われ、中国人が日本人に銃殺されているシーンを見たのである。
周囲の日本人学生の喚声があがる中、その銃殺の周囲にいる中国人民衆の無表情さ・無関心さに大きなショックをうけた。
そしてこの時、彼自身の内部で憤怒とともに恥辱の気持ちが広がり医学を学んで「人の体」を直すよりも、中国人の「精神を正す」文学を志す決意をする。
この幻灯のシーンの中の民衆の姿をシンボリックに描いたのが「阿Q正伝」である。
ところで仙台でひとり学ぶ孤独な魯迅にとって救いとなったのが、東北大学の教授であった藤野厳九郎であった。
魯人が小説のタイトルにもした「藤野先生」は、魯迅のノートを細かに添削して魯迅の勉学の進路について絶えず励してくれた。
魯迅は、藤野先生の恩を一生忘れずに、藤野先生の写真をいつも座右においていた。そして藤野先生が極め細やかに添削したノートは現在、東北大学資料館に展示してある。
ところで、かつて勤務していた高校の同窓会誌で魯迅にとっての「もうひとりの恩人」ともいうべき鎌田誠一という人物を知った。
同窓会誌会誌には鎌田氏について「魯迅の恩人」と紹介されていた。
魯迅の時代を簡単に述べると、孫文死後その後継者であった蒋介石は、「孫文の遺志」をウラギリ共産党を攻撃に転じた。
魯迅は中国に帰り大学などで教えながら「文芸」にたずさわっていたが、左翼作家連盟に所属し共産党に近かったため、魯迅にも身の危険がせまっていた。
そして魯迅がよく利用していたのが上海にあった日本人経営の内山書店である。
魯迅は上海に住むようになって、ほとんど毎日内山書店を訪れ、多くの日本の書物、あるいは海外の書物を購入している。日本人と中国人の文化人が出会う場所になっていたのだ。
そして内山書店で働いていた鎌田誠一氏は、店主の内山完三の依頼に従い、魯迅を匿ったのである。
魯迅は鎌田氏を「終生の恩人」と感じており、鎌田氏の墓碑には「魯迅の書」が彫られたという。
また鎌田氏の母校である糸島高校の図書館には、上海の魯迅博物館より送られた著名な書家による校訓「自主積極」の文字が掲げられている。
なお鎌田家の人々はその後もなお「日中友好の絆」をうけつがれ今もなお友好のために活躍されている。

松本亀次郎の功績は日中の「架け橋」になったことに加えて「佐賀の方言」を研究したことだが、個人的に知っている佐賀の方言といえば、「がばい」という言葉ぐらいである。
2007年8月、夏の甲子園は、「がばい旋風」が吹き荒れた。佐賀北高校が4-2で広陵高校を破った決勝戦は、高校野球球史に残る「奇跡」といってよい。
佐賀から広島に転校したお笑い芸人の島田洋七が、2004年に出した「がばいばあちゃん」が評判になっていたことと重なって「がばい旋風」とよばれた。
ちなみに、「がばい」とは「すごい」を意味する佐賀弁である。
さて、甲子園の歴史において、これまで様々な「旋風」が吹いたが、その「旋風」の始まりといっていいのが「カノー(嘉義農林)旋風」ではなかろうか。
台湾が日本統治下にあった1931年、夏の甲子園大会に出場し決勝にまで進出した台湾チームがあった。その時の監督は近藤兵太郎という日本人であった。
近藤は、日本と台湾のプロ野球交流の土台を築いた人物であり、日本プロ野球界に台湾から傑出した選手が時々入団するのも、近藤あってのことである。
その意味では、日中交流の礎を築いた松本亀次郎とも似た面がある。それでは、どうして近藤は台湾野球と関係をもつに至ったのろうか。
近藤は1888年に愛媛県松山市萱町で生まれ、1903年に松山商業に入学し、創部間もない弱小の野球部に入って内野・外野手として活躍し、主将も務めた。
卒業後は徴兵検査を受けて松山歩兵二十二連隊入営、陸軍伍長として満期除隊し、家業を継いだ。
1918年に母校・松山商の初代・野球部コーチ(現在の監督)となり、翌年にははやくも松山商を初の全国出場(夏ベスト8)へと導いている。
周囲からは「コンピョウさん」と呼ばれ、親しまれる反面、生徒から「まむしと近藤監督にはふれるな」といわれるほどに恐れられた。
1919年秋、野球部コーチを辞任するや台湾へと赴き、1925年に嘉義商工学校に「簿記教諭」として着任した。
その後1931年、同じ嘉義にある「嘉義農林学校」の野球部の監督に就任した。
この年には、はやくも嘉義農林を第17回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)においてを初出場ながら決勝まで導くという快挙を達成している。
決勝では、この年から史上唯一の3連覇を達成する事になる中京商に0-4で敗れ、「準優勝」に終わった。
近藤は嘉義農林の野球部が台湾人、日本人、原住民族の混成チームであることに違和感を覚えず、校内で野球に適した生徒を見つけて野球部に入部させた。
そこで台湾最強チームを作るべく、松山商直伝のスパルタ式訓練で選手を鍛え上げ、チームを創部3年めにして、全国準優勝するまでの強豪へと育て上げた。
準優勝したメンバーのうち、レギュラーメンバーは日本人が3人、台湾本島人2人、先住民族(高砂族)4人であった。
先住民族の走力のせいか、非常に快速のチームで、準々決勝の札幌商戦では1試合で8盗塁を記録している。
当時の嘉義農林の活躍はセンセーショナルで、作家・菊池寛は観戦記に「僕はすっかり嘉義びいきになった。日本人、本島人、高砂族という変わった人種が同じ目的のため共同し努力しているということが、何となく涙ぐましい感じを起こさせる」と記している。
また監督の近藤兵太郎自身も、「日本人、台湾人、先住民族(高砂族)が混ざりあっている学校、そしてチーム、これこそが最も良い台湾の姿だ。それが負けるとしたら努力が足りないからだ」とまで言っている。
足の速い台湾の原住民族、打撃が素晴らしい漢民族、そして守備に長けた日本人の3つの民族の混成チームが弱いはずがないというわけだ。
ちなみに、現・北海道日本ハムファイターズの「陽岱鋼」(よう だいかん)は、台湾の台東県台東市出身で、台湾の原住民・アミ族出身である。
台湾人史上最高位の指名(ドラフト1位)を受け、台湾では話題となった。
日本国籍を持たないが、日本の高等学校(福岡第一高校)に3年以上在籍していたため、規定により日本国籍を持つ選手と同等の扱いを受けている。
近藤は終戦後の1946年に日本に引き揚げ、晩年は新田高等学校や愛媛大学などで野球部監督を務めた。
2014年台湾で、近藤が指導した嘉義農林学校(現・国立嘉義大学)の野球部の活躍を描いた映画がつくられた。
「KANO 1931海の向こうの甲子園」で、翌年日本でも公開され、永瀬正敏が近藤を演じている。
「KANO」は、それまで1勝もしたことがないKANOつまり嘉義農林学校が、日本人監督に率いられ、夢の甲子園で大旋風を巻き起こした実話をもとに制作され、台湾映画史上、空前の大ヒットとなった。
ところで、近藤兵太郎は、嘉義農林を率いて春夏連続出場した1935年夏の甲子園で、「準々決勝」の対戦相手となったのが母校の松山商業であった。
延長戦の末4-5で惜敗したが、松山商はその後、準決勝・決勝と勝って初の全国制覇を達成している。
応援に駆け付けた近藤兵太郎は松山商を率いていたかつての教え子・森茂雄監督と涙を流して喜んだという。
この夏の甲子園に出場し8強に進んだ時の日本人選手の中に、今久留主淳(いまくるす すなお)という選手がいた。
今久留主淳は、戦後はプロ野球・西鉄(現西武)などで内野手として活躍し、現役引退後、西鉄のコーチや寮長として選手を育てた。
この今久留主淳の息子が、福岡市西区の筑前高校の野球部のコーチを務める今久留主邦明である。
今久留主邦明氏は、1969年「春の選抜」で「福岡県立博多工業高校」の主将捕手4番として、岩崎投手とバッテリーを組んで「全国ベスト4」に進出している。
その年の夏の甲子園で、松山商業が三沢高校との再試合ともなった死闘の末、全国制覇を成し遂げているのも、ちょっとした偶然である。

松本亀次郎は約80年の生涯のうち35年余りを中国人留学生教育に捧げた。
日本の公 立小学校の平凡な教師であった松本が、なぜ37歳で中国人留学生の日本語教育と深く かかわりを持つようになったのか。
その転機は嘉納治五郎の書いた「教育家」との出 会いであった。
小学校教育の大切さを世に発信した嘉納にあこがれ、その嘉納に宏文 学院へ誘われたことである。
帰国すれば近代中国建設の中心的役割を担う留日学生を育てることの重大さ、それを実践する方法として①日本語をわかりやすく教授するこ と②そのために文法を中心とした教科書を作ること③東亜高等予備学校を創設したこ とである。
これらの行動を支えたものは日中親善であった。
日本の文化の形成に大きな影響を与えてきた中国は、19世紀以来欧米諸列強のたびかさなる 侵略にさらされ、1895年には日清戦争に敗北した。さらに1899(明治32)年にはじまる義和団 事件では北京が列強によって占領されるにいたった。このような状況のなかで、清国政府は大 規模な変革を迫られ、その中でも近代教育制度の導入が最重要課題となった。
清国政府は日本政府に対し留学生の受け入れを要請した。それは、近代学校制度及び留学制度が、 1300年余り続いた科挙にかわるものである、と位置づけられたからである。
それにともない 1905年から1910年にかけて1万人を超える中国人留学生が日本に来たといわれる。
その目 的は①日本を通して西洋の学問を学ぶこと②それを中国語に訳して母国に持ち帰ることであっ た。
一方近代教育建設のために清国政府は、多くの日本人教習の派遣をもとめてきた。日本政府 はその要請に応じて、数100人にのぼる日本人教習を派遣した。
清朝政府の招聘に応じて海を渡った日本人教習が果たした役割は大きかった。中国各地の学堂においてその中心となって 近代教育に取り組んだ。その学堂の一つ北京の京師法政学堂で教鞭をとった日本人教習松本亀次郎がいた。
実藤恵秀は松本について、日本留学史の第1期(1896年~1937年)までの40年間 のうち、35年を留学生教育にささげた中心人物であり、また日本語教育の代表者である、と評 している。その理由として、明治時代中国人留学生教育をおこなった人々はいずれも限られた 時期だけであるが、松本は一生の大半を留学生教育にささげたといってもよい、と述べてい る。
本稿は、松本が公立学校を退職してまで、宏文学院に転職した理由をふまえ、日本語教師と して近代中国における教育の発展に寄与した松本の人物像を明らかにすることにある。 中国人留日学生の日本語教育を通して松本亀次郎が果した役割について(高橋良江) (2)静岡師範学校への熱望 松本は授業生としていくつかの小学校に勤めながら、師範学校の入学準備に励んだ。向学心 が強く、1882(明治15)年5月から1883(明治16)年2月まで、横須賀の漢学者常盤健のもと に往復4里の道を通って学修した。この時のことについて松本は、1893(明治26)年の高等小 学校の正教員免許状取得のための履歴書に次のように記している。 明治十五年五月ヨリ静岡県遠江国城東郡横須賀町常盤健ニ就キ漢学ヲ修メ十六年十二月迄、 小学、四書,五経、文選、左傳、国語、史記等ヲ講習ス(9) また毎日近くの鶴翁山の高天神神社にこもって四書五経を暗誦する猛勉強ぶりだったといわ れている。ではなぜこれほど勉強をしたのか。それは教員の資格をとるために静岡師範学校へ 入ることを熱望していたからである。この当時貧しいが優秀な若者にとって、師範学校は最高 の学び舎であり、公費で教育が受けられる唯一の場であった。静岡師範学校への入学は難しか った。すでに二度も失敗していた松本は、ますます故郷へ帰れなくなっていたが、あきらめる わけにはいかなかった。故郷の鷲山顕三郎や、中谷次郎作(10)らの学資援助者に、静岡にとど まって受験勉強をしたい旨の手紙を書いている。そして松本は思いきって直接静岡師範学校長 の林吾一に嘆願書を書いた。 松本は難関を突破して編入学した静岡師範学校を卒業すると、静岡高等小学校の訓導となっ た。さらに勉学を続け、1889(明治22)年4月高等師範学校に試験生として入学して三ケ月後、 過労と病気で退学を余儀なくされたのである。 高等師範学校を断念した松本は、1890(明治23)年4月、静岡高等小学校東部分校の首席訓 導になった。この頃になると教師としての自覚がでてきた。今までと違って、教員の先頭にた って働き、ようやく基礎も固まり、保護者の信頼も得られるようになっていた。しかし、もう 一度高等師範に復学したい、そんな心境について松本は次のように述べている。 この時本当の意味で教師を一生の仕事にする決断をしたのである。生徒一人ひとりのもって いる能力を最大限に引き出すこと、教師は最後まで教師であるが、ここで学んだ生徒はどれだ けの可能性をひめているかわからない。この行末を見届けたい。その思いで小学校教育にうち こもうと決心した。その後自分の考えと同じことを述べている嘉納治五郎の文章に出会う(後 に詳述する)。
この後、1897(明治30)年7月文部省中等教員検定試験に合格、師範学校の国語教諭として 9月より母校静岡県尋常師範学校を皮切りに、1898(明治31)年4月三重県師範学校、 1900(明治33)年10月佐賀県師範学校教諭として歩みだしたことが、のちの留日学生教育とむ すびつくのである。
松本がこの学校に来たときの校長は江尻庸一郎である。江尻はかつての静岡師範・静岡中学 在職中の校長でもあった。おそらく松本を佐賀県師範学校へ招いたのも江尻校長であると思わ れる。江尻は当時佐賀県教育会(教職員団体の会)会長を務めていた。この会では、佐賀県の 中国人留日学生の日本語教育を通して松本亀次郎が果した役割について(高橋良江) 方言を収集しており、それに基づいた方言辞典を編纂するという仕事に佐賀県中学校教諭の清 水平一郎と松本が選ばれた。
この辞典は、1902(明治35)年6月15日に出版された日本で最初の方言辞典である。出版さ れた方言辞典の冒頭には、東京帝国大学の国文学教授の上田萬年の手簡(16)が掲載されている。
それには「元来此事業は頗る容易に似て、決して容易にこれなく候間、御励精御尽力の上完全 無欠なるものを御編纂相成候様致度。其成就致候暁には、我邦の教育上及び学術上に貢献する ところ蓋し。鮮少にあらざるべしと存候。右貴会の事業に対し、ここに慶祝の意を表す」とあ る。(17)松本家の遺品の中には『佐賀県方言辞典』の原稿も残されている。 この「佐賀県方言辞典」の出版は、松本らに自信を与えると同時に、初めて国語学者として 世に認められたものであった。一冊の本を仕上げて、上田萬年らの研究者たちにその実力を認 められたことは、何物にも代えがたい満足感であった。
松本は小学校・師範学校で15年間、国語科の教員を続けてきたが、1903(明治36)年37歳の とき突然辞職して、まったく未知の、中国人留日学生に日本語を教えるという仕事に飛び込ん でいった。それはなぜだろうか。その動機には諸説がある。①宏文学院には国語学の人材が揃 っていたこと、公立学校での恩給がついたので新しい道に転じたかったこと、②ことによると 彼は公立学校の教員生活に行きづまりを感じていたのかもかもしれないという説もある。(18)ま た③東京転勤の年8月31日には父市郎平が他界していることから、郷里静岡に近い所に戻りた いという希望が強かったからだと考えるという説もある。
転職理由として第1に考えられるのは、前記の『佐賀県方言辞典』の編纂によって世に認め られた自信、第2は次の文章との出会いであると考える。これは嘉納治五郎が雑誌『国士』に 発表した論文「教育家」である。少し長いが重要なのでここに記す。
然るに世間動もすれば中学小学等の教員を軽んじてかくの如き職業は、第一流の人士の従 事することに非ざるかの如く考ふるものあり。我等は、之を以て大なる誤とするものなり。 固より一国には多数の中学教員を要し、又更に多数の小学教員を要す。故に此等多数の中 小学教員をして、盡く第一流第二流の人士たらしめんことは、固より望んで得らるべきこ とに非ず。然れども此等の職業は、第一流の人士も、従事して決して恥づべきことに非ず。 また第一流の人士にして之に従事すれば、他の政治軍事、又は実業等に徒事するに比して、 敢て劣る事なき結果を来すを得ることは、我等の主張する所なり。小学教員の如きは、之 を施す時代の、之を受けたる児童が、他日世に立ちて終生の業務に徒事する時代と頗る相 隔たる故を以て、其小学教育の結果の他日に及ぼす影響の果して幾何なるかは、判然見る べからず。然れども若し真に有力なる教育家ありて、小学時代の教育を担当し、児童の将 来の心身発達の基礎を完全に造出し加之間接にも小学以後の教育の指導を為すことを得ば、 幾多の児童中よりは、他日各方面に於て大なる功績を立つへき人物を出すこと能はざる理 なし、今日尋常の学識、尋常の才能を有する人にても、多年小学教育に力を尽くしたるが ― 57― 佛教大学大学院紀要文学研究科篇第40号(2012年3月) 為、其人の薫陶を受けたる児童の後年に至るまで其人を慕ひ、其人の指導を受けて一身の 方向を定むる場合少からざるは、世人の知れる所なり。況んや天下第一流の人才にして、 終生斯業に従事せば、其の指導を受けんことを欲するもの固より多かるべく、又其の教育 せる児童の将来従事する各般の事業に及ぼす影響の何如に大なるべきかは、之を推測する こと難からず。(20) 嘉納は世に出ていない優れた人材を見つけだすことを常に心がけていた。彼は師範・中学校の 教諭だけでなく、小学校で真に力のある教育家が多年小学教育を担当すれば、児童の将来の心 身発達の基礎を作ることができると強調している。今までの教育界において、小学校教育の大 切さをこれほど世に向けて発信した人物はいなかった。 嘉納の文章が『国士』に発表されたのは1901(明治34)年7月、『佐賀県方言辞典』が刊行 されたのが1902(明治35)年6月、その『佐賀県方言辞典』により上田萬年に認められ、嘉納 の宏文学院へ誘われたのが1903(明治36)年4月である。嘉納が中国を訪れたのは1902(明治 35)年7月、宏文学院の教授陣の強化が迫られた時期でもある。 松本は宏文学院の教師となった動機を後年留日学生の汪向栄に質問された時、次のように述 べている。 私は幼い頃から中国の書物に好感をもっており、『四書』『五経』といった漢文を、ほかの 人は苦手としたが、私は愛読した。その「漢籍」から多くの知識をえたので、清国に対し て、自然に愛慕の気持ちが生じた。当今は中国の国勢が不振であるが、この国家と民族は 永遠にこのままでありつづけるはずがないと信じ、私の愛慕する国家のために仕事をしよ うと考えて、嘉納先生が招いて下さったとき、喜んで応じたのである。今日私の教育して いる学生は、いずれ中国の中心になるものと、私は信じている。(21) 松本は、小学校教育の大切さを認めてくれた嘉納からの誘いを心待ちにしていたのだと思う。 宏文学院へ行くことで今後の自らの人生を託そうとしたのである。そこにおいて留日学生に日 本語を教えることは自分の天命だと感じた。 (2)宏文学院における松本 中国から留日学生が来るようになったのは、1896(明治29)年日清戦争終結の翌年であった。 清国政府は13名の官費留学生を日本に送ってきた。当時高等師範学校校長であった嘉納治五郎 は、文部大臣兼外務大臣西園寺公望の依頼を受けて、この最初の留学生の教育を引き受けた。 嘉納は、この13名の留学生のため神田に塾舎を設け、同校教授本田増次郎を主任として数名の 教授を招聘して、日本語・日本文法及び普通科の授業を始めた。これが日本における最初の中 国人留学生教育である。 松本は1903(明治36)年4月から1908(明治41)年2月まで宏文学院で勤務した。嘉納が松 本を招いた動機は、小学校教師としても、教授法や国文法においても一流の実力を持っている ― 58― 中国人留日学生の日本語教育を通して松本亀次郎が果した役割について(高橋良江) と判断したからである。これらの条件は、中国人留学生に日本語を教える適任者と思われる。 前述の『国士』教育論の中でも述べているように、小学校教育の重要性を説き、自分に期待し てくれている嘉納のもとで仕事をしたかったのである。その時のことを松本は回顧談のなかで 次のように述べている。 老生初めて支那留学生に日本語を教授したのは明治36年即ち老生が37歳の時、嘉納治五郎 先生の宏文学院に雇われた時である。 この当時の宏文学院には速成師範科、速成警務科、普通科があった。…僕が教授した班は、 普通科は浙江班、速成科は四川班と直隷班であった。(22) またその当時、日本語を教えていたある日の授業風景を記している。 普通班は卒業後、高等学校或は専門学校に入学して日本の学生と同じく教授の講義を聴か ねばならぬから、日本語の学習には熱心であった。…僕は他の講師が去った後を引継いだ ので彼等の日本語は既に相当程度に達してをった。或日、助詞のに ・ に漢字を充てる必要が 生じ、に ・ は漢字の于又は於に当ると黒板に書いた処が、万家福氏が于於と二字書くには及 ばぬ。于でも於でも一字書けば同じだから宜しいと言ひ出した。処が僕にして見ると、そ の時分はまだ支那語で于於の二字が同音であることは全然知らないし、「操觚字訣」や 「助辞審詳」などで面倒な使ひ分けを習つて居たので、それが無区別だ、一字で用が足り る、と言はれて些か面喰った恰好であつたが、その時魯迅が言を挿んで于於が何処でも全 く同じだと言ふのではない。に ・ に当る場合が同音同義だからどちらでも一字書けば宜しい と言ふのですと説明した。それを聴いて僕は漢文字の使用法は本場の支那人と共に研究す る必要の有る事をつくづく感じさせられた。 さらに、松本は魯迅のことをこう記している。 魯迅は少年時代から凝り性であったので日本文の翻訳も尤も精妙を極め、原文の意味をそ っくり取って訳出しながら、その訳文が穏当で且流暢であるから、同志間では「魯訳」と 云って訳文の模範として推重したといふ事である。(23) このように秀れた留日学生から学ぶ点は多かったと推察される。松本が宏文学院で留日学生に 日本語を教えていた当時(明治30年代後半)の先輩教師に三矢重松(高等日本文典の著者)、 松下大三郎(国歌大観、標準日本文法、標準漢文法の著者)、井上翠(日華新辞典、支那語辞 典の著者)、難波常雄(支那人名辞書の著者)、佐村八郎(国書解題の著者)、柿村重松(和漢 朗詠集考證の著者)等(24)がいた。彼らは後の日本文法学の大家になった人々である。 (3)教科書作り 松本は、ある程度基礎の日本語や漢語の学習ができている留日学生について、次のように述 べている。 教授者被教授者双方共彼此の会話に通じないものが文法を教えるのは難儀であったが、 ― 59 ― 佛教大学大学院紀要文学研究科篇第40号(2012年3月) 短時間に日本語文を最も効果的に教へるにはどうしても文法を教へねばならぬ必要がおこ ってきた。(25) 松本は、日本語教育の問題点は文法にあることに気づいた。そこで、宏文学院教務長の三沢力 太郎(後湖北省の教習)の支援と学生たちの要望とにより、日本語文法の教案を作った。それ をもとに宏文学院の日本語教授らの総意で、翌1904(明治37)年7月に『言文対照・漢訳日本 文典』として出版された。この書物は松本の名声を一挙に高め、その後40版を重ねて昭和の中 頃まで、留日学生の間に広く活用された。この文法書の中国語の訳文づくりには、後に中国の 教育界で活躍した陳宝泉・高歩・王章祐(26)らが当時学生として参加していた。 つづいて嘉納の呼びかけで日本語教授研究会が結成された。松本の『文法教授案』を中心に 1年余りの論議の末、1906(明治39)年6月『日本語教科書』全3巻が出版された。 宏文学院でのこうした教科書作りの成果が、松本を北京京師法政学堂の教習の招聘へと結び つけたのである。以下は松本の著した日本語の教科書である。(27)なお①②は宏文学院の教員に よる力添えが大きかった。 ①『言文対照漢訳日本文典』1904年7月40版 ②『日本語教科書』全3巻1906年6月19版 ③『漢訳日本語会話教科書』1914年6月17版 ④『漢訳日本口語文法教科書』1919年10月24版 ⑤『訳解日語肯大全』1934年4月13版 ⑥『華訳日本語会話教典』1940年9月2版 (4)嘉納治五郎と松本の共通点 嘉納についていろいろ調べていく中で、松本と多くの共通点があることに気づいた。嘉納は 当時、高等師範学校の校長であり、日本の師範教育の中心にあり、清国でも日本の教育界の第 一人者として評されている人物である。一方松本は「努力を糧とする仕事人」と卑す無名の日 本語教師にすぎなかった。にもかかわらずこの両者を比較してみると、類似点が実に多いので ある。 ① 幼少時代 嘉納は自分の事を次のように述べている。 自分は性来人を教えることに興味を有していたので、幼少の時分、四書の素読を教わって いた頃、自分より年少のものを集めて、いろいろの文字を書きぬいて教えたこともある。 自分にとって、人に物を教えるということが一種の楽しみであったのであるからでもあろ うと思う。(28) 松本も前述したように授業生として、最初に下級生を教え始めたのが11歳。その後16歳で義 兄中谷次郎作の招きで大坂小学校の授業生となる。中谷は初めて松本に出会った時「この青年 ― 60― 中国人留日学生の日本語教育を通して松本亀次郎が果した役割について(高橋良江) は、教師が天職であると確信した」と述べている。(29) 嘉納と松本は共に幼少の頃から、教え ることに対して秀でた資質をもっていた。 ② 中国人留学生に対する考え 嘉納は留学生教育について、次のように述べている。 支那人の本邦に来遊するは固より賛成するところにして現に過般来、弘(宏)文学院(30)な るものを起して其養成に努めつつある。今後益々彼らの教養には力を尽くす積りなり。殊 に支那留学生を欧米諸国に派遣せしむ可きや或は我邦に渡来せしむ可きやの問題に就きて は自分は最も日本に留学せしむるの得策たるを信ずるものなり。其の理由の重なるものは 経費の多少は勿論、第一彼我道徳主義の根底を一にすることは最も養成に便利を感ずると ころにして、留学生自身も異文異教の土地に於て修業するに比すれば、其感覚も同日の談 にあらざる可し。要するに支那と欧米との文化程度事情等は懸隔甚だしきに過ぎるがゆえ に、支那留学生の養成するところとしては本邦を以て最も適当とす可きなり。(31) 松本も留日学生の心得について次のように述べている。 温乎たる同情を以て、彼らの生活を助成し彼らの安全を保証し、彼らの祖先以来最も好き な学問教育をさせる様に導くのである。彼らの生活が安定し、意欲満足が英米露佛に依存 するよりも日本に信頼する方が事実増しであるならば何を苦しんで、同文同種の日本を離 れて目色毛色の違った異人種に就くものですか、興亜教育もその一部を為す日本語教授も 実利実生活に副ふようにせねば無効である。(32) とくに松本は欧州へ留学するより、日本へ留学した方が実生活において得策だと思わせなけれ ば意味がないと考えている。 ③ 留日学生のための学校創設と教育視察 両者はともに清国に好意的だったが、松本の場合は、留日学生の学習の目的は日本語の1日 も早い修得と日本人の思想、日本歴史、日本文化を学習し、実践させることであった。(33)した がって直接授業の中で政治・軍事について語るようなことはしなかった。 嘉納は宏文学院を創設するにあたり、このように述べている。 今回宏文学院といえる学校を起こし、清国よりわが国に来たりて、諸種の学問をなす学生 のために便宜を与うることとなり。この学校においては、清国学生に日本語を教授し、ま た普通教育を施し、各種専門学校に入るの予備をなさしむる計画なり。(34) しかし、日本最初の中国人留学生の教育機関として期待を集めていた宏文学院も、1909(明治 42)年7月に閉校した。その時の様子を松本は次のように回想している。 嘉納校長は「本学院は最初支那から依頼が有った為に設けたが今は依頼がなくなった為、 閉鎖するので学院として尽くすべき義務は茲に終わりを告げた訳である。」といふ様な趣 旨を述べられた。栄枯盛衰は世の常とはいひながら余りの無常さに並み居る教職員や自分 は無量の感に打たれた。(35) ― 61― 佛教大学大学院紀要文学研究科篇第40号(2012年3月) その時の松本の思いが、1914(大正3)年12月留日学生のための学校「日華同人共立東亜高等 予備学校」を創立した原動力かもしれない。予備学校創設という事業は同じであっても、嘉納 の依頼者は清国政府であり、松本の依頼者は一人の留日学生であったことに大きな意味がある。 3 日本語教師としての歩み (1)京師法政学堂時代 1911(明治44)年10月10日武昌で辛亥革命の口火がきられ、革命軍が武昌と漢陽を占領して、 湖北軍政府を組織した。その余波は全国におよび、1912(大正元)年1月1日南京に中華民国 が誕生した。このような状況の中で松本は、政治や軍事から常に一定の距離をおき、あくまで も日本語教師としての本分を忘れないように心がけていた。北京滞在は1908(明治41)年3月 から1912(大正元)年4月までの4年間であった。 松本は11歳から授業生をかわきりに、小学校訓導・高等師範学校教諭・学堂教習の生活を送 ってきた。留日学生の教育に専念するようになったのは、目先の損得からではなく、自分をこ こまで引きたててくれた嘉納に対する感謝の気持ちと、漢字の素養を身につける中で中国から 受けた文化への尊敬や理解を深めることができたからだと思われる。 松本が京師法政学堂で得たものは、一つは日本語教育の内容および方法を中国において実際 に検証・実践することができた点(しかし授業に関する資料はほとんどない)。二つめは教育 の現場を通して松本の交際範囲が著しく拡がったことであろう。松本は北京に在留している日 本教習および日本人の様子を次のように述べている。 其の頃、北京大学には服部宇之吉博士、法律学堂には岡田朝太郎・小河滋次郎・志田鉀太 郎・松岡義正諸博士、財政学堂には小林丑太郎博士、巡警学堂には川島浪速氏、町野武馬 氏(少将)北京尋常師範学堂には北村沢吉博士、藝徒学堂には原田武雄・岩瀧多麿諸氏が 居られた。又公使館には公使として初め林權助(男爵)後に伊集院彦吉(男爵)書記官に 本田熊太郎氏(当時参事官)松岡洋右氏(当時一等書記官)広田弘毅氏(当時三等書記 官)公使館付武官に青木宣純中将(当時少将)本庄繁大将(当時大尉)などが居られ、 碌々僕の如きも北京に居つたればこそ其等の人々の声咳に接し、一面の識を忝うするを得 たのは責めてもの思出と言わねばならぬ。(36) 北京で得たこの人脈が、その後東亜高等予備学校の設立にあたり、物心両面で大きな援助をえ ることになった。 (2)東亜高等予備学校の創設 1911(明治44)年の辛亥革命後、革命に参加した者や、もと留日学生が再び日本にやってき た。北京から帰った松本は東京府立第一中学校の教諭をしていた。そんな時、湖南省出身の曽 横海(37)が、松本に日本語講習会の講師を依頼してきた。湖南省出身者だけでも400人以上の留 ― 62― 中国人留日学生の日本語教育を通して松本亀次郎が果した役割について(高橋良江) 日学生がいることを知ったので、1914(大正3)年松本は私財を投じて学校を設立する決意を する。その時の松本は「留日学生に日本語を教えられる人は、そうざらにはいない。その上、 日本人には差別意識が強く、好んで中国人教師になろうとする人は少ない」と感じていた。創 設の動機について次のように述べている。 初めは湖南省留学生曽横海氏の請ひに依り、有志学生の教授に従事して居つたが、新規学 生の渡来する者が際限無く、(1914)大正三年正月、遂に意を決して、杉栄三郎・吉沢嘉 寿之丞両氏にも設立者に加名して貰ひ、予は設立者兼校長と成った。この校名を『日華同 人共立』とした。「日華同人共立」とは曽横海が精神的に尽力してくれて発足したのを記 念するためであった。(38) そんな松本の生涯をかけた思いも、1923(大正12)年9月1日関東大震災により一瞬のうちに 無になってしまった。その時の状況を松本はこう回想している。 坂を下りて我が東亜高等予備学校の焼けあとを訪ヘば校舎の他はただ鉄栅と石門が残って いるのみで、さしも宏壮を誇った三階建五百三十坪あまりの校舎と住宅は全部焼けて白い 灰となり、玻璃は溶けて膠の如く、鉄柱は曲がってごむ管の如くになって倒れているのを 見ては、いかに火力の強かったのかといふことが、想像され、去るにしのびなかった。(39) しかし、松本の東亜高等予備学校は、震災後の東京で最も早く授業を再開した。松本はその時 の様子について 復興の第一着手として、事務所兼教場を、中猿楽町の焼跡に建てる事に決した。其の焼瓦 や灰燼は人手を借りず、牧野事務員、栗原小使自身、畚に載せて校外に運び出し、校地の 周囲には、杭を打ち、鉄条を張りて、境界を正し、同年十月五日には、早くも仮校舎が出 来上ったから、予はここに移住し、十日から授業を開始した。震災後僅に四十日で、小規 模ながら、自力で建てた枚舎で、授業を開始し、復興の産声を揚げたのは、痛快であっ た。(40) と述べている。 松本は困難に出会うほど、負けじ魂を発揮した。それは「努力を糧とする仕事人」としてが むしゃらに人生を切り開いて来た強さであろう。そんな松本を北京時代からの同僚たちや東亜 高等予備学校で学んだ学生たちはどのようにみていたのだろう。ここに1930年代東亜高等予備 学校で学んだ趙安博の、「私の一高時代」という一文がある。 東亜高等予備学校は松本先生が1914年に創立された学校である。1917年には周恩来同志が 日本に留学しているが、やはりこの学校で勉強された。わたしがこの学校に入学したとき 松本先生はすでに頭髪に白髪がまじり、古希にちかいお年だった。先生の授業は活発さが あふれており、疲れなど毛ほどもみせず講義された。学生の出す難問にもいちいち根気よ く答えてくださる。先生はまた、中国の留学生が一日も早く日本語を物にできるようにと、 ご自分で何冊も日本語のテキストを編集された。それらのテキストはわたしたちの勉強に ― 63― 佛教大学大学院紀要文学研究科篇第40号(2012年3月) 大いに役立った。(41) また京師法政学堂の同僚であり、東亜高等予備学校創設の援助者でもある杉栄三郎は、松本を 評してこう述べている。 予が松本亀次郎君を知ったのは、(1908)明治41年、君が清国政府の聘に応じ、京師法政 学堂の教習として、北京に来任せられた時に始まり、爾来君の終生を通じ、親交易らざり しものである。…君は本学堂の教習として、実に多大の成績を挙げられた。其の因由は、 固より君が兼ねて、系統だてゝ研究せられし国語国文を、熟達せる教方により、授業せら れしことゝて、当然のことではあるが、原来教育は、学問の深浅、教授法の巧拙のみによ って、成果を決するものにあらず、人格が大いに関係するもので、殊に中国に於て然りで ある。君は資性温厚篤実の君子人であったので、其の人柄は、真に学生の胸裏に反映し、 学生は君を敬信し、忠実に其の教授を習受した。これが此の成果を齎した一大因由である。 …独り直接教育のみを云はんや。君には、又多数の著述あり、…之に因て、海の内外を通 し、日本語、日本文を諒解するに至りし者も尠なからざるべく…君が其の著述によって、 日本学の進展に貢献せられし功も、亦逃す能はざるところなり。(42) 杉のこの一文は、松本の京師法政学堂での教習としての姿勢や教科書が留日学生に与えた影響 などを実によく描いている。 また松本の最後の教え子と自認している汪向栄は次のように語っている。 松本先生はごく普通の日本人で、最近まで日本でもさほど知られていなかった。しかし、 中国人からすると忘れることのできない人物であり、とりわけ、中国近代史上における日 本留学生の貢献を論ずるときには、この純朴で、理路整然と教えられた老教育家を忘れる ことができない。(43) と、その人柄について讃えている。 (3)留日学生に対する教育観 松本はその履歴において、嘉納のように恵まれた環境で育ったのでもなければ、他の多くの 国文学者・教育者のようにある程度親の財力によって教育を受けて、教師になったものでもな い。静岡の田舎で農業兼木挽き職人の息子として生まれ、11歳の頃から教育の現場に立ちつづ けてきた。その中で様々な人々の援助によって日本語の研究をし、宏文学院で留日学生と接す る中で独自の教育観を持った。それは常に両国の教育者と留日学生との立場が平等で心が一つ になることであった。 彼は最初から、ある思想や信念をもって留日学生の教育にとりくんだのではない。嘉納に認 められ、留日学生との交流の中で、初めて会得した日本語教育であった。松本はその留日学生 教育の目的についてこう述べている。 最も多くの人の念頭に存する者は、日華親善の四字に在る様である。日華親善固より可で ― 64― 中国人留日学生の日本語教育を通して松本亀次郎が果した役割について(高橋良江) あるが、予が理想としては、留学生教育は、何等の求める所も無く、為にする事も無く、 至純の精神を以て、蕩々として能く名づくる無きの大自然的醇化教育を施し、学生は楽し み有るを知って憂ひあるを知らざる楽地に在って、渾然陶化せられ、其の卒業して国に帰 るや、悠揚迫らざるの大国民となり、私を棄て公に殉ひ、協力一致して国内の文化を進め、 統一を計り、…独り日本のみならず、世界各国に対しても親睦を篤くし、厳然たる一大文 化国たるの域に達せしめるのが主目的で、日華親善は、求めずして得られる副産物であら ねばならぬと考へるのである。(44) 松本は、両国に理解のある真の日華親善を図る条件としての概略を次のように述べている。 ① 今日までの親日も排日も日本の政治家の対支政策の反響であって、国民に対して排日 を唱えたことはない。政治家の言動が日華親善の教育に及ぼす影響の大きさを考えても らいたい。 ② 日本国民の中には、今日でも日清日露戦争に勝ったことで、民国人を軽蔑するような 言葉をはくものがいるが、慎んでもらいたい。まして世の中の指導的立場にある人の民 国人を嘲弄する発言は留日学生に不愉快な感情を与えるので謹んでもらいたい。 ③ 留日学生は父母の国を離れて、孤独で不自由な生活をしている。しかし、彼等は国に 帰れば、政治家、軍人、実業家、教育者等国家の要職につく人々である。日本人はもっ と敬意と同情の気持ちで接してもらいたい。特に、子供がむやみに民国人をののしる癖 を戒めてほしい。 ④ 留日学生の心得として、志を立てて国を出た以上、死すとも還らないぐらいの気概を 持ってもらいたい。 ⑤ 最も留意する事は、専門学科の研究はもちろんであるが、さらに日本人の尊皇心、愛 国心、敬祖心、武士道等の国民性を学んでほしい。平素から日本の各階級と交際して、 日本人と意志の疎通を図る努力をしてほしい。 そして最後に「日華両国は車の両輪の関係」であり、「共存共栄は天命として両国がしな ければならない使命である」と結んでいる。(45) 松本の人間性は日本語教師としての実践活動を通して形成され、留日学生と接する中で磨か れていった。戦争を否定し、両国との親善が日本語教育という手段で、結ばれてほしいと願っ ていたのである。 (4)いかにして民国人に接するべきか 松本はすでに長い留日学生教育者として、中国の指導層にも尊敬されていた。また4年間の 北京での京師法政学堂の教習経験により、日本の中国と関係のある政治家や官僚、軍人ら多く の知人をもっていた。 1930(昭和5)年の4月3日から松本は中国教育視察の旅に出かけている。同行者は東亜高 ― 65― 佛教大学大学院紀要文学研究科篇第40号(2012年3月) 等予備学校(46)の吉沢寿之丞、小谷野義万、日華学会(47)主事中川義彌である。その旅行の記録 と感想をまとめた『中国教育視察紀要』の最後に、次のようなことを述べている。 民国は今や民族的に目覚め、『民国は民国人の民国だ、民国内に於ては、領土、法権、政 治、経済、文化、教育の全般に渡り、他国の侵略を許さぬと云う思想』約言すれば、『打 倒帝国主義』なる思想は、可成り濃厚に行き渡り、殊に小中学生徒に対して、鼓励が最も 能く行き届いて居る。この時に当り、日本人が、僅かに一日の長を恃み、依然として日清 日露両役戦勝の旧夢より目醒めず、『民国人は個人主義だ』『国家的観念が乏しい』『全国 統一など出来る者か』『憲法政治なぞ河清を待つの類だ』などと言って、見くびつて居た ら、大間違ひである。言うまでもなく、民国の民族的に目覚めたのは、阿片戦争以後、最 近に至るまでの列強の圧迫に刺激されたもので、言い換えれば、列強の圧迫そのものが、 民国を覚醒したと言ってよろしいのである。(48) 重ねて言うが、真の提携は相知り相信ずるの者の間にのみ行わるべきもので、其の点に就 いては両国家相互の関係も、個人相互の交際と毫も変わりはないはずだ。この点、単に我 が国人に対して警告するのみではない。民国人の日本研究に対しても、皮相の観察の下に、 軽々に対日策など云為するならば、それも同じく国家を誤る基であることを断言するに憚 らぬ。(49) この内容を含む関係論考は『中華五十日游記附・中華教育視察紀要・中華留学生教育小史』 としてまとめられ、1931(昭和6)年7月日中関係の著名な人々に贈られた。それに対する自 筆の礼状が松本家の遺品の中に多数残されていた。(50)その中にポツダム宣言を受諾した敗戦時 の総理大臣鈴木貫太郎の礼状がある。松本にとって重要なことは満州事変を回避してくれるこ とであった。鈴木の返書には、 拝啓貴著中華五十日游記及中華教育視察紀要、今般杉博士ヲ経テ御寄贈ヲ辱ウシ候段感 謝ノ至ニ有之。其由々拝読可仕、尚永ク書宝ノ珍トシテ保存可致候。将又御挨拶中、対 支事件ニ関スル御憂慮ハ、全ク御同感ノ次第ニ御座候。先ハ不取敢謝辞申進度、如斯御座 候。(51) とある。この手紙の中で政治家鈴木が「対支事件ニ関スル御憂慮ハ全ク御同感ノ次第ニ御座 候。」と返事してくれたことに対し、松本は今後の政局に対して一定の期待をしていた。 松本はその後1944(昭和19)年故郷土方村に疎開して、この年の4月19日、鈴木内閣の成立 を知った。遺品の中に、この内閣の成立を告げる新聞が数部保存されていた。(52)この内閣に関 する記事が残されているということは、かつて手紙をくれた鈴木が、この戦争を終結させてく れる内閣になることを願っていたからだろう。 鈴木は軍事力の違いから日本がアメリカとの戦争は始めから無理なことを主張していた。鈴 木の自伝の中にこんな記述がある。 由来余は太平洋戦争の勃発を極力避けるべきであることを念願としていた。またこれを海 ― 66― 中国人留日学生の日本語教育を通して松本亀次郎が果した役割について(高橋良江) 軍の勢力から考えてみても、ワシントン会議で米英と日本の海軍比率は五・五・三に定め られ、…三は五に勝道理がないことは判り切っていた。(53) むすび この小論は松本がある時期を境に、留日学生の教育に生涯尽くそうとした思いの原形を探る ことが目的であった。それはいつ頃から、どんな形で、どんな動機からであったのか。それは 嘉納治五郎の教育理念にふれ、宏文学院に招かれることから始まる。そこで多くの留日学生に 出会い、6年後京師法政学堂で自分の歩む道を確信したのであろう。 汪向栄はこんな言葉を述べている。 松本先生は行動をもって自分の言った事を証明された…それゆえ、私は少しずつ彼がわか ってきだしてから、先生のことを偉大であり貴い人だと思うようになった。特に歴史的な 観点から見れば、松本先生は新中国建設に身を投じた沢山の留学生を直接に教育したばか りでなく、その著作を通じて中国が近代化するために必要な知識の吸収に助力したという 点でも、間接的に人材を養成されたといえる。この事は中国の近代化に大きな作用をもた らした。彼は一介の普通の教師にすぎなかったが、彼の功績は偉大であり、不朽である。 (54) さらに汪向栄は、多くの日本人教習の中で中国のことを本気で考えてくれたのは松本亀次郎と 井上翠の二人だけだ、と述べている。 松本は明治から昭和と続く日本の中国侵略政策に反対し、日本の対中国政策を批判した。そ して留日学生を教育する意義は、彼らの国のためであって、決して日本のためでないことを日 本語教育を通して示した。 本論は松本の人物像に焦点をあてることによって、なぜ留日学生を教えることになったのか を、遺品の手帳・書簡・原稿等の資料をもとに考察してきた。松本の中国に対する認識は、生 涯一介の教師としての生き方を貫いたからこそ培われたものであろう。その教育観は、40年余 りの日本語教育の実践から生まれてきたものである。松本が没して65年が過ぎた現在、中国で も日本の明治精神の発掘が脚光を浴び始めている。そういう意味で松本亀次郎の研究は、今後 も日中両国の真の交流とは何かを考えるうえで意義がある。 〔注〕