空席・欠番・剥奪

「自由の鐘」は、ニューヨークの自由の女神と並んで、アメリカの自由のシンボルである。
1751年、ペンシルバニア州議会は、州議事堂用に鐘を発注し、 州議会議長は聖書の「地上全体と住む者すべてに自由を宣言せよ(レビ記25:10)」を鐘に刻むよう注文した。
翌年、完成した鐘はフィラデルフィアに到着するが、鐘楼に吊り上げる前の、テストの第1打で、鐘は壊れてしまった。
地元の業者に鋳造し直させ、1753年にやっと鐘楼に取り付けることが出来、州議会の「公式の鐘」して、議会の召集に、選挙の投票の呼び掛けにと、鐘は鳴らされた。
1776年7月8日、「アメリカの独立宣言」が、はじめて市民に知らされた際にも、この鐘が打ち鳴らされた。
奴隷制度廃止論者達が、この鐘を奴隷解放のシンボルとして「自由の鐘」と呼び始め、南北戦争中は、アメリカ各地で展示され、自由への戦いを鼓舞する役目を果した。
ところが長く使用されるうちに「ひび割れ」が大きくなり 1846年2月12日、ジョージ・ワシントンの誕生日を記念して、鳴らされたのが「最後の鐘」の音となった。
独立戦争後、植民地人口の3分の1はアフリカから輸入された黒人奴隷で、その中には進んで独立戦争に参加するものもいた。
そこでジェファーソンの「アメリカ独立宣言」原案には、「奴隷制」をやめようという文言もあったが、この部分は「南部代表」の反対で削除され、独立後にアメリカ系黒人は再び奴隷としてプランテーションに連れ戻された。
実は、この南部の代表的プランターこそがワシントンであった。
ところで、黒人による差別撤廃運動(公民権運動)が本格化するのは1960年代で、マルチンルーサーキング牧師をリーダーとする運動からであった。
しかし1968年4月にキング牧師は暗殺され、その2か月後の6月にロバート・ケネディが暗殺された。
ベトナム戦争に対する反戦運動が高まる中、多くの都市で学生運動や反戦運動が起こると同時に、アメリカ国内のいたるところで人種差別が引き金となった暴動や警察との衝突で多くの人が命を落とした。
つまり、アメリカ国内における様々な矛盾が吹き出し「分裂」しそうな気配があった。その真っただ中に行われたのが、1968年のメキシコシティ・オリンピックであった。
10月17日夕刻、メダル授与のために表彰台に上がった二人のアメリカ人選手によりオリンピック史上に残る「ある事件」が起きた。
男子200メートル競争を世界記録で優勝したトミー・スミスと3位に輝いたジョン・カーロスが、アメリカ合衆国国歌が流れて星条旗が掲揚される間、壇上で首を垂れ、黒い手袋をはめた拳を空へと突き上げたのである。
二人が表したこの「ブラックパワー・サリュート」つまり、アメリカ公民権運動で黒人が拳を高く掲げ黒人差別に抗議する示威行為は、近代オリンピック史における最も有名な「政治行為」として知られている。
二人は黒人の貧困を象徴するため、シューズを履かず黒いソックスを履き、スミスは黒人のプライドを象徴する黒いスカーフを首に巻き、カーロスは白人至上主義団体によるリンチを受けた人々を祈念するロザリオを身につけていた。
スミスとカーロスは、オリンピックの規定に反する行為を行なったとして、その後長い間アメリカスポーツ界から事実上追放されることになる。
また、メディアからの非難・中傷にさらされた彼らのもとには、殺害を予告する脅迫文が何通も届けられたといいう。
しかし、この表彰台上にいた「もうひとりの存在」に注意を向けた人は、世界中でほとんどいなかったにちがいない。
それは、この競技で銀メダルをとった白人選手だった。
彼の名前は、ピーター・ノーマンで、オーストラリア史上最速の短距離陸上競技選手である。
このピーター・ノーマンもまたスミスとカーロスの両選手の意図に「共鳴」したことを示すバッジを胸に、二人の隣に立っていたのだ。
三人の若いアスリートが表彰台に上がり、スミスとカーロスは拳を高く上げ公民権運動への敬礼をした。何百万人もの人々を前にしてオリンピック規定に反する「政治行為」をしたことに違いない。
しかし三人は、すべての人間は平等であるという信念のために行なったこの行為が永遠に残るだろうという気持ちからだった。
ピーター・ノーマンの国オーストラリアには、当時アメリカと類似した「白人最優先主義」とそれに基づく非白人への排除政策が存在していた。
実際、南アフリカのアパルトヘイトはオーストラリアの先住民に対する差別政策を「見習って」作られたと言われているくらいなのだ。
1905年から1969年にかけて、「先住民族の保護」や「文明化」という名目で約10万人の先住民族であるアボリジニの子どもを強制的に親元から引き離し、白人家庭や寄宿舎で養育するという政策も行われていた。
そのため、この時代に白人オーストラリア人のノーマンが黒人やその他の少数民族と接触を持つ公民権運動に同調するというのは、本国では彼の人生を破壊しかねなない行為だった。
決勝レース終了直後、銀メダルを獲得したノーマンは、スミスとカーロスに「人権を信じるか」と尋ねられたという。
ノーマンが「信じている」と答えると、スミスとカーロスは彼に「神を信じるか」と尋ねた。その質問にもノーマンは「強く信じている」と答えた。
そして、ノーマンは「ブラックパワー・サリュート」を行うことをほのめかす黒人二人に対して、「僕も君たちと一緒に立つ」と語った。
そして三人は、「人権を求めるオリンピック・プロジェクト」のバッジを身につけて表彰台に上り、オリンピック史上に残る「瞬間」へと導かれていった。
事件後、アメリカのオリンピックチームの代表は記者会見で、この選手三人が生涯にわたって大きな代償を支払うことになるだろうと発言し、実際にそのとおりになった。
白人のノーマンは、十分な成績であったにもかかわらず、オリンピックのオーストラリア代表から除外され、ノーマンはスポーツ界を引退。
実は、ノーマンが1968年のあの日、200m陸上で打ち立てた記録は、未だに「オーストラリア記録」として破られていない。
ノーマンはその後、体育の教師や肉屋などの職を転々とした。
ノーマンにも「名誉挽回」のチャンスを与えられたが、スミスとカーロスの行為を人類に対する冒涜だと公に非難すれば、ノーマンの行為も許されるという内容のものあった。
彼はその申し出を退け、家族ともども疎外されてしまい、元トップアスリートはアルコール中毒とうつ病に苦しんだ。
そして2006年、ノーマンは心臓発作で亡くなった。彼の葬儀に出席したはトミー・スミスとジョン・カーロスが棺を担いだ。
時代は流れ、アメリカの「人種差別」が撤廃された後、歴史は黒人スミスとカーロスの行為に正当な評価を下し、彼らの母校サン・ホセ州立大学には二人の行為を祝して像が建てられた。
そして長い時を経た2012年、死後ではあったものの、ノーマンはようやくオーストラリア政府から正式な「謝罪」を受けた。
ただ、スミスとカーロスの間の「2位の表彰台」を生める場所はいまだに「空席」となっている。

「世界を変えた男」(原題:「42」)は、2013年制作のアメリカ合衆国の映画で、アフリカ系アメリカ人初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンを描いた作品である。
アメリカとカナダでは公開から初登場1位となり野球映画史上最高のオープニング記録を打ち立てたという。
この映画は見た人々の中には、映画「ザ・ダイバー」(2000年)を思い出した人もいるに違いない。
「ザ・ダイバー」は、アメリカ海軍史上、黒人として初めて「マスターダイバー」の称号を得た潜水士の物語で、実在の人物「カール・ブラシア」の半生を周囲の人物との友情とともに描いたものである。
いずれも白人のオンリーの世界に、最初の黒人の「風穴」を開けた苦闘が描かれいていた。
彼らは「パイオニア」であっただけに、並々ならぬ差別の壁を超えなければならなかった。
1947年、ブルックリン・ドジャース(ロサンゼルス・ドジャースの前身)のゼネラルマネージャー・ブランチ・リッキーは、ニグロリーグでプレーしていたアフリカ系アメリカ人のジャッキー・ロビンソンを見出し、彼をチームに迎え入れる事を決める。
リッキーは、多くの黒人には野球ファンが多く、批判攻撃されてもかまわないとロビンソンを迎え入れる。
そしてロビンソンに野球のプレイを磨くことよりも、予想される差別に耐え抜くことが条件であることを伝える。
それはどんな不条理な差別であったも、もしもロビンソンがそれを反撃するようなことがあれば、黒人に野球プレーヤーの道は開けないという厳しい要求でもあった。
当時アメリカで起きていた人種差別の壁は高く、当時のMLBは白人選手のみのリーグとして存在し、黒人選手はニグロリーグでプレーすることしか許されない暗黒の時代だった。
それでもジャッキーは類まれな野球センスで、28歳のときにドジャーズに昇格したが、メジャーリーグは白人だけのものだったことから、彼の入団は球団内外に予想された異常の大きな波紋を巻き起こすことになる。
ロビンソンは他球団はもとより、味方であるはずのチームメイトやファンからも差別を受け孤独な闘いを強いられる。
球団の移動も別行動、食事もシャワーの使用も別行動、そして球場で浴びせかけられる野次は耐え難いものであった。
ビーンボールを受けたり露骨な敵意のこもったスライディングを受けたり、ひどい野次を受けたり、脅迫状を受けたり。
さらには「黒人お断り」のホテルが並ぶ中、彼はチームと別に一人で宿探しをするなど。
結局、ロビンソンはそうした差別を、観客を魅了するプレーで打ち消してていく以外に、生きていく道はなかった。
控え室でバットを叩き割るようなこともたびたびであったが、リッキーとの約束どうりあらゆる中傷に対して反撃しない「自制心」を貫き通す。
それが、後続の黒人がプロスポーツへの扉を開く道であったからだ。
そして、そんなロビンソンのプレーに、批判ばかりしていたチームメイトやファンたちの心は、やがてひとつになっていく。
そして、そのプレーは黒人ばかりではなく白人をも魅了していく。
そしてジャッキー・ロビンソンは、ナショナルリーグMVP1回/ 新人王/ 首位打者1回/ 盗塁王2回/MLBオールスターゲーム選出6回/など「黒人プレイヤー」のパイオニアとして、アマリある成績を残している。
しかし、球団の白人ジェネラル・マネージャーであるリッキーは、自らも「攻撃の矢面」に立ってまで、どうして黒人に門戸を開けようとしたのだろうか。
ロビンソンが或る時ソレを問い詰めると、リッキーはその秘められた「過去」を語った。
ちなみにリッキーを演じたハリソン・フォードは本作の脚本に魅了され、リッキー役を是非とも演じたいと、本物のリッキーに見た目を見せるため、自ら特殊メイクを願い出ている。
そしてロビンソンの孤独な戦いは次第にチームメイトの共感をよび、球場内の殺気だった差別的雰囲気の中にあって、ロビンソンへの野次に反撃する者や、あえてロビンソンの肩を抱いて、自分の気持ちを観客に表明する選手も現れていった。
ところでオバマ大統領は、最近の演説でメジャーリーグでの人種の壁を破ったロビンソン選手に大いに影響を受けたことを明かしている。
ちなみに、原題のタイトルの「42」はロビンソンが付けていた背番号である。
現在アメリカの全ての野球チーム、すなわちメジャーはもとより、マイナーリーグ、独立リーグ、アマチュア野球に至るまで「永久欠番」となっている。

モハメド・アリは、1942年1月、ケンタッキー州ルイビルに生まれた。
1960年、ローマオリンピックのボクシングライトヘビー級で金メダルを獲得し、その後プロに転向し、1964年2月25日、WBA・WBC統一世界ヘビー級王者ソニー・リストンと対戦。
アリ不利との下馬評を覆して、6ラウンドKO勝ち。
試合後、興奮冷めやらぬアリはこう叫んだ。「俺は世界を震撼させた! 俺は世界の王だ! 俺は最高、俺は偉大だ!」。
その大言壮語から、いつしか「ほら吹きクレイ」というあだ名がつく。
その後、公民権運動の活動家マルコム・Xとの出会いからイスラム教に改宗し、本名も「カシアス・クレイ」から「モハメド・アリ」に改名した。
政府や社会を批判する言動がエスカレートしたことから「世界王者のタイトル」を「剥奪」され、およそ4年間にわたって試合を禁じられた。
1974年10月30日、アフリカのザイール(現コンゴ民主共和国)のキンシャサで王者ジョージ・フォアマンに挑戦。
ロープに持たれながらパンチをブロックし、相手が打ち疲れたところで反撃する「ロープ・ア・ドープ」と名付けた戦法で8ラウンドKO勝ち。アリ不利の事前予想を覆し、「キンシャサの奇跡」とよばれた。
「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と形容された流麗なフットワークと切れ味鋭いジャブを駆使したボクシングスタイルで観客を魅了した。
ところで、黒人ボクサーのムハンマド・アリは、1968年に「徴兵拒否」によって全米のすべての州でライセンスを停止され、WBA(と下部組織だったWBC)からベルトを取り上げられたアリは、強制的にリングから排除されただけでなく、パスポートまで没収されてしまい、海外で現役を続ける道も閉ざされる。
収入が無くなったアリは、ボクシングで稼いだ私財を投じて連邦政府との裁判に挑み、生活の糧を得るために全米各地の大学を中心にした講演活動を行った。
そうした講演活動の中で、アリが言い放った数々の名言(?)がある。
「オレが心から恐れるのは神の法だけだ。人が作った法はどうでもいいと言うつもりはないが、オレは神の法に従う。何の罪も恨みもないべトコンに、銃を向ける理由はオレにはない」。
「オレたち黒人が戦うべき本当の敵はベトコンじゃない。日本人でも中国人でもない。300年以上も黒人を奴隷として虐げ、不当に搾取し続けたお前たち白人だ!」。
「ベトコンはオレを”ニガー”と呼ばない。彼らには何の恨みも憎しみもない。殺す理由もない。
いかなる理由があろうとも、殺人に加担することはできない。アラーの教えに背くわけにはいかない」。
「ベトコンはオレを”ニガー”と呼ばない」というアリのシンプルで強力な「一刺」に全米の黒人たちが敏感に反応した。
ベトナム戦争や公民権運動に無関心だった白人たちにまで影響を与え、多くの一般市民が深い関心を持つようになった。というわけで「蝶のように舞い、ハチのように刺す」という形容は、アメリカ社会そのものをその自在の舌鋒で鋭く刺した、その「生き方」にあるといえよう。

また、相手を挑発したり大言壮語を繰り返す言動から「ほら吹きクレイ」とあだ名された。
1976年6月26日、東京・日本武道館でプロレスラーのアントニオ猪木と「格闘技世界一決定戦」で対戦。ファイトマネーがアリ18億円、猪木6億円で「30億円興行」と呼ばれた。試合は猪木がリングに寝転がり、アリの両足にキックを見舞う展開に終始し、15回引き分け。
1981年、トレバー・バービックに敗れて引退。試合のダメージが原因とみられるパーキンソン病にかかり、長年闘病していた。
1996年7月19日、アトランタオリンピック開会式では、聖火台の点火者を務め、その姿をみることができた。
最近この映画を「試写会」で見る幸運にめぐりあった。