行動経済学と中動態

2017年のノーベル経済学賞は、米シカゴ大のリチャード・セイラー教授(72)に授与された。
セイラー氏は「行動経済学」の権威で、消費などの経済行動がどのように決まるのか、心理学と経済学の両面から分析した。
実は、このリチャード・セイラー教授には、知られざる小さな業績がある。2010年に映画化された「マネー・ボール」が、二人の心理学者の影響の下で書かれた可能性を仄めかした人物である。
実際、原作者のマイケル・ルイスはセイラー教授の指摘通り、二人の心理学者(行動経済学の開拓者)に強い影響を受けたことを自ら告白している。
「マネー・ボール」は、メジャーリーグの貧乏球団、オークランド・アスレチックスのGMであるビリー・ビーンが、プレーオフに出場するほどの「強豪チーム」としたのは、従来とは全く異なる選手の「評価方法」にあった。
この評価法ならば、選手に支払われる契約金も従来と異なり、「選手市場」は歪んでいたとみなされる。
野球において、バッターの実力を把握する最有力なデータに「打率」がある。
打率の高い選手を揃えようとすると、多額の年棒が必要になってしまい、経済力が弱いチームには「重荷」になってしまう。
貧乏球団ではそういうハイアベレージ選手が採れないという、背に腹変えられぬ「事情」があった。
一方、野球は塁に出ないと得点には結びつかない。
よって、アスレチックスは四球でもなんでも、とにかく「塁に出れる」選手を高く評価した。
打率は平凡でも「選球眼」が良い選手は四球が増えて「出塁率」が高くなる。しかも、そうした選手は、打率が高い選手より「安い年棒」で雇える。つまり、「費用対効果」が高いのである。
さらに「出塁率」に加え、「長打率」を加味した「新たな指標」で選手を評価し直したのである。
大リーグのドラフト会議では、30球団が希望の選手を順々に指名していく。そのため、とりたい選手が20人いたとしても、そのうち3人を獲得できれば大成功といわれる。
ところが、アスレチックスは事前にリストアップした上位20人のうち、なんと13人の獲得に成功した。
他球団と選手の「評価軸」が全く異なるため、指名がほとんど重ならなかったからだ。
「マネー・ボール」が投げかけた本質的な問題は、「選手市場の歪み」ばかりか、人間の「認識の歪み」にまで踏み込んでおり、その意味で心理学的視点が色濃く出ていた。
そうした心理学的視点の提供者がダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーで、人間の判断は専門家であってもたびたび「歪む」ことを証明してきた。
実際、原作者マイケル・ルイスが近年、自分のベストセラーは、2人の心理学者をベースにしたことを告白し、ルイスの担当編集者も、2人の研究がなければ、マイケル・ルイスは「マネー・ボール」を書くことはなかったと証言している。
ルイスが、自身の著作が2人の心理学者の研究に深く影響されていると実感したのは、ある雑誌に掲載された「書評」を読んだ時だったという。
この「書評」を書いた人物こそ、このたびノーベル賞を受賞したリチャード・セイラー教授だった。
セイラーは、「マネー・ボール」が野球選手の市場が専門家の歪んだ判断によって「非効率」になっていることを露わにした点を高く評価していた。
その一方で、ルイスは心理学者のカーネマンとドベルスキーの「共同研究」を知らないようだと指摘した。
だがこの書評には「裏読み」が必要で、その指摘はあまりに図星だった。
ルイスは二人の研究を知っていて、自身気づかぬうちにその影響下にあることを認識させる結果となった。
なにしろルイスは、自身の創作に影響を与えたカーネマンとドベルスキーのパートナーシップについて、後に「かくて行動経済学は生まれり」(原題『The Undoing Project』)という本を書くほどであった。
「マネー・ボール」著者マイケル・ルイスの経歴にふれると、プリンストン大学で美術史を学び、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで修士号を取った後、ソロモン・ブラザーズで債権セールスマンとして活躍した。
彼は、自らのウォール街での経験を綴った回顧録を書くために退社し、編集者・ローレンスとのコンビで、10冊以上の本を出版している。
その主要なテーマは、人間の意思決定とは、しばしば非合理的におこなわれるということ。
ルイスに影響を与えた心理学者のカーネマンとトベルスキーの2人は当初、既成の権威に対する反逆者であり、異端視された。
ところが次第に「人はいかにして決定するのか」についての彼らの研究は、プロスポーツだけでなく、軍隊、医学、政治、金融、あるいは公衆衛生など多くの分野に深い示唆を与えることが認知されていった。
一番の衝撃は、合理的な人間像を前提としてきた経済学に対してであった。カーネマンは2002年にノーベル経済学賞を受賞したが、彼は経済学を専攻したわけではない。
カーネマンは、「リスクや不確実性に直面したときに人間がどのように意思決定をするのか」を明らかにしたというのが受賞理由である。
そして二人の心理学者カーネマンとトベルスキーの研究が、「行動経済学」という新しい分野をきり開いた。
だが2人の研究が認知されるにつれ、自分たちの発見についての功績をめぐって言い争いをし、そのパートナーシップは、あまりにも早く終わりを告げてしまったのである。
「心理学におけるレノンとマッカートニー」(英ガーディアン紙)との表現は言い得て妙である。
2004年に亡くなったトベルスキーが生きていたら、「共同受賞」になったであろうが、彼らと共同研究者でもあったリチャード・セイラー教授が、同じ「行動経済学」で今年ノーベル経済学賞に輝いた。
カーネマンの受賞から10年以上を経てのセイラー教授の受賞は、けしてトベルスキーの穴を埋めるカタチでの受賞というわけではない。
そこにリチャード・サイラー独自の功績があったからである。
サイラー教授の場合、人々に必要な情報を提供すれば経済行動をより合理的な方向に変えられるという理論を提唱し、「行動経済学」の成果を公共政策に生かすことを提起している。
例えば、人に判断を迫る際には、情報の与え方など、工夫の大切さを説いた。
そうした工夫を「人を軽く押すこと」を意味する「ナッジ」とよび、欧米でなどでは政策立案に採り入れられている。
ひとつシンプルな例をあげると、中米グアテマラでは、所得税の未申告者への書面に「約65%の人が申告した」と書いたところ、税金の徴収率が上がった。
周りの人の行動を伝えることが、未申告者の「ナッジ」となったわけだ。
スウェーデンアケデミーは授賞理由につき、「人間の特性が合理的市場にどのように影響するかを示した。経済と個人の意思決定という心理的分析の架け橋を築き、経済をより人間的なものにした」と述べている。

経済学では、経済活動の主体となる人間は必要な情報をもとに合理的に判断するのが前提だ。
最近、行動経済学以外にも、こうした人間観に対抗するような興味深い「概念」に出会った。
テレビ朝日の「ニュース・ステーション」にもたびたび登場される政治学者の国分巧一郎・高崎大学教授が提唱された「中動態」という概念である。
「中動態」というのは、英文法でやった能動態でもなく受動態でもないというのが人間の現実の態様ではなかろうか。
驚くべきことは、かつての言語では、能動態と受動態ではなくて、能動態と中動態が対立していたという。
たとえば古典ギリシア語を勉強する時には、中動態の活用を学び、「受動」というのは中動態がもつ意味の一つに過ぎない。
例えば、「謝る」や「仲直りする」は、「する」と「される」の分類では説明できないものである。
文の形式は「能動態」であっても、自分の心の中に「私が悪かった」という気持ちが現れないかぎり「能動態」にはならない。
だからといって「受動」で説明することもできない。もし、それを受動で説明しようものなら、それこそトラブルは拡大する。
こういう人間の態様が「中動態の世界」で、最近はやりの「忖度する」もこのカテゴリーに属するのではなかろうか。
もっとも、最近の芸能人の「謝罪会見」など、ほとんどやらされている雰囲気なのだが。
今のように能動と受動でこれを分類するようになったことの背景には、「責任」という観念の発達があるからかもしれない。
「これはお前がやったのか? それともやらされたに過ぎないのか?」と、責任をはっきりさせるために言語がこのように問うようになった。
逆にいうと、今日という時代は、「中動態」が消し去られた世界ともいえる。
こうした点の弊害は、何かの依存症の人が「意志薄弱」とみなされ、自責の念にかられたりする。
人間は日常、それほど明確な独自の意思をもって行動しているわけではない。それがよくあてはまるのが「消費」という 行動なのではなかろうか。
消費者は品物を買うように見えながら、買わせられてる面があって、これが「中動態」の概念と重なるように思える。
ところで「消費者主権」とは、経済システムは消費者に奉仕するものであって、その消費者が経済を最終的に支配するという考え方である。
簡単にいえば、消費者に欲しいもの(需要)があって、それを察知した生産者がそのモノを生産する(供給)、こういった構造を当たり前とするのが「消費者主権」という考え方である。
しかし、それはまったくの事実誤認であって消費者は企業の巧みな広告宣伝に従って「買わせられる」というのが実相である。
消費者が自分の好みに従って、買っているのか、買わせられているのか、よくわからないという点ではまさに「中動態の世界」である。
経済学の世界では、消費者どうしが影響しあってベストセラー本を買ったりなど、周囲に引きずられて消費する「デモンストレーション効果」や自分の社会的地位に応じて消費する「衒示的消費」という心理的要因がからんでいることは指摘されてたが、最近の行動経済学はそれを数々の実験によって証明している。
また、消費行為をステイタスシンボルとの関連で捉えたのが、ソーステン・ヴェブレンである。
その著書「有閑階級の理論」(1899年)がある。有閑階級とは、相当な財産をもってあくせく働く必要がなく、暇を人づき合いや遊びに費やしている階級をいう。
「ひまじん」というと否定的な響きがあるが、「暇がある」ということは裕福で余裕があることを示している。彼らは労働が免除され、下層階級が彼らに代わって働く。
ギリシア哲学では、観想(スコレー)を重視したことを思い出されたし。学者(スカラー)とは暇人のことである。
有閑階級は、「暇」というステータス・シンボルを人々にみせつけたい。彼の暇を目に見えるカタチで代行するのが、使用人集団である。
調度品に磨きをかけたり大して重要でない仕事を熱心にする。彼らはスマートで綺麗な身なりをして、自分達に多大な費用がかかっているのをみせつける。
ある人物がどれほどの使用人がいるかは、その人の家にまねかれないとわからない。
フィツェジェラルドの「グレート・キャツビー」は、毎晩宴会を開いてそれを見せつけていた。
19世紀から20世紀頭にかけて、有閑階級の凋落により使用人が減る。階級差は縮まり、余暇がステータスシンボルとしての価値を失う。
その代わりに「消費」が、ステータスシンボルとなる。 何を着ていて、どんな家に住んでいて、どんな車に乗っているかは一目でわかる。
そして妻がかつての「使用人」に代わって消費の代行者になる。
以上がヴェブレンの要旨であるが、消費が使用価値(効用)ではなく、見せつけ(記号/シンボル)として捉えられている。
その意味で、ヴェブレンは「行動経済学」の先駆者のようにも思えるが、行動経済学の実験のひとつ「ビールの注文実験」を例示しよう。
あるグループで、テーブルの席に着いたひとりひとりビールの種類を聞いてまわるのだが、ひとりひとり「個別」にビールの注文を聞いたビールの種類と違う選択結果がでた。
結果は、テーブルで注文を聞いて回るほうが選好結果に多様性が見られるという。その心理を探ると、各人が自分だけの好みをもっているという独自性のアピールをしたということがいえる。
これは、ヴェブレンの唱えた「衒示的消費」を思わせうるが、いずれにせよ、人々は自分独自の「選好」が、周りの「選好」に歪められたということである。
実は、人間はしっかりとした独自の選好基準をもって「消費選択」を行っているわけではないのだ。
人は、他のものと比較し、「相対的」に判断する。
例えば、同じ商品(テレビなど)で価格や性能が異なる3つがあった場合、中間の価格と性能のものを選ぶことが多い。
これは、自分にぴったりなテレビを判断する基準が存在しないことを意味する。
自分の中に基準がないので、「似たような」ものを比較して選択しているということだ。
これをレストランの「戦略」に導入すると、最高値の水準を上げると真ん中の水準も上がるので、より高い料理が注文されるようになり、結果として、レストランの収入が増えることになる。
外的な事情が作用しない限り、物質はその存在をあるがままに維持し続ける。我々の意思は、我々自身の想念の中では自由に見えても、実は存在を維持するためになされる行為なのだ。
我々が自分の好みだと思っているものは、本当はちょっとした偶然に過ぎないのかもしれない。
例えば、人間は初めの接触や選択に左右されることがわかっている。
はじめに青色のものを選択して失敗しなかったから、また青色の選択するといった繰り返しで、青色が好きだと思っているだけかもしれない。
また、消費の因子が「気晴らし」だとしたらどうだろう。合理性一点張りの日常(ケ)から抜け出すことに意義をもつ、いわば「ハレ」の消費なのだ。
さて、国分教授が専門としたのは、17Cのオランダの哲学者スピノザである。
国分教授は、スピノザが描く人間像が、「中動態」と深く関わっていることを感じ、「中動態」というものを研究し始めたのだという。
スピノザによれば、どんな出来事も偶然におきることはなく、必然の糸によってつながれている。
たとえある人間が恣意にもつづいて行なったと思われるものも、その裏には必然性が貫徹している。
したがって、自分の行為を自由な意思に基づいて決定していると考えるのは、錯覚に過ぎないという。
とはいえ、現実に生きている人間は、あることがらについて意思をもったり、それに付随して自由やその反対の束縛を感ずることがある。
この自由と束縛を、「能動態/中動態」の概念から説明しようとした。(この点、説得力不足かも)
スピノザの人間観は、ひとことでいえば、「過去や現実の制約から完全に解き放たれた絶対的自由など存在しない」ということだ。
それがゆえに人間の認識が先入観や偏好で歪んでしまうのは、むしろ自然なことである。
最近の行動経済学は、人間の認識の歪みが「市場の歪み」に繋がることを証明したが、人間の在り様の多くが「中動態」であることを鑑みれば、それを「歪み」と捉えること自体が歪んだことかもしれない。