天神様とサンシャイン

福岡には、平安時代の学者・菅原道真と、昭和の首相・広田弘毅とが出会う場所がある。
福岡の一番の繁華街「天神」の名の由来となった水鏡天満宮においてである。
天神アクロス前の菅原道真を祀る水鏡天満宮の正面の赤い鳥居の扁額の文字「天満宮」は、広田が少年時代に書いたもの。
天神の石屋だった広田の父が、字が上手な息子の文字を彫ってかかげたのだが、道真にあやかって、勉学において秀逸でいてもらいたいという願いが込められているのだろう。
ちなみに、広田弘毅の父親の名前は、東公園の亀山上皇像の石台に制作者の名とともに彫られている。
広田弘毅の自宅は、天神3丁目の繁華街の中にあり、ほとんど目立ないが、「自宅跡」の石碑がたっているので、その場所を確認できる。
個人的に、この「菅原道真」と「広田弘毅」の時空を超えた出会いに、言葉ではうまく表現しがたい「符合」を感じるのである。
それは、日本文化の本質たる鎮魂への志向と、人が裁かれることに対する対応という点においてである。
さて、大宰府天満宮から4キロほど西に二日市の町があるが、この駅に近い西鉄大牟田線沿いに道真が幽閉された「榎社」がある。
そこから道真は、天拝山に上って自らの無実を天に訴えた。それが「天拝山」の名前の由来である。
地名の由来といえば、福岡市「天神」の地名の由来がアクロス前の「水鏡天満宮」であることはよく知られている。天神は、死後神格化された菅原道真の名である。
ところでこの「水鏡天満宮」は、菅原道真が京都から流された際に、顔を水面にうつして自分の流托の身を確かめたたため「水鏡」という名がついたといわれている。
さて、菅原道真の霊は怨霊となって恐れられた。学問の神様どころか呪いの神様で、これほどの鎮魂をおこなった霊は日本史の中で数が少なかろう。
それが各地で「天神様」として祀られるのだが、日本人に「英霊」という言葉がいつ頃できたかは定かではないが、しかし個人的な印象では、「天神」も「英霊」という言葉も日本人独自の霊の鎮め方という点で共通している。
そこで、無垢の魂をもって死出の旅に出た菅原道真ゆかりの神社に、「戦犯」として指定されながらも従容として処刑台にむかった広田弘毅の少年期の業たる文字がかかげて在ることに、何か偶然以上の感慨を覚えるのである。

広田弘毅は、戦後の日本人戦争指導者をさばいた東京裁判において、連合国が用意した弁護士が、本人が抗弁をする意志がないのなら、弁護を放棄するとまでいわれた。
そもそも、「A級戦犯」は、当時アメリカの世論に根強かった「天皇処刑論」を掻き消すために、責任を一部の戦争指導者に全面的に押しつけた感は否定しがたい。
広田の外相時代、首相時代に、戦争は太平洋戦争へと突き進んだ。
もしも「戦争責任」というのなら、広田は戦争を回避しえなかった点で、当然その責を負わねばならない。
とはいえ東京裁判でオランダ代表の判事 は、「文官政府は軍部に対しほとんど無力であった」ことを認 め、その限られた枠の中で広田が十分な努力をしたと主張した。
また、広田の死刑は、検事団にとってさえ意外であり、キーナン首 席検事は「なんというバカげた判決か。絞首刑は不当だ。どんな重い刑罰を考えても、終身刑までではないか」と慨嘆したという。
1933年9月、広田は斉藤実首相に強く要請されて外務大臣に就任した。前年の五・一五事件で陸海軍士官などが犬養首相以下を射殺し、またこの年3月には日本は国際連盟を脱退するという内外多難な時期であった。
斉藤内閣では、国防や外交の重要国策について、首相、蔵相、外相、陸相、海相だけで協議する五相会議が開かれていた。
斉藤首相、高橋是清蔵相とも70歳を越す長老であるのに対し、陸相の荒木貞夫、海相の大角岑生とも血気盛んな軍人で、特に荒木は対外的には戦争の危機が迫り、国内では国民生活の不安が高まっていると、口角泡をとばす勢いで論じ立てた。
広田も黙ってはおらず、開戦の危機というが、いったいどこに戦争の危険性があるのか。軍部は最悪の場合のみを考えすぎで、むしろ問題は、どうしたら、最悪の場合を来たらせずにすむかにあると主張した。
つまり、何より外交努力に力を傾注しなくてはならないことを理を尽くして語る広田のペースに陸相海相の二人は押されていった。
広田外相は、諸外国との協調の実を上げるべく積極的に動いた。
広田の「協和外交」の姿勢に、その国際情勢の認識が楽観的に過ぎないかという質問に対しては、各国が巨大なる費用を使って、軍備の拡張に努めている今日の現状では、日本が如何に平和の方針をもって進むとしても、根本において軍備の充実は必要であると自分は確信しているとも語っている。
いざという場合に備えて軍備の充実は図りつつも、地道な外交努力により極力、戦争を避ける。それが外交官の使命だと考えていた。
広田は、次の岡田啓介内閣でも外相に留任した。1936年2月、二・二六事件で陸軍将兵が反乱を起こし、首相官邸などを襲った。
この混乱を立て直すべく重臣たちが後継首相として選んだのが、広田であった。
外相時代の協和外交の実績、軍部に対する毅然たる態度、安定した政治姿勢などが高く評価されたためである。
組閣の過程で、軍部から再三注文がついて、広田は「そこまで軍部に注文をつけられる筋合いはない」と憤慨し陸軍省に電話して、「軍部が組閣を阻止した」と明日新聞に発表すると伝えると、陸軍は大あわてで撤回した。
この内閣は粛軍をやり、正邪のけじめをつけると、早速、首謀者の 迅速な軍事裁判を実施させ、将校15名が死刑に処せられた。
また全軍の責任を負うとして、寺内陸相など若手3大将を除く全員を退役させ、合計3千人に及ぶ大規模な人事異動を行った。
粛軍が済むと、広田は青年将校たちの決起は、政党政治の腐敗堕落、大衆生活の窮乏に端を発していたという観点から「庶政一新」に取りかかった。
「国防の充実」に関しては、陸海軍の個別要求を聞いていてはキリがないので、外務省も含めて、「国策の基準」を制定し、 軍備整備の目安としたが、皮肉にもこの「国策の基準」が、東京裁判において「東アジア、太平洋、インド洋等支配のための一貫せる共同謀議」の証拠とされることになる。
後継首相は近衛文麿となったが、複雑な国際情勢に対応しうるのは広田しかいないというのが衆目の一致した所で、広田はポストは下がっても「外相」の仕事を受けざる他はなかった。
7月8日、北京郊外の廬構橋で日中両軍の衝突が起こった。
陸軍は内地の3個師団を派遣したいと提案したが、広田は「事変不拡大・現地解決」の方針を強く主張し、閣議もこの線でまとまっており、中国大使にもこの線に沿って、現地解決を妨害しないよう要請した。
ところが近衛首相は「政府は本日の閣議において重大決定をなし、北支出兵に関し、政府として執るべき所要の措置をなすことに決せり」と発表してしまった。
そのほぼ同時刻、現地では「停戦交渉」が合意に達していたにもかかわらず、近衛の「強硬声明」が流れると、国民政府軍は大挙して北上を開始した。
中国共産党の暗躍もあって、戦線は上海に飛び火し、その後も広田はあきらめずに和平への努力を続けたが、その甲斐もなく、日本は事変の泥沼に引きずり込まれていったのである。
1945年12月、終戦の混乱が醒めやらぬうちに、広田を含む59名の戦犯逮捕令が出された。それを聞いた時、広田は無言で頷くだけだった。
「この戦争で文官の誰かが殺されねばならぬとしたら、ぼくがその役をになわねばなるまいね」と広田は他人事のように言った。
文官の責任第一と言えば近衛文麿だが、近衛は逮捕命令が出た際に、服毒自殺を遂げている。
広田は、事情はともあれ、外交官として戦争を防止できなかった責任を痛感していた。「絞首刑」の判決を淡々と受け入れたのも、この気持ちからだろう。
1948年12月23日午前零時。処刑の前に、教誨師が面談を行い「なにか、最後にご家族の方にお伝えすることがございましょうか」と聞いた。広田は「身体も元気です。ただ、黙していったと伝えてください」と答えた。
周囲には広田の極刑反対の嘆願運動もおきていたが、広田自身自らを弁明することはなく淡々としていた。妻・静子は先に命を絶っており、広田自身、遺書を残すことなく従容として刑場におもむいたのである。

10数年前、東京裁判の処刑地となった巣鴨プリズン刑場跡地に行って驚いたのは、この刑場跡地に隣接してサンシャインプリンスホテルが立っていることである。
サンシャインシティの高層ビルの真下の小さな公園内の「永久平和を願って」という石碑がその場所を示している。
ただ説明書きなどは一切なく、ここで遊ぶ人々はそのことに気づく人さえも少ないが、いくつかの花束がたむけてあることが史実の重さを思わせる。
西部グループの総師・堤康次郎は、皇族の一等地を買いその高いステイタスをもつ土地にプリンスホテルを建てていった。
赤坂プリンスホテルや品川プリンスホテルがそれであるが、そうした観点からみると、サンシャインプリンスホテルの立地はとんでもないところにある。この「逆説」をどう解釈すべきであろうか。
それを調べるうち、サンシャインプリンスホテル設立の経緯には、いくつかの興味深いエピソードがあることを知った。
堤康次郎が亡くなって2年後の1966年、長男・堤清二は、井深大(ソニー)、今里広記(日本精工社長)、小林中(後のアラビア石油社長)らの財界人を巻き込んで「新都市開発センター」を設立し、池袋の地に本格的な60階建の超高層ビルの建設を計画した。 特筆すべきことは、このビルが当時すでに劇場・美術館、映画館、水族館などを含んだ総合文化施設と位置付けられていたことだった。
このことが、マスコミに発表されると各方面から反響が起こったが、その中には堤清二が「予想もしない」ところからの反応もあった。
それは、戦後最大の政界フィクサーと呼ばれた児玉誉士夫からの電話だった。それは堤清二にとって不吉な電話だった。
なぜなら西武百貨店は、天皇の第五皇女をアドバイザーとして雇っていたことから、右翼の執拗な攻撃を受けていたからだ。
連日、右翼の宣伝車が西部百貨店の正面玄関に陣取っては、拡声器のボリュームを一杯にあげて、「皇族を商売に利用する奸商、堤清二に天誅を」と叫び続けていた、そんな最中での児玉誉士夫からの電話だった。
電話の内容は、巣鴨拘置所が取り崩される前に一度中をみたい。そこで清二に案内を乞いたいというものだった。
堤清二といえば東大在学中に共産党にのめりこんだこともあり、左翼ならまだしも右翼の巨頭からそんな電話がかかるとは予想すらできなかったにちがいない。
当日、巣鴨拘置所の正門前で、清二は秘書と二人で児玉の到着を待った。児玉は巨大なキャデラックから線香の束を手に持って降りてきたという。
堤の前で児玉は「今日は面倒をかけます」と頭を下げた。敷地内を歩きながら児玉は、ぼそぼそとつぶやいた。「僕はこの棟にいたんだ」「あっちの棟には東条さんが」「岸はさんは、いつも元気よくこの庭を散歩していた」といったことをつぶやいた。
小一時間も歩き、児玉はある一角に来ると線香に火をつけ、花束をたむけて手をあわせた。 そして堤に「今日はありがとう。長年の胸のつかえがいくらか軽くなった」と、礼を口にした。
コノ堤と児玉との「出会い」を境にして、右翼の街宣車の姿が、西武百貨店の前からピタリとこなくなったという。
しかし堤清二、この新都市計画には、それ以上の大きな試練がやってくる。1973年のオイルショックで、参加を表明していた多くの企業が撤退し、計画の取りまとめ役であった堤清二の経済人としての信が問われた。
そしてこのとき、清二が頼ったのが異母弟の義明で、清二からすれば凡庸で子供扱いしていた間柄だっただけに、当時39歳の清二がもっとも頭を下げたくなかった相手だったに違いないが、結局、堤義明がこの計画を引き継ぐことになる。
さて、A級戦犯と指定された人々に対して天皇がどのような感情をもたれていたかは個人的にはよくわからない。
ただアメリカの世論の中には天皇の処刑論さえでており、A級戦犯達は連合軍によりわざわざ皇太子(現天皇)の誕生日をねらってこの地で処刑されたのである。
したがって、巣鴨プリズンの刑場跡地は天皇・皇族にとって悲痛の場所にちがいないのである。
この土地の上に巨大で先端的なビル群をつくりだし、この土地のイメージを一新し過去の記憶を一掃することは、堤一族のそれまでのホテル建設のための皇族の一等地買収とそう大きく矛盾するものではないとも思った。
少なくとも天皇・皇族の「負の思い」を閉じ込めたこの土地のイメージが一新されたことは間違いない。そしてこの場所には「サンシャイン」という名がつき、日陰の場所から日のあたる場所に変わったのである。
こうした自分の思いを後押しするかのように、作家の高山文彦が寄稿せる記事が「文芸春秋」に掲載されていた。
高山氏は次のようなことを書いている。「東条英機ほかA級戦犯の処刑が行われたのが、皇太子(現天皇)15歳の誕生日であったことを知る人は、いまでは少なくなった。東京タワーが竣工式を迎えたのも、12月23日の誕生日なのである。級戦犯処刑から数えてちょうど10年、皇太子は25歳になる。順当にいけばいずれ天皇となるであろう皇太子に因果をふくめるように戦勝国は処刑日を彼の誕生日に定め、死の穢れを一身に帯びたそうした彼の因果を払おうとして、日本人はこの日に竣工式を定めたのではなかったか」と。
さらに高山は「(東京タワー)竣工工事直前の11月には現皇后・正田美智子との結婚式が皇室会議で承認されている。いわば東京タワーは、少年期に世界の非情を身に染みて思い知らされた皇太子に対する、二重の意味での国を挙げてのプレゼントだったのだ」とも書いている。
さて近年、日本の首相の靖国公式参拝につきアジア諸国の反発は大きく、アメリカまでもが不快感を露わにした。
しかし、中国人の死生観は、日本人の死生観とは根本的に違っている。日本では、人間は誰も死によって罪を逃れるが、中国は人間が亡くなっても罪は罪で、決して消えることはない。
例えば、日中戦争で日本政府と組むことによって彼なりに和平を追求した汪兆銘は「売国奴」として、手を後ろでに縛られ頭を垂れる像が作られ、中国の観光客はその像を棒で突っついたり、ツバを吐きかけたりもする。
中国人は人が亡くなると魂になると考えるため、靖国神社には「好戦の魂」が漂っていて、靖国神社に参拝すると、再びその「好戦の魂」が蘇って、日本人は再び戦争を起こすのではないかと考えるのである。
一方、日本人の祈りの方向性は「安らかにお眠り下さい」なのである。蘇って欲しくないのである。
魂が鎮まってほしいからこそ、非業の死をとげたものを「英霊」として重きをおいてなだめるのである。
日本各地に祀られる「天神様」も靖国や護国神社の「英霊」も、日本人特有の祀り方なのであり、このあたりの文化の基層に関わる部分は、なかなか外国人には理解されない。
そういえば、福岡市内の大濠公園内にある広田弘毅の石像は、正面の護国神社を見据えて立っている。
菅原道真の死後に冠された名「天神」と呼応するかのように、巣鴨刑務所跡地に冠された名「サンシャイン」にもまた鎮魂の響きが感じられる。