校長の機縁

学校という場所は、同僚・同輩・父兄・先輩・後輩の関係まで入れて考えると、その広がりは無限にひろがっていく、いわばWeb siteである。
そんな中、不思議な縁(えにし)の中に自らを見出すことになった福岡の三人の校長を紹介したい。
博多湾に浮かぶ能古島は、檀一雄の名作「りつ子その愛」舞台で、能古島には、壇一雄の文学碑があるが、その能古島の頂き近くには、もうひとつ「折れたコスモス」と題された歌碑がある。
この歌碑には「小さきは 小さきままに 折れたるは折れたるままに コスモスの花咲く」とある。
この歌の作者は、世界各国で特殊教育の講演を続けて数年前107歳で亡くなられた元・福岡教育大学教授・昇地三郎である。
昇地は、ご自身のお子さんが二人とも障害児として生まれ、当時は特殊教育も発達していなかったために、自ら福岡市南区井尻に「しいのみ学園」を設立され、試行錯誤の末に日本の特殊教育の先駆者となられた。
そういう理由で「折れたコスモス」の歌碑は、日本の特殊教育の「記念碑」でもあるが、どうしてこの記念碑が能古島に建つことになったのだろうか。
その発端は、能古小学校の校長として赴任した中野明校長と、この小学校出身で高校2年の時に交通事故で亡くなった生徒の保護者との出会いであった。
福岡教育大学での昇地三郎の教え子達の間で、氏の長年の功績に対する記念碑を建てようという動きが起こった時のことである。
その教え子の中には、特殊教育を専攻した歌手(俳優?)の武田鉄矢もいた。
実は、筑紫中央高校時代に武田鉄矢が生徒会長、中野校長が副会長という関係にあった。二人は一緒にJR南福岡駅から大学がある赤間まで通ったという。
武田が「3年B組金八先生」に登場する前年の1978年、上村啓二君は、能古小学校時代に書いた作文「折れたコスモス」で小中学校作文コンクールで西日本新聞社・テレビ賞を受賞した。その中に次のような一節があった。
「その倒れたコスモスの茎にはナイフで切られた跡があった。つぼみも小さく横に倒れていた。コスモスの先を手で触ったえら、そのときしずくがぽつんとなみだのように手のひらに落ちた。秋も深まった日、いつしかコスモスを見に行った。
白・赤・紫のコスモスの花が群れになって咲いている中を一生懸命に探した。やっと見つけることができた。他のコスモスの花と違って、ちょっと小さな花が三つほど咲いていた。小さい。
でも、僕にはその三つの花が、一番美しくかわいく見えた。今は泣いていないようだった」。
この上村君の「倒れたコスモス」と昇地の「折れたコスモス」を結びつけたのが、能古小学校校長・中野校長であった。
上村君の父親から「息子が交通事故で亡くなった道路沿いの土地に歌碑を建ててください」と要望され、歌碑建立の運びとなったのである。
昇地三郎の障害をもつ二人のご子息への思いと、交通事故で息子を失った上村君の両親の思いがコスモスの花を介して、能古島で交わったのである。

能古島の壇一雄文学碑から福岡市の西部に突き出る糸島半島小田の浜も見えるが、そこが壇一雄の妻リツ子さんの終焉の地である。
その糸島半島に、福岡県立糸島高等学校がある。
この高校の校長室には、学校の校訓を示す額縁入りの「自主積極」の揮毫が掲げてあるのだが、この文字を書いたのは戦後初の文部大臣・森戸辰男である。
1930年代終わり頃、糸島高等女学校(戦後、糸島高校へ統合)に伊藤エマとルイズという姉妹が通っていた。
文部大臣・森戸辰男と無政府主義者・大杉榮と伊藤野枝夫妻との間に生まれた子供達(エマとルイズ)との、曰く言い難き「めぐり合わせ」、それは「何か」に引き寄せられたものだったろうか。
今宿海岸にはかつて無政府主義・大杉栄の戒名のない墓石があった。大杉栄は香川県で生まれたが、大杉の妻・伊藤野枝がこの今宿出身であった。
瀬戸内寂聴が書いた小説「美は乱調にあり」の主人公が、この伊藤野枝である。
現在、今宿海岸に面してある野江の実家からわずか100mの地点には今宿バスセンターがあり、その隣には今宿派出所がある。
瀬戸内寂聴の小説「美は乱調にあり」の冒頭で、この派出所(当時は見張り小屋)のお巡りさんが、大杉の妻・伊藤野枝に絶えず監視の目を光らせていたことがわかる。
1923年、大杉栄と夫人の野枝、そしてたまたま遊びにきていた甥の三人は、関東大震災のドサクサの中、憲兵隊により殺害された。この事件はその時の憲兵隊・隊長の甘粕正彦からとって「甘粕事件」という。清朝最後の皇帝・溥儀を描いた映画「ラストエンペラー」の中で坂本龍一が演じた満州国の黒幕つまり溥儀を影で操る男「アマカス」こそは、大杉夫妻を殺害したこの甘粕正彦である。
ところで伊藤野枝は常日頃「私たちは畳の上では死ねない」といっていたそうであるが、その言葉どおりになってしまった。この事件は、映画「華の乱」にも描かれている。
一方、甘粕正彦は、大杉夫妻殺害後、軍法会議にかけられ有罪10年の懲役となり千葉刑務所に服役した。
しかし態度優秀に加えて皇室の慶事による大赦によって3年で出獄しフランスにわたり、その後満州映画協会総裁として復帰した。そして1945年8月、ソ連軍の新京侵入を前に、青酸カリで自殺している。
なお甘粕事件後、大杉栄・伊藤野枝夫妻の死後には4人の幼子が残され、今宿海岸にあった伊藤野枝の実家に引きとられた。魔子・エマ・ルイ・ネストルの四子である。
松下竜一の著書「伊藤ルイズ」を読むと、四女の伊藤ルイさんが大杉・野枝の娘として苦難の人生を歩まれたことがわかる。
両親が殺されたとき1歳3カ月だったルイさんはひとつ違いの姉のエマさんと今宿の野枝の実家で祖父母に育てられた。祖父母の愛は深かったが、軍国主義の時代にあって、姉妹は天皇に反抗した親の子供として周囲の冷たい視線を浴びて成長した。
姉妹は心の傷をそれぞれの胸におさめ、蒲団を被って泣く夜もあったという。
ところで森戸辰夫は戦後初の文部大臣に就任するが、1950年強く嘆願されて初代広島大学学長に就任し、原爆の跡が生々しく残る同大学の再建・充実に尽力した。そして森戸学長が、広島大学(当時高等師範学校)の卒業生である糸島高校の瓜生校長に、校長就任を祝って「揮毫」を送られたということである。
しかし、森戸はただそれだけの思いで糸島高校の校訓を書いた「揮毫」を教え子である校長に送られたのだろうか。
森戸は文部大臣になった人物だから保守的な人物かと思われがちだが、戦前は「森戸事件」という筆禍事件を起こした経歴をもっている。
戦前の森戸の思想は、ドイツ歴史学派のクロポトキンの研究にもとづいて、資本主義的矛盾を是正せんとする社会改良主義的な政策を志向するものであった。
ある学術雑誌の創刊号に「クロポトキンの社会思想の研究」を寄稿したところ、同論文が社会主義より危険な「無政府主義」を鼓吹するものとして批判され、東京大学を休職処分となったのである。本は発禁処分となり、森戸と発行責任者の大内兵衛は朝憲紊乱罪で起訴された。
結局、森戸は裁判で禁固3カ月の判決をうけ、巣鴨監獄に入り東京大学を去ったのである。それが1920年のことで、世に言う「森戸事件」である。そしてこの3年後に「甘粕事件」がおきたのである。
そして森戸辰男が戦前に翻訳し紹介したクロポトキンの思想に強く影響され「無政府主義」を鼓吹したのが大杉栄である。そして虐殺された大杉夫妻の子供達が通っていた高校の校長室に、森戸辰男の「揮毫」が飾られているというとなると、曰く言い難きめぐり合わせのようなものを感じるのである。
では実際に、森戸辰男と大杉栄に面識はなかったのだろうかと色々と調べてみた。しかし森戸と大杉に無政府主義という共通項があったにせよ、学窓に生きる森戸と野に生きる大杉とは、あまりにも世界が隔たっているように思えた。
この大杉と親交を結んできたのが小説家の有島武郎で、映画「華の乱」には、黒マントの大杉が有島の邸宅を頻繁に出入りしていたシ-ンが描かれている。
1920年代、大杉は有島から旅費を借金し、海外の社会主義者やアナキストの会合に参加した。そこで逮捕されて強制送還されている。
そして有島は森戸辰男とも親交があったことがわかった。アメリカからの帰国後に社会主義に傾倒していた有島武郎は、森戸事件のあと慰労の手紙を送ったことにより、森戸との交友が始まったのだ。とすると、有島を介して森戸と大杉が面識があったのではないかと推測できる。
さらに調べてみると、意外なところに「別の接点」を見出した。
中華革命で日本で亡命生活を送っていた黄興が死去し、その友人である宮崎滔天の息子龍介がその旧宅(西武池袋線の旧上屋敷駅あたり)を管理し、その黄興旧宅を東大新人会の合宿所として提供していたという。
その黄興旧宅には顧問の吉野作造のみならず、賀川豊彦・大杉栄・森戸辰男ら多くの知識人が出入りしていたというのである。
この事実からすれば、直接の面識があったというのが自然であるが確証が見いだせなかった。
そこで、広島大学の大学院に森戸辰男の研究者がおられることを知り、その件につきメールで直接教えを請うことにした。
すると次のような返事があった。「確かに、森戸と大杉栄は、直接、面識があります。森戸は、大杉の行動力を高く評価していたようです。具体的に以下の資料があります。~広島大学文書館所蔵森戸辰男関係文書/件名:近況報告/発信者:森戸辰男/形態:はがき1枚、黒ペン書/」。
この史料をもって、後の文部大臣・森戸辰男とアナーキスト・大杉榮が、葉書で「近況報告」を出すほどに親密であったということを確認することがでた。
戦後、広島大学長となった森戸が前述の「揮毫」を送ったのは、自分の教え子である糸島高校校長に向けたばかりではなく、関東大震災のドサクサで殺害され、糸島のはずれ今宿海岸の「戒名なき墓」に葬られた大杉夫妻や糸島高校に学んだ「遺児たち」にも向けられたにちがいない。

「吉田学校」といえば、終戦後に吉田茂首相の下で働いた若き官僚達で、後に有力な政治家になる池田勇人、佐藤栄作 前尾繁三郎などである。
しかし、もうひとつの「吉田学校」がある。作曲家・吉田正が育てた歌手(or俳優)として活躍した吉永小百合、橋幸夫、三田明などである。
ところで吉田正作曲のヒット曲には、 三浦洸一「異国の丘」 鶴田浩二「傷だらけの人生」 フランク永井「有楽町で逢いましょう」 松尾和子「誰よりも君を愛す」 橋幸夫「潮来笠」 吉永小百合「いつでも夢を」 三田明「美しい十代」などのほか数多くある。
ところで個人的な話だが、福岡県の宇美商業高校の校歌の作曲家にナント「吉田正」というビッグ・ネームを見つけた。
あの「有楽町で逢いましょう」の作曲家で「国民栄誉賞」を受けられた、アノ吉田正だろうかと思いつつ、「創立五十周年誌」で調べると、確かにアノ吉田正に間違いなかった。
吉田正は1921年、茨城県日立市に生まれた。
1942年に満州で上等兵として従軍し、敗戦と同時にシベリアに抑留されている。
従軍中には部隊の士気を上げるため、またシベリア抑留中には仲間を励ますために曲をつくった。
その抑留兵の一人が詩をつけ、その歌が「よみ人しらず」として、いつの間にかシベリア抑留地で広まっていった。
1948年8月、いちはやくシベリアから帰還した抑留兵の一人が、NHKラジオの「素人のど自慢」で、この「よみ人しらず」の歌を「俘虜の歌える」と題して歌い評判となった。
吉田は、その直後に復員して半月の静養の後に「俘虜の歌える」が評判になったことも知らず、以前の会社(ボイラー会社)に復帰していた。
ところが9月、ビクターよりこの評判の歌に詞を加えられて「異国の丘」として発売されてヒットするや、この曲の作曲者が吉田正と知られるところとなり、翌年吉田は日本ビクター・専属作曲家として迎えられたのである。
その後、吉田は数多くのヒット曲を世に送り出し、1960年に「誰よりも君を愛す」で第2回日本レコード大賞を受賞、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」は昭和を代表する曲となった。
その一方、昭和を代表する作曲家として若い歌手を育て、1998年6月肺炎のため77歳で死去したが、その翌月には吉田の長年の功績に対して「国民栄誉賞」が授与された。
さて、吉田の作曲の原点は、1945年10月から1948年8月の舞鶴港帰還までの「シベリア抑留体験」である。
吉田は21歳の時に徴集され、ソ連との戦闘で瀕死の重傷を負い、その後シベリアに抑留され過酷な収容所生活を強いられた。
このシベリア抑留とは、敗戦時に満州にいた日本軍がソ連軍によりシベリアに連行され、過酷な環境の中で強制労働をさせられた出来事である。
ところで最近、吉田が軍隊にいたときや、シベリア抑留中に作ったとみられる未発表の歌が、レコード会社などの調査で次々に見つかっている。
吉田の戦後の再出発のきっかけとなったのが「異国の丘」(作詩:増田幸治 佐伯孝夫)だが、 数年前、一人の抑留経験者の情報提供をきっかけに、吉田が所属していたレコード会社とNHKがさらに調査を進めたところ、同じ部隊にいた人達やシベリアの収容所の仲間が、ノートに書き残したり、記憶に留めたりしていた20余りの曲が発見・復元された。
生前、吉田自身は、軍隊・抑留生活の中で作った作品を公にしてこなかったが、戦友や抑留経験者たちが“ヨシダ”という仲間が作ったという記憶とともに密かに歌い継いでいた曲だった。
作曲数2400曲と言われる吉田メロディーに、新たな楽曲が加えられ、レコード会社ではCDとして残していくという。
さて封印を解かれかのように見つかったこれらの曲は、敗戦に打ちひしがれていた日本を照らす「希望の旋律」でもあった。
実際にシベリア抑留兵の中には、あの時あの歌があったからこそ、いつか帰れる日を信じることがでたという人々も多い。
しかし、吉田自身は当時作った曲を忘れたと話していて、それらを残そうという気持ちはなかったようである。むしろそうした歌を「封印」したフシさえあるのだが、自らが知らぬうちに「異国の丘」としてラジオで流れていたのである。
その時、吉田に戦後の復興にあたる日本を励ます歌を作ろうという思いが芽生えたにちがいない。
「シベリア抑留」は、敗戦時に満州にいた日本軍がソ連軍によりシベリアに連行され、過酷な環境の中で強制労働をさせられた出来事である。
そして1947年から日ソが国交回復する1956年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。
最長11年抑留された者も居れば、2~3年で比較的早期に帰国した人々もいた。
シベリアで6万の人々が命を落としたが、栄養失調の為、帰還時にはヤセ細って別人のようになって還ったものが多くいた。
シベリア抑留からの帰還者の中には、陸軍参謀の瀬島龍三もいたし、後に政治家になる相沢英之、宇野宗佑、財界人では坪内寿夫、その他スポーツ芸能界では、水原茂、三波春夫、三橋達也などもいた。
また作曲家では吉田正以外に、米山正夫がいた。
米山は、水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」や「ヤン坊マー坊天気予報」のテーマ曲で知られている。
1956年に「日ソ共同宣言」をまとめた鳩山一郎は訪ソの前に次のように語っている。
「北方領土返還が最大の課題として話題になっているが、ソ連に行く理由はそれだけではない。シベリアに抑留されているすべての日本人が、一日も早く祖国の土を踏めるようにすることが、政治の責任である。
領土は逃げない、そこにある。しかし、人の命は明日をも知れないではないか」。
シベリアから帰還する息子を、京都府舞鶴港で待ちわびる母の心情を歌った歌「岸壁の母」が、1954年に大ヒットした。
ところで吉田正が福岡県立宇美商業高校の校歌を作った経緯だが、初代校長は校歌を作ろうと、たまたま同僚だった教員が日本ビクター専属作詞家の井田誠一と知り合いだったため、「校歌」の作詞を依頼したところ、井田がコンビで曲をつくっていた作曲家に校歌の作曲を依頼することになった。その作曲家こそが、吉田正であった。
「若いお巡りさん」「バナナボート」のなどの曲で作詞(訳詩)で知られる作詞家の井田が、1963年12月に作詞家の井田が東京から福岡に来て、学校をとりまく自然環境や歴史的背景を見た上での作詞となった。
そして吉田門下の人気歌手の三田明が歌ったテープが学校に届き、「お披露目」となったのである。
個人的に、宇美商業高校の「創立四十年誌」の中に驚くべき発見をした。
なんと校歌を吉田正に依頼した初代校長自身が、「シベリア抑留」体験を語っているのだ。極寒の零下40度の世界を不屈精神力と生命力をもって生き抜いたともあった。
つまり、初代校長と作曲家・吉田正は、ほぼ時期を重ねて「シベリア抑留」を体験しているのである。
ということは、初代校長はシベリアで、我しらず吉田正の曲に励まされて生存をつないだのかもしれない。
時を隔てて二人を何かが引き寄せたのか、「応仁天皇生誕の地」宇美八幡宮に近い宇美商業高校にて、吉田正作曲・井田誠一作詞という日本歌謡界に輝くコンビで作られた校歌が今も響いている。