「国際評価」の屈折

高校教科書において、親鸞を法然の教えを「徹底/発展」させたなどの表現で説明してきたが、この記述では法然は親鸞より「劣る」と誤解を与えかねないとして、教科書の表記を見直す動きが相次いでいる。
それは浄土宗と浄土真宗の宗派的優劣にもなりかねないからだ。
12C法然は比叡山で学び、43歳の時、阿弥陀仏の本願を信じ、ひたすら南無阿弥陀仏の念仏を唱えれば極楽浄土に往生できるという「専修念仏」の教えに目覚めた。
親鸞は29歳の時に法然の弟子となったが、法然の弟子になった時の言葉は有名である。
「法然上人が行かれるところには誰が何と言おうとも、たとえ地獄であろうともお供します」と記した。親鸞がいかに法然を敬っていたことを表わしている。
そこで多くの教科書は、親鸞は法然の教えを「独自に展開させた」といった表現に変えようとしている。
実は、親鸞の高評価の背景に「国際的評価」が一枚カンデいることはあまり知られていない。
ベートーベンの生涯を描いた主著『ジャン・クリストフ』により、1915年にノーベル文学賞を受賞したロマン・ロランが、その代表者である。
ロマン・ロランは、日本に大ブームを巻き起こした倉田百三の『出家とその弟子』を読んで感動し、『出家とその弟子』のフランス語版の序文において「欧亜(ユーラシア)芸術界の最も見事な典型の一つで、これには西洋精神と極東精神とが互いに結びついてよく調和している。この作品こそ、キリストの花と仏陀の華、即ち百合と蓮の花である。現代のアジアにあって、宗教芸術作品のうちでも、これ以上純粋なものを私は知らない」とまで激賞している。
この本のタイトルの「出家」とは親鸞のことで、ロランが親鸞にれほどの価値を見出したとは意外な気がするが、時として日本国内の凡庸なものが海外で異常な評価を得て、その評価が「逆輸入」されるケースをいくつか思いつく。

国際評価が「輸入」されたケースの一つが彫刻家の棟方志功の作品である。
棟方は1924年青森から東京に出てくるが、好きなゴッホばかり描いて、作品を文展を継承した帝展に出品するが「落選」続きであった。
その間、木版画を学び出品してみると、そちらが先に「入選」を果たした。
そして1936年、国展にだした「ある版画」があまりに横長(よこなが)であったために置き場に困りモメていた。
そこにたまたま民芸派の陶工が通りかかり、その「化け物」ぶりに目がとまった。
すると早速民芸派のリーダー柳宗悦らが買い取り、彼らが棟方作品を全面的に支持したのである。
柳宗悦はいちはやく朝鮮の民芸の価値を見出した人物で「民芸派」の創始者として知られている。
なにしろ、朝鮮の民芸品に美しさを見出して「運動」を起したくらいの人だから、「西洋かぶれ/巨匠かぶれ」の評論家とは目のツケ処・ひいては心の在り様が違ったといってよい。
棟方はその頃、版画も含め芸術の志向はヨーロッパであり、その流れに背をむけるように一人仏教や民族説話に題材を求めていった一方で、棟方は「版画とは木に潜む精霊を呼び起こすこと」などという発言をして忌避されたりもしていたのだ。
そして、誰も予想しないことであったが、棟方作品の評価は海外からやってきた。
「釈迦十大弟子」などの作品がスイスやサンパウロやヴェネチアで開催された国際版画展・ヴエンナーレ展で次々と受賞していく。
その結果、「世界のムナカタ」として国内で評価されるようになる。
棟方の場合、国際的評価が先行したカタチだが、「民芸派」との出会いがなければ、国際コンクールに出品されなかったかもしれない。
棟方の作品が、ヨーロッパで20世紀初頭に沸き起こった「ジャポニズム」の記憶を蘇らせたという面があるのかもしれない。
ともあれ、周囲の風潮に惑わされずに「民族路線」を貫いた姿は、落選を続きでもゴッホばかりを描いいた若き日の棟方志功の姿と重なる。
棟方志功は、1970年に文化功労賞者並びに文化勲章を受賞し、1975年まだまだ大きな可能性を秘めながらも72歳で亡くなった。
また、黒澤明監督の映画 「羅生門」(1950年大映)も国際評価が先行したケースの代表である。
「羅生門」は、1951年ベネチア映画祭で金獅子賞金賞を受賞し国際的評価を得て、黒澤の名が初めて世界に出る「記念碑的作品」となった。
「羅生門」は、芥川龍之介の小説 「藪の中」 を原作とし、 同作者の 「羅生門」の舞台あわせて映画化されたもので、しかし「羅生門」は日本国内では不評で、興業的には「失敗」に終わったといってよい。
個人的には、バック・ミュージックのラベル作曲の「ボレロ」がとても印象的だったといいたいところだが、後でコノ曲は「ボレロ」に良く似た早川文雄の作曲であったと知った。
平安時代、京の郊外で起こった一つの殺人事件をめぐって、盗賊、殺された侍の霊を代弁する巫女、侍の妻、目撃者の樵(きこり)のそれぞれが証言する。
同じ一つの事件について三つの物語を、それぞれを自分に都合よく語る構成が、シンプルかつ面白い。
時代は平安末期、 若狭の国府の侍(森雅之) は、妻 (京まち子) を伴って、 京を立ち若狭へ向かう。
東海道を下り山科の駅を過ぎた頃、盗賊 (三船敏郎) とすれ違う。
盗賊は行き違いに見た侍の妻の美しさに惹かれ、このを奪いたいと心に思う。
盗賊は侍に近くに古塚があり財宝が埋めてあるので買わないかと言葉巧みに誘い込み、 そして不意に組み付いて大木の根本に縄で縛り付けて、 その目の前で女を手込めにして犯す。
翌朝、男は死骸となって木樵り (志村喬) に発見されるが、女は行方が分からなくなってしまう。
一体そこで何が起こり、何があったのか?。三人の当事者の語るところは、すべて食い違っている。
盗賊が検非違使(当時の警察)にが自白した話では、犯した女は気違いのように盗賊の腕に取りすがり、「二人の男に恥を見せたのは死ぬよりもつらいから、二人で決闘してくれ。勝った方の妻になる」と言った。
そこで、男の縄を切り太刀で斬り合いの結果、遂に男を斬ったが女は居なくなり、その後の行方はわからないという。
また侍の妻が観音菩薩の前で「懺悔」した話では、盗賊は妻を手込めにした後に去ってしまうが、夫はそのことによって自分を蔑むようになった。
こうなった以上、妻は夫と一緒には居られないから一緒に死んでくれと、小刀で夫の胸を刺し自分も喉を突こうとしたが、死にきれなかったという。
さらに、夫である侍が死霊が巫女の口を借りて語った話では、 盗賊は妻を手込めにした後、 自分の妻にならぬかと妻を口説いていた。
妻は応諾すると 「あの人が生きていては、貴方と一緒になれぬから、あの人を殺してくれ」といった。
それを聞くと盗賊は妻を蹴り倒し、夫に 「あの女を殺すか、それとも助けてやるか」と尋ねると、その言葉に妻は走り去った。
盗賊も侍の縄を切って去っていったが、侍は落ちていた小刀をその胸に突き刺して自害した。
以上のような三つの証言が、軽快なリズムの繰り返しとモノクロームの映像をバックとして、人間の心の深淵を次第に押し開くように描かれている。
真実はひとつなのに、語るものが多く情報が増えるほどに、「真実」が遠のいていく。
この映画のテーマは、とても普遍的で、人間というものは自らの物語で、無意識に己を正当化したり価値付けたりするものであるにちがいない。
最近、朝日新聞の「折々のことば」に、フランスの哲学者ガブリエル・マルセルの言葉を見つけた。
「私の過去は、私がそれを考察する限り、私の過去であることを止める」。
これをうけての鷲田精一氏の説明が興味深い。
「私が私の過去として語りだすものは、過去の無数の出来事から、いまの私がこだわり、ひっかかるものを選び出したものにほかならない。その意味で、私による私の過去の語りは、常に贋造されている可能性がある」。
さて、映画「羅生門」の扱ったテーマは、今日におけるオリンピックのエンブレム問題から豊洲市場問題、森友学園問題などにも、あてはまるものがある。
登場する証言者が語れば語るほど、真相は「藪の中」にはいりこんでいく。

現在「世界記憶遺産」に登録されているものの例をあげると、アンネの日記、アンデルセンの原稿、ベートーヴェンの直筆楽譜、グーテンベルク印刷の聖書、ゲーテの直筆文学作品、フランス革命の「人権宣言」、キルケゴールの手稿、イプセンの「人形の家」筆写本、ニーベルンゲンの歌、マグナ・カルタなどであるから、山本作兵衛は「とてつもない殿堂」に仲間入りすることになる。
福岡県・筑豊炭田の労働実態を描いた画家、山本作兵衛(1892~1984年)の記録画などが国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界記憶遺産」に登録されることになったことが、日本初の「快挙」となったのは記憶に新しい。
世界記憶遺産とは、人類が長い間記憶して後世に伝える価値があるとされる楽譜、書物などの記録物(動産)をユネスコの委員会がそれぞれの申請に基ずいて審査・決定し、1997年から2年ごとに「登録」事業を行っているという。
作者・山本作兵衛は1892年、福岡県嘉穂郡笠松村(現飯塚市)に6人兄弟の次男として生まれたが、父・福太郎は遠賀川の船頭であった。
遠賀川で石炭輸送に従事した父は、筑豊興業の開通により船頭に見切りをつけ炭鉱に移って採炭夫となった。
作兵衛は、父の仕事の手伝いと子守りに追われ学校にもほとんど通えず、唯一の「楽しみ」は絵を描くことであった。
小学校卒業後、14歳から採炭夫として「後山」の仕事をした。後山(あとやま)とは、先山(さきやま)である採炭夫を助けて、掘り出した石炭を運搬する仕事である。
山本作兵衛の絵には、上半身も露な女性が「後山」となっている姿がいくつも描かれている。
健康な山本にとっても坑内労働は過酷であり、別の仕事につこうと福岡に出てペンキ屋に弟子入りしたこともあった。
そして二十歳の頃鍛冶工となり「絵筆」からは遠ざかったが、紙の余白などに絶えず「文字以外のもの」を描いていたという。
1916年に結婚し、鍛冶工の仕事では家族を養うこことが出来ず、坑夫に戻った。そして一家8人の口を糊するために死に物狂いで働いた。
しかし1945年、長男の「戦死」が山本の転機となった。長く尾をひく「哀しみ」が絵筆を取らせた。
気持ちを紛らわす為に、ヤマの有様を描きつづけた。
ただソレダケのことだったが、それは「失われたもの」の記憶を辿り「ポッカリ空いた孔」をヒタスラ埋めようとした試みだったのかもしれない。
それが約65年後に「世界の記憶」になるとは、御本人も想像することさえできなかったであろう。
1955年ごろより筑豊の山はつぎつぎに廃坑となり、山本も炭鉱を解雇され60歳をこえて警備の仕事などについた。
山本がはじめて「画用紙」と名の付くものを買ったのが、ナント68歳の時であるという。
かくして昭和40年の初頭までに一千枚を超える絵が描かれた。
山本の絵が伝える坑夫の姿は、けして「筋骨隆々」の男達ではない。むしろやせ細った「貧弱」とさえいえる男達の姿があるのだが、これこそが「実相」を伝えているのだろう。
炭鉱のなかでは落盤事故、水、爆発など小さな事故が頻発したし、山本が炭鉱にはいって200人近い人々が亡くなる大事故がおきたこともあった。
事故があっても操業を続ける意志が経営者側にあれば、人命救助は必ずしも先行されず、坑内火災がおきれば、その坑道を締め切るか、あるいは水を導き入れて消す他はない。
坑内に取り残された犠牲者の搬出は、「絶望」の言葉によってアトマワシにされる。というわけで、炭鉱で生きる人々は常に死に直面していた。
さらに斜陽を迎えた時代の炭鉱では事故は、閉山の格好の口実にさえなっていた。
坑内で拍手をするな、頬かむりをするな、ご飯に味噌をつけるなどの「迷信」がいくつもあった。
それゆえに「死ぬ時は一緒」という意識が絶えず坑内にあり、「相互扶助」の意識はきわめて高かった。
山本の絵は1963年に「明治大正炭鉱絵巻」として自費出版され世に知られることになった。
「明治大正炭鉱絵巻」に収められた約10年間の「奇跡的な燃焼」をもって描かれた絵は、今もナオ新鮮な驚きを与え続けている。
今回登録されるのは、山本作兵衛が自らの炭坑労働体験に基づき描いた記録画の原画や日記など計697点である。
世界記憶遺産への登録には大概が、政府レベルで「国宝クラス」を申請するパターンが多く、今回のように地方自治体による申請は珍しく、福岡県田川市はシテヤッタリの感がある。
なぜなら国を通してたら、とてもウテアッテもらえなかったでろうから。
また山本作兵衛の絵の中には、「炭鉱労働」という当時の「国策」への「一刺」または「一矢」をも秘めたものだったからだ。しかも、「世界記憶」が炭鉱労働者という「名もなき人々」の実録絵巻であったという点も、痛快である。
それにしても、地方自治体による「非国宝」クラスの申請が日本初の登録というのも不思議な話ではある。
政府(文科省)はどうして世界記憶遺産にもっと積極的に申請しないのだろうか。
当時、「鳥獣戯画」「源氏物語絵巻」「御堂関白記」「慶長遣欧使節関係資料」など、いずれも「国宝クラス」をユネスコに提出することにしていたようだ。
ひょっとしたら日本の役人は、国宝が落選すること、もしくは国内における文化財の序列が、「国際評価」によって覆されることを恐れているのかもしれない。
山本作兵衛以後、日本では地方自治体による世界記録遺産への登録申請が続くが、国が消極的なのはそれが「冒険」になるからだろうか。
紫式部が山本作兵衛に敗れたらどうしようなんてことを考えるのだろうか。
実際、日本では一般に「冒険」というものが社会的に評価されにくい風潮がある。
それにつき思い出すのは、1962年日本初の太平洋単独ヨット横断の堀江謙一の評価である。
当時ヨットによる出国が認められておらず、この偉業も「密出国」、つまり法にふれるものとして非難が殺到し、堀江は当初「犯罪者」扱いされていたのだ。
ところが、堀江を迎え入れたアメリカ側の対応は、日本とはまったく対照的なものであった。
まず第一に、日本とアメリカの両方の法律を犯した堀江を「不法入国者」として強制送還するというような発想を、アメリカ側は絶対にしなかった。
その上サンフランシスコ市長は、「我々アメリカ人にしても、はじめは英国の法律を侵してアメリカにやってきたのではないか。その開拓精神は堀江氏と通ずるものがある」と肯定した。
さらに「コロンブスもパスポートは省略した」とユーモアをもってマトメ、堀江を尊敬の念をもって遇しサンフランシスコの「名誉市民」として受け入れたのである。
すると、日本国内でのマスコミ及び国民の論調も、手のひらを返すように、堀江の「偉業」を称えるものとなったのである。
トランプ大統領の「大統領令」によって難民が制限される中、今日のアメリカとは対照的な「アメリカの原点」を思い出させるエピソードではある。

「黒人であるアリには''どちらでもない''生き方が許されない,ゆえに反体制の英雄として語られることが多い」 「白人のディランは''答は風の中''と謎めかして,''どちらでもない''生き方を貫けるのです」 「多文化主義を誇った米国は2016年に選ばれた大統領のもと,女性や外国人差別との共存を迫られることになるかもしれません.そんな年にアリが去ったことは,本人が望かどうかは別にして後年,象徴的に語られることになると思います」 「平等」求める魂どこへ 高橋良朗さん(一部抜粋) twitter.com 「代表作の''風に吹かれて''は,奴隷売買を歌った19世紀の黒人霊歌を下敷きに,黒人が権利を求めて立ち上がった公民権運動の議論から生まれました.その衝撃から黒人歌手のサム・クックは64年''A Change Is Gonna Come''を発表します.このフレーズは公民権運動の象徴となり.08年大統領選でのオバマのキャンペーン''Change''につながったのです」「なぜ,ノーベル賞授賞が16年だったのか.アメリカが闘いの中で築いてきた価値観が崩れかけている.しかしディランは,黒人にとって魂の源流にいた.それが答だ,と私には思えました」 「黒人音楽にとって,モハメド・アリも重要な存在です.''I 'm the greatest''など,リズムを刻んだ挑発的な物言いから''ラッパーの元祖''と称されます.その表現スタイルと抵抗の精神はヒップホップに受け継がれた.目の前の不条理を即興で訴えかける音楽」「90年代以降,米音楽界のメインストリームになりました.ブラックパワーは社会に広がり,政治の世界でも黒人のトップが生まれたのです」 「ところが,マイノリティーの権利拡大で割を食ったと感じた白人貧困層は反発し,黒人への弾圧も強まった.黒人の大統領を生んだ反動が,差別的な発言を繰り返す実業家を大統領に押し上げる一因になったとも言えます」 「ディランやアリに連なって''平等''を求めてきた黒人の歩みはいま,曲がり角を迎えています」 迎合せず突き刺さる言葉 アーサー・ビナードさん f:id:yachikusakusaki:20161226011251j:plain プロフィール  「詩人」が目指す表現は,50年後,100年後の人々が読んで,「なるほどそこに本質があったのか」と納得するものです.さらにその言葉が万人に届くのが理想です.現代の万人にも未来の万人も.  けわしい目標です.古くならない言葉を生むには,はやりすたりを超える価値観が必要.自分に確たる基準を持つしかない.裏切り者といわれても,嫌われ者にされてもかまわない.そこが,万人に受け入れられたいという思いとは,一見矛盾します.  ディランは,アメリカ音楽の先人たちと向き合ってきました.フォークを足場にして喜ばれる歌を察して供給しながらも,「裏切り者といわれてもかまわない.みんなが聴いてくれなくてもいいんだ」という歌い方に徹している.そこも重要な基本姿勢.  ノーベル文学賞への態度にもそれが出ていました.多分,うれしいとは思う.と同時に,警戒もしているに違いない.賞を受けるということは,その価値観に取り込まれるということだから.距離を取ったのは当然に思えます.  世に迎合せず,同時に万人に向けて大事なことを発する.そんな綱渡りが,ディランの詩人らしさ.  アリは,ディランと同じ時代を生きて,スポーツの世界で活躍しながら,詩人よりももっと鋭く,本質をつかむ言葉を発した.蝶(ちょう)のように舞う肉体の詩人が,世界王者に上り詰めてから,世間のマヤカシに突き刺さる発言をした.「ベトコンとは争いはない」.当時,ベトナム戦争PRキャンペーン実施中の米政府を敵に回す言葉で,嫌われ者にされること請け合いです.  でも,ベトナム戦争の本質を突いていました.アリの鋭い,きわどい言葉に,多くの人が刺激され,戦争のからくりに気づかされました. トランプという人物も,刺激的な言葉を生む技術をもっています.なぜ「メキシコ国境に壁を!」という檄が,話題を呼んだのか.人種差別が受けたからじゃないですよ. ゆるい国境警備で得をするのは,安い労働力をむさぼる大企業.普通の市民は低賃金のまま,不法移民も都合が悪くなれば排除される.その構造がバレているので,人々はトランプの言葉に刺激された.僕の故郷,ミシガンなど中西部にいると,よく分かる. これまでなら黙殺されていたはずです.大手メディアの論理で維持されてきた言論空間の中では,そのスポンサーに都合のいい言葉しか通用してこなかったからです. 「詩人」は,そんな言論空間と距離を測りつつ言葉を紡ぐ.トランプはそのまっただ中で,いかに注目を集めるかを考える.いずれにしても主流からは決して出てこない表現で,時代を刺激している.そこに共通点が潜んでいます ジェロは15歳の時、「高校生による日本語スピーチコンテスト」で初めて日本の地を踏んだ。
その時のスピーチタイトルは「ぼくのおばあちゃん」だったという。
ヒップホップ系ファッションを採りいれて、その外見はラッパーのスタイルというのも、高校時代にダンスチームの主将を務めた経験からか。
ピッツバーグ大学に進学し情報科学を専攻し在学中には関西外国語大学に3ヶ月間の留学をした経験がある。この留学期間中に演歌歌手になることを決意した。
大学卒業後再び日本の地を踏み、英会話学校の教職やコンピュータ技術者の仕事に就いた。その傍ら「NHKのど自慢」に出場し合格するなど日本各地のカラオケ大会に自ら応募したうえで出場し演歌歌手を目指して独自に活動を続けた。
坂本冬実主宰のカラオケ大会で優勝した際、スカウトの目に留まりオーディションを受けて合格した。
2008年に「海雪」でプロデビューし日本レコード大賞の最優秀新人賞を受賞した。
NHK紅白歌合戦では、実母が来日し感涙した。
デビュー曲となった「海雪」は、新潟県の出雲崎町を舞台とした曲で 舞台となった出雲崎町では、町民を対象に「海雪」のCDの購入の際に町から補助費を出す法案を可決し、町ぐるみでジェロを応援した
ジェロの好きな日本語は「一期一会」と「ちんぷんかんぷん」、好きなアーティストは坂本冬美、好きな食べ物はホッケ。納豆も好きだが、わさびととろろは苦手だという。
「海雪」を作詞をした秋元康は、良寛の故郷でもある出雲崎を訪問したことはなく、想像力だけで書いた。
積もることなく海にむなしく消える雪、のような女心を。

クリス ハート 1984年8月25日、アメリカ合衆国、サンフランシスコ・ベイエリアでアフリカ系アメリカ人の両親との間に生まれた。2歳の頃に両親は離婚し、母によって育てられた[注釈 1]。 モハメド・アリが去り、ボブ・ディランがノーベル賞を受け、ドナルド・トランプは米大統領に。2016年は暮れゆく。ディランの歌が聞こえる。「How does it feel」――どんな気がする? ■迎合せず突き刺さる言葉=アーサー・ビナードさん(詩人)  「詩人」が目指す表現は、50年後、100年 後の人々が読んで、「なるほどそこに本質があったのか」と納得するものです。さらにその言葉が万人に届くのが理想です。現代の万人にも未来の万人も。  けわしい目標です。古くならない言葉を生むには、はやりすたりを超える価値観が必要。自分に確たる基準を持つしかない。裏切り者といわれても、嫌われ者にされてもかまわない。そこが、万人に受け入れられたいという思いとは、一見矛盾します。  ディランは、アメリカ音楽の先人たちと向き合ってきました。フォークを足場にして喜ばれる歌を察して供給しながらも、「裏切り者といわれてもかまわない。みんなが聴いてくれなくてもいいんだ」という歌い方に徹している。そこも重要な基本姿勢。  ノーベル文学賞への態度にもそれが出ていました。多分、うれしいとは思う。と同時に、警戒もしているに違いない。賞を受けるということは、その価値観に取り込まれるということだから。距離を取ったのは当然に思えます。  世に迎合せず、同時に万人に向けて大事なことを発する。そんな綱渡りが、ディランの詩人らしさ。  アリは、ディランと同じ時代を生きて、スポーツの世界で活躍しながら、詩人よりももっと鋭く、本質をつかむ言葉を発した。蝶(ちょう)のように舞う肉体の詩人が、世界王者に上り詰めてから、世間のマヤカシに突き刺さる発言をした。「ベトコンとは争いはない」。当時、ベトナム戦争PRキャンペーン実施中の米政府を敵に回す言葉で、嫌われ者にされること請け合いです。  でも、ベトナム戦争の本質を突いていました。アリの鋭い、きわどい言葉に、多くの人が刺激され、戦争のからくりに気づかされました。  トランプという人物も、刺激的な言葉を生む技術を持っています。なぜ「メキシコ国境に壁を!」という檄(げき)が、話題を呼んだのか。人種差別が受けたからじゃないですよ。  ゆるい国境警備で得をするのは、安い労働力をむさぼる大企業。ふつうの市民は低賃金のまま、不法移民も都合が悪くなれば排除される。その構造がバレているので、人々はトランプの言葉に刺激された。僕の故郷、ミシガンなど中西部にいるとよくわかる。  これまでなら黙殺されていたはずです。大手メディアの論理で維持されてきた言論空間の中では、そのスポンサーに都合のいい言葉しか通用してこなかったからです。  「詩人」は、そんな言論空間と距離を測りつつ言葉を紡ぐ。トランプはそのまっただ中で、いかに注目を集めるかを考える。いずれにしても主流からは決して出てこない表現で、時代を刺激している。そこに共通点が潜んでいます。 (聞き手・村上研志)     * Arthur Binard:67年生まれ。詩集「釣り上げては」で中原中也賞。BSスカパー!「ニュースザップ」などで時事批評も。 ■米国の変化、象徴的な年に=藤永康政さん(日本女子大学准教授)  モハメド・アリと言えば、1996年のアトランタ五輪開会式、かもしれません。  90年代の米国では、ロサンゼルス暴動など人種間の緊張が再燃しました。そんな中、公民権運動の指導者、キング牧師ゆかりのアトランタにアリが聖火の点灯役として立ったのは、人種和解の象徴と期待されたからです。  アリをアリたらしめていたもの、蝶(ちょう)のように舞うフットワークも、蜂のように刺すパンチも、対戦相手を攻撃する弁舌も失われていた。それでも大きな喝采を受けました。一方で一部の人たちを失望もさせました。ベトナム戦争への兵役を拒否した反戦の英雄が、体制側に利用される存在になったか、と。  私は、アリは和解の象徴としてでも反体制の英雄としてでもない、元五輪金メダリスト、元ヘビー級王者として世界のトップアスリートたちの前に現れたのだと思います。  67年、アリが兵役を拒否した有名な言葉は、彼の本意を表しているようです。  「I ain’t got no quarrel with them VietCong(ベトコンとは争いはない)」  “I”で始まっています。思想や運動とは無縁の、自分を語る言葉です。「俺がやりたいのは戦争じゃない。ボクシングだ」と。  実際、「運動」へのアリの関与は薄かった。親交を結んだ公民権運動の活動家マルコムXとは、後に距離を置きます。独裁国家でタイトル戦を戦いました。レーガン大統領ら保守政治家との親交も知られています。アリは政治的な注目を浴びることではなく、ボクシング王者として認められたかったのだと思います。  しかし、アリの言葉には反差別、反戦が読み込まれ、今も反体制の英雄として語られることが多い。  なぜか。黒人だからです。米国社会において黒人は常に体制に抵抗するか従順になるか、と問われてきました。アリには「どちらでもない」生き方が許されなかったのです。  ディランがノーベル賞の授賞式に出ていたら、アトランタのアリのように一部から失望の言葉も出たでしょう。彼は受賞を喜びながらも出なかった。白人のディランは「答えは風の中」と謎めかして、「どちらでもない」生き方を貫けるのです。  私は公民権運動の指導者たちから聞き取り調査を続けています。8年前に、米国初の黒人大統領の誕生を喜んだ彼らの多くが物故し、運動は歴史になりつつある。多文化主義を誇った米国は2016年に選ばれた大統領のもと、女性や外国人差別との共存を迫られることになるかもしれません。そんな年にアリが去ったことは、本人が望むかどうかは別にして後年、象徴的に語られることになると思います。 (聞き手・秋山惣一郎)     * ふじながやすまさ:66年生まれ。専門は公民権運動などアフリカ系米国人研究。訳書に「モハメド・アリとその時代」。 ■「平等」求める魂、どこへ=高橋芳朗さん(音楽ジャーナリスト)  黒人音楽から2016年を振り返ると、時代が変わる予兆はありました。米大統領選が始まった2月のことです。  スーパーボウルのハーフタイムに、国民の歌姫であるビヨンセが黒人という立場から黒人弾圧への異議を申し立てた。続いて、黒人ラッパーのケンドリック・ラマーがグラミー賞を5部門で受賞する。彼が歌う「Alright」は、相次ぐ白人警官による黒人射殺事件への抗議デモで連呼され、「新しい公民権運動のサウンドトラック」とも評されました。  裏を返せば、あからさまな黒人差別が表出し、分断は始まっていたのです。その延長線上で、トランプが大統領に選ばれた。それだけに、同じ年にボブ・ディランがノーベル賞を受けたことが無関係とは、私には思えません。  代表曲の「風に吹かれて」は、奴隷売買を歌った19世紀の黒人霊歌の旋律を下敷きに、黒人が権利を求めて立ち上がった公民権運動の議論から生まれました。白人のディランが黒人の心を揺さぶる歌をかいた。その衝撃から黒人歌手のサム・クックは64年、「A Change Is Gonna Come」を発表します。「変化はいつかやってくる」とのフレーズは公民権運動の象徴となり、08年大統領選でのオバマのキャンペーン「Change」につながったのです。  ディランが「新たな詩的表現」を作り出した功績は以前から認められたものでした。ではなぜ、ノーベル賞授賞が16年だったのか。アメリカが闘いの中で築いてきた普遍的な価値観が崩れかけている。しかもディランは、黒人にとって魂の曲とされる歌の源流にいた。それが答えだ、と私は受け止めました。  黒人音楽にとって、モハメド・アリも重要な存在です。「I’m the greatest」など、リズムを刻んだ挑発的な物言いから「ラッパーの元祖」と称されます。その表現スタイルと抵抗の精神はヒップホップに受け継がれた。目の前の不条理を即興で訴えかける音楽は「黒人のCNN」とも呼ばれ、90年代以降、米音楽界でメインストリームになりました。ブラックパワーは社会に広がり、政治の世界でも黒人のトップが生まれたのです。  ところが、マイノリティーの権利拡大で割を食ったと感じた白人貧困層は反発し、黒人への弾圧も強まった。黒人の大統領を生んだ反動が、差別的な発言を繰り返す実業家を大統領に押し上げる一因になったとも言えます。  ディランやアリに連なって「平等」を求めてきた黒人の歩みはいま、曲がり角を迎えています。「風に吹かれて」から半世紀、時代の分水嶺(ぶんすいれい)にならないようにと願います。 (聞き手・諸永裕司)     * たかはしよしあき:69年生まれ。雑誌編集者を経て、フリー。ラジオパーソナリティー ロックンロールの創始者の一人として知られる米ミュージシャンのチャック・ベリーさんが18日、中西部ミズーリ州セントチャールズ郡の自宅で死去した。90歳だった。
救急の通報を受け、ベリーさんの自宅に駆け付けた郡警察が反応のないベリーさんを発見。救命措置を施したが、その後、死亡が確認された。
代表作に「ジョニー・B.グッド」「ロール・オーバー・ベートーベン」など。
  戦後、日本が独立し海外に向けて動き始めた頃、産業や芸術・文化に国際的に評価されたものは稀でしかなかった。
それどころか「過去の否定」の上に戦後を築いた日本は、積極的に「何か」を発信しようともしなかったともいえる。
そのせいか、たまたま海外で評価されるようなことがあれば、ようやくソノ価値に気づくという経緯を辿ったものもある。
つまり、「世界のお墨付き」をえて、はじめて国内的評価が定まったものである。
1962年、日本人で初めてヨット・マーメイド号で太平洋単独航海を果たしたのは、当時24才の堀江謙一であった。
しかし当時ヨットによる出国が認められておらず、この偉業も「密出国」、つまり法にふれるものとして非難が殺到し、堀江氏は当初「犯罪者」扱いされていたのだ。
実は、堀江出立の3ヶ月前に、ドラムカン製イカダで太平洋を横断しようとした青年Kがいた。
Kは八丈島付近で巡視艇に見つかってしまい、強制的に引き返させられた。
巡視船に曳航される途中で、Kは何度も「死にたい」と思ったという。何しろKを待っていたのは、未決収容所での手厳しい「教育的指導」であった。
堀江もヘタをすれば、Kと同じ運命を辿っていたかもしれない。
「無謀さ」は本人を危険に陥れるばかりではなく、職場や親族縁者にまで迷惑をおよぼすという配慮が働くからかもしれない。
しかし、無謀でない冒険などあるだろうか。もし無謀がダメなら冒険はするなということに等しい。
まして