モデルがあった?

昭和51年(1976年)公開のアメリカ映画”ROCKY・ロッキー” は世界中で大ヒット。無名の役者シルヴェスター・ス タローン を一気にスターダムに押し上げた。
僅か3日間で脚本を書き上げたというスタローン。そのきっかけとなったのは、1975年3月24日米クリーブランドで行われた、王者モハメド・アリ(米)vs挑戦者チャック・ウェップナー(米)の世界ヘビー級タイトルマッチ。
アリは、ジョージ・フォアマン(米)から「キャンシャサの奇跡」で奪還した王座の初防衛戦ということで注目されたのだが、対戦相手のレベルの低さにファンの反応は、ただ驚くばかりで、一部は”悪い冗談”と受け取った。
やる気だったのは、酒屋のセールスマンが本業のウェップナーただ一人。ただその宣伝文句に嘘はなかった。 「この10年間、ダウンした事も、KOされたこともないんだ!」
試合の結末は、予想通りと言えばそれまでであるが、ウェップナーの奮闘ばかりが目立った。誰が見ても、おふざけの王者の実力が数段上である事はわかる。相手がふざけていようが、おかまいなく一生懸命に立ち向かう挑戦者。
当たらぬパンチを打ち続けたウェップナーは、9回幸運なダウンを奪う。これでアリも幾分本気となった。アリが、王者の面目にかけてラッシュを仕掛けた仕留めたのは、試合終了ゴングまで残り残すところ19秒だった。
個人的に、この愚直なまでに戦ったの挑戦者の姿は心にやきついたが、それはシルヴェスター・ス タローンも同様らしく、映画「ロッキー」誕生のモデルとなった。
漫画「あしたのジョー」に登場する矢吹丈には「斎藤 清作」という実在のモデルがいたことはあまり知られていない。
仙台市内の農家に八人兄弟の次男として生まれた斉藤は、少年時代に友達とどろんこの投げ合い遊びをしていて、泥が左眼に当たったことが原因で左眼の視力をほとんど失った。
仙台育英学園高等学校在学中ボクシング部に入部、2年生時には宮城県大会で優勝している。
その後上京し、様々な職を転々とした後、ボクサーを目指し多くのチャンピオンを育てた「笹崎ボクシングジム」に入門している。
左目の障害を隠し、視力表を丸暗記してプロテストに合格しなんとかプロボクサーとしてデビューした。
同期には後の世界チャンピオンのファイティング原田がいた。
そして斉藤は、髪型を河童のように刈り込んだことから「河童の清作」と呼ばれた。
そして1962年、第13代日本フライ級チャンピオンとなった。
ノーガードで相手に打たせて相手が疲れたところでラッシュをかける戦術が、漫画「あしたのジョー」の主人公、矢吹丈のモデルになったともいわれている。
しかしこのスタイルとは、あくまで左眼が見えないハンデを相手に悟られないように、打たれても打たれても体をかわさなかった戦術であったにすぎない。
そして相手が打ち疲れた頃に反撃するファイトスタイルを用いた。
ファイテイング原田は、斉藤はどんなに打たれても倒れず、耳元で「効いてない効いてない」とささやき続けるため、対戦相手にとってはよほど脅威だったに違いないと語っている。
しかしその斉藤も、受けた頭部へのダメージにより、「パンチドランカー」となって引退する。
斉藤は、引退後に同じ宮城県出身ということでコメディアンの由利徹に弟子入りし役者として芸能界デビューする。
つまりボクシングとは「違うリング」で戦うことになり、芸名を「たこ八郎」とした。
芸名の由来は、自宅近くの行き付けの居酒屋「たこきゅう」から採った。
入門直後は、師匠の由利宅に住み込みだったが、まだパンチドランカーの症状が残っており、台詞覚えが悪くおねしょも度々あったため、本人がそれを気にし家を出て友人宅を泊まり歩いた。
受け入れた友人たちは、かえって斉藤の素朴で温厚な人柄に触れ、「迷惑かけてありがとう」と、邪険に扱うことはなかった。
また、毎晩のように飲み屋で過ごしていたが、請求が来ることはなかったというほど、誰からも好かれる芸人であった。
人気絶頂期の1985年7月24日、神奈川県足柄下郡真鶴町の海水浴場で飲酒後に海水浴をし、心臓マヒにより死亡した。
新聞には「たこ、海で溺死」と掲載された。

個人的な話だが、福岡市南区にある我が母校・曰佐(おさ)小学校の同窓会名簿を手にして一人の人物の名前を探した。
そして第十七回卒業生の中に確かに彼の名前「谷豊 死亡」の欄を確認することができた。
旧筑紫郡曰佐村の農家に生まれた谷豊のの父はシンガポールにわたり理髪店を経営するが、子供の教育のために一時日本に戻った。
谷豊と弟が曰佐小学校を卒業した後、谷家はふたたびシンガポールに戻った。1937年に日中戦争が始まるとマレー半島でも反日的な機運が高まっていた。
トレンガヌにあった谷家の理髪店は華僑によって襲撃され、谷豊の妹が殺害されるという悲劇がおきた。
ここからが谷豊の波乱の人生の始まりだが、その後の谷豊氏の経歴は不明である。
ただ、成人した谷豊が馬賊の首領として出没するようになり、いつしか人々から「マレーの虎」(ハリマオ)と呼ばれるようになった。
日中戦争の長期化にともない日本軍は東南アジアに活路を求め、現地の地勢や情報に詳しい谷豊と接触し、「藤原機関」の一員として谷豊氏を取り込んだ。谷豊氏はこの時はじめて、公的な働き場所を得ることができたともいえる。
1942年、真珠湾攻撃の約2時間前にマレー半島に進攻した日本軍は、その後銀輪(自転車)部隊で半島を南下し、2月に英国の東アジアにおける要衝であるシンガポールを制圧した。
しかし谷豊はシンガポール占領から約1ヶ月後にマラリアにかかり、シンガポールの陸軍病院で32歳の生涯を閉じている。マレーの心をもちイスラム教徒となった1人の日本人の数奇な人生の終焉だった。
死後ただちに配下のマレー人イスラム教徒によりシンガポールのイスラム墓地に埋葬された。
しかし谷豊氏の生涯は日本人の心に宿り続け、意外なかたちで蘇った。部下3千人を率いる大東亜の英雄「ハリマオ」として蘇ったのである。
つまり彼の人生は戦意高揚のために偶像化され映画化されたのだ。また戦後はテレビドラマ「ハリマオ」のヒーローとして蘇ったのである。
小学生のころ、何も知らず、TVで「ハリマオ」を見ていたことを思い出す。
主人公のモデルが、我が母校の卒業生で、その旧住居地もすぐ隣町とも知らずに。

大災害がおきるたびに思い浮かぶのが、天童荒太の小説「悼む人」(2009年)。
この小説は、現代の無縁社会を描いたが、このタイトルの中に、何かこの社会に対する「異議」が潜んでいるように思える。
「悼む人」は、誰かのために悼まねばならないと意思している人の話である。
「悼む人」の主人公は、凶悪事件や大事故に巻き込まれ亡くなった人をも悼むのだが、「悼む人」の主人公は災難に出会い亡くなった故人のことを知るために、故人の遺族こう聞く。
「故人は誰に愛されたか、誰を愛したか、誰かに感謝されて生きたか」。
この問いは、自分を含む各人の生がユニークであり、その生死を愛しむ思いから自然に湧き出た問いだが、正義の視点とも無縁ではないように思う。
本来、もっと悼まれ看取られていいはずなのにそれがナサレナイという問題、インドやアフリカでは餓えたまま打ち捨てられるように死ぬ人々が大勢いる。とはいえ「悼む人」のいない死は、「無縁社会」と化しつつある日本も、よその国のこととして見過ぎすことはできない。
「孤独死」に代表されるように、人知れず亡くなる人々の死の「偶然性」や「無名性」に何も感じなくなっている。
大事故や事件に見舞われ、誰が死んでもよかったかのような死を、何も準備されずに強いられる人々がいる。
そのうえ死者数百何十人の一人としてしか扱われないような死は、確かに「いたましい」と思う。
それは花が手向けられることのない「無名戦士」の墓に似ているかもしれない。
昔、「ビルマの竪琴」という映画を見た。「オーイ 水島 一緒に日本に帰ろう」という戦友の勧めとは裏腹に、主人公は、ミャンマーの僧となって日本への帰国を拒んだ。
それは、戦死したものとともにあって弔うためで、この日本人兵士こそ「悼む人」の一典型といえる。
小説「ビルマの竪琴」の主人公、水島上等兵のモデルになったとされる僧侶は 中村一雄氏で、2012年、92歳で群馬県内で亡くなった。
映画「ビルマの竪琴」モデルとなった中村さんは13歳で仏門に入り、 召集された。フィリピン、タイなどを経てインパール作戦に参加し、終戦をミャンマー(ビルマ)で迎えた。戦後は、英国軍の捕虜として収容所生活を送った。
  所属していた隊の同僚の中に、東京のオーケストラの楽団員がいたことから発足したコーラス隊の一員に。「埴生の宿」などを合唱して捕虜たちの心を慰めるとともに、死者の供養も行った。
作者の竹山道雄さんの教え子が同じ隊に所属していた縁で、 中村さんとコーラス隊のことを竹山さんに伝えたことによる。1946年に復員し、群馬県の雲昌寺の住職に。日本とミャンマー双方の戦時中の死者を供養するためミャンマーに慰霊塔を建立したほか、 現地に小学校を寄贈した。

現代の「戦隊ヒーローもの」の元祖である、石ノ森章太郎原作の「秘密戦隊ゴレンジャー」のモデルはナント歌舞伎の定番「白浪五人男」と言われている。
なるほど「五人組」で、敵と闘う前に毎回「自己紹介みたいな口上」をするのは、歌舞伎の演出である。
映画「ウエストサイド物語」は、「ロミオとジュリエット」がモデルとというが、原型は連想させるものの、原型とは異なるという点で、「焼き直し」というのがふさわしい。
パール・バックといえば小説「大地」。中国を舞台に描いた世界は、他の自伝的作品とともにノーベル文学賞をもたらした。
彼女もまた、宣教師の子どもとして中国で大半をすごしている。そして、日本にも足跡を残している。 両親は熱心なクリスチャンで、宣教師として中国へ赴いていたが、母は出産のため一時里帰りして娘のパールを生んでいる。
そしてパールが見た世界とは、男尊女卑はもちろんのこと、一夫多妻(妾に掠奪婚)、幼児の間引き殺人、纏足、女に教育を施さない世界であった。 当時の中国では、実に多くの女性が、夫や親類の女性たちの酷い仕打ちのために自殺していたのだ。
こうした体験に接するたびに、パールは虐げられている女性のために何かを書かねばならないという気持ちを強くしたのだった。 1900年には義和団事件が勃発し、残酷な暴動で被害を受けたり、殺されたりした外国人が沢山いた。
パール一家は暴動を避けるべく上海に向かい、そこからアメリカへ戻ったのである。
「大地」は1930年南京において執筆され、1931年に出版された。
さて1926年から27年にかけて、蔣介石率いる国民党の北伐が始まり、パール一家は上海を出て、日本の長崎に近い雲仙へと旅立った。
パールが日本滞在でもっとも興味を示したのは、やはり「家族制度」だった。。
1960年に再来日したパールは、「家族という考え方は一種の国父である天皇から盗人の頭まであらゆる組織にあります」「大会社は封建領主が置き換わったようなものです」 さらには「日本では、少なくとも、誰かと一緒にいるということでは若者も老人も一人として孤立していません。誕生から死まで家族に囲まれているからです」と書いている。
パール・バックは、父親が宣教の地を中国ではなく、日本を選んでいたらどうだったか、この才女は何をえがいただろうか。
そんなことを思うのも、格好の材料があるからだ。
女流作家の円地文子の小説「女坂」をたまたま読んでいて、ハタと思った。これはパールバックの「大地」の焼き直しだと。 そして我が本箱にあった「大地」の訳者をあらためて確認すると、そこに「円地文子」という名を見出したのである。
パールの「大地」も円地の「女坂」も、社会の中で女性がおかれた「忍従」の姿を描いたという点で共通しているからだ。
日本の明治という時代、つまり成功した男が何人も妾を囲って生きている社会に舞台を置き換えている。ちなみに、女性が生きるにつらい長い道のりを円地文子は「女坂」と表現している。

ロシアの文豪トルストイが書いた短編民話「人は何で生きるか」の主人公は靴職人である。
腕の確かな靴職人のおじいさんがいた。しかしいつの間にか流行におくれ、店に靴を飾っておいても なかなか売れず、老夫婦は貧しい生活を強いられた。
その日は雪模様で手元も暗くなり、続きは明日にしようと、おじいさんは仕事場の机の上に、丁寧に切り取った皮を並べておいた。
次の朝、おじいさんは、仕事場に行って驚いた。
昨日切っておいた皮を綺麗に縫いあげた靴が、素晴らしい出来栄えでそろえてあったからだ。
丈夫なうえに流行も取り入れた良い靴に仕上がっていた。そしてとてもいい値で売れ、おじいさんは そのお金で靴二足分の皮を買い丁寧に皮を切り、暗くなったので、机の上に皮を並べて仕事場を後にした。
翌朝、やはり昨日と同じように 素敵な靴が2足、若い婦人用と紳士用のおしゃれな靴が出来上がっていた。そして二足ともうれしい値段で売れた。
老夫婦は喜んでいるばかりではいられないと、夜中にそっと仕事場をのぞいてみた。
時計が12時を打ったころ、皮を置いたところで 動いているものが見え、二人は驚いて思わず 声が出そうになったが、口を手で押さえて小人のすることを見ていた。
小人たちは「俺たちは靴の妖精、働き者のおじいさんのために、朝になるまで靴作り」と歌いながら、すばやく皮を縫い、小さな槌で形を整え、最後にキュっキュっと靴を磨いて素晴らしい靴を仕上げた。
そして二人は小人の作った靴じっとを眺めていたが、ふとおばあさんが、「おじいさん、あの二人の小人は 裸でしたよねぇ?」とつぶやいた。
そして何かお礼をしようと、おばあさんは二人分の小さな服をつくり、おじいさんは、二人のために小さな靴をつくった。
そしてその日の夜、テーブルの上に、切り取った皮の代わりに並べておいた。
二人は扉の影から 仕事場をのぞいて見ると、彼らはおばあさんの作ったシャツとズボンにかわいいチョッキを着、おじいさんが作った革靴を履いてみていた。
小人たちは、大喜びでお互いに腕を組んでスキップしたり、歌ったりしながら踊り始めた。
またそれ以後、老夫婦の靴は作ったそばから靴は売れていき、老夫婦は幸せに暮らした。
個人的にはこの話を読みながら、玩具が動き出す映画「トイ・ストーリー」のある場面を思い浮かべた。
まさか「トイストーリー」がこの物語をヒントにしていることはないとは思うが、作者の名が「トルストイ」だけに、妙に気になっている。

太宰治には、「人を信じることが出来るか」ということに関して敏感な人であった気がする。
それが一番表出された作品が、太宰治「走れメロス」であった気がする。
だが、コレだけの作品を作るためには、何か歴史的な出来事があったに違いないと推測したのだが、 それは意外にも太宰の身近なところにあったようだ。
なにしろ、「走れメロス」の時代背景は紀元前4世紀の古代ローマ時代、場所はシチリア島の都市、シラクサと似た場所のような舞台設定なので、そのことに思い至らなかった。
「走れメロス」の舞台は、シチリア島の都市国家、シラクサの王がモデルで、物語の舞台もシチリアである。
古代地中海の大国、カルタゴと戦ったが、現代では、「ゴットファーザー」の故郷である。
また、太宰がよく読んでいて、ユダの立場からイエスを書いた「」などもあることから、旧約聖書の「ヨセフ物語」を連想させる。
さて、友人を身代わりにまでしてきちんと約束を果たしたお話の太宰治の作品「走れメロス」。このメロスには、ちゃんとモデルがいた。それは、壇一雄氏で、女優の壇ふみさんのお父さんにあたる人。
太宰治と壇一雄は親友で、あるとき熱海の宿で執筆中の太宰が金銭を枯渇させて、奥さんから頼まれてお金を持った壇が訪ねていった。
ところが、ミイラとりがミイラになってしまい一緒に使い果たしてしった。
太宰は壇を身代わりに宿に置いて東京に戻り、菊池寛や井伏鱒二の所へお金を借りに向かった。
しかし、いつまで経っても太宰は戻ってこず、しびれをきらした壇は事情を説明して宿をあとにし、東京に向かい太宰を探しに行く。
井伏のところで太宰を見つけたが、そこには壇のことなど忘れているかの如く、将棋を指している太宰と井伏がいた。
そこで太宰は、「待つ身がつらいかね、待たせる身がつらいかね」と言ったという。
この熱海事件をもとに、4年後に走れメロスが執筆されたという。

パールの父親は、1880年に中国の杭州に上陸してから、1931年に南京で亡くなるまで、50年間を
中国でキリスト教宣教師として活動している。 この父を子供の頃には崇拝していたパールだが、成長するにつれて父を批判的な目で眺めるようになる。
父親アブサロムは、少年の頃家族から愛されていないという劣等感を埋めるために、何か人とは違った英雄的な生涯を送らねばならないと考えるようになったらしく、中国に渡って異教徒を救うことだったのである。
パールの父を含む宣教師たちが、いわれのない優越感をもって中国人に臨むときに、中国人の方でも宣教師への反感から、いろいろなデマを飛ばしていたという。 こんな状態だったから、アブサロムの努力にもかかわらず、成果はほとんどあがらなかったのだが、これは当時、中国にいた千人以上の宣教師にしても同じような状況だったという。
母親のケアリーは信仰心が厚く、海外布教を自分の使命と感じて夫と共に中国に渡ったのだが、結核を病んでいて病弱だった。