友あり遠方より来る

論語にある「友あり、遠方より来る、また楽しからずや」という言葉~友人が遠くからやってきて久しぶりに酒が呑めてうれしい~そんな解釈ではダメ。
正しくは、思いもよらぬ自分の理解者がいて、自分を訪ねやってきた喜びをかみしめた言葉である。
日本が苦境にあった時、思わぬ理解者もしくは共感者が現れた。それが、黒人やアメリカン・ネイティブであったら驚きだが、実際そんな歴史的な局面が本当にあったのだ。
1919年、第一次大戦後のパリ講和会議において、戦後処理に並行して国際連盟創設のための議論が進められた。
その議長役を務めたのが、アメリカのウィルソン大統領である。
実はこの時、アメリカの黒人たちは、国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという提案を掲げて参加していた日本の動きに注目していた。
日本人は、日露戦争の勝利でそれまでの「白人優位」の神話を崩した生き証人だった。
日本の使節団がパリに向かう途中にニューヨークに立ち寄った際に4人の黒人代表が嘆願書を使節団に手渡している。
人種差別に苦しむアメリカ黒人社会は、有色人種でありながら世界の大国の仲間入りした日本を、「人種平等」への先導者とみなしていたのだ。
日本がこうした「人種平等の原則」を提案したのは、カリフォルニアなどで「排日法」が制定されていたからである。
議長であった米国大統領ウィルソンは多くの議案を「多数決」で決定しており、日本の提案は16カ国中11カ国の賛成票を得た。
しかし、この案については「全会一致でない」という強弁によって退けられた。
アメリカの黒人は、自国の政府の措置に怒り、全米で数万人もの負傷者を出すほどの大規模な暴動が続発した。
ところで近年、黒人社会に対して接触をもとうとした日本人の存在が明らかになっている。
北九州八幡の皿倉山を故郷とする疋田保一で、日本政府によって活動資金を提供され、工作員としてアメリカニューヨークのハーレムに入って黒人社会と接点を持とうとした。
この工作には、アメリカで圧迫されている黒人を日本側に引き込もうという意図が秘められていたが、疋田の働きは具体的には不明であるが、政府の意図とは少々異なる趣をもつことになる。
疋田は「ハーレム・ルネッサンス」といわれた時代に、多くの黒人芸術家たちと親交を結んでいる。
その中には、ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、チャーリー・パーカーなど「ジャズエイジの黎明期」を飾った錚々たる黒人プレイヤー達がいたのである。
実は、疋田の工作員としての活動は、黒人との文化交流の陰に隠れて掴みがたい。
もうひとりは、大分県杵築市に生まれの中根中という人物である。
中根は関西学院に進学し、後にキリスト教徒となる。若い頃は浪費癖がひどく、教会を除名されたりした。
大借金を残してカナダへ渡り、白人女性と結婚する。後にアメリカのタコマに移住するが、もとからの浪費癖が災いして生活が破綻して失踪する。
ところが中根は、1933年、突如として中根は「黒人指導者」としての頭角を現す。この年、デトロイトの黒人街で活動をはじめた中根は、日本陸軍から秘密裏に派遣された軍人であると名乗り、「日本人は黒人と同じく有色人種であり、白人社会で抑圧されてきた同胞である。日本は白人と戦っている」と黒人を扇動して、白人社会の打倒を訴えた。
中根の弁舌はカリスマ的であり、黒人から、「救世主」と崇める者さえいた。
そして黒人女性と結婚するが、一時は10万人をも動員して黒人暴動を多発させた。
FBIによって国外退去を命じられ、一旦は、日本へ帰国するもすぐにカナダへ渡り、そこから妻を通してアメリカの組織を遠隔的に運営していった。
ところが、中根を支えた妻が活動資金を使い込んで、その活動が行き詰る。
中根は組織を立て直すべくアメリカに再入国しシアトルに拠るが、1939年に逮捕された。
中根は戦争中に釈放され、後半生愛したデトロイトに戻り、同地で没した。
1943年、デトロイトで黒人の大暴動が発生しているが、アメリカの兵器生産拠点であったデトロイトを3日間機能停止状態に陥れたが、これは中根の活動に起因すると言われている。
日露戦争中、ロシア革命を背後から支援した明石元二郎の働きを思い出す。

日本人と「アメリカン・ネイティブ」の直接的接点といえば、太平洋戦争中の「南太平洋上」において、敵として向かいあったことである。
さて、天皇ご夫妻が2015年に慰霊のためにパラオ(ペリリュー島)を訪問された。ここは、第一次世界大戦後に、ドイツにかわって国際連盟による日本の「委任統治領」となった島々である。
1933年の国際連盟脱退後はパラオは重要な軍事拠点のひとつとして整備が進められた。
1941年 太平洋戦争開戦時のペリリュー島には、上空から見ると「4」の字に見える飛行場が完成していた。
1943年にはパラオ在住者は33000人おり、その内の7割は日本本土、沖縄、日本が統治する朝鮮や台湾などから移り住んできた人達であった。
道路を舗装し、島々を結ぶ橋をかけ、電気を通し、電話を引いた。
しかしアメリカ機動部隊は、1944年2月17日にトラック島を、同年3月30日にはパラオを空襲し、その機能を喪失させた。そしてペリリュー島は、日本軍とアメリカ軍の陸上戦闘戦の舞台となった。
圧倒的な米軍に対して日本軍は、要塞化した洞窟陣地などを利用し「ゲリラ戦法」を用いたが、日本軍がこの時見せた組織的な抵抗、戦術は、後の「硫黄島の戦い」へと引き継がれていく。
硫黄島に着任した栗林忠道中将はサイパンやペリリュー島で行った水際での防御を中心とする戦術よりも、内陸での持久抵抗を行い、敵の消耗を強いる作戦を採用する。
なお、この穴を掘って自在に防御と攻撃を行う戦法は、のちに日本軍が「ベトコン」と呼ばれたベトナム解放軍に教え、ベトナム戦争でのアメリカの敗北につながったとされている。
栗林の立てた作戦に意義を唱えた者も多かったものの陣地防御やゲリラ戦術によって長期の持久戦を徹底させた。
当時、栗林の戦術が採用されていなければ、日本は今とは違った歴史を歩んでいたかもしれない。
アメリカの当初の計画では5日間で島内全域に潜んでいる日本兵を殲滅する予定で、15000名の死傷者数は覚悟の上と公表していた。
ところが攻撃が開始されてアメリカ軍が日本軍を制圧するまでに36日を要し、実際には想定を遥かに上回る時間と死傷者を出すことになった。
硫黄島が米軍におちるまでの時間、日本の本土では学童疎開する猶予となったことを思えば、大きな意味があったといえる。
また、日本兵は、階級章や所持品など身元を識別するものの一切を外して最後の攻撃を仕掛けた。
そのため、敬意を表して遺体を探していたアメリカ軍でさえも栗林の遺体を見つけることはできず、多くの将兵とともに硫黄島のどこかで眠り続けている。
その一方で、将校の遺体が敵兵によって徹底的に調べられることを見越して、時のアメリカ大統領「フランクリン・ルーズベルト宛」に手紙をした海軍指揮官もいた。
日本語と英語に訳された「ルーズベルトへの手紙」は手紙を託した将校が懐に抱いて突撃したため、海軍士官の思惑通りアメリカ兵の手によって発見される。
まもなくルーズベルトが亡くなったため本人が読むことはなかったが、現在この手紙は「アナポリス博物館」に保管されている。
また、1945年2月~3月の「硫黄島の戦い」には、二人の日本人ロサンゼルス・オリンピック選手が参加している。一人は馬術の金メダリストの西竹一、もうひとりは100M自由形銀メダリストの河石達吾である。
1932年ロサンゼルスオリンピックで馬術競技史上、日本人が獲得した唯一のメダリスト西竹一である。
西竹一は、西徳二郎男爵の三男として華族の生まれ、映画「硫黄島からの手紙」(2006年)で初めてこの人を知った人も多い。
西は、陸軍士官学校本科卒業後、陸軍騎兵学校で学び、1930年にイタリアで愛馬ウラヌス号に出会う。
しかし「誰にも乗りこなせない悍馬」ウラヌス号に対して陸軍から予算が下りず、かなりの高額ながら自費での購入した。
1932年8月のロサンゼルスリンピック。大会の閉会式の直前に行われる馬術大障害飛越競技は、当時のオリンピックにおける最大の「華」だった。
しかし西には逆風が浮いていた。満州事変を受け、日米関係は一層悪化し、「反日感情」が高まる中でのオリンピック参加だったからだ。
それでも西は、愛馬ウラヌス号を駆って障害を見事にクリア。減点数8で、優勝候補だった米国のチェンバレン少佐に4点の差をつけて優勝した。
10万人の観衆で埋め尽くされたコロシアムの記者会見で、最後の障害でウラヌス号自身が自ら後足を横に捻ってクリアしたこともあり、インタビューでは「We won」(自分と馬が勝った)と応じ、当時の日本人への敵愾心を越えて世界の人々を感動させたという。
そして、西の名は世界中に知れ渡ることになり、欧米で「バロン西(西男爵)」として親しまれ、社交界でも人気者だった。
また当時排斥されていた日系人のに対する見方をも変えたという。そして西は後にロサンゼルス市の名誉市民にもなっている。
金メダルの栄光から13年、西は馬を降り、戦車連隊長として最前線に赴くことになる。着任先は本土防衛の最前線、硫黄島であった。
1945年、硫黄島の戦いにて、小笠原兵団(第109師団)直轄部隊として戦車第26連隊の指揮をとることとなる。
硫黄島においても愛用の鞭を手にエルメスの乗馬長靴で歩き回っていたという。
だが、敵の圧倒的な兵力を前に次第に苦戦を強いられるようになり、西の連隊も全ての戦車を失い、硫黄島東部に孤立してしまう。
西はこの戦闘で米軍の火炎放射器によって負傷し片目の視力を失う。また800名は居た西の連隊は、この頃既に60名を数えるばかりだった。
結局、硫黄島の戦いで西の率いた戦車第26連隊は玉砕することとなったが、攻撃したアメリカ軍は「馬術のバロン西、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」と連日呼びかけた。
しかし、西大佐はこれに応じず、3月17日、父島に向けて「西部隊玉砕」を打電数名の残兵を率いて進撃中、硫黄島東海岸付近で戦死した。
西の遺骸は敵の手に渡らぬよう部下の手によって砂浜に葬られた。
西はこの時、乗馬靴に鞭、そしてウラヌスのたてがみを身に着けていたという。
ちなみに、当時「海軍語学将校」ドナルド・キーンが乗る船は太平洋戦争アッツ島付近で「神風特攻隊」の攻撃をうけ九死に一生を得るが、キーンにとってそんな底知れない恐ろしさをもって迫ってくる狂信的な日本兵と、「源氏物語」の「平和主義」とはナカナカ結びつきにくいものがあった。
日本軍は兵士達に「日記」を書かせることにしていたのであるが、ガダルカナルで集められた日本兵の心情を吐露した「日記」を読むうちに、涙がとまらなくなった。
この体験がキーンの日本文学研究の礎石となっている。

アメリカでは、アリゾナ州、ユタ州、コロラド州、ニューメキシコ州の4州にまたがる「フォーコーナーズ」と呼ばれるところにナバホ族、ポピ族等のインディアンの居住地がある。
ナバホ族は「フォー・コーナーズ」の沙漠地帯に、アメリカ最大の「保留地」を領有しているネイティブ・アメリカンであるが、第二次世界大戦でアメリカ兵として従軍している。
「ナバホ語」は、ナバホ族にとっては母語以外の何物でもないが,外の世界には通じにくいという条件が利用され、「暗号」として利用されたということである。
その為に「コード・トーカー」としてナバホ族が硫黄島、沖縄などに従軍した。「コードトーカー」とは、ナバホ語を操る暗号員 のことで、ガダルカナル攻略戦、サイパン上陸作戦、硫黄島攻撃などで活躍したとされる。
すなわち、軍事的な指令文はナバホ族出身の兵士によってナバホ語に翻訳して送信され、受信する側では、これもまたナバホ族出身の兵士によって英語に翻訳されたのである。
このような方式によって打電された暗号文は、日本軍には解読することは全く不可能であった。
諜報合戦では後れを取った米軍は、「ナバホ暗号部隊」を太平洋戦の切り札としたのである。
ジョー・ローゼンタールが撮影したアメリカ海兵隊が硫黄島の「擂鉢山」に星条旗を立てる写真がピューリッツアー賞を受賞。その写真を元にして、海兵隊戦争記念碑としてアーリントン墓地に復元され、アメリカの第二次大戦を象徴するものとなった。
その6人の兵士の一人の帽子にはナバホのデザインが施されている。
アメリカン・ネイティヴと日本とのもうひとつの関わりが、「原爆投下」である。
ホピ族は、アメリカ・インディアンの部族の一つでアリゾナ州北部のコロラド川沿いに住んでいる。
「ホピ」とは「平和の民」という意味で、約1000年前にマヤ文明の末裔が、神に導かれ現在の居留地にやってきたとある。
そしてその伝統的な生きかたと偉大なる精霊から与えられたという予言の「石板」を守りつづけてきたのである。
彼らは、常にホピ一族自身に起こる変化と、この地球の上に起こる出来事の変化を、その石板と照らし合わせながら見つめつづけてきた。
1948年に、ホピ族の村の太古から伝わる儀式を行う「キバ」という集会所で緊急の会議が開かれた。
世界がこのまま進めば、地球を破壊しかねない危険な時代に入ってしまうことを、警告として一刻も早く世界に伝えるため、その予言を世界に公開するべきかどうかを討議するために、その会議は開かれたのだ。
重大な教えと予言を外の世界に伝えるためにメッセンジャーが選ばれた。
彼らは、「ホピの予言」を世界に伝えることを自らの仕事としてきたが、ホピの言葉で「灰のつまったひょうたん」が世界に災いをもたらすとある。
またホピ族の近く住むナバホ部族の一人は、ナバホにはその「創世神話」の中で、ウラン(ナバホはそれを地下世界からのクレッジと呼ぶ)は大地の中に留めておくべきもので、もし解き放たれたなら、それは邪悪な蛇になり、災害や、死や破壊をもたらすだろうと伝えている。
1945年8月6日、世界で最初に原子爆弾が広島に投下された。その際、原子爆弾で使われたウランは、「ナバホ保留地」の地下に眠ったものだった。
それから40年の時を経た1985年、日米双方の生き残った400人の軍人たちによる「合同慰霊祭」が硫黄島で行われ、かつて敵同士だった者たちは互いに歩み寄り、固く抱き合った。
「ナバホ暗号部隊」に参加したナバホ族長老は、太平洋諸島最前線で日本人兵と至近距離で向かい合った時、「後ろにいる白人たちよりも敵である日本人のほうが自分たちと外見が似ており、親近感を覚え動揺した」と語っている。

ナバホ保留地では、1980年に閉鎖されるまで、42のウラニウム鉱山と7つのウラニウム工場が操業されていた。
山崎豊子の「二つの祖国」にのモデルとなったのは、ハリー・K・フクハラである。
フクハラは、ワシントン州 実は、この石版の内容が最近明らかになってきたのは、ある日本人とホピ族とのひとつの出会いがあった。
映画監督の宮田雪がインドに旅した時、非暴力による世界平和」に一生を捧げた仏教僧と出会い、高僧の「大地と生命を敬い、創造主への信仰のもとに生きてきたネイティブ・ アメリカンの精神文明こそが近代物質文明を変えるだろう」という言葉に大きく動かされた。
1978年アメリカで行われたネイティブ・アメリカン自身による権利回復運動としての行進「ロンゲストウォーク」に参加し、そこでホピの予言のメッセンジャーであったトーマス・バンヤッカ氏と出会ったのである。
そして宮田は約7年の歳月を経て「ホピの予言」というドキュメンタリー映画を1986年に制作し、これによって「ホピの予言」のことは世界にも知られた。
その中で一番の驚きは、実は広島市・長崎市に投下された原子爆弾の原料となったウランはこうした先住インディアンの住む土地から採掘されたものである。