都市化と「象徴」

2016年8月8日の「天皇の会見」において印象に残った言葉がある。
「即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」という言葉だった。
まず、「天皇の存在」ソレ自体が象徴と思っていたため、天皇が象徴のあり方を「模索」されていたとは、迂闊にも思い至らなかった。
また、天皇は日本の歴史や伝統文化全体を象徴する存在と思っていたためため、天皇があえて「日本国憲法下の象徴として」と断られ、日本国憲法の理念に沿った「存在」であろうとされていることに対して、幾分意表をつかれる思いだった。
周知のように、日本国憲法は「マッカーサー草案」を下敷きに作られたものであり、フランス革命やアメリカ合衆国憲法の精神を盛り込んだものである。
したがって天皇は、前述の言葉において、自身が「象徴」することの意味合いを幾分ユニバーサルなものとして位置づけられてたことになる。
天皇が自ら希望された南方パラオ訪問は、日本人戦没者への慰霊と同時に「世界平和」への祈りも大きな要素であった。
また天皇は、つづいて「いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています」と語られた。
この言葉に、天皇は御自身を日本国民から「突出」した存在であることを極力抑えようとしておられるということを感じた。
かつて昭和天皇は、地方巡幸は「ひとり」でされたし、膝をかがめて話すということまではされなかったが、平成天皇は、福島被災地と訪問された際、「皇后とともに」被災地などを訪問されて、膝をかがめて語られた。
ところで、日本国憲法の草案作りにおいて、GHQ内の一体誰がどのように「象徴」という言葉を思いついたのだろうか。最近明らかになったことだが、そこに意外な外国人の姿が浮かんでくる。
1905年2月2日、近江八幡駅のホームにウィリアム・メレル・ヴォーリズというアメリカ人青年が降り立った。
この24歳の青年はYMCA本部から宣教のために日本に派遣され、八幡商業高等学校の英語教師として着任した。
着任した八幡商業高等学校は、近江商人たちの多額の資金提供によって開校したばかりの学校であったが、ヴォーリズは、英語教師のかたわら自宅でもバイブルクラスを開き、多くの生徒たちが集まるようになった。
その中には、「フォークの神様」とよばれた岡林信康の父親もいて、ヴォーリズに心酔して牧師となっている。しかし、地域の人々のバイブルクラスへの反発もあって、ヴォーリズは来日してわずか2年で教師を解任されてしまう。
ヴォーリズはそのまま日本にとどまり、塗り薬のメンタムで有名な「近江兄弟社」を設立したり、キリスト教の伝道をしながら本来の専門である建築設計の実現のために事務所を開いた。
ヴォーリズの設計で最も有名な建築は、数多くの文豪に愛された東京神田に現存する「山の上ホテル」である。
1931年、日米関係は最悪の状況になり、暗雲が立ちはじめたが、ヴォーリズは日本への帰化することを選び、「一柳米来留」(ひとつやなぎ・めれる)と改名した。
しかし青い目をした一柳米来留は、戦時体制の影響で建築事務所も解散させられた上に、「スパイ容疑」をかけられ、日本人の夫人とともに軽井沢でひっそりと暮らしていた。
そのヴォーリスが、太平洋戦争が日本の敗北で終わった頃、彼の運命(もしくは日本の運命)を大きく「転換」する舞台へと引き出されようとは、想像だにしなかったに違いない。
1945年8月30日、厚木基地にマッカーサー元帥が降り立った。マッカーサーは、天皇を「戦犯とすべき」第一人者と考えていた。
そんな緊迫したなか、元首相の近衛文麿の「密使」が軽井沢のヴォーリズのもとへ向かった。
近衛からヴォーリズに伝えられた要請とは、「天皇陛下の件について、マッカーサーと話し合いたいので、その場を取り持ってほしい」というものだった。
ヴォーリスは、その要請の意味の重大さをすぐに理解し、日記に「鉄を流し込まれる思い」と書いている。
9月10日、ヴォーリズは、マッカーサーの副官である少佐と会い、マッカーサーと近衛文麿の会談をセットしてもらえるように依頼した。
そして少佐から、マッカーサーが「戦争犯罪者」としての天皇の処遇を思案中であることを聞き出した。
そこで、ヴォーリズは何とか天皇を守らなければならないと「ある妙案」を考えついたのである。
それが、天皇自身が神ではなく人間であることを認め、「天皇を神秘的世界から解放し、日本国民とともに歩んでいただく」ということであった。
この考え方ならば、キリスト教を神とする連合国側の宗教観と対立することなく、「妥協点」を見出すことが出来ると考えたからである。
さらに9月12日、ヴォーリズは近衛に会い、天皇が「日本の象徴」として「人間宣言」をするというアイデアを提案をすると、近衛はその提案に満足げに受け入れたという。
ヴォーリズ自身が、キリスト教の信仰者として、「またしてもそのお導きがすべてを支配するべく、神は目を注いでおられた」という祈りの中、翌9月13日に、マッカーサー元帥と近衛文麿の会談が本当に実現したのである。
それから2週間後の9月27日、昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問した。
天皇は自らの命を捧げる代わりに、日本国民の「生命」の保証をマッカーサーに頼んだ。
「マッカーサー回顧録」によれば、マッカーサーは、天皇が命乞いに来たものと思っていたが、その国民を思う真摯な態度に打たれ、天皇の戦争責任を不問にすることを決意した。
それどころか、この時マッカーサーは「日本国の統治において天皇の存在は必要不可欠」と考えるようになったといわれている。
1946年正月、天皇はいわゆる「人間宣言」をしたが、この裏には「碧い目の近江商人」ともよばれたヴォーリズの天皇を守りたいという一心からの「働き」があった。
このことを我々はほとんど知らない。なぜなら、ヴォーリズは1964年に84歳の生涯を閉じるまで、一切そのことを口にしなかったからだ。
ヴォーリズの当時の日記や夫人の証言などから、東京新聞が「終戦直後に、天皇とマッカーサー元帥の会見のためにヴォーリズが大きな活躍をした」(1983年10月31日)という記事を報じて、ようやくそのことが世に知られることになった。

ヨーロッパや中国では、血なまぐさい闘争の勝利者が「王権神授」やら「天命」などという名目をつけて国を支配する。
日本の場合、相争う権力者の勝者が、そのまま国を支配するのではなく、「天皇」を担ぐことによってはじめてその権力の「正当性」を獲得することができる。
つまり一番上に乗っかる「天皇」はあらかじめ決まっていて、その下で支配の「代行者」の地位の争奪戦を繰り広げるという構図である。
したがって、武人や官僚の中で現役の天皇を打ち倒して自らが「天皇」の位につこうとする者はホボいなかった。天皇を打倒するにせよ、他の「天皇」候補者を探し出して担ごうとしたにすぎない。
勤皇の志士達は、天皇という「玉(ぎょく)」をつかみえたが故に成功裡に明治政府を作りえたし、226事件の青年将校のように、天皇への「至情の思い」とは裏腹に、「玉」をつかみ損ねたが故に、「反乱軍」として処刑されるほかはなかった。
このように時々の最高権力者にさえ覆いかぶさる「天皇」とは、一体どのような存在なのだろうか。
こうした支配構造が、日本の歴史と文化における「最大の謎」なのだが、この点についての納得のいく説明を聞いたためしがない。
多くの学者は、日本の天皇支配の「継続性」は、「豊葦原水穂国は、汝知らさむ国ぞと言依さしたまふ」という、アマテラスの子孫(天孫)が支配者となって日本を治めるという「神勅」、つまり神の意志に基ずくものであり、天皇の地位は神代から続く血統によるという神話に基ずくものと説明する。
「神話」は、古代人が世界をどうみてどう捉えたかを知ることができる「貴重な」資料であり、歴史的事実ではないからといって軽視することはできない。
むしろ、神話に表れた意識や態度が民族の様々の信仰や行動を相当に制していることを思えば、「神話」の世界にこそ民族の最も無意識かつ根源的なものが秘められているとみなすことができる。
だが日本の場合は、「神話」による支配者の正統性の根拠よりも、その正統性がそんなにも長く時代を超えて受け入れられてきたという事実ソノモノにこそ目をむけるべきではないだろうか。
つまり王朝が変わってしまえば、新しい「正統性」の根拠を作り出すことさえ可能だからである。
さて、「古事記」を読むと、日本人の心のとらわれない素直さやユーモラスな精神や素朴なヌクモリにふれることができ、ほのぼのとした気分にさえ浸ることができる。
なかでも女神のアマテラスが弟スサノウの乱暴を恐れて、姿を岩屋に隠してしまい、高天原も下界も一度にみんな真っ暗になり世界中にありとあらゆる禍が一度に湧き起こってきた。
そこで、なんとかアアテラスを岩屋から出させるために、入り口の前に鶏を集めて鳴かせてみたり、奇妙な格好で踊り狂ったりして悪戦苦闘する場面が、なんともユーモラスでおかしい。
こうした場面を読んでの第一印象は、けっして高天原の神々は西欧の神のように「超越的」な存在ではなく、かなり人間に近しい存在であるということである。
さらに、万世一系に現れる「血の繋がり」というのも自然の流れであり、自然を崇拝する日本人が「血統」に重きをおくこともよく理解できるように思う。
「高天原」から降ってきた天皇は、超越せる存在というわけでもなくむしろ人間と近しい存在なのだが、その意味では、天皇を「天子様」とよぶ呼び方は日本人一般の感覚をよく表している。
ちなみに明治の天皇像は、西欧絶対主義の影響をうけた異形の「天皇像」である。
アマテラス(「天照大神」)の言葉の中には、日本人がすべての生命の根源に「太陽」を直感的に感じ取っていた意識が秘められていると思う。
エネルギーの法則やらエントロピーの法則を学んだ現代知においても「太陽」が地球上のあらゆる生命活動の源であることは、異論はないにちがいない。
そして「天子様」は日本にもたらされるあらゆる恵みの根源であり、日本の国土や自然そのものが「神殿」のようなものとして受け入れられていたならば、逆に天皇以外のどんな支配者がその存在を超えて君臨できるだろうか。
またどんな新しい「神話」が「天子様」に打ち勝つことができようか。
天子様をナイガシロにすれば、時々の支配者は「天(の岩屋)」が閉じ、恵みを失い年貢さえとれなくなるという恐れさえ抱かせるに十分な存在であった。
それゆえに支配者自らがどうしても「天皇」を奉る必要性があったのである。
つまりアマテラスの子孫たる天皇は、日本人が日々の生活を営む上で遍在するあらゆる自然の恵みの「体現者」のようなものとして、時代を超えて受け入れられてきたということである。

日本の天皇はその祖神が「天照大神」というくらいだから、太陽の光を帯びた存在であったことは間違いない。そして天皇の宮中で今もなお行われている神事は、農耕儀礼と密接に関わっている。
天皇が大嘗祭や新嘗祭でコメを神と食すと、新しい霊がみずからの中に入りこみ、新たな時代・新たな年を迎える、ということになる。
柳田国男によると、日本人はもともと米をヨネといっていたという。一般の農民は普通(ケの日)にはアワ・ヒエ・ヒエなど食べており米を食することはめったにない。
神様へのささげものとしてコメがあり、農民はハレの日だけにヨネを食したのだという。
つまりコメはあくまでも神への捧げものであり、現在はすべてコメと言っているので、コメが「世俗化」したということになる。
そしてその米(イネ)の成長を主宰する役割を果たすのが天皇の存在であり、天皇はコメ作りにおける儀礼と密接に関わってきたのである。
日本の米作りは、そういう点でアジアの米作りと一線を画しており、コメに対して特別な思いいれや意味づけを行ってきた。
周知のごとく、1980年代まで日本政府は農民を過剰に保護して、国民は国際価格の何倍もする米を食べてきた。
1993年に、アメリカの圧力などにより細川内閣はコメの部分的自由化をうけいれ、1999年よりコメの輸入関税化がはじまり、こうしたコメの部分的自由化で日本人はアジア(インディカ米)を食べ始めた。
コメ自由化の圧力は、結局は日本のカラーテレビや自動車の集中豪雨的な輸出が世界的な非難を浴びたためでもある。
日本が無理にも農業を保護していた時代には、かろうじて日本人のナショナル・アイデンティが「コメ作り」にあるという意識は完全には消えてはいなかったように思う。
そうした国策と符合するかのように根強く「単一民族説」が存在し、天皇の存在は世界的に見てまだローカルな位置づけがなされていた。
ところが1980年代ぐらいからナショナル・アイデンティティに関してはコメ作りよりも、自動車やICの方向に日本人の特性があるということや、アジアへの日本企業の進出に伴ない「日本人多民族説」が次第に主流となっていったように思える。
そして、京都大学の梅原猛氏は「日本人の基層にアイヌである」とが、それ以外にも日本人の基層が北方にせよ南方にせよアジアとの関わりが深いという学説が台頭してきた。
こういう学説は日本人のアイデンティティの根源を必ずしも「農耕儀礼」には求めず、天皇の存在が農耕儀礼との不可分なものではないとした点で、従来の日本人アイデンティティの溶解を意味するのものだった。
というわけで、日本人はもともと国際的でありアジアの様々な血が混じっているという方が「環太平洋経済圏」の時代にはふさわしく、天皇も幾分「アジア的色彩」を帯びたのである。
そして現代はグローバル社会。日本人が「自分とは何か」を問う時、自己の古層の中に天皇との結びつきを意識する者は少なくなり、人々の「五穀豊穣」への願いは、都市型生活に見合うように変色している。
オリンピックのメダリストによる街頭パレードに、何十万という人々が集まるのを見る時、日本人のナショナリズムの根源としての天皇は、失なわれつつあるのではないか。サッカーのワールドカップで「ニッポン、ニッポン」と叫ぶ若者達に、天皇への意識などほとんどないであろう。
年初の天皇参賀の日においても、日の丸よりスマホを掲げる人の方が多くなった。
それよりも国民は、ノーベル賞の学者や金メダルをとる海外で活躍する日本人選手など「憧れの日本人」と自らを結びつけようとしているかに思える。
日本国憲法に定めた基本的人権、個人の尊重や男女平等などは西洋の市民革命から生まれたもので、日本の伝統的社会(農業社会)で育んだ価値観よりも、「都市型」の生活に見合うものである。
天皇が日本国憲法の下で象徴を模索されるのならば、「象徴」する内容が伝統社会と異なるのは自然である。
そのことは、天皇の「生前退位の希望」や死後の「墳墓のコンパクト化」への希望などと無関係ではないであろう。そればかりか、それらは「天皇の人権」という問題の提起でもある。