日本銀行の裏面史

戦争で相手を倒すに、武器を使わない方法がある。相手国の紙幣の印刷機または印刷工場を手に入れればよい。
紙幣を大量に印刷し、ヘリコプターで大量にばら撒けば超インフレが起き、政府や軍は物資を調達できなくなる。すなわち戦争が出来なくなるというわけだ。
実はこの話は全くの架空の話ではなく、朝鮮戦争の時にあわや現実化しそうになった。
1950年6月北朝鮮軍は38度線を越えてソウルで韓国銀行(中央銀行)を襲撃した。
ここで北朝鮮軍は、「朝鮮銀行券」の印刷原版を発見したのである。
これが北朝鮮軍の手中に落ちたら最後、韓国経済は壊滅的となる。
北朝鮮は韓国で「未発行」の紙幣を使って、兵站維持に必要な物資を意のままに調達できる一方、収束しようもないインフレに突き落とすことすら可能となったのである。
韓国政府は一刻も早く、朝鮮銀行券の流通を禁じ、新たに韓国銀行券を刷って切り替えさせなければならない。
そんなか、当時の韓国政府の全機能は半島の南端の釜山に追い詰められていた。つまり、新紙幣の印刷などできる状態ではなかったのだ。
そこで米軍当局は、韓国銀行券の印刷を日本の「大蔵省印刷局」に命じた。その作業は徹夜の突貫作業のように過で、機密上場外作業に出すことはできず、米軍が命じた作業計画の変更は許されなかった。
およそ2週間をかけて2千万枚の「韓国銀行券」を刷り上げ納入を完了した。
この朝鮮戦争のエピソードは、歯止めなき「通貨供給」の恐ろしさをも物語っているが、今日の日銀の異次元金融緩和では「出口」を見いだせないまま、それが続いている。
それでは、日本銀行はどのようにして、国を滅ぼしかねないほどの「通貨発行権」を独占するに至ったのだろうか。

明治新政府は、歳入不足を補うために太政官札などを大量に発行し、大蔵省紙幣寮は「紙屑問屋」とよばれた。
伊藤博文は、紙幣整理と近代的銀行制度の確立が急務だとして、米国の「ナショナルバンク」制度も導入を建議し、1872年「国立銀行」が誕生する。
国立銀行といっても、国法にもとづく銀行という意味で有限責任の株式会社である。
設立者は資本金の6割以上相当の政府紙幣(太政官札)を上納し、同額の「公債証書」を受領したうえで、 これを抵当に「国立銀行紙幣」を受け取り発行することになった。
しかし、紙幣の流通が思うように進まず、76年に金などの「交換義務」を撤廃すると、79年末までに153の国立銀行が乱立し、紙幣発行高は激増し、今度はインフレが加速した。
ちなみに「国立銀行」にはナンバーがついており、その名残は今も残っている。
例えば、第四銀行(新潟)七十七銀行(仙台)八十二銀行(長野)十六銀行(岐阜) 百五銀行(三重)百十四銀行(香川)十八銀行(長崎)である。
ちなみに、「みずほ銀行」は元第一銀行(第一勧銀)である。
さて日本銀行の実質的設立者は、大蔵相だった松方正義である。当時の大蔵相といえば、まだ内閣制度が創設前であり、実質的な政府の最高権力者であった。
松方は1877年にフランスに渡り、蔵相のレオン・セイから「日本も通貨発行を独占する中央銀行を持つべきだ」と助言を受けた。
松方は帰国すると、自らの権限で国立銀行条例を改正し、当時、国立銀行が発行していた政府紙幣をすべて回収して焼き払った。
そして中央銀行を設立し、日本銀行券以外の紙幣を発行することを禁じた。つまり、通貨発行権を独占したのである。
松方が助言をあおいだレオン・セイは、「セイの法則」で有名なフランスの経済学者ジャン= バティスト・セイの孫にあたる人物だが、なんとフランス・ロスチャイルド家4代目当主アルフォンス・ロスチャイルドの「使用人」。蔵相になる前は、ロスチャイルド一族の鉄道会社の経営陣の一人として腕をふるっていた人物である。
つまり、松方はロスチャイルド家当主の「間接的」な指示により、日本銀行を設立したということになる。
ところで日本銀行は、実は完全な政府組織ではなく、日銀の持ち株の55%は政府が所有することになっているが、残りの45%の株は、政府以外の民間人の所有だが、その所有者についての情報は「非公開」である。
一般の株式会社とは異なり、出資者は経営に関与することはできないが、出資額に対して年5%以内の配当を受け取ることができるため、株主からすればもうけてもらわなければならない。
しかし、日本銀行はどのように利益を得ているのだろうか。結論を先に言えば、「通貨発行権」という「打出の小槌」である。
通貨の表示をみればすぐわかるとおり、硬貨は「日本国政府」が発行しており、紙幣は「日本銀行」が発行している。
なぜ一元化しないのかという素朴な疑問がおきるが、それは日銀の非公開の45パーセント株と関連しているのかもしれない。
ところで硬貨の原価は500円玉で30円、100円玉で25円程度、「日本銀行」発行のお札は、1万円札で22円と、額面に比べて原価が非常に安い。
我々が「日銀」と呼ぶ「日本銀行」の仕事は、財務省の印刷局で刷られた紙幣を1枚20円の原価で買い取り、それを千円、5千円、1万円紙幣として政府や銀行に貸し出すことである。
1枚20円程度で刷った紙切れで、国債などの金融商品を買って利息収入を稼ぐため、必ず儲けがでる仕組みとなっている。
日銀は政府から独立した機関であり、紙幣をどのくらい刷るか、刷らないかを独自に決める権限を持っており、日銀関係者内部の一存で決められる。
国民が選ぶ権利のない日銀総裁の権力は、とてつもなく大きい。イギリスにかつて「ソブリン金貨」というのがあったが、ソブリンが「主権」を意味することを思い浮かべる。
しかし、日銀総裁には、もうひとつ知られざる顔がある。
世界各国の中央銀行の頂点には、中央銀行を束ねる国際決済銀行(BIS)という存在があり、日銀総裁は時折、世界中の中央銀行総裁が集まる会議に出席して、そこで決められた指示に忠実に従うことになっている。
つまり、日銀が属しているのは日本政府ではなく、事実上は「国際決済銀行」に属しているといえる。
国際決済銀行が、世界中の中央銀行にそれぞれ指示を出し、世界中に出回る通貨の供給量をコントロールしている。
現在の黒田総裁は20代でイギリスに留学し、「日銀総裁」という看板の威厳や信頼もフル活用し、理屈よりも分かりやすさを優先して力強いメッセージを発信すれば、人々の予想や行動までも変えられるという持論を養ったといわれている。
国際決済銀行はもともと、1930年に第一次世界大戦で敗戦したドイツの賠償金の支払いを統括する機関として造られ、本部はスイスのバーゼルにある。
そして、この銀行を代々、取り仕切っているのは、フランスロスチャイルド一族の血縁者である。
日本銀行の非公開の45%保有株の一部を、日本銀行設立に深く関わったロスチャイルド家が保有するとしても、少しも不思議ではない。

世界で、中央銀行制度がない国といえば、わずか5カ国しかない。北朝鮮、イラン、スーダン、キューバ、リビアである。
一部「ならず者国家」として非難されたが国名と重なるが、世界史上最大の「ならずもの国家」とは、中央銀行制度の生みの親たるイギリスといってよい。
16世紀から17世紀のイギリス(エリザベス1世時代)は、二流国であって王室は借金財政であった。
そこでエリザベス女王が取った方法は、第一に海賊に盗ませた略奪品を転売する事。
第二に、大物の海賊とタイアップした黒人奴隷の密輸。そして第三に貿易会社(東インド会社等)の設立と海外貿易であった。
東インド会社の執行役員7人を調べたところ全員が海賊であり、その海賊達が、「女王陛下の○○」というお墨付きをもらって貿易商といて活躍したのである。
つまるところイギリスが世界に冠たる大英帝国となる元手となる資金は、海賊がもたらした略奪品だったといってよい。
イギリスの繁栄を築いたのは、「女王陛下の海賊達」(パイレーツ オブ マジェスティ)であり、それはイギリスがどんなに「紳士の国」を標榜しようが、疑いようもない歴史的事実なのだ。
ヨーロッパ大陸の国々が貿易に主眼をおいたのに対してイギリス人は、「海賊行為」に主眼において、「海賊」を「英雄」にまつりあげて海賊行為を正当化してきたのである。
たとえば、16世紀にイギリス人として初の世界一週航海に成功したフランシス・ドレークをイギリスが誇る「最高の海洋冒険家」として現在も賞賛している。
しかしこの「フランシス・ドレーク」こそスペインやポルトガルを含む世界中から略奪の限りを尽くした「超大物」海賊に他ならない。
ドレークによって、イギリスにもたらされた資金は、文献より算出すると約60万ポンドで、その出資者リストの中心メンバーは、女王・宮廷側近及び海賊出身の貿易商・金融業者である。
東南アジアでは丁字という香料を大量に仕入れて来たので、ドレイクの船に投資した人達への配当は、一説には当時のイギリスの国庫金額を上回る額だったといわれている。
とくに一番の出資者だったエリザベス女王に膨大な配当金がはいり、女王はドレイクに「ナイト」の称号を与え「私の海賊」と言ってドレイクをねぎらった。
そしてドレークが略奪した金銀財宝は、テムズ川北側の「ザ・シティ」で換金されていた。
現在世界金融の中心地「ザ・シティ」は、当時地中海レバノン(かつてのフェニキア)地方の貿易商達の巣窟であった。
そしてイギリスの主力としてカリブ海を舞台に次々にスペイン船を襲撃し、スペインの「無敵艦隊」をも撃破し、イギリスに多大なる利益をもたらした彼はついにイギリス海軍提督にまでのぼりつめた。
そしてドレイクがスペインから奪った金銀は、「東インド会社」設立の資金となる。東インド会社は「株式会社」という形態だが、それ以外にも様々な仕組みを生み出していく。
1640年頃まで、金持ちの商人は余剰現金(金や銀)をロンドン塔に保管していた。
しかし、チャールス1世は(彼が王でもある)スコットランドに対抗するために召集した軍人たちへ支払う給料のために、その金塊をさしおさえた。
そのために商人たちは、ロンドン塔に代わる安全な資産の保管庫を求めたのである。
それを提供したのがロンバート・ストリートの当時頑丈な金庫をもっていた金細工師たちだった。
金細工師は金を預かると「預かり証」を手渡した。
それが「ゴールドスミスノート」と呼ばれるものであり、銀行券の前身である。
しかし、イングランド王ウイリアム3世(オレンジ公ウイリアム)の戦争(1688年~97年)で金や銀を使い果たしたイギリスには借金が残るばかりでマネーサプライは減り、経済をなんとか動かす必要があった。
そこで設立されたのが、現在の中央銀行の原型といわれている「イングランド銀行」である。
イングランド銀行はシティという金融街に位置するが、もともとはフェニキア人の住むイタリアのロンバルディアから移民してきた商人達がつくった商人の為の銀行であった。
この商人たちが、オレンジ公ウイリアムに巨額の融資をもちかけ、その見返りに「貨幣発行権」をえたのだが、その商人たちのいわば「足かせ」として金本位制度が始まったといってよい。
17世紀後半ロンドンでロイドなる人物が経営するコーヒーハウスには、貿易商や船員の客がよく集まっていた。
そこで彼は店内で海事ニュースを提供するようになり、店は保険引受業者の取引場所になる。
これが世界有数の保険組合ロイズの起源であり、一軒のコーヒー店から始まった保険取引市場は、20世紀後半、ロンドンの金融街シティの中心にそびえ立つハイテク・ビルディングに発展する。
このように、イングランド銀行は当初は株式会社であり、完全に民間の金融機関であったが、民間の金融機関が政府から紙幣発行と物価・為替の安定業務が委託されたのである。
ところで、イギリスの場合、1868年の名誉革命以降100年間にわたって、政府が「債務不履行」に陥ることはなかった。
フランスは同じ100年間に3回もの国債の「債務不履行」を起こし、フランス革命の引き金を引く「三部会」が召集されたのは、深刻化する財政危機の解決策を議論するためだった。
どうしてイギリスでは債務不履行にならなかったのか。
戦時に国債を増発するが、平和時には税収で国債を償還する仕組みが整備されていただけではなく、「無から有」を生み出す方法に気が付いたことが大きい。
金持ちの民間人ウィリアム・パターソンらは、イングランド銀行を設立し「通貨発行権」を手に入れ、通貨を発行する時に、彼らが実際に用意したお金は総発行額の10分の1にも満たない3万6000ポンドであった。
彼らはそのわずかな「準備金」で175万ポンドもの紙幣を流通させた。これが「信用創造」という現在の銀行でも使われている銀行の仕組みである。
1800年代に入ると、イングランド銀行はロスチャイルド一族と関わりを持つようになる。当時の銀行券は金と交換が可能する必要から、銀行は裏付けとなる金を常に用意しておく必要があった。
当時、大富豪になっていたネイサン・ロスチャイルドは、イングランド銀行の保有する金を大量に調達する役目を預かるとともに大株主となり、ロスチャイルド一族はイングランド銀行を支配下に置くようになったのである。

日本の近現代史の中で、松方正義の他にロスチャイルド家と関わりを持ったのが、日本銀行総裁ともなる高橋是清である。
三国干渉以降ロシアの極東侵略は露骨になり、1900年暴徒鎮圧を名目に満州にまで出兵してきた。日本は露と戦争をせざるを得なくなったが、当時日銀は所有していた正貨で11700万円しかなく、戦争に突入すると兌換責任を果たせない状況にあった。
日露戦争を戦いために、外債募集の重責を担った当時の副総裁・高橋是清は1904年2月、アメリカに渡った。戦争に勝って賠償金をとってこそ借金を返すことができるのに、日本がロシアに勝つなどということを予測するものなどいなかった。
実際、ロスチャイルド、モルガン財閥などは高橋の申し出を断った。
それでも高橋はロンドンに渡り、偶然パーティで同席したのがシフというユダヤ人だった。
シフは1847年生まれでフランクフルトのユダヤ人街区でロスチャイルドと一軒の家を共有していた。後にシフはニューヨークのクーンローブ商会の共同経営者となり、国債と鉄道債券を取り扱う。
政治と距離を置いていたモルガン商会に対して、シフは全米ユダヤ人協会会長であり、ロシアの「ユダヤ人迫害」に対して抗議するようにアメリカ政府に嘆願していた。
シフは高橋に日本公債を500万ポンド引き受ける用意があることを伝え、高橋是清とシフが起債できた外債は、4回で8200万ポンド(4億ドル=億円)にも達した。
これは1904年当時、日本の国家予算の約2.5倍にあたり、1年半程度の継戦が可能になった。
ただし、アメリカの仲介で、日露戦争で勝利をしたものの、賠償金をとれなかった日本は、第一次世界大戦後までその返済に苦しめることになる。
また、高橋は「天佑」とばかり思っていた「外債募集」の成功も、ロシアを排除して満州鉄道の利権をもくろむシフ側の計算であったともいわれている。

少し話がそれるが、 17世紀後半のイングランド国王ウィリアム三世は、戦争に明け暮れていたやけれど、国民から税金を集めても、 銀行から借金をしても、なお200万ポンド戦費が足りなかった。
そこへ現れたのが、。彼は、ウィリアム三世に120万ポンドの融資を申し出た。
その条件が、これから自分たちが設立するイングランド銀行にそれと同額の発行権を認めること。
国王はパターソンの条件に同意して、「イングランド銀行」が誕生する。