「一片」が世界を開く

1978年のある夏の日、たった一つの「手記」が研究者を東京あきるの市の土蔵に導き、周辺の人間ドラマを白陽の下にさらしていった。
歴史学者・色川大吉教授らによって開かれた「深沢家土蔵」に薄く射しこんだ光の束が、秋川谷に「磁場」のように吸い寄せられた人々の夢、恋愛、そして葛藤、埋もれた人々の人生をも照らし、そして洗いつくした。
加えて、その土蔵の中には、驚くべき「憲法案」(私擬憲法按)が眠っていた。
東京あきるの市五日市では明治期において、マッカーサー草案を元にした「日本国憲法」と比肩できるほどの「憲法案」がつくられていたのだ。
五日市の中央を流れる秋川の広い河川敷を歩いてみると水の透明さに、この町が西東京の奥深くに位置することをあらためて思い知らされる。
あきるの市五日市は、新宿から中央線に乗り立川で青梅線、さらに拝島で五日市線に乗り換えて数駅で到着する。
市内を歩くと古い土蔵が目につくが、かつて絹の取引で富を築いた商家だという。この地域は横浜と群馬を結ぶいわゆるシルクロ-ドも近辺を通っており、この地方の商業の要衝にあたっている。
また秋川渓谷は江戸時代より材木や炭が生産され豊かな山林地主が輩出している。
「五日市憲法」の存在は、利光鶴松という人物の「手記」が手がかりとなりそうした山林地主の土蔵より発見されたのである。
東京経済大学教授の色川大吉が「この手記」によって山林地主の土蔵を調査し、この場所に引き寄せられ直接に草案作成にあたった人々および彼らの周辺で行動した人々の存在もが陽の光を浴びることになった。
そこには、深沢権八(山林地主)、千葉卓三郎(仙台藩士)、北村透谷(文学者)などがいた。
秩父地方は、明治の初め反政府的活動の震源地であった。江戸時代の天領であったこの地は、戊辰戦争の賊軍にあたる会津藩士や仙台藩士が住みやすい条件があったともいえる。
1872年に学制が発表され、五日市にも公立の観能学校がつくられるが、その教員になったのがこうしたいわば「流れもの」であった。そこで勧能学校を「全国浪人引受所」と称した人々もいた。
そうした流れ者の一人、千葉卓三郎は、仙台藩下級藩士のもとに生まれ幕府軍として戊辰戦争に参戦した。 敗戦を味わった卓三郎は、学問や宗教に真理探究の矛先を向け特にギリシャ正教に深く傾倒した。上京してニコライに学び洗礼を受け布教活動にも携わっていった。
その後の経緯は不明であるが、1879年頃から秋川谷の各地で教職に従事し、1880年には五日市に下宿して五日市勧能学校に勤めはじめている。おそらくは卓三郎と同郷の勧能学校・初代校長の永沼織之丞の招きがあったのだろう。
千葉は新しい知識を求めていた五日市の民衆に受入れられ、特に山林地主・深沢名生・権八父子との信頼関係は厚く、憲法草案起草後の1882年には結核が進行し、翌年31歳の若さで死去した。
ところで秋川渓谷で伐採された材木は東京・木場へと川伝いに流されるのであるが、そのために富裕な山林地主がいた。その中の一人が深沢権八でこの地域での私擬憲法案つくりの中心的役割を果たしたのである。
利光鶴松は手記の中で、深沢家には当時出版されていた翻訳書の7~8割の本があり、誰にでも自由に閲覧させていたと語っている。深沢の蔵書には、ルソーの「民約論」、ミルの「自由論」、スペンサーの「社会平等論」があり、勧能学校に集まった「流れ者」達は、そうした蔵書から学び急速に天賦人権説や自由主義に目覚めていく。
さらに五日市の人々はこれらの蔵書を使って学習に励み、学芸講談会の活動を通じて地域の自由民権運動の質を高めるとともに漢詩のサークルなどを通じて地域の文化にも貢献した。
ところで、色川教授が三多摩地区の自由民権運動の研究するきっかけとなったのが、文学者の北村透谷の研究であったという。
文学者・北村透谷は神奈川県小田原で没落士族の家の生まれであるが、五日市南部に位置する上川口村に住んだことがありこの地を「第二の故郷」と呼んで愛した。
この地は1884年の不況の下、困民党事件が勃発した村であり、そういう活動家の中に自由党壮士・石坂昌孝がおり、北村透谷はその娘で詩人の石坂美那子と熱烈な恋愛に陥っている。
北村透谷は早稲田大学の前身・東京専門学校に入り、横浜でホテルのボ-イや英語ガイドをやったり、ハッピを着て三多摩地区で小間物の行商をしたりするうちに美那子と知り合い、その影響でキリスト教に入信している。
1884年10月、自由党は、大坂大会で解党が決定した。これは政府弾圧の下、自由党のなかでテロまがいのことをする過激分子を切るという意図があったが、この切捨てられた自由党左派が新活路を見出そうと朝鮮に渡り朝鮮独立党と政治的連帯をめざし、渡鮮の際に大阪で逮捕されたのが大阪事件であった。
北村も自由民権運動に参加しており、運動が閉塞してゆくなかでの大阪事件の折、三多摩地区の行動隊に軍資金調達の使命が与えられた。そして北村は同志(親友)より活動資金を得るために強盗をするという計画を打ち明けられている。
これがきっかけで当時16歳の北村は運動よりはなれていく。北村は、そうした英雄主義的な大言壮語に与するものではなかったとはいえ親友を裏切るという行為に対しては自らを恥じ、この政治活動からの離脱が生涯の心の傷として残っていく。
ちなみに北村は国粋主義的な時代風潮の中、27歳で精神に変調をきたし芝公園で自ら命を絶っている。
個人的な話だが、2007年10月五日市を訪れ、私擬憲法作成の拠点となった深沢家を訪れた。
JR五日市駅から4キロ、徒歩で1時間はかかるゆるやかな山道であったが、それぞれの過去を背負った男達が集結した感のある深沢家に対する興味もあり、深沢家は寺のすぐとなりの少し盛り上がったところがその跡地であり、大半は空き地であったが門構えと憲法が発見された土蔵のみがいまなお保存されていた。
あの日、土蔵の扉からじんわりと流れ出た時空の塊がいつまでもこの森を漂っていたような気がした。
ちなみに「勧能学校」は、現在五日市小学校となっており、校庭には「五日市憲法作成」の石碑が立っている。
ところで、深沢家土蔵調査のきっかけとなった「手記」を書いた利光鶴松は大分出身だが、深沢家の食客として東京で暮らしていた。
八王子の警察に勤めていた伯父をたよって上京、この伯父が五日市勤務となったためにこの地区と縁ができた。
勧能学舎の教員となっていた利光鶴松も勧能学舎の同僚3人から資金調達のための非常手段(強盗)に参加を求められている。
利光は、自由党員より寺に呼び出され資金強奪計画をうちあけられたが、利光はきっぱりとことわっている。(実は大坂事件のあおりをうけた過激派は、利光の伯父によって逮捕されている。)
また利光にとって山林地主・深沢家は別の意味で人生を左右する貴重な出会いとなっている。
深沢家は所有林の材木を本所・深川に送り出す大荷主なのであるが、その縁で利光は材木問屋のいわば法律顧問となり、さらに明治大学卒業で法律を学び、その後は深川に本拠をかまえ東京市議から衆議院議員にも当選した。
実は利光が深沢家の法律顧問だった頃残した手記こそが、埋もれた五日市憲法発見の手がかりとなったのである。
ただ、利光は「五日市憲法」発見の手がかりを残しただけの人物ではなかった。
実は、小田急電鉄の創業者であり、長男の利光松男は元日本航空社長である。

たった一枚のコインに刻まれた日露の男女の「名前」から、ひとつの物語が生まれた。
2010年、松山城の二の丸にある防火用水を兼ねた古井戸より、表面にロシア語とカタカナが刻まれたコインが見つかった。
というのも、1904年3月この地に日本の最初の俘虜収容所が設立された場所だったからだ。
当時の人権擁護の世界的潮流にあって、日露戦後、日本赤十字社はロシア人負傷兵の救済に尽力した。
また、愛媛県が県民にあてた勅諭には「捕虜は罪人ではない。
祖国のために奮闘して破れた心情をくみとって、一時の敵愾心にかられて侮辱を与えるような行為はつつしめ」というものもあった。
さて、冒頭に書いたコインは1899年製造のロシアの10ルーブル金貨だが、この金貨の発見が思わぬ事態の進展を呼び起こした。
ロシア語は人名で「M・コスチェンコ」、カタカナは「コステンコ・ミハイル」それに「タチバナカ」と読める。
さらに調査が進められ、「コスチェンコ氏」は、当時24歳のロシア人歩兵少尉であることが判明した。
それでは「タチバナカ」も名前だが、「橘 力」ならば日本人の男性である。
当初このコインは、「日本人男性と将校との友情の証ではないか」という推測がなされていた。
さらに資料が調べられたが、当時の俘虜収容所の関係者に該当しそうな人物は見つからなかった。
その後、「チ」と思われていた文字が、「ケ」ではないかとの 指摘があった。
そうなると刻まれていたカタカナは「タケバ ナカ」、つまり女性の可能性がある。
そしてその名前で探したところ、「該当者」がいたのである。
松山市の調査でタケバ・ナカさんは日露戦争当時この場所にあった陸軍病院に勤めた日本赤十字社の看護婦であった。
また一方のコステンコ・ミハイル氏は貴族出身のロシア軍少尉で、捕虜になって陸軍病院に入院したことが判明した。
松山城の古井戸で見つかったコインは、どのような状況で投げ入れられたのか。コインにはペンダントにしたと思われる「溶接跡」もあった。
二人がどんな関係にあったかは知るよしもないが、このコインをもとした物語が作られ、地元の劇団「わらび座」によってミュージカルが「坊っちゃん劇場」にて上演された。その後、ロシアでの上演も実現して、喝采をあびたという。

徳島県坂東市の足跡なき草むらの「慰霊碑」が、人々を「楽園(がくえん)」へと導いた。
徳島県坂東市において、1948年にシベリアから引き上げてきた夫と共に高橋春枝が暮らしていた。
そこは第一次世界大戦でドイツ人の俘虜収容所があったところであった。
裏山で薪拾いをしていた時に、草むらからドイツ語で書かれた「慰霊碑」を発見。高橋夫妻は定期的にこの慰霊碑を清掃し、献花。やがて地域の人々も一緒に清掃するようになった。
1960年、この慰霊碑の清掃が徳島新聞で紹介されると、記事を見た当時のドイツ大使ハース夫妻と神戸総領事・ベルガー夫妻が、この慰霊碑を訪問した。
一方、ドイツでは、坂東俘虜収容所で収容生活をした仲間がドイツ各地で「バンドー会」を結成した。
手紙のやりとりが発端となり、坂東(現在の大麻町)と「バンドー会」が再び交流を始めた。
坂東から送った8mmフィルムを見て、ドイツ人俘虜達が建てた慰霊碑が、高橋春枝さんらによって管理されていることを知った「バンドー会」は感謝の募金を坂東に送金し、俘虜達によって坂東俘虜収容所の思い出が語られ、これが「バルトの楽園」の映画化に繋がる。
それらの手紙は、松江所長と板東俘虜収容所を懐かしむもの多く、戦時下にあってバンドウにこそ国境を越えた人間同士の真の友愛の灯がともっていたことを示すものであった。
実際、ヴェルサイユ条約の締結によりドイツ人達は本国へ送還となるが、全国で約170人が日本に残っている。
彼等は、収容所で培った技術で肉屋、酪農、パン屋、レストラン等を営みました。カール・ユーハイム。ア ウグスト・ローマイヤー。お菓子のユーハイム、ソーセージ等のローマイヤー、今でも有名店。
また徳島阪東の収容所は、日本で初めてベートーベン「第九」が演奏された場所として有名である。
さて、坂東俘虜収容所長・松江豊寿は、塗炭の苦しみを舐めた会津人の子供であった。
日本人が捕虜に対する意識とか、俘虜または捕虜を取り扱うに際しての「因習的」な意識をこえて、松江所長が「国際的人権主義」に立っていたことに、今更ながら「驚き」を感ぜざるをえない。
ちなみに俘虜と捕虜の違いは、当人の母国以外でつままったのを「俘虜」とよび、本国でつかまるのを「捕虜」と呼んで区別している。
日本軍人は「生きて虜囚の辱めをうけず」という考えがあり、捕虜になるくらいならば潔く切腹した方がましという伝統的な考えがあった。
「俘虜収容所」設立にあたっては、「命惜しさ」に生き長らえた卑怯者どもをナゼ我々が面倒をみなければならないのかという意見さえあったのだ。
それだけに俘虜に対する扱いが酷い収容所もあった。
しかし松江所長の「俘虜待遇」は、けして上から遇するということをしなかった、つまり敗者を「誇りある人間」として扱ったという点で「人道主義」にかなうものであった。
だからこそ、「エンゲル楽団」による日本で初めての「第九演奏」が実現したのである。
それは、松江自身が自らが「敗者の境遇」の中に生まれたことに関係しているのだろう。
松江が生まれ育った会津は、戊辰戦争の戦後処理において「賊軍の汚名」をきせられた。
23万石の会津藩は「朝敵」として下北半島(青森県)にわずか3万石(実質7千石)の「斗南藩」として移されたが、その「実体」は藩ごと「流刑」に処せられたといえる。
斗南での常食はオシメ粥で、海岸に流れ着いた昆布わかめを木屑のように細かく裂いてこれを粥に炊く。臭気があってはなはだ不味い。
冬には蕨の根を砕き晒してつくる澱粉を丸めて串に刺し火にあぶって食べる。拾ってきた犬の肉を毎日食べるといった生活である。
どうにか「餓死」を免れたのは、会津の国辱を雪ぐ迄生き延びるという「会津武士の矜持」であったといえよう。
餓死して果てようものならば、それこそ後の世までの恥辱を蒙ることになるといわれたのである。
松江はそういう日々を凌いで生き抜いてきた会津藩士の子であった。
薩摩や長州は陸軍や海軍で上層をしめたが、「賊軍」であった会津藩出身の軍人は、こうした「俘虜収容所」に送られたということかもしれない。
「夷(外国人)をもって夷を制す」ではなく、「賊(反逆者)をもって夷を制す」ということか。
松江は次のように自らの半生を振り返っている。
「降伏人、すなわち俘虜というものがどんなに悲しいものであるかを、私は幼心に深く刻み込まれ、それはいまも忘れることができない」。
その思いを反転するかのように、松江が初めて迎えたドイツ人俘虜に語った言葉は次のとおり。
「諸子は祖国を遠く離れた孤立無援の青島において、絶望的な状況のなかにありながら、祖国愛に燃え最後まで勇戦敢闘した勇士であった。しかし刀折れ矢尽き果てて日本軍に降ったのである。
だが、諸子の愛国の精神と勇気とは敵の軍門に降ってもいささかも損壊されることはない。依然、愛国の勇士である。それゆえをもって、私は諸子の立場に同情を禁じえないのである。願わくば自らの名誉を汚すことなかれ」。
1976年、鳴門市と大阪・神戸ドイツ総領事館(大阪市)によって「合同慰霊碑」が建立された。

「 『武士の情け』これを根幹として俘虜を取り扱いたい。」
10年以上も前の映画「バルトの楽園」は第一次世界大戦で捕虜となったドイツ兵と徳島阪東の人々の「交流」を描いた実話を「映画化」したものであった。
映画のセットでは「俘虜収容所」が見事に復元され保存されており、映画撮影が終わった後も、壊されずに残っている。