大阪流「距離感」

シンガーソングライターBOROが歌った名曲「大阪で生まれた女」は、大阪生まれの女性が彼氏と東京に住んだものの、恋に破れ「東京へはようついていかん」と大阪に戻る決心をした歌だった。
ドリーム・カムズ・トゥルーの「大阪Lover」は、彼氏のいる大阪に住むことになった東京生まれの女の子の決心を歌ったものである。
つまり「大阪で生~」の逆バージョンなのだが、この女の子は、「東京タワーだって、あなたと見る通天閣にはかなわへん」とおのろけ、最後には「大阪のオバチャンとよばれたい」と展開している。
しかし、東京人がそうヤスヤスと大阪に馴染めるとは思えない。その理由は、なんといっても大阪人の「距離」のとり方。
家族同士の付き合いがある男友達同士の久しぶりに会った時の挨拶:「どや、おまえんとこのぶっさいくな嫁はん、元気にしてんの?」「うちのプリティーハニーちゃんかいな、元気すぎて手におえんがな」。
大阪人の売られたツッコミにはボケで返すといった、東京人の想像を絶する凄まじい「距離感」である。
それは、自分との距離の取り方にも表れる。
例えば、東京では他人を笑おうとするが、大阪では自分自身を笑いのネタにする。
「上方漫才」では自分や相方の弱点、時に入院や離婚でさえも笑いのとれるネタのひとつだ。
数年前に、テレビで見た、元お笑い芸人で俳優の石倉三郎の話が印象的だった。
石倉は、淡路島生まれだが、家の貧しさが苦しくて恥ずかしくて仕方がなかった。
たまたま大阪で暮らし、「貧乏ネタ」で笑いがとれることを知った石倉少年は、「貧乏」を恥じることなく、皆に披瀝するようになったという。
石倉は、貧乏のオカゲで友人もたくさんでき、自分の「居場所」を見つけることが出来たということである。なかでも、お笑いの才が開花し、今日に繋がっているのが一番である。
東京人は「安物買いの銭失い」と軽蔑する。「これ、幾らだったと思う」と、高いのを自慢したがり、たまたま安いものを買うと、その値を隠す。
しかし、大阪人は、よい物を安く手に入れると「これ、なんぼしたと思う」と、隠さずにむしろ安いのを自慢する。
大阪では「おもろいヤツ」が最大のほめ言葉、笑いを取るためには「自虐」を含め、少々のリスクなら冒す覚悟がある。
小学校の学級委員の選び方でも、一学期はとりあえず頭の良いヤツ、二学期はスポーツができるヤツ、三学期はやっぱおもろいヤツ。

誰が言ったかしらないけれど、「東京は三代続いてはじめて江戸っ子、大阪では三ヶ月も住めば立派な大阪人になれる」という言葉がある。
いっそ「大阪のおばちゃん速成プログラム」でもあればと思いつつ、その生態とはイカナルものなのかネットで調べてみた。
それによると、声が大きい /押しが強い/絶対値切る/派手好き/人の話を聞かないで、自分の話ばかりする/ひょう柄の洋服/無料のものはすべてもらう/よく笑う/つっこみが上手く、芸人より面白い/仕切り屋で行動力がすごい、などという特徴がある。
こうしたデータやテレビで見たイメージに基づき、「大阪のオバチャン」の生活場面を想像してみると次のようになる。
日ごろ、顔にパックをしたまま買い物袋を提げたり、上下の服をヒョウ柄で統一したり、パンチパーマでヘアを固める。
「大阪のオバチャン」はやはり阪神ファンであってこそサマになるので、時にはヒョウ皮ならぬ、トラのマークのついたTシャツ・短パン・紙袋でお出かけするぐらいは平気でできる。
買い物をすれば、取りあえず「兄ちゃん、今日は1000円にしとこ、な?」などど勝手に「値段設定」をして強引に値切ってしまう。
値切った後には、「このネギ、値切ってもうたワ」などとギャグをとばし、ドハデに笑う。
道に迷う人あらば「どうしはったん?」と声をかけ、知らぬ道でもカマワズ教える。
「道はどこかで繋がっているから、カマヘンのや」と隣のおばちゃんに一応説明する。
そしてタダでもらえるのなら、朝・昼・晩の三回足を運んで、「最低でも三つ、できたら九つは手に入れ~や」と身内を総動員してケシカケル。
一方、「アメ、いっこどない?」といって飴玉を配り、「アメ玉一つ」で人間を釣りあげるホド「人心収攬術」にタケている。
また、友人とのゴクありきたりの会話に「ウソッ!ホンマカ!」を連発して、サービス精神あふれるオーバーアクションで答える、などなどである。
警察はそんな大阪のオバチャンの特性に注目し、「詐欺防止キャンペーン」に生かそうと試みている。
合理的でないものには1円でも払いたくないというドケチ、いや「合理的精神」に加え、会話をする中で必ず相手にグっと近づくタイミングを持ってスゥ~と懐にはいってくる。
その時が嘘がばれるというもの。
また、詐欺師にとって、うっそ~、ホンマかいなといちいちオーバーアクションで応じられると、逆に詐欺られている気がしてくるのではないか。
実際に、静岡県では「大阪のおばちゃん」を採用した振り込め詐欺撲滅キャンペーン」を実施したところ被害が激減したという。
キャンペーンのCMにも登場した大阪のおばちゃんは、いつも本音で話すように生活すれば詐欺など怖くないとコメントしている。
そのおばちゃんに、「大阪のおっちゃんはどうしてはりますか」と聞くと、「うちのお父ちゃんなら最近はマナーモードになってます」という答がかえってきたという。
東京と大阪ではやはり歴史が精神に及ぼす影響が大きい。東京では人間関係が上下関係から、これは武士と町人の関係。大阪は人間関係は対等、商売人と客、という関係である。
大阪では、聞くのはタダ、聞かな損、一瞬恥かいても得したらええという発想だから、少しでもおかしいとか疑問に思ったら近い人に聞くし、また人が騙されそうな場面にでくわすと声をかけることに抵抗がすくない。このことが振り込め詐欺が少ない理由のひとつかもしれない。
さらに大阪流「距離の取り方」は、言葉の使い方つまり「大阪弁」に表れている。
大阪人は、基本的に標準語と大阪弁の二重生活を強いられる。標準語を「まじめ」とするなら、大阪弁は「反まじめ」。ふたつの言語は、磁石のプラスとマイナスのように同じモノの両極を構成している。
この世の中、「まじめ」なだけではギスギスと住みにくくなる。「反まじめ」はそこをほぐす「遊び心」のことで、けして「不まじめ」というわけではない。
実際、大阪人は、まじめすぎる言動を、恥ずかしくて恰好悪いと感じる傾向があるようだ。
最近、スコセッシ監督制作の「沈黙」で再び脚光をあびる遠藤周作だか、「沈黙」「深い河」「海と毒薬」などシリアスな作品と並行して、「おバカさん」シリーズなどの作品を書いていった。
そこには、神戸生まれの遠藤特有の「含羞」があったように思う。
そして大阪弁の特性こそ、人との「距離の取り方」に大いに影響を与えている。
まずは相手との距離を近づける一方で、「当事者ばなれ」をも行う。それは、なまの現実から離れ、自分や相手の言動を相手とともにながめて、面白がることである。
また、大阪弁の特性に語尾が多様であることにも大きな意味がある。「な」「や」「か」「わ」「で」「はる」「ねん」「のん」「てん」「かい」「がな」「かいな」「だす」「だっせ」「でっか」「てんか」など、語尾の多様さは停滞をきらい変化を好むこと、状況対応の速さ、複眼的で重層的な思考にも繋がっているように思う。
さらには、関東に比べ関西圏に多くノーベル賞受賞者を生んでいることと関係あるのではないか。
大阪人のこころは「敬称」のつけ方にも表れる。
東京では浅草の観音様、門前仲町のお不動様、関西では「すみよっさん」や「えべっさん」のように神様がいる神社はさん付け、大文字山の送り火は京都では「だいもんじさん」。
身近に感じたいもの、大切な食べ物には愛称を付けて親しみを表現する、というのもコミュニケーションの第一歩で、おいもさん、お豆さん、あめちゃん、食べ物にも敬称、愛称をつける。

10年ほど前に、大阪の淀屋橋付近のビジネスホテルの在処を地図で探したところ、わずか300メートルの区画に一流薬品会社の本社が密集しているのを発見した。
藤沢薬品・塩野義製薬・田辺製薬・大日本製薬・武田薬品・住友製薬・小野薬品などの名前が所狭しと並んでいるのには驚いた。
調べてみると、このあたりを「道修町」といい、江戸時代より「薬種中買仲間」が置かれた場所であったとあった。
そこで大坂は江戸時代には「天下の台所」とよばれ、多くの問屋が集まったで所あったことを思い出した。
道修町には、薬の神様「少彦名神社」が鎮座して、近くには鴻池本宅跡の碑、銅座跡の碑、懐徳堂跡の碑、除痘館跡の碑などの碑がある。
また道修町は、谷崎潤一郎が描いた小説「春琴抄」の舞台となった場所で、少彦名神社内には「春琴抄の碑」が立っており見どころの多い場所である。
さて「淀屋橋」の名は、大阪の豪商「淀屋辰五郎」からついた名前だが、それが「米の入札」に深く関わる橋であったことはあまり知られていない。
淀屋は、豊臣氏が天下を取った際に大阪に出てきて木材の商いを始め、自治体を形成する総年寄の初代メンバーともなった。
諸侯の回米を引き受け、米市場を自宅近くに開き、二代目个庵の時代には土佐堀川に自前で橋をかけて、門前の「淀屋米市」に訪れる人の便宜をはかった。これが現在の「淀屋橋」である。
「淀屋米市」は、蔵米を買い付けた米商人が蔵元から「米手形」を受け取る仕組みで、その「米手形」を売買する取引が発展したところ、米の「仮需要」を誘発して米価高騰を招いたため禁止された。
しかし、享保時代の超デフレ政策による米価格の大暴落を受け、第8代将軍徳川吉宗は、1730年に大阪堂島にて日本で最初の「公許米相場会所」を設置した。
堂島米相場会所では、淀屋米市とは違い、「帳合取引」という現米の受け渡しのない帳簿上の差引き計算による「差金決済取引」だった。これは、現在の商品取引所法の「現金決済取引」と同じである。
江戸、京都、大津、下関の米市は、堂島米市場での相場で取引がなされ、堂島の相場が全国の米相場の基準とされた。
1876年には「堂島米穀取引所」と改称され1939年に廃止されたものの、これこそ世界に先駆けた「先物取引市場」であった。
大阪には他にも、「日本初」というものが数多くあるが、それらの多くは「商売」と関わり深いものである。
大阪千林は「スーパー発祥」の地でもある。
中内功は、1957年に大阪の千林で「主婦の店ダイエー」を開店した。主婦の店とはメーカー側ではなく主婦の側に立つことであり、親しみ易いように「大栄」をカタカナにした。
薬、化粧品、缶詰、ビン詰などの食料品を並べて、キャッチフレーズを「良い品をどんどん安く売る」とした。
1958年に、神戸三宮に第二号店を開いた。これに続いてチェーン化を果たし、商品も食料品から衣料や日用雑貨へと拡大していった。
そして1972年にダイエーは老舗の三越百貨店を抜いて、売上高で「小売業日本一」になっている。
ターミナルデパートの始まりも大阪である。「安い、買いよい、品よい」と好評を博した大型小売店の成功は、小林一三にターミナル・デパートの成功を確信させた。
そして、1929年4月には世界に類を見ないターミナル・デパート「阪急百貨店梅田本店」が誕生し、庶民に大きく支持された。
阪急電鉄の都市開発により、大阪の一等地に変貌し、鉄道沿線に住宅地を開発し、電車に乗ってターミナル・デパートで買い物するという、鉄道会社の街づくりの「原型」を作ったといってよい。
ところで、明治大学の原健史教授は政治思想が専門だが、「鉄道」の語り部としても知られている。その原教授がある本に、興味深い話を書いていた。
それは、多くの人が大阪駅で感じるに違いない大阪駅の「使い勝手の悪さ」についてである。
阪急梅田駅は、国鉄東海道線の南側にあり、阪急電車の線路が東海道線を高架でマタイでいた。
だが昭和天皇が大阪への行幸の際に、天皇の列車が一私鉄の下をくぐる形になるので、国鉄大阪駅を改造することになり、最終的には国鉄の線路が高架となり、阪急は地上へと移動させられる。
原教授はこのことを、「帝国の秩序が私鉄王国の独自性を奪った」と書いている。
その後、梅田駅は東海道線の北側へと移り、両電鉄のクロス問題は解決したのだが、阪急は百年前から今に至るまでJRと連結していない。そのため、今でも大阪駅から梅田駅に最短で行くには、いったん外に出て歩道橋を渡らなければならない。
実際、歩道橋には屋根もなく、JRと私鉄などの相互乗り入れが当然の東京と比べて、不自然なくらい無愛想に思えるのだ。
それは、宝塚や三宮とて同じで、原教授はそうした「不便さ」に民衆の町大阪の矜持(反骨心)を見てとるのである。これも大阪流「距離のとり方」の一面と解釈できようか。
さらに、関西の松下と関東の日立とはひとつの「因縁話」がある。それは、大阪・通天閣の胴体にデカデカと掲げてある文字広告「HITACHI」に関する。
それは、地元の松下電器や三洋電機、そしてシャープが幅をきかす関西への進出を狙っていた日立製作所と、資金調達のために「長期契約」を欲しがっていた通天閣側の意向が一致して実現したものである。
松下幸之助は若き日、通天閣の電灯工事に大阪電灯の配線工として参加していたことがあって、松下電器の社長になった後に通天閣への広告を断ったことを、後々まで悔やんだといわれている。
さて、大阪には「日本一」ばかりではなく「日本最低」のものも存在している。それは、天保山という日本最低の山。
天保山は、天保二年(1831)から3年かけての淀川筋の浚渫工事で採取された土砂で作った人工の山でである。松や桜を植え、堀や入り江をめぐらし、お茶屋を開いて観光名所になった。
今は公園となり当時の面影はないが、天保山山岳会が発足して、「標高4.5メートル」、日本最低の山の「登山」を楽しんでいる。
「天保山山岳会」発行の登山認定証には、「あなたは、本日大いなるロマンとイチビリ精神を以て、日本最低の山を無事に登頂されました。その快挙を称え、記念に登山認定証をおわたしします」とある。
実はこの天保山のある大阪南港あたりは、上田正樹の「悲しい色やね」の舞台つまり「大阪ベイ・ブルース」の本場。夜になれば誰も近づくことのないドンヅマリの場所(だった)。
行き場を失った男女がいて、♪泣いたらあかん泣いたら♪と慰めるシチュエ-ションの、いわば「敗者の悲しみ」を歌った歌なのだそうだ。
ところが近年、大阪南港は再開発で開けたためドンヅマリどころか、むしろ先端的な場所になってしまい、敗者には似合わない開放的な地域に変貌した。
そのため「悲しい色やね」(1983年)は、かぐや姫の(注)「神田川」(1973年)と同様に、「伝わりにくい歌」のひとつになってしまったのだという。
注:「銭湯を知らない子供たち」には、神田川の風情を理解するのは難しい。