久留米とドイツ人俘虜

首都圏の大雪と「テロ」とは不思議と結びつく。江戸元禄には「赤穂浪士の討ち入り」、幕末の「桜田門外の変」、そして昭和の「226事件」である。
実際、まるで「その日」を予測したかのように雪は深々と降り積もった。
それは、テロリストの情念を冷ますためか、流された鮮血を忘れがたく刻印するためか、それとも人間の罪科を雪のごとく真白くするためなのか。
ともあれ、テロリストの「足音」を掻き消したという点で大雪はテロの成否を左右したかもしれない。
「赤穂浪士の討ち入り」、「桜田門外の変」においてそれぞれの物語上、吉良義央、井伊直弼は「悪役」に仕立てられた感があるが、地元では「名君」として親しまれている。
それでは「226事件」の悪役は誰か。直接手を下したわけではいないが、青年将校達に影響を与えた「北一輝」の名が浮かぶ。
北一輝は、1883年、佐渡の荒波せまる貧しい酒造家の生まれた。「日本改造法案大綱」(1919年)の中で、「戦時社会主義」という体制を構想し、多くの陸軍将校の「教祖的」存在となった。
しかしその「教祖」の実態は、一般の孤高・清貧といったイメージとは相当かけ離れていたようだ。
北の軍人や右翼に対する影響力は絶大で、「テロに怯えていた」財閥より生活費をうけ、堂々たる邸宅にすみ、妻子三人に女中三人、運転手付き自動車一台の豪華な生活を営み、集まってくる青年将校に金と女と酒を提供していた。
都市での首切り、農村の娘の身売りなどに見られる不況下による生活苦のなか、「愛国者」を自称し維新の志士を気取り日々饗宴を繰り返していたという。
北は「魔王」ともよばれ、旧ソビエトの時代の「ノーメンクラトゥーラ」(赤い貴族)ほどではないにせよ、法外な権力や財力を得てその「特権」をあり余るほど享受していたといって過言ではない。
そしてこの「魔王」の影響力は、「昭和の妖怪」岸信介つまり安倍首相の祖父にまで及んだ。
さて、日本現代史の中で「最も衝撃的な1日」をあげよといわれたら、1936年2月26日は、1945年8月15日敗戦の日に次ぐかもしれない。
何しろ当時の内閣の中枢、重臣の多くが丸ごと総勢1400人の軍人らによって自宅または別荘で殺害された日なのだから。
大正から昭和にかけて、財閥のカネをめぐる「疑獄事件」など足のヒッパリ合いに近い抗争は、人々の「政党政治」への期待を打ち砕いた。
そしていつの頃か、軍を中心とする「国家改造」による高度国防国家が構想されるようになる。
しかし2・26事件を引き起こした青年将校の中には、天皇の周辺で栄達を極める重臣達と、自分達の故郷である農村の悲惨を重ね合わせ、天皇の本当の御心はそうした重臣らによって歪曲せられていると「国家改造」を願う者が多かったからだ。
彼らは、とてもナイーブに「天皇親政」をもとめて行動を起こした若者達だった。
しかし2・26事件の経過で青年将校達を一層「悲劇的」にしたのは、皇道派の中核を握る軍人達が、「天皇の裁断」によっては自らが軍の実権を握れると思ったのか、一旦は青年将校の立場を支持し理解するような態度を示したことである。
この時、皇道派のリーダー的存在が荒木貞夫と並んで真崎甚三郎であった。
彼らは「君達の真情は理解した、その心を天皇もきっと受け止めてくださるだろう」などという言葉を青年将校らに伝えている。
青年将校らは、このことに望みをいだき「天皇の裁断」をひたすら待ったのであった。
しかし赤坂の山王ホテルにたてこもる彼らに対する天皇からの返答は、非情というより悲劇的といってよかった。
天皇自ら「近衛兵団をひきいてこの乱を鎮圧せん」というほどに激しく、彼らを「反乱軍」と位置づけたのである。
天皇への「至上の思い」を抱いていた青年将校らはすっかり「行き場」を失い、鎮圧軍にあっさりと降伏す他はなかった。
そしてまもなく彼らとそのイデオローグ北一輝は、反乱軍の首謀者とともに、現在の渋谷NHKのある場所にあった刑場の露と化すのである。
ところで2・26事件の背景には、昭和のはじめの頃から燻っていた皇道派と統制派の「派閥抗争」があった。
当初、青年将校らは荒木貞夫陸相のわけへだてのない人間性とその政治力に期待して集まり「皇道派」が優勢であった。
しかし荒木のあまりに露骨な皇道派人事や「竹やりがあればソ連は恐れずにたらず」などといった極端な精神主義から、皇道派から離れる者もあり、かわって理知的で軍の秩序を重んじる永田鉄山を中心とした「統制派」が勢力を伸ばしていった。
さらに、永田鉄山が皇道派の青年将校に殺害されるや、軍務を疎かにして運動に走り「下克上的風潮」を生み出している皇道派に批判があつまり、皇軍派はしだいに孤立化し、統制派が優位を占めるようになる。
2・26事件は、そうした劣勢にあった皇道派が、一機に行動をおこし自分達の真情を天皇に訴え、天皇の心をつかんで勢力を挽回しようとしたものだった。
皇道派の幹部が、青年将校の決起に一定の理解を示したのは、これを機会に自らの立場を回復しようという気持ちが働いたからであろう。
しかし、その青年将校達の真情と意図は天皇に全く顧みることなく、「天皇の怒り」を招いただけで終結をむかえる。
そしてその後日本は、「反対勢力」がいなくなった統制派により「軍国主義一色」に染まっていく。

著名人の経歴の中で、福岡もしくは周辺との面白い接点を見出すことがある。
例えば、佐藤栄作首相がJR二日駅の駅長であったり、経団連副会長の花村仁八郎が福岡市南区の老司の少年院の教官だったことである。
佐藤栄作が関わった造船疑獄事件が、花村仁八郎による財界の自民党への献金リスト(花村リスト)に繋がっていくのも奇縁である。
また、226事件で殺される高橋是清が佐賀県の唐津で英語の先生をしていたことも意外な事実である。
その時の教え子・辰野金吾が高橋が総裁となる日本銀行を設計しているのも面白いめぐりあわせである。
そして最近、意外な人物の福岡との接点を知ることになった。
それは、226事件の皇道派の頭目・真崎甚三郎が「久留米俘虜収容所長」だったことである。
第一次世界大戦では、1914年10月31日、日本は青島(チンタオ)のドイツ軍を攻撃した。
この時、青島戦の日本軍の主力は、久留米の第18師団を中心に編成された。
この戦いで5千名弱のドイツ兵俘虜が久留米、坂東、松山、大阪、習志野などへ送られた。
この中でも、映画「バルトの楽園」で描かれた徳島坂東の俘虜収容所が最も知られている。
そこでは人道的配慮がなされ、地元の人々との交流など心温まる面があった。ドイツ人俘虜は日本を愛すようになり、戦争が終結後も少なからぬ人々が本国に帰るよりも日本での生活を選んだ。
日本人がいまだ知らなかったホットドック、ハムの作り方、バームクーヘンを伝え、サッカー技術を伝えた。また、エンゲル楽団は、日本で初めてベートーベンの「第九」を演奏した楽団として知られる。
ちなみに、徳島県の坂東俘虜収容所では、1918年6月1日、日本で最初にベートーヴェンの交響曲「第九」を演奏したことで有名だが、久留米俘虜収容所のドイツ人俘虜たちはこれに先立つ1917年3月4日にベートーベンの「第五」(運命)を演奏している。
徳島の地をドイツ人の俘虜に「楽園」(がくえん)の地として提供したのは、戊辰戦争で「敗軍の惨めさ」を味わいつくした会津出身の坂東収容所長・松江豊寿であった。
一方、久留米俘虜収容所は、最大時で1315名の俘虜を収容したが、1905年9月の筑後川水泳大会には、十数名の俘虜も参加している。
この時のドイツ人俘虜との交流経験が、今日の久留米市の発展の礎となっているといっても過言ではない。
久留米市には焼き鳥店が多く、まるでファミリーレストランかのように家族連れでにぎわっているが、焼き鳥を注文する際に注文するセリフに、いまだに「ダルム」や「ヘルツ」という言葉が飛び交う。
「ダルム」とは、一般的に言う豚の「シロ」のこと。ドイツ語で大腸という意味する。また「ヘルツ」とはドイツ語で心臓という意味で、一般的には「ハツ」と呼ばれるものだ。
これは、久留米市には1928年に九州初の医療専門学校が開校した関係で医学生が多く、彼らが医療用語のドイツ語を使って注文したのが由来だという。
しかし、その呼び方が久留米で広まりいまだに続いているのは、久留米にドイツ人俘虜が数多くいたことと無関係ではあるまい。
ドイツ人俘虜を迎え入れた久留米にとって重要な意味をもつのは、何といっても「技術交流」であった。
久留米の日本足袋製造会社がドイツ人将校俘虜のパウル・ヒルシュベルゲンから車のタイヤの製造技術を学び、日本足袋製造タイヤ部となり、後にブリジストン・タイヤになったからである。
ブリジストン創業者の石橋正二郎は1889年久留米の仕立物屋「志まや」に生まれた。父が病で兄は陸軍に入営したため経営を任されることになった。
石橋は徒弟制度をやめ、給料を払い労働時間を短縮する一方、仕事を一番有利な「足袋」にしぼった。
「志まやたび」の名では古臭いので、好きな言葉「昇天旭日」から「アサヒ」を思いついた。
そして、ドイツ人俘虜の技術者は、先端的なゴムの配合、接着技術、文房具の消しゴムの作り方などを教えた。
「20銭均一アサヒ足袋」には、注文が殺到した。
石橋正二郎は、将来発展するのは自動車タイヤであることを見越し、九州大学のゴム研究の先覚者である教授の元を訪れ、タイヤの国産化をめざす決意をする。それはドイツ人が伝えたゴムの製造法により確立したものであった。

古代より久留米は九州全体を制圧する軍事的拠点として重要な位置づけを与えられた。
高良大社付近には社を取り囲む形で神籠石があり、南北朝時には毘沙門嶽(現つつじ公園)に懐良親王の九州征西府が置かれ、その空堀の跡が残っている。
近代久留米が「軍都」としての性格を強めた背景には、このような「地政学的要因」が存在するからに他ならない。
久留米には1897年に歩兵第48連隊と第24旅団司令部がおかれ、1907年には第18師団がおかれ、旧帝国陸軍の中枢となった。
大正時代に日独戦争(第1次大戦)における主力部隊となった久留米には最大の俘虜収容所が設けられ、そのことが後世の久留米に多大の影響を与えたのは、前述のとおり。
久留米は陸軍軍人の出世コースであり、真崎甚三郎ばかりではなく東條英機も久留米に住み、東條の子供は日吉小学校に通っていた。
さらには、司馬遼太郎も久留米の戦車部隊に配属されている。
現在も久留米に「陸上自衛隊幹部候補生学校」が置かれているのは、以上のような経緯によるものである。
とはいっても真崎甚三郎は、福岡の隣の佐賀県出身で、佐賀中学(現佐賀県立佐賀西高等学校)を1895年12月に卒業後、士官候補生を経て翌年9月に陸軍士官学校に入学している。
日露戦争では、歩兵第46連隊中隊長として従軍し、第一次世界大戦中は「久留米俘虜収容所長」をつとめた。
ところで、久留米藩は1868年、高良山の麓にある茶臼山(現山川町)に招魂所を設け、1853年以来、勤王のために死んだ真木和泉守保臣以下38名の志士を合祀した。
ここに陸軍墓地が併設され、佐賀の役で政府軍側の戦死者63名、西南の役の戦死者190名の墓が建てられた。
佐賀の役の墓石には「佐賀賊徒追討戦死者之墓・明治七年甲戌自二月一八日至二七日」と刻まれている。
西南の役の戦死者190名は大阪・和歌山等の遠方の出身者であり、多くが戦闘で倒れて政府軍の陣地であった久留米の軍団病院で亡くなった。
ところで、佐賀の役の首謀者と決めつけられた江藤新平は初代の司法卿(法務大臣)だが、大久保利通の憎悪を浴びて「さらし首」となった。
その写真まで市民にばらまかれ死後においても屈辱を受けたのは、大久保利通の江藤新平に対する憎しみの強さを物語っている。
前述の墓石の文字につき、佐賀県より「賊徒」の文字を削って欲しいという要望がなされたが、現在もそのまま残されているので、見学者は注視したいところだ。
大局的にみると、佐賀の乱は、日本における行政権の司法権に対する優位を確定した戦いともとれるかもしれない。
山川招魂社の入口の石段を登ってすぐのところには「爆弾三勇士」の碑がある。
「爆弾三勇士」とは、1932年の上海事変で久留米の混成第24旅団(金沢の第九師団との混成)の工兵部隊員3人が爆弾を抱えたまま敵の鉄条網に突っ込んで爆死したという一世を風靡した「軍国美談」である。
久留米の自衛隊広報館には「爆弾三勇士」のコーナーが設けられ、東京靖国神社のレリーフの中には「爆弾三勇士」を題材としたものが今も残されいる。
「爆弾三勇士」は1932年当時の久留米市民を熱狂させ、その衝撃は全国を駆け巡った。東活シネマは爆死の2日後に「忠烈!爆弾3勇士」の映画化を決定し、歌舞伎・新国劇・新派・松竹レビューなどが一斉に三勇士を取り上げている。
さて、山川招魂社とともにあった陸軍墓地は1942年、4月10日、現在の久留米競輪場に移転した。
それを示すのが、久留米競輪場の入り口の池に架かる一本の橋である。
その橋の名を 「陸軍橋」 といい、「昭和17年4月竣工」との銘がある。
実は久留米競輪場の敷地全体が久留米の陸軍墓地の跡で、 現在も参加選手宿舎裏に「忠霊塔」があり、その痕跡を感じることが出来る。
また、その一角にドイツ人俘虜の墓もいくつかまとめて存在している。
また、古代の円形劇場跡のような雰囲気の場所であり、戦時中はここで慰問の演奏などが行われていた。
さらに、森の中に突如として現れる高さ5メートルほどのレンガ積みの「らせん階段」がついた不思議な円柱がある。ここが、「宮城遥拝」の場所で、皇居の方角に向けて建てられているという。
さて、この久留米競輪場から世界に飛び出したのが中野浩一選手である。
中野は、福岡県立八女工業高等学校では陸上競技を行っており、高校2年のとき、1972年に開催された山形インターハイ・400メートルリレー走の第3走者として優勝に貢献した。
しかし、高校3年春に右太ももの肉離れで陸上競技での大学進学を断念した。
高校卒業後、当時競輪選手だった父親から奬められ、競輪の世界に入る。
1975年に日本競輪学校を卒業するや、同年5月3日に「久留米競輪場」でデビュー。その後、デビュー戦を含めて破竹の18連勝の記録を作った。
そして1977年から86年にかけて世界自転車選手権10連覇の偉業を達成している。
久留米には、画家である青木繁や坂本繁次郎の自宅が保存され、作曲家・中村八大から現代ポップスまで音楽の道で活躍する者も多い。
久留米市総合スポーツセンターの陸上競技場(東櫛原)のトラック近くに地元の政治家で元通産大臣の石井光次郎の石像が建つが、その娘・石井好子は、著名なシャンソン歌手・エッセイストである。
久留米は、色々なものが詰まった「ぶ厚い」街である。