「子供」の発見

最近、スポーツや文化面で10代そこそこの子供の活躍が目覚ましい。
才能もあろうが、恐れがなく、先入観もなく、失うものが少ないという子供の「強み」もある。
翻って、世に現れた天才とは「子供」であり続ける能力、つまり「童心」のままでいることなのではなかろうか。
そして、それを可能とするのは、子供の時にうけた「喝采」の余韻がものいうのかもしれない。
チャーリー・チャップリンの初舞台は、母親のステージ上でのアクシデントがきっかけだった。
チャーリーが1歳の時に、両親は離婚していたが、母親がミュージックホールのスターであったため、生活にそれほど困ったわけでなかったが、母親が喉をこわして急に歌を歌えなくなり、母子の生活は一変する。
ある日、母親がステージに立つと、客に野次を飛ばされ、舞台から引き下がらざるをえなかった。
そこで、わずか5歳のチャーリーが母の「代役」として急遽、舞台に引き出された。それも、無心に母親の「嗄れ声」を真似て、ただ歌い踊ったものだった。
すると、笑いと拍手と小銭の雨が舞台に立つチャーリーに降り注いだという。
母親にとっては残酷な話だが、そんなことは意に介しない客は大喜び。実際に母親の声の戻る日は二度と来なかった。
これが「喜劇王」チャーリー・チャップリンにとっての強烈な「初舞台」となった。
拍手喝采といえば、ひとりの日本人少女のパフォーマンスが、「奇跡」として今でも「語り草」となっている。
アメリカ・マサチューセッツ州バークシャー郡にある「タングルウッド」では、毎年夏に「音楽祭」が開かれる。
そのステージに、当時わずか12歳の日本人ヴァイオリニスト・五島みどりが立っていた。
祖母が、3歳の誕生日プレゼントとして「1/16サイズ」のヴァイオリンを買い与えたのを機会に高い音感を示し、ヴァイオリンの「早期英才教育」を受けることとなった。
五島6歳の時には、大阪で初めてステージに立ち、パガニーニの「カプリース」を演奏するほどの才能を示した。
1982年五島は、周囲の反対をものともせず、母に連れられて渡米し、ジュリアード音楽院において高名なディレイ教授の下でヴァイオリンを学ぶことになった。
アメリカの演奏会にデビューするや、日米の新聞紙面に「天才少女」として紹介された。
1986年、当時14歳の五島は「タングルウッド音楽祭」に参加し、ボストン交響楽団と共演した。
レナード・バーンスタインの指揮の下で「セレナード」第5楽章を演奏中に、その出来事は起こった。
ヴァイオリンのE線が切れるというアクシデントに見舞われたのだ。
当時みどりは「3/4サイズ」のヴァイオリンを使用していたが、このトラブルによりコンサートマスターの「4/4サイズ」のストラディヴァリウスに「持ち替え」て演奏を続けた。
さらに、滅多におきない事が同じステージで再び起きた。再びE線が切れたのだが、このトラブルにも五島は冷静に対応した。
今度は副コンサートマスターの「ガダニーニ」を借りて、演奏を完遂したのである。
これにはバーンスタインも言葉を失い、演奏後には五島の前にひざまずき、驚嘆と賛嘆の意を表した。
翌日のニューヨーク・タイムズ紙には、「14歳の少女、タングルウッドをヴァイオリン3挺で征服」との見出しが「一面トップ」に躍った。
またこの時の様子は、「タングルウッドの奇跡」として、アメリカの小学校の「教科書」にも掲載されるほであった。
五島は現在46才。早くから社会事業に関心を持ち、1992年には教育環境が行き届かない都市部の公立校に通う生徒を対象に、財団を作って音楽の楽しさを伝えるなどしている。

明治半ば以降は資本主義の発展と相次ぐ戦争で、失業や貧困が問題となり社会不安が目に見えて増大した。
そこで、政府は対策として社会事業及び社会教化事業に取り組んだ。
また、民間でも貧民を救おうと奮起する篤志家や知識人が現れた。
その過程で、子供への感化・教育事業にも関心が高まり、社会における「子供の発見」なされたといえる。
例えば「寄席」は近世から庶民の根強い人気を誇る演芸の一つだったが、特に教育者からそれが社会の風紀を乱すという声が上がる。
彼らは、寄席講談は古くから文字の満足に読めない下層の人民の生活の知恵や道徳心を養う場だったが、それは同時に猥褻なる思想を伝播するものとみなした。
そうした場への子供の出入りは見過ごし難いことだったため、学校外で多くの時間を費やす子供たちのために、「教育的な娯楽」を与えることは大人達の急務でもあった。
1911年に東京結成された「大塚講話会」の活動は、そうした社会意識の高まりを表わすものだった。
新たな題材の開拓や話法の研究だけではなく、小中学校で自ら口演を行った。こうして教師たちは、教室内だけでなく、語りを通じて学校外の社会活動にも参画するようになったのである。
さらにこの試みに触発され、その後各師範学校や諸大学にも「お話研究会」が生まれ、相互に活発な交流がなされた。
教育者の間でも「童話」を語る動きが活発になり、教室童話の理論が構築されていった。
それは、大正期に無垢な子供像を題材に氏ら小川未明らのロマン主義的な童話作家が新たに登場するが、その先駆的な動きのひとつともみなしてよいだろう。
さて、東京の「文京区」は、学校が多く建てられた文字どおりの地域である。
なかでも「音羽」という地区は、文部大臣をもつとめた東大卒一家の鳩山ファミリ-のお膝元である。
この地域のランドマークといえば地下鉄の駅名ともなっている「護国寺」である。
「護国寺」といえば、あの「犬公方」とよばれた徳川綱吉が母親のためにつくったお寺で、数年前には「お受験殺人」で知られたほどに、「教育熱」がとても高い地域でもある。
だが、親の教育熱は一流新学校を目指す「進学」ばかりに限られるわけではない。
大正時代に、童謡歌手が求められたが、「音羽」はその中心地でもあったのだ。
大正時代に子供達に文語・教訓ではなくわかりやすい日本語で芸術性のある童話・童謡をつくろうという「赤い鳥」運動がおき、それに多くの文学者や音楽家などが賛同し参加した。
プロの大人の歌手が童謡を歌うと重すぎるというので、同じく子供の童謡歌手が求められたのである。
そこで童謡歌手のオーディションが開かれ、それに合格したのが女優の吉永小百合であった。
小学校5年生の時、人気ラジオ放送で「赤道鈴之助」(放送期間:1957年1月7日 ~59年2月14日(全42回))の児童歌手募集に応じたもので、同じく合格した藤田弓子も吉永とともに「赤道鈴之助」を歌っている。
ちなみに、このラジオ放送のナレ-ター役は当時中学生だった山東昭子(後の参議院議長)であったから、人材輩出という点では「赤道鈴之助」は、「モンスター」ラジオ番組だったといってよい。
さらに1933年、NHKのラジオ番組などに童謡歌手をたくさんに提供した「音羽ゆりかご会」なるものが創設されたが、その場所こそ護国寺内の幼稚園であった。
「音羽ゆりかご会」は、当時東京音楽学校の学生であった海沼実がアルバイトのつもりで子供達を集めて歌唱の指導をはじめたのがきっかけで、これが日本における「児童合唱団」のはしりとなった。
前述の「大塚講話」は、この文京区音羽に隣接した街が豊島区にあり、「ゆりかご会」創立から遡ること約20年の1915年であった。
「大塚講和会」は、ある意味「赤い鳥」運動の先駆的活動ともいうべきものではなかったか。
それは、童話を巡回して子供達に読んで伝えようという口演会であり、大塚に隣接した音羽の地に「音羽ゆりかご会」が出来たのである。
「大塚講和会」を創立したのは、福岡県士族・井上喜久蔵の四男として生まれた下位春吉という人物である。喜久蔵は、明治新政府への士族反乱、秋月の乱への参加者の一人だった。
一家は没落士族として、春吉は1907年、下位嘉助の養子となる。旧制東筑中学を卒業後、一家とともに東京に上京し、東京高等師範学校英語科に入学した。
下位はまず文学者、啓蒙家として出発し、詩人・土井晩翠に師事し1911年には「大塚講話会」を設立し、童話の創作やその語り口(口演活動)を行うと共に、1917年に「お噺の仕方」を発表した。
は日本の童話史において重要な位置を占めるものと評価が高い。
下井は、師範学校などで教鞭を取る傍ら、東京外国語大学伊太利語科に学びイタリア語を身につけた。このことが下井の活動を「お噺の世界」から飛躍的に広げていく。
下井は、1915年、ダンテ・アリギエーリ研究のため単身でナポリに渡り、国立東洋学院(現在のナポリ東洋大学)の日本語教授となった。
ここで日本語を教えながら、イタリアの若い文学者と交流しつつ、日本の文学作品をイタリア語訳する。
そして第1次世界大戦末期の1918年、下井はアルマンド・ディアズ将軍と知り合い、将軍から前線の取材をすすめられた。
新聞社の「通信員」として前線に赴いた下位は、まもなくイタリア軍に志願入隊し、「戦闘行為」に参加。
下位がイタリアへ向かうことを決意した1915年は、前年7月にオーストリアがセルビアに宣戦布告し大戦が勃発していたのだが、1915年5月にイタリアもオーストリアに宣戦布告している。
この時期にイタリア行きを強行するのは、戦争が起きることを覚悟の上だったとしか思えない。
下位は最初、日本大使館から「通信員資格」で派遣されたようだが、1918年にはイタリア軍義勇兵として、自ら第一線を志願するあたり、サムライの子であった。
「噺し方」の研究家とイタリア義勇兵はなかなか結びつにくいが、あえていえば文学者のヘミングウェイのスペイン人民戦線参加を思わせる。
日本に帰国してからの下位は、日本放送協会のイタリア語部長や国際連盟教育映画部日本代表、日伊学会評議員、日本農林新聞社長などを歴任した。
イタリアとダンヌンツィオ、そしてムッソリーニとファシズムを紹介する講演活動を頻繁に行う一方、イタリアの巷にひっそりと民衆と共に生き続けてきた聖人たち、村や町の小さな守り神たちの物語を綴っていた。
このことは、下井がサムライの側面と、市井の人々の生活の営みを語る文学者の要素が共存していたことを示している。
また、下井がイタリアで語ったことが、「白虎隊精神」を広めるに一役買い、現在会津の飯盛山に「古代ローマの石柱」が立つきっかけともなったのである。
下井春吉、前半生におけるの口演技術は非常に高く、長編の「ロビン・フット」や創作「ごんざ蟲」や「黄金餅」などの童話が知られている。そして、その指導書は、全国の教師たちから絶大な支持を受け、「童話のお父さん」とさえ呼ばれた。
戦後、下位の後半生は「枢軸陣営」への支持活動により公職追放となり、不遇の中1954年12月に死亡している。
下井の前半生と後半生はあまりに対照的で同一人物かと思わせるが、一貫しているのは博多の言葉で「のぼせもん」であったことだ。

金子みすゞの生涯は、「事実は小説より奇なり」をジでいくような生涯であった。
さらに桃井かおりなど数多くの名優を生むことになる劇団「若草」も、みすゞの実の弟・正祐が創立したということも、童謡詩を生み出した金子みすゞの生涯と「合わせ鏡」のようなものにも思える。
金子みすゞは1903年、カマボコで有名な山口県大津郡仙崎村に生まれた。兄弟には兄・堅助、弟・正祐がいた。
みすゞの父・庄之助は、母の妹つまりみすゞの叔母フジの嫁ぎ先である「上山文英堂」書店の清国営口支店の支店長として清国に渡ったが、その翌年に何者かによって殺されてしまう。
遺族となった金子一家は、「上山文英堂」のバックアップで、仙崎で「金子文英堂」書店を始めた。
ちょうどその頃、子に恵まれなかった上山松蔵とフジ夫妻の元へ、みすゞの弟・正祐が養子としてもらわれることになった。
当時、1歳の正祐にはそのことは知らされず、上山家の長男として育てられた。
1918みすゞの叔母にあたるフジが亡くなり、翌年みすゞの母・ミチが、亡くなった妹の夫である上山松蔵と再婚することになった。
そしてみすゞと正祐は実の姉弟でありながら「義理の姉弟」として共に生活を続けるのだが、正祐には依然として、養子という事実は知らされてはいなかった。
みすゞは尋常小学校時代から成績優秀で、やがて童謡に目覚め、高等女学校を卒業してからは、下関に移った「上山文英堂」書店の手伝いをしながら、雑誌に詩の投稿を始めた。
一方、みすゞの実の弟である正祐は作曲を覚えるようになり、みすゞの詩に曲をつけたりするようになっていく。
1923年頃からペンネーム「金子みすゞ」で童謡を書き始めるようになり、雑誌「童話」で西條八十に認められたりして、若き詩人の間でも注目を集めるようになる。
1925年、正祐に徴兵検査の通知があり、その時に正祐は自分が養子であることを知るが、実の両親のことを養父に聞くことはせず、みすゞを実の姉とも知らず親しくつき合い続けた。
1926年、正祐の養父・松蔵は、正祐とみすゞの関係を心配して、上山文英堂の番頭だった宮本という男とみすゞを結婚させることにしたが、宮本の悪い噂を聞いていた正祐は、みすゞに結婚を思いとどまるように説得した。
しかし、正祐を「実の弟」と知るみすゞは、今まで世話になった叔父・松蔵の提案に逆らうこともできず、宮本と結婚することになる。
同年11月に長女を授かるが、宮本の女性問題が叔父・松蔵の逆鱗にふれ、店か追い出され新しい仕事を始めたが、ついには病気をもち帰り、みすゞもうつされてしまう。
また、みすゞが投稿した詩が世間に認められるのが気に食わないのか、詩作や投稿仲間との手紙を禁じたりするようになる。
しかし、宮本の放蕩ぶりは収まらず、金にも困りだし、住居を転々とする。
そして1930年ついにみすゞは長女を連れて宮本との別居にふみきるが、宮本は要求すればいつでも娘を引き渡すという条件で離婚に応じた。
しかし再三にわたって、宮本から娘の引渡し要求があったが、みすゞは断固としてこれに応じることはなかった。
宮本もあきらめず、娘を連れに行くと通告してきたが、みすゞはその前日に長女を母に預けて、ひとり写真館に向かう。
そして、その日の夜、ふさえが母の寝床で眠るのを見届け、自分の寝室で、遺書と写真の預け証を枕元に置き、薬を飲んで自殺。享年26。
金子みすゞにしてみれば、娘を渡すくらいなら死んだ方がマシなのかもしれないが、宮本という男、本当にそんなに悪い人なのか、一方的な話ではある。
ともあれ「死の抗議」は、周囲を動かし、娘は結局祖母・ミチの手で育てられた。
仙崎の町を歩くと、「金子みすゞ記念館」を訪れるまでもなく、いたるところにその詩が掲げられている。
なかでも商家の壁に掲げられた次の詩が印象的だった。

「だれにもいわずにおきましょう。
朝のお庭のすみっこで、
花がほろりとないたこと。
もしもうわさがひろがって、
はちのお耳へはいったら、
わるいことでもしたように、
みつをかえしにゆくでしょう」。

「朝焼小焼だ。
大漁(たいりょう)だ。
大羽鰮(おおばいわし)の
大漁だ
浜はまつりの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮(いわし)のとむらい
するだろう」。

 生前、西條八十から「若き童謡詩人の中の巨星」と絶賛されながら、没後半世紀後に再評価されるまで埋もれていた童謡詩人・金子みすゞ(本名テル)。新たに発見された弟正祐(後の雅輔)の未公開資料などを駆使して、みすゞを恋人のように慕い、様々に影響を与えあった弟との曲折した交流が、童謡文学昂揚期から戦争に向かう時代を背景に克明に描き出され、既存のみすゞ像にも貴重な一石を投ずる衝撃的な作品である。義母の愛情を一身に受けて育った甘えん坊の正祐のテルへの思慕と、その後の女性耽溺なども含め、最後まで興味深く読ませるのだ。  下関の本屋・上山文英堂の一人息子正祐の、母フジが病気療養で里帰りした後の寂しさを紛らわせてくれたのは、漱石門下の鈴木三重吉によって創刊されたばかりの子ども雑誌「赤い鳥」だった。正祐は、都会の新しい文化潮流に触れた思いがして胸をときめかせ、とりわけ北原白秋の童謡に心をうばわれた。  母のフジは実家から戻ることなく世を去り、父の松蔵はフジの姉の金子ミチを後添えに迎える。松蔵は、三人の子どもを抱えながら夫が急逝したミチから、一歳になったばかりの正祐を養子として引き取り、跡取りにするつもりで育てていた。正祐はそのことを知らされていないから、父が後添えを迎えることに抵抗する。  父の再婚により、それまで二歳年上で気心が通じた従姉として慕っていたテルと会う機会も多くなり、彼女も「赤い鳥」の愛読者だと知って、テルとの語り合いに夢中になるのだ。テルは西條八十の童謡が好きだという。 「赤い鳥」の成功を追って、「金の船」(後の「金の星」)、「童話」などの童話童謡雑誌が次々と創刊される。「赤い鳥」の白秋に対抗するかのように、「金の船」は野口雨情、「童話」は西條八十が投稿作品の選者を務め、そこから新人童謡詩人も輩出するなど、大正デモクラシー下での子ども文化の活況ぶりが鮮やかに浮かび上がってくる。随所に挿入される童謡作品も効果的だ。  テルが、家の事情もあって下関の上山文英堂の店員として働くことになると、正祐とテルとの親密さがさらに深まる。正祐のテルに向ける眼差しに、まさかの危うさを感じた松蔵は、テルを使用人の宮田と結婚させようとする。遊び人の宮田とテルが結婚することに正祐は反対するが、テルは満更でもない。懊悩する正祐は、テルから二人が姉弟だということを知らされ、さらに衝撃を受ける。進路問題も重なって傷心した正祐は花街に通い詰めるが、東京に出て古川ロッパの下で映画雑誌の編集者になり、後に雅輔の筆名で華々しく活躍することになるのだ。  テルは、八十が選者をしている「婦人倶楽部」や「童話」などに童謡を投稿する。店に「婦人倶楽部」が入荷したとき、投稿欄を探す。作品は載っていなかったが、選外佳作に「下関 金子みすゞ」と小さくあった。これがテルの「金子みすゞ」デビューとなる。大正十二年の夏、テルは詩作に明け暮れ、八月中旬発行の「婦人倶楽部」「童話」「金の星」「婦人画報」のそれぞれに、童謡と詩が五作も掲載される。それを知った正祐は、誇らしくもあり、また妬ましくもあった。  テルは懐妊し女児を出産するが、夫から詩の投稿を禁じられ、しかも淋病をうつされて体調を崩し離婚を決意する。しかし、かねてより「死神」が恋人だと正祐に語っていたテルは、我が子の親権をめぐって悩んだ挙句、母親に養育を願う遺書を残して自ら命を絶ったのだ。それを知った正祐は、姉の悩みに真正面から寄り添うことができなかった不明を悔やみ、それを癒すためなのだろうか、花街に入りびたり芸者と交情を続ける。大正期流行の純潔主義に従順だった正祐は、二十三歳まで童貞を守ったというが、その後の女性耽溺と放蕩には義母と実母の二人の母や姉への様々なコンプレックスが微妙に投影しているようで痛ましくも読める。  テルは亡くなる前年の昭和四年までに五百十二編の童謡を作り、手書きの詩集にして八十と正祐に託したというが、死後も単行本になることはなかった。正祐は上山雅輔として、戦後、劇団若草を立ち上げ、石橋蓮司や桃井かおりなど多くの俳優を育て上げながら、みすゞの手書き詩集を大切に守り、彼女の詩業を現代に蘇らせて八十四歳の生涯を全うした。従姉と慕っていたテルが、実姉だったと知らされて困惑する弟の目を通して、薄幸の童謡詩人のこれまで知られていなかった内面にまで鋭く迫った秀作である。 金子みすゞさんの「星とたんぽぽ」という詩にも、作詞の時期を調べるまでは至らなかったが、背後にどこか強い「喪失感」を感じさせるものがある。 

 青いお空のそこふかく、
 海の小石のそのように
 夜がくるまでしずんでる、
 昼のお星はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。
 ちってすがれたたんぽぽの、
 かわらのすきに、だァまって、
 春のくるまでかくれてる、
 つよいその根はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。

さて、金子みすずの詩には、自然の営みを注意深く見守ったものがある。
この二つの詩から金子みすゞが語りかけてくるのは、「視点」を反転させると世界の実相がよく見えるというこ。
 生前、西條八十から「若き童謡詩人の中の巨星」と絶賛されながら、没後半世紀後に再評価されるまで埋もれていた童謡詩人・金子みすゞ(本名テル)。新たに発見された弟正祐(後の雅輔)の未公開資料などを駆使して、みすゞを恋人のように慕い、様々に影響を与えあった弟との曲折した交流が、童謡文学昂揚期から戦争に向かう時代を背景に克明に描き出され、既存のみすゞ像にも貴重な一石を投ずる衝撃的な作品である。義母の愛情を一身に受けて育った甘えん坊の正祐のテルへの思慕と、その後の女性耽溺なども含め、最後まで興味深く読ませるのだ。  下関の本屋・上山文英堂の一人息子正祐の、母フジが病気療養で里帰りした後の寂しさを紛らわせてくれたのは、漱石門下の鈴木三重吉によって創刊されたばかりの子ども雑誌「赤い鳥」だった。正祐は、都会の新しい文化潮流に触れた思いがして胸をときめかせ、とりわけ北原白秋の童謡に心をうばわれた。  母のフジは実家から戻ることなく世を去り、父の松蔵はフジの姉の金子ミチを後添えに迎える。松蔵は、三人の子どもを抱えながら夫が急逝したミチから、一歳になったばかりの正祐を養子として引き取り、跡取りにするつもりで育てていた。正祐はそのことを知らされていないから、父が後添えを迎えることに抵抗する。  父の再婚により、それまで二歳年上で気心が通じた従姉として慕っていたテルと会う機会も多くなり、彼女も「赤い鳥」の愛読者だと知って、テルとの語り合いに夢中になるのだ。テルは西條八十の童謡が好きだという。 「赤い鳥」の成功を追って、「金の船」(後の「金の星」)、「童話」などの童話童謡雑誌が次々と創刊される。「赤い鳥」の白秋に対抗するかのように、「金の船」は野口雨情、「童話」は西條八十が投稿作品の選者を務め、そこから新人童謡詩人も輩出するなど、大正デモクラシー下での子ども文化の活況ぶりが鮮やかに浮かび上がってくる。随所に挿入される童謡作品も効果的だ。  テルが、家の事情もあって下関の上山文英堂の店員として働くことになると、正祐とテルとの親密さがさらに深まる。正祐のテルに向ける眼差しに、まさかの危うさを感じた松蔵は、テルを使用人の宮田と結婚させようとする。遊び人の宮田とテルが結婚することに正祐は反対するが、テルは満更でもない。懊悩する正祐は、テルから二人が姉弟だということを知らされ、さらに衝撃を受ける。進路問題も重なって傷心した正祐は花街に通い詰めるが、東京に出て古川ロッパの下で映画雑誌の編集者になり、後に雅輔の筆名で華々しく活躍することになるのだ。  テルは、八十が選者をしている「婦人倶楽部」や「童話」などに童謡を投稿する。店に「婦人倶楽部」が入荷したとき、投稿欄を探す。作品は載っていなかったが、選外佳作に「下関 金子みすゞ」と小さくあった。これがテルの「金子みすゞ」デビューとなる。大正十二年の夏、テルは詩作に明け暮れ、八月中旬発行の「婦人倶楽部」「童話」「金の星」「婦人画報」のそれぞれに、童謡と詩が五作も掲載される。それを知った正祐は、誇らしくもあり、また妬ましくもあった。  テルは懐妊し女児を出産するが、夫から詩の投稿を禁じられ、しかも淋病をうつされて体調を崩し離婚を決意する。しかし、かねてより「死神」が恋人だと正祐に語っていたテルは、我が子の親権をめぐって悩んだ挙句、母親に養育を願う遺書を残して自ら命を絶ったのだ。それを知った正祐は、姉の悩みに真正面から寄り添うことができなかった不明を悔やみ、それを癒すためなのだろうか、花街に入りびたり芸者と交情を続ける。大正期流行の純潔主義に従順だった正祐は、二十三歳まで童貞を守ったというが、その後の女性耽溺と放蕩には義母と実母の二人の母や姉への様々なコンプレックスが微妙に投影しているようで痛ましくも読める。  テルは亡くなる前年の昭和四年までに五百十二編の童謡を作り、手書きの詩集にして八十と正祐に託したというが、死後も単行本になることはなかった。正祐は上山雅輔として、戦後、劇団若草を立ち上げ、石橋蓮司や桃井かおりなど多くの俳優を育て上げながら、みすゞの手書き詩集を大切に守り、彼女の詩業を現代に蘇らせて八十四歳の生涯を全うした。従姉と慕っていたテルが、実姉だったと知らされて困惑する弟の目を通して、薄幸の童謡詩人のこれまで知られていなかった内面にまで鋭く迫った秀作である。 金子みすゞさんの「星とたんぽぽ」という詩にも、作詞の時期を調べるまでは至らなかったが、背後にどこか強い「喪失感」を感じさせるものがある。 

 青いお空のそこふかく、
 海の小石のそのように
 夜がくるまでしずんでる、
 昼のお星はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。
 ちってすがれたたんぽぽの、
 かわらのすきに、だァまって、
 春のくるまでかくれてる、
 つよいその根はめにみえぬ。
    見えぬけれどもあるんだよ、
    見えぬものでもあるんだよ。