時すでにオスシ

鉛筆といえば削るものではなく差し込むもの、電話といえば回すものでなくプッシュするもの。しかし、その鉛筆も電話も使わない時代になった。
これから、宅配ではドローンが使われ、「メールするね」と同じような感覚で「ドローンするね」という日がくるのかもしれない。
お寿司といえばすっかり廻るものとなったが、一体誰が考えたのか、どこから発想を得たのか。
調べてみると、大阪の立ち喰い寿司店経営者・白石義明氏が、ビール製造のベルトコンベアをヒントに作ったものという。
個人的には、平安時代の"曲水の宴"からではないのか、という淡い期待もあったが、残念ながらそれほど情緒のあるものではなかった。
ただ少々意外なのは、お寿司とは本来「握る」ものではなく、箱の中に「押す」ものだということを知った。
わが国のすしの原型といわれているのが近江の鮒(ふな)寿し。滋賀県の琵琶湖一円、ことに湖東と湖北に多い馴れずしで、今日各地に伝わるすしは、この近江の鮒寿しを起源として分化していったものと考えられている。
今もある老舗では、ワタを抜いた鮒を長時間塩漬けにしたのち、飯とともに本漬けにして「馴れ」を待つという古来の製法を残している。
江戸で寿司といえば、もともとは「押し寿司」であった。箱に飯とネタをいれ発酵させるために、出来るまで数日かかった。もっと簡単につくれないかと生まれたのが握りずし。
たいたご飯に酢をかけて混ぜる。箱ではなく、直接手で押し固める。ネタを乗せればそれで完成。
お寿司の「握り」が主流になるのは、江戸時代にお寿司が「ファストフード」化したためだ。
江戸は火事が多くたくさんの大工や職人が必要だったため、全国各地からどんどん人が集まってきた。
そうした人々の胃袋を満たしていたのが、屋台で売っていたテンプラや蕎麦だった。
しかし、そんな数ある屋台の中で、突然「にぎり寿司」が登場。あっという間に人気が急上昇した。
すぐに食べられるように作りおきしておいたため、片手間な時間でも余裕で食べられる。
ただ、江戸の寿司は、今の寿司よりずっしり重く、まるで「おにぎり」のようなものだった。寿司は、今の3倍はあり、寿司飯の色は茶色をしている。
色の濃い「赤酢」を使っていたからだが、固めで酸っぱいのは、働く男たちの疲れを癒すのにも最適だった。
寿司は「キング オブ 男飯」 しかも値段は4文(80円)とふところにもやさしい。
早くて安くて大きくてうまい。江戸B級グルメ選手権でもすれば、握りずしは「グランプリ」に輝くのは間違いなし。

この「握りずし」の拡大において、二人の江戸前職人が技を競ったことが大きく貢献している。ちなみに「江戸前」とは、東京湾でとれる魚のこと。
今日に伝わる「握り寿司屋番付表」つまり人気ランキング表が残っている。
その行事の欄に載っている「松の寿司」と「与兵衛寿司」というのが伝説のすし屋。
「技の与兵衛」に「ネタの松五郎」というライバル対決。意地と誇りをかけたライバルの競い合いが寿司のレベルを大きく発展させた。
まずは、与兵衛寿司の主人「華屋与兵衛」で、「にぎり寿司」を考え出した人である。
そのネタはコハタなど江戸前でとれたもので、仕入れてすぐにさばいて握ってお客さんへ。
その後、堺屋松五郎という人物が「握り寿司界」へなぐりこみをかける。大阪出身で「押し寿司」を商い、江戸で成功していた。
その松五郎が「握りずし」をはじめたことが大きい。そしてネタは、あわび、たい、車えびなど高級なものばかりを使った。
今の金額で5000円もする。高い理由は、1匹のうなぎに100匹ぐらいの値をつけたのは、1匹を選ぶのに100匹をよく調べて選んだからだという。
二流品は一切使わず、一流品しか扱わなかった。
高級な食材をつかうばかりではなく、徹底して素材を吟味していた。
史料によれば「玉子如金 魚水晶」のようにきらきら輝き、そればかりか箱の中には、なんと「お金」が入っていたという。
さらには、「我が技術が未熟なので、飯の中に砂が混じっているかもしれない。先に歯の治療代をいれておきます」と、ちょとしたユーモアも添えた。
松五郎のにくい「演出」にメロメロになった当時人気の歌川国芳の浮世絵にも、「松の寿司」が描かれている。
一方、与平衛も負けてはいない。与兵衛が出していた寿司の絵が残っており、その中に、与兵衛の戦略が隠されている。
たとえば、白魚。一匹だと見劣りするので、4、5匹のせて見栄えがするようにしている。
寿司飯には、黒いつぶがあり、炊いたご飯に細かくのりを混ぜ、真っ赤なえびと寿司飯とのコントラストが美しい。
豪華に見せているのだが、与兵衛が一番苦労したのヤハリいかにオイシクするかであった。
そこから与兵衛が繰り出す様々な「元祖のすし技」が登場する。それは魚のネタに応じた握りの極みといってよい。
江戸前のコハダは水分が多き匂いがある。うまいネタにするには塩で水気がなくなり、身も引きしまる。それを酢につけると匂いもとれて、いい酸味がつく。
マグロは、痛むのがはやいのでいい寿司ネタとはいえない。マグロは、湯引きで切り身にかけてうまみを閉じ込め、醤油で日持ちしウマミをひきだす。
魚がいたまぬように、ワサビをつけたら、魚のうまみをましてくれることにも気がついた。
先人達がやってくれていなかったなら、我々の時代にもこういう技術は伝わらなかったにちがいない。感謝するほかない。
二人の情熱がにぎり寿司を大きく進化させたのは間違いないが、それは「作り方」の方であって「食べ方の追求」というところまではいかなかった。
ところが、1930年の熱狂的なファンが書いた本に「寿司通」というものがある。書いてあることは、「粋な」食べ方。
魚を上にして、醤油はつけない。魚のうまみを存分に味わいたい。指を上方よりまわして寿司を裏返してつまみあげる。
「つまみ方」のカッコウよさまで追求し、寿司の「盛り方」も書かれている。
赤みの魚と白身の魚を交わるように置く。お祝い事の場合の寿司だ。水引に似せて紅白の目出度さを現す。添えられたショウガは「のし」を表しているという。
余談だが、テレビの番組で「見た目テクニック」というのがあっていた。回転寿司の良し悪しを決めるポイントは、「醤油さし」らしい。
ナゼカ。醤油さしの穴が大きいのは味に自信がない。醤油をコスト高にしてしまっては、新鮮なネタがはいらないという悪循環となるというわけだ。

中学校の国語の教科書に載っていて、今でも妙に覚えているのは、志賀直哉の「小僧の神様」。ついでながら、高校の古典の教科書に載っていて、なぜか記憶に残るのが、「虫めづる姫君」。ゲテモノ好きの可愛らしい姫君のことが忘れられない。
さて「小僧の神様」を読んで、和風サンタのようにお寿司を食べさせてくれる夢のような人がいたらと思ったものだ。
自分みたいな人は他にもいるらしく、「小僧寿しチェーン」の創業者が、小説「小僧の神様」が大好きで、店の名前としたという。
仙吉は番頭さんが噂話をしている寿司屋の寿司を食いたいとかねてより思っていた。自分もいつかはそのような身分になって食ってみたい。
ある日仙吉はお使いへと出た際に、番頭さんが噂していた寿司屋の近くにいた。
帰りの電車賃4銭を浮かして歩いて帰ることで、ひとつは食えるかもしれないと、暖簾をくぐる。
そこにいたのが、貴族院議員のA。小僧が入ってきて、海苔巻きを頼むが、今日はできないと言われ、小僧は勇気を出して鮪(まぐろ)に手をかける。
ところが、それはひとつ6銭で小僧の4銭では足りなかった。一度つまんだ鮨を手放し、小僧はもう一度勇気を出して店を飛び出していった。
Aは、その小僧のことが可哀想でずっと心に引っかかった。そこで、たまたま秤を買うため神田へと出向くと、そこはまさしく仙吉がいる店であった。
品物を運んでくれたお礼にと鮨を御馳走してやろうと、Aは秤をを届けるようにと仙吉を指名した。
ただ、届け先にもっていってもらうにも、住所を書く必要があり、後で名を知られたらと思うと妙な心地がするのでデタラメな住所を書きつけて、仙吉とともに家へと向かった。
そうして秤を運んでもらい、Aは仙吉にお礼をしてやろうと寿司屋まで行く。Aは先に店へと入り、勘定を済ませ、あとは十分食べなさいと仙吉に言い残し、逃げるように店を出た。
仙吉はそこで3人前の鮨をたらふく食うが、店の人は、勘定はまだまだもらっているので、好きな時に食いに来なさいと夢のようなことを語った。
食べ終わった後の小僧は、空車を挽きつつ、あの人は一体誰なんだろうと考える。そのうち、仙吉にはあの男のことが仙人か「お稲荷様」かと思えてくる。
そして、悲しい時、苦しい時にはその客のことを思うようになり、いつかまた思わぬ恵みをもってあの客が現れるのではないか、と思うようになっていく。
実は志賀直哉が文末でわざわざ断っているのは、この話のオチは、小僧がAがでたらめに書いた住所をたどっていくと「お稲荷」にたどりつくというものだったらしいが、そこまでは書けなかったということ。
親切心も、時と場合によっては後味が必ずしもスッキリしないこともあるということか。

ワレサを指導者とするポーランドの「民主化運動」から、ベルリンの壁崩壊に至る大きな流れが起きるが、ポーランド連帯の労働者達の暴動のきっかけは「肉食いてぇ~」だったそうだ。
その動きに端を発して「ベルリンの壁」崩壊が起きているのだから、「肉慾」とはすごいものだ。
日本にも大正時代に「米騒動」や戦後「食糧メーデー」が起きている。
今日の日本人にとっても、食糧難で長く食べられなくなることを想定してみて、つらいものといえば、「お寿司」もそのひとつではなかろうか。実際、そんなことが起きた。
つまり、お寿司が日本から消えかかったことがあったのだ。
終戦で日本全体が食糧難であった。連合国軍GHQは様々な政策を行い、ついに米をつかった飲食店の営業を禁止した。
これでは「寿司屋」ができなくなると、お寿司屋さんは悲嘆にくれた。
「寿司食いてぇ~」の思いは日本人共通のもの、そこで、東京の店主が集まりある話し合いをした。
ある寿司やの当時の回想録によれば、米をうまい飯にするのが一番得意なのが寿司屋なのだから、しっかりとGHQに陳情しようということになった。
ところが、GHQに何度お願いしてもOKしてもらえなかった。
それでも、その灯を守りたいと引き下がらなかった。
そして彼らは、ある「秘策」を思いついた。そのことを示すのが、浅草の寿司屋に残されていたひとつ看板。それは、「寿司持参米加工」という看板であった。
つまり、寿司屋を飲食店としてではなく加工業、「寿司を作るだけの店」として許可を得たのである。
なんだか「木賃宿」を思い浮かべる。「木賃宿」とは、火をたく木をもっていけば、安く泊まれる宿のことである。
1947年11月、「持参米加工」で寿司屋が再開する。配給のわずかな米をもって寿司屋に詰め掛ける人の姿があった。
米をたんすの中にいれていたため、米からは防虫剤のにおいもあった。それでも、寿司が公然と食べられる。ありがたい。
とはいっても、もっと大きく本質的な問題があった。配給で米や魚がなく、寿司ネタ手に入らなかったのだ。
方々をまわって寿司ネタをかき集めた。ならづけ、かまぼこまでも使った。
マグロの代わりにマスなどの川魚がつかわれた。タイは入手できないので、白身はフナ。フナなど川魚は骨が多くさばくのにも一苦労だったが、寿司屋自ら川に行って捕ってきた。
アサリの身はいくつも重ねて少しでも豪華に見せ、たまごのオボロは、おからを混ぜてボリュームを出した。
また、カンピョウやシイタケなど、少しでも華やかになるように色合いにも工夫を凝らした。
要するに、寿司屋は、もっとお客さんの笑顔をみたい思いの一心でひねり出したアイデアだったが、そんな過程で新しい寿司ネタの発見にも繋がった。
その代表が、戦後の苦境の中で、キュウリを使った「かっぱ巻き」が生まれた。
ではなぜ「かっぱ巻き」という名がついたのか。
河童が好物がキュウリらしい。ではなぜマグロをまいた寿司を「鉄火巻き」というのか。
鉄火巻きの「鉄火」は、もともと真っ赤に熱した鉄をさす語である。
マグロの赤い色とワサビの辛さを「鉄火」に喩えたもので、木質の激しいものを「鉄火肌」や「鉄火者」というのと同じであるのだそうだ。
寿司屋の様々な工夫で、食糧難の時代、一度は消えかけたお寿司の灯は守られた。
それどころか、こうした苦難の時代を乗り越えた寿司は、そのバリエーションを豊富にし、「華やかさ」を増した感がある。
今現在、寿司は海外に広がり大人気となって、新たな寿司の可能性が開けてきている。
その代表がカリフォルニアから逆輸入された「アボガド巻き」である。
また、最近のニュースでは、宇宙ステーションにおいて、野口聡一さんが外国人乗組員に寿司をふるまって寿司パーティーをしたと伝えられた。
ちなみにソユーズでの1日の食事は、なんと約6万3000円もするという。
さて、今はどこでもある「回転寿司」だが、ただ単に廻るだけではなく、ITやビッグデータ分析が行われている。
客に少しでも新鮮なネタを提供しつつ、廃棄される寿司の量を低くするという「背反する」目的を実現するためだ。
ITによりリアルタイムの需要予測が可能となった。
スシローでは来店客に人数と大人、子どもの数を、タッチパネルで入力してもらう。
着席時間も管理しており、「着席すぐは食欲が高く、時間が経つと落ち着いくる」といった傾向をモデル化している。
これで今どれくらい皿を流せばいいかを判断でき、レーンに流す皿の量を調整できる仕組みだ。
例えば、お客が少ないときは定番の寿司。多いときには品数を増やすといった指示などである。
これを裏側で支えるのが膨大なデータの分析で、レーンの皿はICタグで、注文はタッチパネル経由でお客自身が行うので、どのメニューがどの時間に食べられたかはデータ化されている。
例えば、スシローでは、年間ざっと10億皿、過去4年分の40億皿に及ぶデータを、個店ごとの来店客数や時間帯の状況も合わせて分析する。
こういう回転ずしの勢いに押され、我が近隣では、伝統的な寿司の店の灯が徐々に消えつつある。
お寿司のビッグデータ分析とタッチパネルで注文する「時代」の到来。時すでに、オスシ(?)。
そこで、中島みゆきの「時代」が浮かんだ。
♪♪廻る 廻る~よう お寿司は廻る。マダコ、イカ、アワビのせえ~て~。廻らない時代もあったねと、いつしか、懐かしむ日が来るわ♪♪。