「日田」隠し

「魏志倭人伝」の史料を読むといつも疑問に思うことがある。「自女王國以北、特置一大率、検察諸國畏揮之。常治伊都國」という記述である。
「女王国より以北には、特に検察せしむ。諸国これを畏憚す」という意味だが、学者はナゼこの箇所にもっと注目しないのだろうか。
邪馬台国は、「一大卒」が置かれた福岡県糸島よりも南に位置するということが、ハッキリと書いてあるというのに。しかも言葉のニュアンスからしてそう遠くない場所である。
実際、邪馬台国の有力な候補となっている場所が福岡県から佐賀県、大分県にかけていくつか存在している。福岡県でいうと、筑後の山門郡や甘木の平塚川添遺跡などである。
また、福岡と大分の県境の「日田」も邪馬台国の候補にあがっているが、個人的な「ある閃き」から日田には、トンデモナイ「秘密」が秘められているのではないかと思うに至った。
それまで「日田」について知っていることといえば、江戸時代の「天領」であったこと、広瀬淡窓の「咸宜園」があったこと、タモリ(森田一義)が早稲田中退後、日田のボーリング場の支配人として働いていたことぐらいだった。
ところで日田は、九州が反乱・謀反をすれば、権力者(ヤマト・徳川・豊臣)は、日田に楔を打ち込み、九州を押さえつけるという歴史を繰り返した。
江戸時代の1639年、日田は「天領」(幕府直轄地)に組み入れられ、永山城が廃されて麓に「日田陣屋」(日田代官所)がおかれる。
1759年には九州の天領を統括する西国筋「郡代」がおかれて、日田は九州の政治経済の中心地となるが、この日田を経済的に支えたのは、「日田金(ひたがね)」と称される金融資本であった。
「日田金」とは、江戸中期以降、西国郡代の保護を受けた「掛屋」と呼ばれる商人により発展した商業貸付資本のことで、九州にある広大な天領から毎年入ってくる莫大な資金を、懐の苦しい大名などに貸し付けて運用するもので、「郡代」のおかれた日田だからこそ可能になった金融システムであった。
ところが 幕藩制度の崩壊は、「日田金」の経済基盤に支えられた日田の町を直撃した。
明治以降、日田の町は、金融の町から「日田杉」の積出港へと大転換をする。
日田盆地の周囲の山々から切り出された木材や竹材は、三隈川で筏に組まれて筑後川を西に下った。
日田盆地の出口にあたる東側下流部には「筏場」という地名がその名残としてみられる。
ちなみに、全国の天領で「郡代」がおかれたのは、飛騨高山、美濃、日田の3ヶ所のみで、いかに日田が九州の「要衝」として重要視されていたかが分かるのだが、「日田」はソンナニ価値のある場所なのだろうか。

日本の古代史で「謎の4世紀」という言葉があるが、卑弥呼と台与の『魏志』倭人伝による記述は、3世紀末頃までの記述で、その4世紀からの日本の歴史が全くわからないし、中国側の記録もない。
しかし、日田には4世紀の日本を物語る非常に重要な遺跡が存在している。
「小迫辻原遺跡」(おぎこつじばる)と「吹上遺跡」は、全国にもない規模と内容で、日本におけるクニと長の出現と発展のプロセスを証する遺跡である。
それは、弥生時代の環濠集落として著名な佐賀県「吉野ヶ里遺跡」や福岡県甘木市「平塚川添遺跡」とも高速道路で短時間に移動できる距離にある。
特に、「小迫辻原」遺跡は、日本最古の「豪族館」が発掘され、すぐ南の「吹上遺跡」からは、福岡市西区の今山産の太形蛤歯石斧など、「九州北部」と直接繋がる多彩な遺物が出土している。
小迫辻原遺跡で一番不思議なのは、畿内、山陰、東海、瀬戸内などの「布留式土器」が出土している点で、最も有力な卑弥呼墓候補といわれる近畿の「纒向遺跡」が東海、北陸、山陰、瀬戸内などの広域な土器が持ち込まれているのと共通している。
さて、日田の古代史の中心と言えばなんといっても「会所山(よそやま)」といわれる。
「豊後国風土記」にて、日田の地名の起こりである「久津媛(ひさつひめ)神社」が会所山の頂上に存在するためである。
また「豊後国志」には「鳥羽の宿禰が日田国造となり刃連に住まい常に庶民に会す。以て耕の事を教え常に同居し、名づけて会所宮というのは是なり」とある。
現在でも会所山(よそやま)の中腹には、鳥羽塚と呼ばれる古墳も存在し、 日田で初めて水田が開かれたことから“田始播”=田島と呼ばれる地もすぐ近くにある。
ところが、9C日田の「軍司」に任命された大蔵永弘が、石井村に奉遷し、この時に田島の住民も転居させ、現在の石井神社が創建された。
さて旧来、筑後川以南の日田を「石井郷」とよんだが、『古事記』に記述されている「竺紫君石井」は、『日本書紀』では、「筑紫国造磐井」であり、筑後川を中心に政権を握っていた人物である。
つまり、「磐井の乱」の磐井は日田に縁故があり、「日鷹吉士」や「日下部」の一族として、この地に繁栄したのである。
日下部氏は、『豊後国風土記』では、刃連(ゆきい)に居住し、その後石井へと移動し「日下長者伝説」として残り筑後川下流域との深い繋がりを示し、筑後川南岸の日下部氏のルーツは日田にあるのかもしれない。
そのことは、久留米の高良神社の初代宮司が「日下部氏」であり、久留米の高良神社の祭神である高良玉垂が「武内宿禰」であることとも関係がありそうだ。
ところで6世紀のはじめ、中央の大和政権に対抗するように起きた「磐井の乱」とは何だったのか。
527年、近江毛野が軍6万人を率い、任那に渡って新羅に奪われた南加羅・喙己呑(とくことん)を再興して任那を合併しようとした。
これに対して、筑紫君磐井が反逆を謀って実行する時をうかがっていると、それを知った新羅から賄賂とともに毛野の軍勢阻止を勧められた。
そこで磐井は「火国」(のちの肥前国・肥後国)と「豊国」(のちの豊前国・豊後国)を抑えて海路を遮断し、また高句麗・百済・新羅・任那の朝貢船を誘致した。そしてついに毛野軍と戦いになり、その渡航を遮ったという。
528年、磐井は筑紫御井郡において、朝廷から征討のため派遣された物部麁鹿火の軍と交戦したが、激しい戦いの末に麁鹿火に斬られた。
そこで同年12月、磐井の子の筑紫君葛子は死罪を免れるため糟屋屯倉(福岡市東区および糟屋)を朝廷に献じたという。
ここで重要なことは、『日本書紀』に磐井の最後は「豊の国」に逃げ込んだと記述されている。
また、磐井の一族である「石井源太夫」は鳥羽の宿禰の末裔で石井の地頭であったが、後に「うきは郡の吉井」に転居しており、今も石井を名乗る子孫がいる。
さて、筑後川流域の装飾古墳には、「わらびて紋」というものが画かれているのだが、実はこの文様がダンワラ古墳(日田市日高町)出土の「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)と鉄帯鉤に画かれている。
この「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」は、中国王朝のもので日田最高の宝物であり、国指定重要文化財に指定されている。
この「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」は1964年から東京国立博物館に、またここ数年は九州国立博物館で保管されている。
その文様を知る日下部氏が、「浮羽~八女」という筑後川下流域の日ノ岡古墳、重定古墳、珍敷塚古墳、丸山塚古墳、乗場古墳、鹿毛塚古墳、田代太田古墳といった古墳群に描かれた「わらびて紋」を伝えて行ったのではないかという推測がなりたつ。

「魏志倭人伝」にある朝鮮帯方郡から邪馬台国への行程について、福岡にあった伊都国までは具体的で詳細であるにもかかわらす、それ以降は「水行10日陸行1月」などと、それまでの「○○より東200里」などといった記述に比べ、極端に「大雑把」になっている。
つまり「伊都国」以降は不確かな伝聞や推定に基づくものであるとして、学者たちは方角や距離が間違っていると、それぞれ「畿内説」「九州説」を唱えている。
しかし、原文(の訳文)を実際に読むと、「魏志倭人伝」の著者は、邪馬台国の「位置」を意図的にボカシたのではないか、という気さえしてくる。
少なくとも、まともに「邪馬台国」に至る道を伝える気持ちを放棄しているようにも思えるのだが、それはドウシテだろうか。
さて、日本にはいくつか金山があり、古代はそれを外部には「秘密」にしていた。古代から金銀を採掘していたことが明らかなのは出雲だけである。
実は、古代の日田は、現在の日田郡とほぼ同じ範囲となっていて、この地域には金鉱脈が多数あった。
特に福岡県との県境に沿った地域には、日田郡南部金山地帯が存在し、日田郡に存在したとわかっている金山は17も存在しているのである。
なかでも「鯛生(たいお)金山」を中心とした金鉱山の昭和初期における金産出量は東洋一であった。
そして注目したいことは、金鉱山のある「津江地域」には、古代から多数の村が存在していたようで、豊西記・矢野家伝には神武天皇(紀元前711年)の時代の「津江の老松」の伝承が残っている。
こうした多数の村の存在は、砂金の採取や金の採掘を意味するのではなかろうか。
「鯛生金山」の発見は公式には1897年の明治時代ということになっているが、古代において日田一帯に「砂金」が流れていたことは確実で、日田は単なる「交通の要衝」というだけでは済まない場所であったにちがいない。
日田の「砂金」情報が、古代においてどの程度広がっていたかであるが、ここで注目したいことは日田地方と北九州の関係である。
大分県日田や玖珠は豊後とはいいながら、筑後川によって八女、矢部地区といった有明海勢力と深く関わり、「装飾古墳」が多い。
筑後川は日田から「三隈川」と名前を変え、さらに玖珠で「玖珠川」となる。玖珠川には支流が宇佐方面から流れ込み、日田では、王塚古墳のある「遠賀川文化」も流れ込んでくる。
つまり、日田は川を通じて海洋民との繋がりがある場所であった。
そこで注目したいのが、宗像と大分県宇佐との深い繋がりであり、日田はその経路に位置するといってよい。
さて、北九州の宗像地方に人が住み始めたのは約3万年前の旧石器時代と言われ、弥生時代には釣川沿いに広がる肥沃な平野では、多くの人々が定住していた。
古代から海上ルートの拠点であった宗像地域は、「海のシルクロード」と言われていた。
古代より「道の神様」として信仰された「宗像大社」の名は、日本書紀にも記され、遠く大陸に渡った遣唐使なども航海安全のために必ず参拝をしていた。
ところで、近年あったNHK「世界遺産~沖ノ島」という番組で、古代海人族「宗像(胸形)氏」が、実は大海人皇子(天武天皇)と深い関わりがあることを知った。
その「繋がり」を暗示する文字「瀛」が宗像三神のひとつがまつられている沖津宮でみつかった。
実は、天武天皇の皇子当時の名は「大海人皇子」(おおあまのみこ)だが、「天武天皇」という漢風諡号も、また「天渟中原”瀛”真人(あまのぬなはらおきのまひと)」という和風諡号も、正しくその「出自」を示しているという。
まずは、「武」は九州を出自とする天皇につけられ、大海人と「大」がつくのは、古来からの「海人族」を意味している。
「漢委奴国王」の金印が発見された志賀島(しかのしま)がある博多湾は、古代海人族の拠点で、「日本書紀」も彼ら海人族がヤマト政権以前から勢力を持っていたことを認識していたようだ。
海人族の先駆けであるが故に「大海人」と呼ばれるようになり、「大海人皇子」が九州の海人族に関わる出自であったことが推測できる。
そして大友皇子との戦い、「壬申の乱」の帰趨を決定的にしたのが、ナント宗像氏からの援軍だった。
実は大海人皇子の后こそ「宗像族」の后・尼子郎娘(あまこのいらつめ)であり、尼子郎女を通して宗像氏は瀬戸内海からを通って「援軍」にかけつけたのである。
そして海人族・胸形(宗像)王の地位は、「磐井の乱」以降九州王朝内で格段に向上し、やがて筑紫王家とも姻戚関係を結びようになり、640年頃には、胸形(宗像)系の「筑紫王」を輩出するに至る。
「大海人」という存在も、こうした筑紫王との関係で、九州で生まれたのではなかろうか。
古田武彦氏によれば、天武は「豊の国」出身という。
天智の死後、天武は自らの武力を動員して、天智の子の大友から天皇位を奪って、「皇位」を簒奪した。
豊の国の一宮「宇佐神宮」こそ、天武天皇の守護神的存在ではなかったか。
この点では、天武系(称徳天皇)を危機に陥れた道鏡事件つまり「宇佐神宮の信託」を思い起こす。
また、「壬申の乱」においては、大分君恵尺(おおきだのきみせさか)と稚臣(わかみ)という二人の「とねり」が大活躍している。
特に、恵尺は大海人皇子の吉野出挙兵するにあたり、当時まだ京に残っていた大津皇子と高市皇子を父大海人皇子に伊勢国で合流させたのである。
そして宗像と天武天皇の関係を最も有力な証拠となりうるのが、宮地嶽神社すぐ近くに存在する「宮地嶽古墳」である。
天武天皇(大海人皇子)の第一皇子、「壬申の乱」の将軍となって戦う高市皇子(たけちのみこ)であるが、「日本書紀」ではその母こそ「胸形君徳善(とくぜん)の女(むすめ)尼子娘(あまこのいらつめ)」であると記されている。
この「胸形君徳善」が、宮地嶽(みやじだけ)古墳の主であろうと推測されており、日本一の大きさを誇る巨石古墳と副葬品の豪華さは、明らかに「天皇陵」を示唆している。
ちなみに、「歴史は勝者によって書かれる」というが、天武天皇の子・舎人親王が「日本書紀」編纂の総裁を務めていたという事実を忘れてはならない。
宇佐八幡の祭神は応神天皇ということになっているが、社殿が三つ並んでいる真ん中が「宗像三神」になっているばかりではなく、宇佐神宮の宮司の宇佐氏は筑紫国の「宗像三女神」の子である菟狭津彦の後裔とされているからだ。
以上から、日本と大陸との海上ルートを握っていた北九州(宗像)と宇佐の関係、その経路に位置する「日田」の情報、ひいては「金山」の情報は、朝鮮半島や中国に伝わる可能性は大いにある。
個人的には「鯛生金山」という名前の中に、海洋民との関係が秘められているように思えてならない。
ところで金山情報が特別な秘密であることを示す戦国時代の遺跡が、山梨県甲州市塩山の「花魁(おいらん)淵」である。
武田家滅亡の直前に鶏冠山の隠し金山(黒川金山)は閉鎖された。抗夫の慰安の為に連れてこられた55人の花魁は、閉鎖に伴い「秘密保持」のために殺害されるに至る。
柳沢川の上に吊り宴台を設け、宴会と偽り遊女を舞わせている間に宴台を吊っていた藤づるを切り、宴台もろとも淵に落とすというものだった。
古代において金山や銀山の存在がで秘密とされたとしたらどうだろう。
仮に「邪馬台国」が、金山に近い場所に位置するならば、邪馬台国への行程は曖昧とならざるをえない。
これは、陳寿自身がそうしたというより、日本側の発信者(例えば、一大卒や宗像氏)がその情報をまともに伝えなかった可能性もある。
朝鮮と日本の豪族とのやりとりで「賄賂」が使われていたくらいだから、「金山情報→日本侵略」に繋がることもありうるからだ。
つまり陳寿が「三国志」において、邪馬台国へ至る経路をまともに記さなかった理由は、陳寿自身あるいは日本の情報元の「日田隠し」にあったのではないか。