景観喪失との戦い

飛行機の離発着時に見える風景には、期待の膨らみや名残惜しさなど様々な感情をよびこす。
特に海外旅行の場合はそうで、村上春樹の「ノルウエーの森」の冒頭にもそうした浮揚感が描かれていた。
あれはドイツのハンブルクへ空港への着陸の場面だったが、ヒースロー空港を離陸してみえる美しい英国の田園風景は、「ダウントン・アビー」の貴族の館やガーデンの風景と重なるものがある。
あのような風景はいかにして遺ったのか。または、どんな意識がそれらの風景を生み出したのか。
最近、英国の自然景勝地と歴史的建造物を市民の力で守る「英国ナショナル・トラスト」の存在が大きいことを知った。
日本の場合、政治家や行政と結びついて押し寄せてくる開発の波に対して、「景観」にたいする住民の意識の高さとよほどの覚悟がなければ景観が失われていくのがほとんどの場合である。
ナショナルトラストとは、国民のために、国民自身の手で大切な自然環境という資産を寄付や買い取りなどで入手し、守っていくのがその基本理念である。
19世紀の英国、産業革命とともに急速に自然が失われるなか、3人の市民による「ナショナル・トラスト」の発案からはじまった。
ロンドンのスラム街での住宅改良運動で成功を収めた女性、環境保護団体での実績のある弁護士、そして湖水地方の鉄道建設反対運動の指導者だった3人。
彼らによって1895年に非営利団体として「英国ナショナル・トラスト」が設立されると、多くの人々から寄付が集まるようになり、「ピーター・ラビット」の生みの親でもあるビアトリクスポターもそのうちの一人であった。
彼女は、湖水地方の美しい風景を守るために1700haを超える土地を買い取り、「英国ナショナル・トラスト」に寄付をし、その維持管理をゆだねたのである。
英国トラストの実績の一部を紹介すると、湖水地方(ピーター・ラビットの舞台)、ヒル・トップ (ピーター・ラビットの作者が晩年を過ごした2階建ての家)、レッド・ハウス(アーツ・アンド・クラフツ運動発祥の地)、メンディプス (ジョン・レノンの子供時代の家)などがある。
世界ではじめてボーイスカウトを創始したのはイギリスのベーテン・パウエル卿で、彼は、イギリス陸軍の軍人でインドや南アフリカの戦争で活躍した「英雄」である。
当時イギリスの青少年の自堕落な姿に大きな不安を感じたパウエル卿は、戦争で体験した自然の中での自発的な活動が青少年年の育成に大きな可能性を開くものであると確信した。
そして1907年に「ブラウンシー島」という無人島で20人の少年達と実験的なキャンプを行ない、その体験を元に「スカウティング・フォア・ボーイズ」という本を書いた。
この本に書かれた野外活動の素晴らしさは世界の人々の心をうち、またたくまに「ボーイスカウト運動」として世界に伝播していった。
そしてパウエル卿がボーイスカウトの宣伝のため各国を遊説し、たまたま東京を訪問していた時に「白虎隊」の話を聞き深く感動し、1920年に34ヶ国が参加したボーイスカウト第1回大会がロンドン郊外で開催された時、ボーイスカウトの精神に「日本の武士道精神」を取りいれたことを明らかにしている。
実はパウエル卿はケンジントン公園の近く住んでいたのであるが、この公園はジェームズ=バリという人物が「ピーターパン」の構想をえた場所としても有名である。
パウエル卿は、たまたまこの公園近くに住んでいるというだけではなく、自分の息子にピーターという名をつけるほどの「ピーターパン」の愛好者であった。
ということは、「ボ-イスカウト精神」とは、ピータンパンと白虎隊の融合によって生まれたということにもなる。
このブラウンシー島の保全にもあたった「英国ナショナル・トラスト」は現在、会員数420万人という世界でも最大級の環境保全団体である。

古都・鎌倉における鶴岡八幡宮の背後の山と谷が、「御谷(おやつ)」と呼ばれる森である。
鎌倉一帯では「谷」のことを「やつ」・「やと」などといい、この地は八幡宮寺の塔頭が25坊あった聖地として「御」をつけて呼ばれ。
御谷の北正面の山は千五百年前から「さん踞峰(さんこほう)」という霊地で、古くからの修行の場であった。
また、八幡宮は明治以前「八幡宮寺」として寺院も兼ね、谷一帯には僧坊が建ち並んでいた所、「二十五坊跡」という史跡であり、歴史的・学術的に貴重な場所である。
1960年代の高度経済成長期、各地でさまざまな開発計画がたてられ、多くの自然豊かな場所がその対象となった。
1964年、この地に宅地造成の話が持ち上がり、これに反対する地元住民の運動は、鎌倉市民から文化人、やがて全国へと広まり、後に「御谷騒動」と呼ばれた。
そして、同年12月に(財)鎌倉風致保存会が設立され、全国からの寄付と市からの援助金あわせて1500万円で御谷 1.5haを買いとった。
1966年にはこの運動が契機となり、「古都保存法」が制定された。こうしたことから御谷は「日本のナショナル・トラスト発祥の地」及び、「古都保存法発祥の地」といわれている。
というわけでオリンピック開催の年1964年は、日本の「景観保護」においても画期となる年だが、ここに至るまでにも多くの風景が消えた。
特に、オリンピックに向けて整備された首都高速道の下を通る東海道の起点・日本橋の風景はなんとも無残である。
現在、山手通りと井の頭通りが交差するあたりの小田急線代々木八幡駅近くに「春の小川」の石碑がたっている。
明治末から大正にかけて渋谷では大水害が続いたため、河川改修への住民の強い要望が寄せられた。そのため、昭和初期に河川改修事業が実施されて、このような姿になったという。
大きな治水効果を発揮したものの、同時に住民を川から遠ざけることにもなり、1964年開催の東京オリンピックが契機となって、都内14河川の全部または一部の「暗渠」化が決定された。
東京オリンピックにむけて急ピッチで工事が進められたが、川に蓋をしたのは日本だけではなく、「暗渠化」は、20世紀・経済活動優先の「象徴的行為」といってよい。
こうした「臭いものに蓋」をするかのような「都市河川の地下化」が、現在の乾ききった、ヒートアイランド現象に苦しむ東京に繋がっている。
ところで、「春の小川」は1912年につくられた文部省唱歌で、作詞の高野辰之氏は、渋谷の代々木に暮らし、渋谷川の支川・河骨川の景色を詠みこんだ。
しかし今や、渋谷駅から上流は蓋をされて暗渠となり、下流では開渠ではあるものの、深く掘りこまれたコンクリートの三面張り水路となっている。
童謡「春の小川」をコンサ-トで必ず歌うロック歌手がいる。
加瀬竜哉は、小さい頃、宇田川という河の側に住んだが、川の存在を知らなかった。
この行為は大人たちの愛、つまり後年自分達が安全に清潔に生きるための選択だったに違いない。
それでも、自分が川の上にいて生きていることを知ってショックをうけた。知らなかったことが「無念」だと思った。
人は何かを得るために何かを犠牲にしていることを思い、加瀬は東京中の暗渠を訪ね歩くことになる。
そして町の表には出てこない川の暗渠を探しだし、見つけては(フタ)をあけてはいりこみ、誰もいない暗がりで「春の小川」を歌う。
加瀬にとって「春の小川」こそロック魂の原点なのだそうだ。

1987年に「総合保養地域整備法」いわゆる「リゾ-ト法」が制定された。
多くの人々が多様な余暇活動が楽しめる場を、民間事業者の能力の活用に重点をおきつつ、総合的に整備することを目指して制定された法律である。
カネ余りと内需振興の掛け声により、各地方が民間企業と組んでリゾート開発を計画し、41道府県の42地域が国の承認を受けた。
しかし、その後のバブル崩壊等もあり、そのほとんどが頓挫し、また、「大規模年金保養基地(グリーンピア)」等の公共リゾート等の失敗もあいまって、リゾート開発の時代は虚しくも終焉を迎えた。
建設途中の施設が廃屋と化し、残骸のように朽ち落ちた観覧車などを見るにつけ、リゾ-ト造りの発想の貧困さをみた感じがする。
ホテルを建て、どこもここもゴルフ場と他のスポ-ツ施設をつくり、ちょっとした遊園地をセットにして、人々を呼び込もうとしたわけで、実際に同法の適用を受けたのは、ゴルフ場、スキー場、マリーナなどである。
つまり、大切な余暇や保養の追求ではなく、誰かに金儲けさせようという発想が透けてみえる。
「計画の段階」でこういう施設を作ること自体が適用をうける条件であったのかという気さえしてくる。
ちなみに英語の「リゾート」という言葉は、なかなか奥が深い言葉である。
リゾートは「頻繁に通う」とか何らかの「手段で訴える」という意味さえあるのだ。
1980年代のバブル景気の時代は、大きな余暇需要をまとめて満たすために、何かを意図的に作り出す他はなかったのかもしれないが、そこにいけば必ず心安らぎ、何度でもいきたくなる「百年リゾ-ト」の発想が必要ではなかろうか。
その点での成功例の一つが大分県の「湯布院」である。それは、同じ大分でも別府の歓楽街の繁栄ぶりとは全く対照的な道を選んで勝ち取った人気といってよい。
1970年代まで、湯布院は全く無名で、町ごとダムに沈め、補償金をもらう計画まで役場や議会で検討されていた時期さえあった。
週末でさえ客のない日が続き、夢想園の主人は宿を閉めようと仲間に相談しつつ、いいアイデアを求めて図書館に通った。
そして日比谷公園など全国各地に近代公園を作った本多静六博士の「講演記録」を見つけた。
その中に、由布院は歓楽型の温泉地になるのではなく、ドイツのバーデン・バイラーという保養型の温泉地になるように努力せよと書いてあった。
湯布院の町おこしを願う三人の若者は、岩男町長に訴え、ドイツの温泉地を視察に行った。
バーデン・バイラーでは、湯布院に似た緑の豊かな温泉地だった。そこで出会った ホテルのオーナーのグラテヴォル氏は「農村の緑と静けさが大事」「まちづ くりには100年が必要だ」と説いた。
そして、グラテヴォル氏は三人に「町にとって最も大切なものは、緑と、空間と、そして静けさだ。その大切なものをつくり、育て、守るために、君たちはどれほどの努力をしているのか」と詰問するように問い、三人は黙り込むほかはなかった。
こうしてヨーロッパを見て回った三人が帰国し、全国の温泉地が高層ホテルにネオンを灯し団体客を奪い合っていた時代にあって、頑なに静かな田舎の佇まいを守り続けることにしたのである。
その湯布院にとって最大の危機はバブルであった。バブル経済で一攫千金をねらう開発業者と銀行が町に殺到し、田んぼの値は1反1億円に急上昇した。
なんと町の世帯数に迫る3000人規模のリゾートマンションが計画された。
札束を農家の目の前に積み上げ農地を買い取りリゾートマンションを計画する業者が、町に開発許可を求めた。
町職員は、農家や町の人々と湯布院の町を守っていこうとよびかけるが、難敵が甘い誘惑をエサに次々やってくる。
住民達は、この由布岳の見える美しい緑と空間と静けさを壊してはいけない。ビル乱立で町が壊滅する前に開発阻止の条例を作るしかない。
高さは五階以下に制限しよう、そのためには周辺の住民の同意を必要としようと動いた。
しかし、役場の担当係長は突然建設省に呼び出され、若手官僚に「高さを五階以下に制限する条例案は法律より厳しく、認められない。同意を求めるのは国の通達違反だ」と指導された。
条例は廃案の危機を迎えたが、町役場の係長は町の命運をかけて、再び国との交渉に挑んだ。
そして、出席した官僚に熱っぽくこの湯布院を守りたいと語り、なんとか智恵を貸してくれるようにお願いした。
すると、若手官僚たちは一緒に「条例案」を考えてくれた。
官僚の一人が「五階建て以下」を条例ではなく「指導要領」で記載すれば、法律には違反しない。
また、「同意」を「理解」とすれは通達には違反しない、などといった裏の手を教えてくれた。
こうして多くの町が林立するリゾートマンションの荒波にもまれるさなか、湯布院の田舎のたたづまいは守られ、無名の農村が日本中の人々が憧れる保養地へと変貌していったのである。
また、町のシンボルが、いかに人々を励まし一体感を与えるかを教えてくれるのが、大阪住民による「通天閣の再興」の物語である。
「通天閣」は明治45年に「東洋一のタワー」として建設され、大阪のシンボルとなったが、戦時中に一度焼失したことがある。
1956年にこの塔を再建したのは、行政でも企業でもなく、古着屋、写真屋、ウナギ屋など、地元・新世界の商店主たちだった。
戦後、焼け野原だった大阪・新世界に、闇市が生まれたが、集まったのは、裸一貫同然の男たちで、意地としたたかさだけで、焼け跡を生き抜いていたのだが、「何かしれぬ」喪失感から逃れられない。
それは、「通天閣の建つ大阪」の姿であった。通天閣の再建は、新世界の復興をかけた人々の願いだったの である。
復員して麻雀屋を始めた男性は、父親から「焼失した通天閣を再建したい」という夢を託された。そして父親が作らせた原図をもとに、7人の商店主が立ち上がった。
その挑戦は、素人ならではの大胆なもの。公園を勝手に用地に選び、口八丁で市の許可をとり、設計者には、日本一の大御所・内藤多仲を口説いた。
「もし再建できたらうどんで首をつったる」とあざ笑う街の人々を説得し、資金を集めた。
そして、焼け跡から立ち上がった庶民の意地と執念によって、大阪のシンボルとなる塔が再び建ち上がったのである。
さて、冒頭で述べたナショナル・トラストの趣旨は、単なる環境保護ではなく、歴史的建造物や景勝地を国民の遺産として保持することで、愛国心や国民の一体感といった「ナショナル・アイデンティティ」を形成・強化することを意義としている。
背景には、他のヨーロッパ諸国でのナショナリズムの高まりに比して大英帝国では国内統合が進んでいないという知的エリート層の危機感があった。
現在、日本には明治以来の開発で失われた歴史建造物を集めたような場所がある。
例えば、愛知県の「明治村」では、 旧帝国ホテルの玄関や夏目漱石や幸田露伴の邸宅などが保存してある。
また小田急沿線の「よみうりランド」には、正力松太郎の尽力によって、重要文化財が集められ保存してある。我が福岡関連でいえば、大阪にあった黒田藩の藩邸の門が、この「よみうりランド」に移されていた。
この「黒田門」はなかなか重厚な門なのだが、ランド内の高級銭湯の「目隠し的」存在になってしまっているのには、少々閉口した。
歴史文化財の集積保護は有り難いが、本来あった処にあってこそ、本来の価値を発揮するものだ。
景観や町の歴史遺産を軽んじては、人の心を荒ませ、生きる力を凋ませることにもなる。