ミステリアス福岡

本州の最西端に位置する山口県下関市。 市街と橋でつながる彦島という島には、文字や絵が刻まれた岩石「ペトログリフ」が存在する。
「ペトログラフ」とは、岩石や洞窟内部の壁面に、文字や絵が刻まれた彫刻のこと。
日本の文字文化の発祥ではないかと噂される「ペトログリフ」があるのは、島の産土神、総鎮守とあがめられてきた「彦島八幡宮」。
彦島八幡宮が鎮座する丘陵一帯は、縄文時代の石器や土器などの遺物が出土。古くから人が住んでいた痕跡が残り、「宮の原遺跡」とも呼ばれている。
ただ、研究者らが調べたところ、およそ3200年前に書かれた「シュメール文字」だといい、内容も解読されたという。
彦島は、平家と源氏が戦った「壇ノ浦の戦い」で、平家が最後の陣を敷いた島としても有名。
また、江戸時代初期に、剣豪の宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った「巌流島」も、すぐそばに浮かぶ。
彦島が平家と縁があるならば、思い浮かべる場所がある。平家の落人が逃れた先の筑後川には、福岡県吉井町の珍塚古墳にエジプトのピラミッドの図とほぼそっくりの「女官の船遊び」の絵が描かれている。
彦島と等しく古代の謎を秘めた島といえば、福岡県新宮沖7.3キロの位置に浮かぶ相島(あいのしま)。
相島は、江戸時代に朝鮮使節を接待した島として知られる。
16C豊臣秀吉の朝鮮出兵によって著しく傷ついた日朝関係を、徳川将軍家はなんとか回復しようと、「朝鮮通信使」を江戸に招くことにした。
朝鮮通信使は、徳川の代替わりのたびに、祝賀の目的で李王朝から国書(信書)をもって訪日し、徳川将軍の返書を持ち帰った使者である。
各藩が接待をバトンタッチしながら江戸に向かうのだが、福岡県相島は全国で唯一「朝鮮通信使」を接待した島であり、江戸時代を通じて12回、往復で24回の朝鮮通信使を受け入れている。
「黒田家文書」によれば、棟数にして40ぐらいで、畳数931畳分を新調したという。
客館の敷地は全体で野球のグラウンドの面積にも匹敵するほどの大きさを占めるが「常設」といわけではない。
それは10~20年に1度の大イベントである「朝鮮通信使」のための接待所だったから、通信使の帰国後は解体し、西公園に近い伊崎の庫に収められたという。
実はこの相島にはミステリアスな一面がある。
島の東側の長遠な「積石塚群」は、大人から幼児までの日本で二番めの規模をもつ。不自由な足場を歩くうちに、個人的に「賽の河原」という言葉が思い浮かんだ。
相島の「神宮寺」の文書に、1947年に農民達、渡海してこの島を開拓したという記録があるが、「石塚群」の存在はそれ以前にこの島に住んでいた人々がいたことを物語る。
彼らは、安曇族や宗像族というのが有力説であるが、なぜこの小さな島にこれだけの規模の石塚群があるのか、「謎」である。
しかし相島でそれ以上に不可解な事実は、毎回500人を超える異装の朝鮮人来島という大イベントにつき、伝承や口承などがほとんど残っていないという事実である。
2006年、山口岩国の客館において、相島の地図が見つかり、客館の位置が明確に示されており、また発掘によっても裏づけがとれ、ようやく「客館」が波止に近いあたりと確定したほどだ。
この地図は、第10次の通信使一行が来日の1748年に、通信使の接待の方法を視察に来た岩国藩の藩士が描いたものであった。

「舟を編む」という作品で本屋大賞に輝いた直木賞作家「三浦しをん」の父親は、国文学者(上代文学)で千葉大学の三浦佑之名誉教授である。
三浦教授は近年、志賀島で発見された「金印」が偽造であるという「研究成果」を発表された。
興味深く思ったのは、福岡市内にあった二つの藩校の「競争」からなされたという大胆な推論にある。
実は、福岡藩は、発見された「金印」につき二つの藩校それぞれの儒者に鑑定させている。
修猷館の儒者達が出した結論は、漢の光武帝から垂仁天皇に送られた印であり、安徳天皇が壇ノ浦に沈んだ後に、志賀島へ流れ着いたものであろうというものだった。
一方、甘棠館の鑑定書は「漢籍」をしっかりと照合したもので、これによって館長・亀井南冥の評価は一躍高まった。
だが、亀井南冥が教授する「徂徠学」は、幕府に批判的立場をとったため次第に「危険思想」とみなされ、亀井南冥の学派も藩により禁じられる。
そして南冥は晩年、大宰府で不遇の時を過ごす。太宰府の都府楼跡の広場の中心に、亀井南冥書の「石碑」が建っているのは、そのためである。
その後、亀井南冥は、1814年に甘棠館とともに自宅が焼失して、焼死という壮絶な死をとげている。
その後、甘棠館の再興はなされず、「廃校」となるのである。
ところで、「漢委奴国王印」が志賀島の畑の中で発見されたことを学校ではあたりまえのように教えているが、よく考えてみると実に不可解な出来事である。
実際に志賀島の発見場所といわれる「金印公園」に行ってみれば、そういう気持ちがいや増すにちがいない。
発見の状況は、当時甚兵衛が那珂郡役所奉行「津田源次郎」に宛てでさしだ出した「口上書」に残されている。
1784年、志賀島の叶崎(かなのさき)というところで「甚兵衛」という百姓が畑を耕していたところ、石に挟まれるように「金印」が置かれていたという。
しかし、石碑に「金印が光を発した處」と彫られているあたり、海に面した山腹に位置し、とても水田などが営まれる場所ではない。
前述のとおり、金印を鑑定した甘棠館の館長・亀井南冥は「後漢書」東夷伝にある「漢印」そのものであることを説き、「金印弁」という書物を著わした。
そして「金印」の重要性を訴えた南冥の努力により、「金印」は黒田藩庫に納められ、永く保存されることになる。
その後、江戸時代から現在に至るまで、多くの学者が「金印」の考証、研究をすすめてきたが、その中には「金印偽物説」が唱えられたこともあった。
ただ三浦教授の場合、金印の発見状況や周囲の人間関係から、「金印」の偽造説を新たな説として提示している。
三浦教授が最初に抱いた疑問は、この「発見」の口上書の内容と、金印が発見されてから役所に口上書を提出するのに、なぜ20日以上も要したのかという点である。
三浦教授は、「金印」の発見者の周辺の「人間関係」を調べ、次のようなことがわかった。
金印の「発見者」甚兵衛の兄の喜兵衛が以前奉公していたのが福岡の酒造業6代目の豪商・米屋才蔵であり、才蔵は亀井南冥と旧知の関係にあったこと。
そして、「口上書」が提出された那珂郡役所の奉行が津田源次郎であり、津田は亀井南冥と共通の学問上の知友であるという。
つまり、金印の発見者(甚兵衛)と、その発見の報告を受けた者(津田)と、金印の鑑定者(南冥)が繋がるのである。
三浦教授は、20日の間、金印は甚兵衛の手元にあったのではなく、亀井と「旧知」の仲であった米屋才蔵の手元に置かれていたと推理する。
つまり、金印発見から役所に提出されるのに、20日間の時間がかかったのは、この三者の間で何らかの「工作」が行われたという疑いである。
実は、金印発見の記録は甚兵衛の「口上書」だけではない。志賀島の寺の古記録には、天明4年の項に「二月二三日、小路町の秀治、田を耕し大石の下より金印を掘出す」とある。
また、金印公園の北東に当たる「勝馬」という所の某氏の蔵書に、「志賀島農民秀治・喜平自叶崎掘出」とあるという。
こうした資料から判断すると、実際の発見者は甚兵衛ではなく、「秀治」という名前の農民である。甚兵衛は田の持ち主であり、実際に田を耕していて金印を見つけたのは、甚兵衛の小作人だった「秀治」または「秀治と喜平」の二人だったかもしれない。
このことから、三浦教授は甚兵衛の「口上書」そのものに「作為」の可能性があることを指摘した。
さて、亀井南冥は金印を「鑑定」した後に、「金印」発見の情報を積極的に藩の外に流している。
ところがなぜか、ある時期を境に口をつぐんでしまったばかりではなく、息子の昭陽に対しても「口封じ」を命じたという。
福岡では藩校が同時に二校も開校するなどとは他藩には例のないことだが、三浦教授の推論は、両校の競合関係に着目している。
修猷館の館長に任命されたのは、福岡藩の歴代藩儒だった竹田家の第4代当主竹田定良であり、町医者出身の亀井南冥からすれば、「藩儒」としての位格は自分が劣っていると感じられたであろう。
そこで、亀井派の人々は、甘棠館の開校を祝福し南冥の株をあげるために何かをしようと計画した。
それが「後漢書」に記載された金印の偽造だったという推理である。
ただこの推理少々無理があるのは、米屋才蔵はともかく藩の治安を預かる奉行の津田順次郎は、計画が露見すれば、死罪にも匹敵する重罪刑を免れえず、そうしたリスクを犯してまで南冥の名を上げる計画に加担するとは考えにくい。
三浦教授の「金印偽造説」も決定的なものとはいえないが、金印発見にまつわる謎を、ふたつの藩校の競合関係から解明しようとした点で、「推理もの」としては実に面白い。 さすが流行作家の父親である。
そして甘棠館の開校から8年目の完成1793年7月、亀井南冥が藩命で「突然」官職を取り上げられ御役御免の処分を受けた。
従来、亀井南冥の学派「徂徠学」が、江戸幕府の正統学派「朱子学」と異なるため、不遇の晩年を過ごしたように解釈されてきたが、そこにもうひとつ「金印偽造」の疑いがつけ加えられるかもしれしれない。

数年間、空き家となっていた実家の押入れを整理していると「若宮三十六歌仙」という本がでてきた。
A4版の大きさの18枚(左・右36枚の絵の復刻版)がまとめられた艶やかな大型本である。作者は「岩佐又兵衛」という聞いたことのない名前だった。
「いったいコノ本、何っ?」という疑問を抱きつつ古本屋にもっていくと、今から30年前にこの本の「作者」が判明した時は、ちょっとしたセンセーションを巻き起こしたという。
作者の岩佐又兵衛を調べてみると、なんとNHK大河ドラマ「黒田官兵衛」の中で登場した荒木村重の子として、「絵が上手な子供」として登場している。
平安時代の半ばに、歌人の肖像画に、その歌人が詠んだ和歌を書き添えたものが盛んになり、室町時代末期ごろから、神社やお寺に扁額として奉納する風習が始まった。
その中でも、「三十六歌仙絵」といえば、似絵の名手・藤原信実(1176~1265)の作品が学校の教科書にのるほど有名で、傑出した歌人を尊称して「歌仙」と呼び、その姿を表す歌仙絵は信実以後も多くの絵師がてがけて名作を生みだしてきたのである。
福岡県・宮若市の若宮八幡宮にも「三十六歌仙絵」が、長い間所蔵され伝わっていた。
1960年から当時の若宮町役場の金庫に保管され、1985年の「鎮座八百年祭」のおりに初めて公開された。その時、その画風に注目した人物が、福岡市美術館学芸員中山喜朗氏に調査を依頼したところ、江戸時代初期の風俗画家・岩佐又兵衛勝以の作であることが判明した。
岩佐又兵衛の作と断定した理由は、「勝以」の丸印と「道薀」の角印が他の又兵衛の作品と一致していることと、ほほが豊かで、アゴが長いという「又兵衛特有の作風」が見られたからだという。
若宮本は1673年に京都で、ふたりの軽師によって「折本装」に仕立てられ、約190年後の1860年に「筑篠栗」(現在の福岡県糟屋郡篠栗町)の幸平という者が再度仕立て直したことがわかっている。
若宮本が、その後どのようなかたちで誰の手元にあったかについては、文献記録がない。
それにしても疑問なのは、戦国の摂津(兵庫)の荒木村重の子の絵が、福岡県の宮若市の若宮八幡宮にどうして収められていたのだろうか。
実は、昨年のNHKの大河ドラマ「黒田官兵衛」で印象的に描かれていたのが、荒木村重と黒田官兵衛の関係であり、そこに「謎」を解くヒントがあるのかもしれない。
摂津一国(大阪府北部)を治めていた有岡城の城主・荒木村重は、石山本願寺攻めなどで手柄を立て、織田信長から信頼を得ていた。
ところが1578年10月、織田信長に反旗を翻して毛利側へと寝返った。
風流人でもあった村重は、茶会を勝手に開くなど独自の動きをすることが多く、猜疑心の強い信長に敵視されるのは時間の問題と判断したのかもしれない。
ただ摂津で大きな影響力を持つ荒木が織田信長に反旗を翻すと、周辺の豪族も荒木に呼応するほかなく、摂津一国(大阪府)が毛利側に寝返った。
さすがの織田信長も荒木村重の「離叛」に驚き、「母親を人質に差し出せば、離叛は無かったことにする」という条件を出して説得にあたったが、荒木村重の意思は硬かった。
ついには、1578年10月、荒木説得のために、荒木と旧知の「黒田官兵衛」を有岡城に派遣するが、荒木は逆に官兵衛を「生け捕り」にして、牢屋に閉じ込めてしまう。
ところで、荒木に呼応して毛利方へ寝返った豪族の中には黒田官兵衛が最初に仕えた小寺政職がいる。小寺政職は、1517年赤松氏の重臣・小寺家に生まれ、祖父の代までは姫路城を本拠としていたが、政職の代には御着城に居を構えた。
小寺政職は黒田家に目をかけ、黒田家を「家老」に引き上げ、官兵衛も小寺を名乗り姫路城を与えられた。
官兵衛も父祖の後を継いで家老職に就任し、小寺政職は自分の姪にあたる光姫を嫁がせた。
そして、官兵衛と光姫との間に生まれた子が黒田長政である。
毛利方についた小寺政職は、荒木村重に姪婿の黒田(小寺)官兵衛を殺せと欲しいと依頼するものの、荒木村重は官兵衛の殺害までは出来ず、牢屋に閉じ込めたのである。
黒田官兵衛(小寺官兵衛)が33歳の出来事で幽閉されること1年、全身をシラミと蚊にくわれ、肉落ち骨枯れ、ついには左足が伸びなくなってしまう。
その間、織田信長はいつまでも帰らない官兵衛を荒木村重方についたと判断する。
そこで、人質として差し出されていた「松寿丸」の処分を申しつけたものの、松樹丸は殺されず隠匿された。この生き残った幼子が後の「黒田長政」に他ならない。
荒木村重も密かに有岡城を抜け出し毛利家へと向い、荒木の脱出から2ヶ月、有岡城は落城する。
その時、戸板に乗せられて救出された「黒田官兵衛」の姿があった。
ちなみに荒木村重の妻子・家臣らは信長の命令により処刑され悲惨な最期をとげている。
ところが、荒木一族の多くが処刑される中、乳母の機転で落城寸前に1人の「乳飲み子」が城を脱出する。その後、石山本願寺で匿われ母方の姓を名乗って生活した。この乳飲子こそが「岩佐又兵衛」で、京で暮らし「絵師」として活躍するようになる。
40歳くらいの時、越前福井藩に召し抱えられ、60歳の頃には三代将軍徳川家光に請われて江戸に出仕し、1650年に江戸で没している。
黒田長政といい岩佐又兵衛といい、動乱の中で隠されて密かに救出された点で共通した体験をもつ。
救出された幼子二人はそれぞれ、「福岡藩初代藩主」黒田長政と「浮世絵の元祖」岩佐又兵衛へと成長する。
岩佐又兵衛作「三十六歌仙」が福岡の若宮八幡宮に存在するのも、そうした縁(えにし)と関係するのだろうか。

福岡の若宮八幡宮に所蔵されることになる「若宮三十六歌仙」など多くの名作を残し、 さて相島について韓国側の「海游録」という本に朝鮮通信使の記録がある。
「御馳走は、壱岐より倍する。諸物すべて華美で景色のよいこと神仙境である」と。
第9次の朝鮮通信使の記録では、一行と案内役の対馬藩士を合わせれば、1200~1300人の集団となり、通信使一行の接待には、藩の膨大な費用と労力をかけている。
一行に提供する食材は、米・味噌・醤油・酢なお1人1日に渡す量が指示されていた。魚・豚・猪・鶏・キジ・山菜・野菜・果物・菓子など種類も豊富である。
食器や器などは一年前から準備したという。
また、通信使の方でも285日間の長旅で、その労苦も大変なものであったに違いない。
さて、通信使との交渉の窓口は対馬藩の宗家が一手に引き受け、釜山からやってきた李王朝の特使一行を宗家の役人が先導して江戸へのぼった。
通信史が江戸へむかう道中では沿道の大名が、それぞれその費用を負担した。
福岡の黒田藩、山口の毛利藩、広島の浅野藩、岡山の池田藩の順に、諸藩は幕府の手前、また他藩との対抗上、その接待には殊更に力をいれたようである。
またその行程には、通信使と沿道の日本人との「交流」を物語る「アリラン祭り」(下関)などの多くの祭りや痕跡が残っている。