それぞれのリベンジ

1962年、日本人で初めてヨット・マーメイド号で太平洋単独航海を果たしたのは、当時24才の堀江謙一であった。
しかし当時ヨットによる出国が認められておらず、この偉業も「密出国」、つまり法にふれるものとして非難が殺到し、堀江は当初「犯罪者扱い」すらされた。
対照的に、堀江を迎え入れたアメリカ側の対応は、興味深いものであった。
まず第一に、日本とアメリカの両方の法律を犯した堀江を不法入国者として強制送還するというような発想を、アメリカ側は絶対にしなかった。
その上サンフランシスコ市長は、「我々アメリカ人にしても、はじめは英国の法律を侵してアメリカにやってきたのではないか。その開拓精神は堀江と通ずるものがある」と是認した。
さらに「コロンブスもパスポートは省略した」とユーモアを混じえつつ、堀江を畏敬の念をもって遇しサンフランシスコの名誉市民として受け入れたのである。
そうすると、日本国内でのマスコミ及び国民の論調も、手のひらを返すように、堀江の「偉業」を称えるものとなった。
この堀江の「太平洋ひとりぼっち」(1962年)の顛末は、冒険に対する日米の考え方の違いや、日本人のお役所的発想や、今日のアメリカの「移民制限」などの動きとも絡めて、なかなか含蓄のあるエピソードであるように思う。
ところで、この堀江の快挙からおよそ30年後の1994年、「史上最年少」でヨット単独無寄港世界一周をなし遂げたのが、白石康次郎である。
白石は6歳で母を亡くし、父としばしば出かけた海にあこがれを抱くようになった。
そして「いつか、海の向こうに行ってみたい」と水産高校に進学したが、そんな白石はある日テレビの映像にクギヅケになった。
1983年に多田雄幸が単独で世界一周のヨットレースに参加し、優勝したことを伝えるニュースだった。
航海の厳しさを知る白石は、お酒を飲み、サックスを吹きながら愉快に世界を周った多田のレーススタイルにも衝撃を受けた。
白石はさっそく多田と電話で連絡をとり、あこがれの多田と会い、弟子にしてほしいと頼みこんだ。
多田は、白石のことを「目の色が違う。こいつならものになる」と直感し、すぐに受け入れた。
弟子入りがかなった白石は、その後2年ほど仙台、清水、伊東と住み込みヨット建造の仕事をし、修理技術を身に付けた。
その間、多田のヨットに乗り舵を持たせてもらう。
多田はどんな悪天候でもセーリングを楽しみ「自然に遊ばせてもらう」と口癖のように繰り返していた。
当時その言葉の意味を充分理解できなかったものの、白石にとってその言葉が冒険家としての目指すべき方向性を示しているように思えた。
多田は最初の優勝から7年後の1989年、スポンサーから多額の資金を得て、再び世界一周に挑戦した。
白石も、食糧や部品を届けヨットの修理をするサポートクルーとして港を転戦し、このレースに参加していた。
ところがレースは思いもよらない展開が待ち受けていた。
多田は、前回の好成績から周囲の期待が高まり、そのプレッシャーに苦しんでいた。
スピードを出すための改造が裏目に出て、ヨットは何度も横転した。
多田を寄港地シドニーで待ち受けていた白石は、いつもと違うやつれた師匠の様子に気がついた。
そして衝撃的なことが起こった。多田はシドニーでレースを棄権し、そればかりか自らの命を絶ってしまうのである。
その後白石は、多田のヨットを修理してシドニーから日本に回送し、なんとしても多田の船で世界一周に果たすというリベンジの思いにかられた。
多くの船大工の善意協力をうけてヨットを修復し、師匠・多田の「無念」を晴らすべくした出発したが、「故障」のため9日目に引き返した。
万全を期したはずの2度目の挑戦も、航行中に再び「不備」が見つかり寄港先で一体自分は何をやっているのかと失意のどん底に陥り、もう二度と日本に戻れないという気にさえなった。
そんな時、多田と交友のあった冒険家・植村直巳の妻・公子さんから励ましの電話があり、救われた思いで帰国を決意した。
そして10か月後、白石は師匠の教え「あるがままの自然を受け止める」という覚悟で3度目の出発をした。
すると、「横転」という初体験によって数分間死と向かい合い、自然の力には太刀打ちできない人の無力さを実感した。
今まで自然をネジフセようとする自分に気づき、初めて「自然を信じ 自然に遊ばせてもらう」という師の言葉の本当の意味がわかったような気がしたのだという。
白石は、この3度目の挑戦で当時の世界最年少記録26歳10か月で、単独ヨット無寄港世界一周を達成した。

日本が誇る新幹線の技術的ルーツは、太平洋戦争末期の特攻機「桜花」(おうか)にまで溯る。
かつて、阿川弘之(阿川佐和子の父)が「雲の墓標」(1956年)に描いたのは、この「桜花」に乗り込まんとした特攻隊の青年達の姿であった。
桜花は、機首部に大型の甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、目標付近まで母機で運んで切り離し、その後は搭乗員が誘導して目標に「体当たり」させるものだった。
母機からの切り離し後に火薬ロケットを作動させて加速し、ロケットの停止後は加速の勢いで滑空して敵の防空網を突破、敵艦に「体当たり」するよう設計されていた。
しかし航続距離が短く母機を目標に接近させなくてはならない欠点があったため、新型機ではモータージェットでの巡航に設計が変更されている。
この特攻機こそは、世界に類を見ない有人誘導式ミサイルで、「凶器」とも「狂器」ともよべる「人間爆弾」であった。
なお、連合国側からは日本語の「馬鹿」にちなんだBAKA BONB、すなわち「馬鹿爆弾」なるコードネームで呼ばれていたという。
「人間爆弾」の構想に対して、飛行部設計課の三木忠直技術少佐は「技術者としてこんなものは承服できない、恥だ」と強硬に反対したという。
しかし時は「平時」ではなく、それを作らせることを強いるだけの「切迫感」が漂っていた。
結局、「試作命令」が空技廠に下って、三木忠直技術少佐が設計を担当することになった。
風洞実験結果やら、空力計算書やら、基礎設計書など「基礎資料」を基にわずか一週間で基礎図面を書き上げ、さらにその一週間後には「1号機」を完成させた。
つまり、人命の保護さえ考慮にいれなければ「飛行機」とは案外と簡単につくれることを示している。
「特攻機」であるという性質上、着陸進入を考慮した翼型ではなく、ただの平板の尾翼を持つなど、高速で飛行し「ある程度操舵ができる」程度にしか設計されていない。
「桜花」は帰ってくるための補助車輪も燃料も積んでいない飛行機であり、技術者としては絶対に作りたくないモノであった。
終戦後、三木は多くの兵士達を死なせてしまったことに対して、自責の念から逃れることができず、キリスト教の洗礼をうける。
三木は、戦争が終わった時まだ働き盛りの30代であったが、戦争責任問題でなかなか就職はできなかった。
それでも、これからは日本人の役に立つような「技術開発」に携わりたいという強い思いをもって仕事を探した。
そして、ようやくて国鉄の外郭団体である「国鉄鉄道技術研究所」に職を得ることができた。
三木は、その当時の気持ちを次のように語っている。
戦争はこりごりで、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたという。
当時の国鉄には、内部に正式の技術開発部門があり、国鉄鉄道技術研究所という機関は、当時の国鉄では「外様」のような存在でしかなかったのだ。
つまり研究所とは名ばかりで、不況で食えない技術者達を吸収する組織だったようである。
当時の国鉄は、発展する「航空旅客産業」の発展に対しても危機感を募らせていた。
確かに東京ー大阪間の列車7時間と、飛行機1時間30分では、勝負は目に見えているように思われた。
ところが、三木は逆にソコに「活路」を見出そうとしした。
三木らは「東京―大阪3時間への可能性」と銘打った一大プランを打ち出し、1958年7月、遂に国鉄総裁の前で、その実現可能性を力説した。
そして国鉄総裁は三木の情熱と確信に押されて「新幹線プロジェクト」にゴーサインを出すこととなったのである。
結局、新幹線開発には、三木らが生み出した「航空機」開発の技術が余すところ無く注入されることになった。
まず第一に空気抵抗の少ない流線型の車体が、粘土細工によって、幾度となく試作された。
この開発に当たって、三木の脳裏には自分が作った急降下爆撃機「銀河」の「流線型ボディ」が常にあったという。
また、世界最高水準の250キロを超える超高速走行には、車体の「揺れ」を防ぐ技術開発が必要であった。そのために、ゼロ戦の機体の揺れの制御技術を確立した技術者がまねかれた。
列車は一定の速度を超えれば、台車の「蛇行」(揺れの共振動)によって「制御不能」となって起きるというのが持論で、画期的な油圧式バネを考案し、「蛇行」運道を吸収する車輪の台車を完成した。
また、安全面を重視する時、電車が近づいた時や地震があった時など、安全装置が働いて「自動で停止する」ような仕組みが必要とされた。
これが「自動列車制御装置」(ATC)であるが、旧日本軍で「信号技術」を研究していた技術者が招かれて、この実験に取り組んでそれを完成した。
ところが三木はこのプロジェクトの完成によって、自分の持っている技術のすべては出し尽くしたと国鉄へ辞表の提出し、周囲を唖然とさせた。
この技術は、1964年10月東京オリンピックで世界中から集まった人々の賞賛を浴び、日本の科学技術の水準の高さを内外に示した。
また、新幹線における「事故による死者がゼロ」であることに、「桜花」設計者である三木忠直のリべンジの思いと祈りが込められているように思う。

昭和天皇が「狙撃」されたことがあるといったら、多くの人は驚くかもしれない。
ただしそれは皇太子時代のこと。銃弾はハズレたものの、車の窓ガラスを破って同乗していた侍従長が軽症を負っている。
この出来事を「虎ノ門事件」(1923年12月27日)という。
狙撃犯の難波大介は、その場で取り押さえらえれたのだが、この事件は数多くの人々の運命をも巻き込んだ。
当時の内閣総理大臣山本権兵衛は総辞職し、衆議院議員の父・難波作之進は報を受けるやただちに辞表を提出し、閉門の様式に従って自宅の門を青竹で結び家の一室に蟄居し、餓死した。
長兄は勤めていた鉱業会社を退職し、難波の出身地であった山口県の県知事に対して2ヶ月間の減俸がなされた。
驚くのは、途中難波が立ち寄った京都府の府知事は譴責処分となり、難波の郷里の全ての村々は正月行事を取り止め喪に服し、難波が卒業した小学校の校長と担任は教育責任を取り辞職したことである。
当然、警備責任を負っていた警視総監および現場の指揮官も「懲戒免官」となった。
ところで、一度狙撃された経験をもつ昭和天皇が21年から29年にかけ8年間にわたる「全国地方巡幸」の勇気は大変なものだったと思う。
国中をまわって戦争で多くを失った国民に声をかけ励まされたが、決死の覚悟がなければ、全国巡幸などできなかったに違いない。
1946年2月、クリスチャンの賀川豊彦が巡行の案内役を勤めた時ののこと、賀川が一番驚いたのは、上野駅から流れるようにして近づいてきた浮浪者の群れに、天皇が一人一人に挨拶をした時であった。
天皇は、親友に話すように近づき、「あなたは何処で戦災に逢われましたか、ここで不自由していませんか」と一人一人に聞いていったのである。
国民のフィーバーぶりに外国人特派員を中心に批判が起こり、天皇の政治権力の復活を危惧したGHQは、巡幸を1年間中止することにした。
このあと1949年に再開され、足かけ8年、1954年8月に残っていた北海道を巡幸して、1946年2月19日からの総日数165日、46都道府県、約3万3千キロの旅が終わる。
ただし、地上戦が展開され多大な犠牲者を出した沖縄は除かれたが、沖縄訪問(巡幸)は、昭和天皇終生の悲願であったようである。
ところで、「虎ノ門事件」に話を戻すが、虎ノ門事件における警備の「現場指揮官」だったのが、当時警視庁・警務部長の正力松太郎で「懲戒免官」となり、その後読売新聞社長におさまっている。
当時、読売新聞は左翼思想をもつ優秀な記者を多く抱えていた。
対する正力は、元警視庁幹部として彼らの「プロファイル」を知り尽くしていた。
彼らの弱みを握っていた立場でもあり、読売新聞の経営を次第に軌道にのせていった。
また正力は、アメリカの野球を習いに武者修行にでかけていた野球人を集めて「職業野球」を構想し「読売巨人軍」を創設する。
さて、昭和の歴史に刻まれた野球の試合といえば、1959年6月19日の巨人・阪神戦。この試合は、天皇ご臨席の「天覧試合」ということを抜きにしても、ドラマでも書けないような試合であった。
この時ロイヤルボックスには、天皇・皇后・女官2名、セ・パ両リーグ会長を含む20人の幹部たちがいた。その幹部たちの一人が正力松太郎であった。
巨人軍のオーナーでもある読売新聞社社主・正力松太郎は、野球人気を高めるためには天覧試合を開催することが提案し、1959年1月に交渉を開始するとすると、宮内庁は「球界全体の総意が必要」という意向を伝えた。
実はパ・リーグ側でも「天覧試合」実現に向ける動きがあったが、「巨人対阪神戦」に異を唱えることなく、実現するはこびとなった。
そして、6月25日に後楽園球場にて史上初の「天覧試合」が開催された。
その日、巨人の先発は藤田元司、阪神は小山正明。先制したのは阪神だが、その小山が、5回に長島・坂崎に連続ホームランを浴び1対2と逆転される。
藤田も落ち着かず、6回にタイムリーされ、藤本に勝ち越し2ランされ、阪神は4対2と再びリードする。
ところが、小山が7回に王に同点2ランされ、試合は振り出しに戻った。
。 そこへ新人投手の村山がマウンドに上り7、8回を抑え、9回裏先頭の長嶋茂雄に立ち向かった。
そして2ストライク2ボール、長嶋の打球が左翼スタンドに吸い込まれ、ドラマは終わった。
ちなみに、両陛下が野球観戦できる時間は21時15分までで、両陛下退席まで「残り3分」の劇的幕切れだった。
さてこの「天覧試合」は、「虎の門事件」からおよそ40年の時を経て、奇しくも昭和天皇と正力松太郎が時と所を同じくする場面でもあった。
そこに正力がなぜ史上初の「天覧試合」の実現に執念を燃やしたのかを、垣間見る思いがする。
昭和天皇を後楽園球場に導き、試合を心おきなく楽しんでもらえることこそ、「虎ノ門事件」で懲戒免官となった正力のリベンジの機会でもあったにちがない。