二つのストリート

サンフランシスコに「ロシアン・ヒル」と呼ばれる高級住宅地がある。ケーブルカーで坂を上がった所にあり、サンフランシスコ湾やゴールデンゲートブリッジを一望できる。
「ロシアン・ヒル」という名前は、この辺りにロシアの船乗りが埋葬されたことに由来しているという。
一等地なので多くの著名人が暮らしていると推測するが、自分が知る限りでは、経済学者のミルトン・フリードマンがここに居をかまえていた。
「ロシアンヒル」は花檀の中を蛇行しながら登る通りが名所となっているが、この通りを「ロンバートストリート」という。
フリードマンは2012年11月この通りが見える邸で94歳にて亡くなっているが、生まれたのはニューヨーク。両親は東欧から移民してきたユダヤ人であった。
1976年にノーベル経済学賞を受賞するが、80年代に彼が書いた「選択の自由」がベストセラーになり、その本に基づいてテレビ番組が作成され、日本でもシリーズで放映された。
フリードマン夫妻によって、その経済思想を分かり易く伝えた番組であったが、その冒頭は、「鉛筆の話」からはじまった。
「一本の鉛筆、実はそれを作る全ての工程と方法を知っている人は何処にもいない。木材、芯、消しゴム、金属、これらの原材料をどこの誰がどうやって作ったのか?そこには世界中の多数の人々や企業が、やがては鉛筆になることなど知る由もなく製造し販売した結果なのだ」。
そこには、中央指令なき調和の世界があり、かつて18世紀のアダム・スミスの説いた「予定調和」を表す立場だった。
実は、このアダムスミスの経済的主張は、1970年代までは色褪せた感があったのだが、それを蘇せたのが、フリードマンといってよい。
遡ること1930年代、ルーズベルト大統領は大恐慌を脱するために、イギリスのケインズの経済理論をもとに政府が積極的に市場に「介入」し、公共事業などを通して雇用を創出しようとした。
労働組合の団体交渉権を認めたり、失業保険制度を創設したり、テネシー川のダム開発などの大プロジェクトを実施したりした。
アメリカは、この成功をもって「ニューディール連合」と言われる政治的なグループが主導権を握り、1960年代半ばのジョンソン大統領の「偉大な社会プログラム」でそのピークに達する。
しかし、こうした左寄りの「ニューディール・リベラリズム」は、国家による経済や社会に対する「過剰な介入」を招くと批判する勢力が現れる。
その批判者の代表者が、ミルトン・フリードマンで、政府の経済への介入を批判し、市場主義や規制緩和を要求した。いわば「アダム・スミス」の現代版で、フリードマンはケインズ経済学の有力な批判者でもあった。
フリードマンは、「A Monetary History of the United States」(1963年刊)で、膨大な統計データを使って通貨と経済の関係を統計的に分析し、「通貨供給量とインフレ」の間に密接な関係があることを証明した。
それは、通貨供給量を増やして一時的に経済活動が活発になり成長率が高まっても、最終的(長期的)にはインフレ率を高めるだけ、(ケインズ的)経済政策は長期的には「効果がない」という驚くべき結果を証明したのである。
また、フリードマンの主張で注目されるのは、「大恐慌の原因」である。
フリードマンの主張によれば、大恐慌はFRBの政策の失敗によって引き起こされたもので、ケインズ経済学の裁量的(意図的)な政策に対する批判の有力な根拠となった。
裁量的な政策には、問題の「認知ラグ」「政策立案ラグ」「政策効果ラグ」など様々なラグ(時間の遅れ)が存在し、人間の「裁量」は、問題を収束するどころか市場を混乱させる結果となる。
そこでフリードマンは、金融政策は「一定の割合」で機械的に通貨を供給すべきであるという「X%ルール」を提示した。
それによって生まれる「予想形成」は経済を安定させるとして、今日のアベノミクスが導入した「インフレ・ターゲット論」の発想にも繋がっていくる
いずれにせよ、フリードマンは政府の市場介入や経済介入に対して批判的で、アダムスミスの「自由放任主義」を復活したことから「新自由主義」とよばれる。
「新自由主義」の思想はイギリスのサッチャー首相に影響を与え、さらにレーガン大統領にも大きな影響を与えた。
「規制緩和/民営化/小さな政府」など、いずれもフリードマンの経済思想から導き出されたものであった。

サンフランシスコの「ロンバートストリート」をアルカトラズ島を遠景に眺めながら湾側へ下ると、世界的観光地「フィシャーマンズ・ウォーフ」が人々で賑わっている。
また「ゴールデン・ゲート・パーク」内にあるジャパニーズ・ティー・ガーデンは、1894年に開催されたカリフォルニア国際博覧会のアトラクションとして建設され、その後恒久の庭園となった。
この庭園を運営していた萩原真という日本人が訪れた客に出した「煎餅」が「フォーチュンクッキー」の原型となっている。
実は、フリードマンの「終の棲家」となったロシアン・ヒルを登る「ロンバート・ストリート」の名は、イタリアの「ロンバルジア」に由来している。
「ロンバルジア」といえばファッションの都ミラノを含み、歴史的にはユダヤ人やフェニキア人などが住み着いた地域である。
実は、ロンドンのイングランド銀行は「シティ」という金融街に位置するが、もともとはイタリアのロンバルディアから移民してきた商人達がつくった商人の為の銀行で、その通りを「ロンバート・ストリート」といったのである。
サンフランシスコの通りにこの名がついたのは、イギリスのロンドンのシティ(金融街)に「ロンバートストリート」があり、アメリカのゴールドラッシュでサンフランシスコやってきた人々が、ダウンタウンの「ファイナンシャル・ディストリクト(金融街)」に通じる道を、ロンドンのシティの雰囲気と重ね「ロンバート・ストリート」と名づけたに違いない。
さて、経済学の世界でフリードマンが批判の矢を向けたJMケインズの住居は、イギリス・ケンブリッジの「ハーヴェイロード6番地」にあり、経済学における「ハーヴェイロードの前提」という言葉を生んだ。
それは、市場は不完全なので、賢者による経済政策が必要であることを説く立場で、エリートと一般の市民との判断力や情報の格差を前提とする思想である。
さて、ケインズの「有効需要の理論」は、経済学の世界で「マクロ経済学」の始まりであると同時に、政府による裁量的財政政策の理論的ベースを提供することになる。
またその理論的結論は、必然的に「大きな政府」(福祉国家)を各国で生んでいくことになる。
さて、ケインズの「有効需要の理論」の教科書的に説明すると次のとおりである。
我々は所得の多くを消費に回し、残りを貯蓄にまわす。この貯蓄の部分は「有効需要」からの「漏れ」であるが、この「漏れ」の部分が金融などを通じて「投資」に回れば、その所得はすべてその「有効需要」によって実現する。
しかし、ここで投資を決定するのは企業の収益(期待)率であるから、投資が貯蓄に一致する保証は何一つない。
そこで投資(需要)が貯蓄を上回れば「有効需要」が所得水準を上回り、「貯蓄=投資」となるまで所得が増える。
逆に投資が貯蓄に満たなければ、有効需要が所得に達せず、「貯蓄=投資」となるまで所得が縮小し、不完全雇用(失業)が生じる。
需要が主体となって経済水準(所得水準)が決定するという理論だが、以上の話は「経済の骨格」つまり実物部分の話であり、ケインズは「貨幣因子」つまり血液部分が原因で市場が十分に機能しないことを理論的に説いた。
投資需要も消費需要も、それが貨幣的な裏付けをもってはじめて「有効需要」となるため、「大不況」というのはこの「貨幣的な滞り」が原因で、金利低下が投資拡大へと向かわず「投資<貯蓄」状態が長引いて経済規模が縮小する状態である。
こうした大不況で金利が低い時には、債権より現金(流動性)のまま後生大切に保蔵しておこうとして、お金が増えても、金利がこれ以上に下がることはない。金利が下がらなければ、民間投資が増えることもない。
こうした極度な貨幣選好(流動性選好)がおきる時には、経済政策としては金融政策でいかに貨幣供給を増やしても、景気は回復しないことになる。
また、労働市場において、長期契約や組合との交渉などで、賃金による需給調整も、一般の商品市場のようには下がらず雇用回復に向かわない。
つまり、大不況では金利と賃金の市場機能が妨げられる。 このような事態に陥った場合には、政府自ら「国債」を発行して公共投資を行い、民間の投資不足を穴埋めして有効需要を増やすのである。
こうした処方箋が、アメリカの「ニューディール政策」に生かされたのである。
つまり、ケインズ政策は、「不況の処方箋」としての登場したのである。
国債を発行して金を集めてそれを公共事業に使えば、「乗数効果」により、投下した公共事業の何十倍の「有効需要」が創造され、それが不況脱出の力となるという、いわば「赤字財政」理論なのである。
しかしケインズ的経済政策が各国に広まると、「大きな政府」=赤字財政」が定着して行き詰まりを見せるようになる。
また、ケインズの理論はあくまで「需要が供給を生み出す」という短期理論であり、「供給が需要を生み出す」という長期的なダイナミズムの視点において、同時代の経済学者・シュムペンターのような視点を欠いている。
またケインズ経済学は歴史の産物であり、今日の時代にそのまま効果が持ちうるかという問題もある。
ケインズの時代は国際的に「金本位制」という体制がとられていた。
イギリスにやってきたロンバルディアの商人たちは、オレンジ公ウイリアムに巨額の融資をもちかけ、その見返りに「貨幣発行権」をえた。その商人たちの「足かせ」として金本位制は始まった。
金本位制下で「金」量に応じた通貨量しか発行できないので、イングランド銀行の貨幣発行を乱用させない仕組みなのである。
ただ、金本位制は、戦争になれば「足かせ」になるとしばしば停止された。ただイギリスは金本位制から離れると「金との交換」を保証できなくなりポンドが地位を失うというという矛盾した状況においこまれた。
この矛盾した立場を解決したのが、「ブロック経済圏」の形成である。
イギリスはポンド価値の低下を防ぐためにオセアニア・アフリカ・アジアにいたる広範な「スターリング・ブロック圏」を形成し、これらの国々では獲得した外貨をポンドに転換し、シティに預金した「ポンド預金」を国際決済に用いたため、ポンドの価値は維持され、しかも戦費をまかなうに足りるだけの価値が蓄積された。
その後、一旦は金本位制を復活させるが、アメリカ発の世界恐慌があり1931年に金本位制を再び停止した。これがイギリスにとって、金本位制との「永遠の別れ」となった。
ケインズがその著作により「有効需要の理論」を提示したのは、「ブロック経済時代」で、当時の経済では、資本移動が規制され、各国の投資家は自国の企業か自国植民地の企業に投資するしかなかった。輸出入も規制され、安い外国産の商品は自国にはいってこなかった。
このような「閉鎖経済」の下では、外からの影響が極小化し、政府や中央銀行の政策が「効きやすい」環境にあったということだ。
このことは、今日の「変動相場制・資本の移動・人の移動・情報の拡大」などを特徴とするグローバルの時代と対比するとわかりやすい。
ケインズ政策は、変動相場制では効きにくいのだ。
日本政府が内需を拡大しようと国債を発行し民間から資金を集めようとすると、金利があがる。日本で金利が上昇すればドルを円に変えようとする動きが強まり「円高」になり、それは輸出の減少をまねく。
その結果、有効需要(内需)創出効果は輸出減(=外需減)によって相殺され、結局残るのは国債発行による「国の借金」だけになということになる。
また、日本企業の世界に広がる「サプライ・チェーン」の存在もある。
ある一定の「内需増」が国内の中小企業に波及していけば、投資は何倍もの有効需要を創出するという「乗数効果」も作動するが、その需要(所得)が海外に逃げてしまっては、効果薄れてしまうからである。

JMケインズが生まれ育った「ハーヴェイロード」は、イギリスの知識階級が集まり議論をしていたところでもあり、ケインズの考え方も、知識階級の議論で生まれてきたものである。そこに「ハーヴェイロードの前提」という言葉が生まれた。
これは、少数の豊富な情報と判断力をもつ「中立な」賢人の存在を前提とする。こうした人々の意思決定をもって、政府の裁量的経済政策が真に効果を持ちうるというものである。
ケインズと対抗したフリ-ドマンは、「ハーヴェイロードの前提」に立たたず、政策における「人為性」を廃してルールや市場メカニズムくの方に信頼をおいた。
実際、「中立な賢者の存在」などという前提は現実離れしている。
フリードマンの立場を補強する「合理的期待形成学派」は、人々ひとりひとりは誤りを犯すにせよ、確率分布(期待値)として正しく経済値予測するならば、予想は完全に「織り込み済み」となり、エリート達が考え出した経済政策「効果」をもたなくなるという結論を導いた。
近年、経済格差を広げたという点で「市場万能主義」が批判の矢面に立った感があるが、その嚆矢はミルトン・フリードマンといってよい。
フリードマンは、貧しい「炭鉱夫」の子供として生まれ、奨学金をもらいつつシカゴ大学を卒業している。
市場というのは、金をいかに運用し利益を出すかという世界であり、身分や出生は関係なく「規制」さえなければ完全に自由で平等な世界である。
フリードマンは医療や教育など「生存権」が関わる分野においても極端な「市場主義」を唱えた。
一般的には「生存権」こそ「政府の介入」が必要な分野なのに、そこから歴史上差別(虐殺)された「ユダヤ人の記憶」を垣間見る思いがする。
ユダヤ人にとって「人為や裁量」に基づく政策は差別を意味することなのだ。
同じユダヤ人のマルクスが生んだのが「共産主義」だが、正反対のシステムのようにみえて共通点がある。
両者は、WASP(白人イギリス系プロテスタント)などの「既得権益」が確立している分野で、ユダヤ人がハジケだされずに生きていくためのシステムを構築しようとした点である。
共産主義と新自由主義の共通点は「平等」の視点があること。共産主義は、財産の共有化により「結果平等」を重視し、新自由主義は「機会均等」を追求している。
「機会の均等」は「規制緩和/自由化」による市場機能の活性化で、結果としての「不平等」をもたらすが、現代経済で「格差」を異常に広げて世界中にテロの種をまいているのは、金融的錬金術(金融工学)などによる「不当な」不平等なのではなかろうか。
ともあれ、フリードマンが住んだ通りがユダヤ系の多いイタリア移民にちなんだ「ロンバートストリート」で、ケインズが住んだ通りがエリートの集合地「ハーヴェイロード」。
それぞれが居をかまえた「ストリート名」が、「人と思想」の由来を伝えているのが面白い。

また、人為的裁量的政策よりも、「X%」ルールを重視する点も、人的介入のない「市場メカニズム」を志向する点、いずれも同じ背景からであろう。
西欧支配層は、フェニキア発→ヴェネツィアの黒い貴族(セム交易部族)と青い目のゲルマン王族が婚姻を通じて合体したもの。
黒い貴族の下にユダヤと海賊がいる。黒い貴族はヴェルフ家→ドイツ貴族ヘッセン家と連なる。ロスチャイルドは、ゲットー生まれのヘッセン家の下僕にすぎない。
17〜18世紀の欧州を舞台に繰り広げられた覇権闘争を紐解いていくと、「カトリック(イエズス会)」と「プロテスタント」の確執に端を発した旧教側大貴族と新教側大貴族との暗闘劇という構図が浮かび上がってきます。
18世紀の後半(1773年)、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが古銭収集の趣味を通じて、ヘッセン家という貴族の金庫番になった話はよく知られています。
ヘッセン家っていったいどういう貴族なのでしょうか。
ドイツ=オーストリア統合(支配)して大ドイツ帝国を目指す神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)に対抗してドイツ周辺の王族を統一して「新王国」建設を企てたのがヘッセン家という大貴族です。
もともとヘッセン=カッセル方伯フリードリッヒ二世(五五歳)は、国教グレイトブリテンのジョージ三世(三七歳)や旧教オーストリアの女帝マリアテレジア(五七歳)と協調し、ルター派とカルヴァン派を繋ぐ新教君主として、ハノーヴァーやプロシア、ザクセン=ヴァイマール、ヴュルテンブルク、バィエルンなどを統一し、ドイツに反動的な絶対王政の「千年王国」を建設することを妄想していました。
ヘッセン=カッセル方伯フリードリッヒ二世らは、一七七七年、かつての騎士団を統合した結社「聖堂騎士団」を乗っ取ってしまいます。 フリードリッヒ方伯の次なる野望は、 ヨーロッパメイソンの統一支配でした。
「ヘッセン家の最大の収入源は傭兵産業」で、13世紀頃から勢力を拡大しドイツ中部に広大な領土を持つヘッセン家の閨閥はヨーロッパ全土の国王とつながっています。
そのころ、新大陸へ渡った反グレートブリテン派のメイソンは英仏新大陸戦争で英国正規軍に鎮圧されます。英国正規軍の主力はヘッセン家が貸し出した10万人の傭兵です。
1776年の「独立宣言」で本国に対する宣戦布告をし、独立戦争に持ち込んだアメリカのメイソンはヨーロッパ中のメイソンに新国家アメリカへの支援を求めました。
この事態にヘッセン=カッセル方伯(五九歳)は、新大陸へ反メイソンリーのグレイトブリテン正規軍傭兵3万人を送り込むだけでなく、ヨーロッパの反アメリカメイソンリー工作を引き受け、メイソンの統一支配に乗り出しました。 ドイツ中部のヘッセン=カッセル方伯家は、昔から屈強なドイツ人を集め、訓練して傭兵に仕立てて各国に貸し出し、大金を稼いでいました。
それも、傭兵が死ねば死ぬほど、彼の儲けになりました。グレイトブリテン&ハノーヴァー国王ジョージ三世(1738〜即位60〜1820)の義兄でもある当主フリードリッヒ二世方伯(1720〜即位60〜85)は、「七年戦争」(1756〜63)で新大陸がまた戦争だというので、これまでの十万名に加え、さらに三万名の傭兵を掻き集め、新大陸正規軍に貸し出し、大いに利益を得ました。ここにおいて、ハノーヴァー出身の俊才クニッゲ男爵(1752〜1796)が、その腹心として事業拡大に活躍します。
  七四年に創設されたヴァイスハウプト(三二歳)の啓蒙主義結社「イルミナティ」は、バイエルンの地方組織にすぎず、「イエズス会」残党の激しい攻撃にさらされ、メイソンリーに援助を求めていました。おりしも、八〇年、黄金薔薇十字団の黒幕のヘッセン=カッセル方伯の腹心クニッゲ男爵(二八歳)は、嫉妬による陰謀に巻き込まれ、宮廷から追放されてしまいます。
そして、彼は、「イルミナティ」に乗り込み、たちまち啓蒙主義メイソン五百名以上を参加させ、これを反黄金薔薇十字団運動の拠点としてしまいました。
ヘッセン家とロスチャイルドとのかかわりはこのころ始まったと伝えられています。
ッセン家のお抱え金庫番となったマイヤー・アムシェル・ロスチャイルド、この才長けたユダヤ商人はご主人様に尽くす忠犬でした。徐々にヘッセン家の信頼を獲得していったロスチャイルドは、後にヘッセン家に劇的な勝利をもたらします。
1774年、ラスペに代わって、フランクフルトのユダヤ人商人マイヤーアムシェル=ロートシルト(ロスチャイルド、1744〜1812、三一歳)がフリードリッヒ方伯に近づいてきました。
彼もまたたいへん古銭に詳しく、方伯家のコレクションにおおいに貢献しました。とはいえ、フリードリッヒ方伯を支える多くの銀行家の中では、彼はまだ、その末席に加わったという程度にすぎません。
国王が支配する国家体制に反発する改革派が、このころからヨーロッパ各地で活動を活発化させます。フランスでは革命が起こり、その後ナポレオン率いる軍部が台頭してきます。
一方、反革命〜反ナポレオンの雄、ヘッセン家は郵便制度を握っていたタクシス家を掌中に納めて、情報網を支配します。
1787年、「古式黄金薔薇十字団」の黒幕だったヘッセン=カッセル方伯の息子ヴィルヘルム九世(43〜即位85〜1821、四四歳)もまた動き出し、フランクフルトに事務所を持つ「帝国郵便総監」トゥルン=タクシス公家が財政危機に陥っているのを聞きつけると、彼は、宮廷に出入りしていた同地出身の弱小銀行家マイヤーアムシェル=ロートシルト(四三歳)を送り込んで交渉に当たらせ、同公に大金を貸し付け、自分の配下に取り込んでしまいます。これによって、オーストリア=神聖ローマ帝国の外交通信は、すべてヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム九世に筒抜けとなりました。
ドイツ最大の領土を持ち、ヨーロッパ各国に傭兵を貸し出して莫大な利益を上げ、国際金融都市フランクフルトを領内に抱えるヘッセン家は、フランスの皇帝に成り上がった軍人ナポレオンを苛立たせていました。
ナポレオンのプロシア遠征では第一標的にされてヘッセン家の領土(カッセル、ダルムシュタット)は奪われてしまいます。このときロスチャイルドは、ナポレオンに狙われたヘッセン家の財産をロンドンに移し守ります。これが功を奏して、ヘッセン家は現在もなおドイツの大貴族として名を馳せています。
 むしろ重要になるのは、その後のヘッセン=カッセル方伯とロートシルト家のネットワークの役割です。というのも、反革命〜反ナポレオン戦争において、各国にその兵員と資金を供給し続けたのは、グレイトブリテンでもプロシアでもオーストリアでもなく、このネットワークにほかならないからでです。
それゆえ、ナポレオンは、一八〇六年のプロシア遠征においてまずカッセルを奪い、そのヴィルヘルムスヘーエ宮にヴェストファーレン王として末弟ジェロームを置きました。
しかし、このころすでに反ナポレオン戦争は、軍隊の戦争から経済の戦争にシフトしており、ロートシルト家は、ロンドン市の「シティ自治区」を拠点とするネイサン(1777〜1836)を中心に、国際的な貿易と金融を自由に操作して、反ナポレオン諸国を支援し、ウィーン体制の確立にまで至らしめます。しかし、このネットワークも、もはや多くの人々が参加する「メイソンリー」とはまったく異なるものです。
ナポレオン侵略でヘッセン=カッセル方伯は亡命し、カッセルを奪ったナポレオンが欧州を席捲しました。ナポレオン軍は軍事力でドイツ西南部を支配、神聖ローマ帝国を事実上解体してしまいます。
しかし時代はすでに「軍隊の戦争」から「経済の戦争」に変化してしまっていたのです。
領土を奪われたヘッセン家ですが、ナポレオン軍が勝とうが負けようがとにかく戦争すればするほどヘッセン家に金が転がり込む仕組みとネットワークがロスチャイルドによって構築されていたのです。
ナポレオン失脚(1815年)後、カッセルは「ヘッセン選帝侯国」、ダルムシュタットは「ヘッセン大公国」となってドイツ連邦に加盟します。

ヴェネツィアは9世紀頃より浅瀬に阻まれ攻撃されにくいラグーンに建設され、ドブロクニクなどの海賊との交易で友好関係を築くことで制海権を獲得し、エーゲ海を経て、アラブ・イスラム文明と通商を行うに至った。
その過程でアラビア数字、手形、商業簿記などを取り入れて、暗黒の中世ヨーロッパで最初の商業文明を形作ってきた。
金融家たち、デル・バンコは、彼らの多くが地中海イスラム世r界のユダヤ教徒を祖先としており、ロンバルディア人より多少色黒であったために、「黒い貴族」とも呼ばれた。
ジェノア、フィレンツェなど北イタリアに勢力を拡大し、ルネサンス運動のパトロンとなる。15世紀イベリア半島の北端山岳地方(ガリシアなど)から、600年を経て「レコンキスタ」がイスラムを駆逐する。
彼らはゲルマン部族の後裔を名乗るキリスト教徒だが、言語はラテン系のスペイン語であった。
アラブ、ユダヤの知識と技術を活用して、新大陸を侵略する。この「侵略」が如何にもゲルマンの民族性らしいのだが、それはさておき、同時に厳しい異端狩りを開始する。
追い詰められたイスラムは北アフリカに逃げ、ユダヤ教徒は広範なネットワークにより北アフリカ、中東、ポルトガル領ブラジルそして、スペイン領となったネーデルラントに逃れた。
ネーデルラントのユダヤ人はこの交通の要路(港湾と河川)を活かして、西欧・北欧の商業覇者となる。
ユダヤ人はネーデルラントのスペインからの自立に重要な力を示したので、ここだけはユダヤ人追放のない国土となった。
17世紀。イギリスはクロムウェルの清教徒革命が成功し、イギリスはユダヤ人を受け入れることとなる。オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)がイギリス国王となり完成される。(現在ビルダーバーグ会議の主宰はこのオラニエ公の子孫である)次いで18世紀フランス大革命により、ユダヤ人は概ね西ヨーロッパの全域で商業活動とりわけ両替・金融業を保証されることとなる。
この間、デル・バンコの一族はネーデルラント、フランクフルト、イングランド、フランスのユダヤ金融業と血縁を結び、国家財施を預かる宮廷ユダヤ人となり、さらに西欧王族とも血縁を深めてゆく。これが「黒い貴族」と「青い血」の合流である。
こうして、国際金融はロンドン(ロンバード街)、チューリッヒを中心に、オランダ、フランクフルト、そして隠れた本流はロンバルディアという配置が出来上がった。この配置は今も健在なようである。
一方、ブラジルのユダヤ人はオランダが開発したニューアムステルダムに多くが移住し、後にニューヨークとなっても、成長する新大陸を牛耳ることとなる。しかし、アメリカFRBの資本構成はヨーロッパ優位のようである。
18.19世紀。彼らの蓄えた資産は「金利」、「与信機能」と「無記名有価証券」により、産業資本に投資される。「金利」によって産業資本は「成長」を強制されることとなる。産業革命とその爆発的成長である。金融資本による産業への投資も一種の「搾取」である。
いわゆる「資本主義」は帝国主義へと向かい、アングロサクソン的武力とユダヤ的金融資本の合流はほぼ世界を征服するに至る。
この過程で東欧系ユダヤ人(アシュケナージ)は多くの社会主義者を輩出し、ロシア革命を勝利する。結果的に国際金融資本の支援もあったが、国際金融資本がロシア革命を引き起こしたと考えるのは「贔屓の引き倒し」であろう。これが、今に至る国際金融資本の大元達。金融の「世界支配層」の歴史である。
<B.C1300年頃のフェニキア人都市の分布>彼らが9世紀のヴェネツィアに現れる前に、彼らは何処から来たのか。
滅亡したカルタゴの子孫と言う説もあるようだが、確かなことはカルタゴを含むフェニキア人の発祥地。現在のシリア、レバノン、パレスチナの港湾に拠点をおく、貿易民族である。(ローマ時代も現代もユダヤ教徒は多い)。
また、海上貿易には制海権の確立が必須であるので海賊を懐柔できなければならない。造船術は少なくとも海賊並以上が必要なことを考慮するなら、彼らは元来海賊だったと考えるのが自然だろう。B.C3000年期エーゲ海クレタ文明の末裔と考えられる。
現代の金貸しの代表格であるロスチャイルド(>ロックフェラーにも勝利)は、元々はベネツィアの黒い貴族の一派の下僕にしかすぎません。彼らのご主人様であった黒い貴族の起源が、地中海の海賊であったフェニキア人と考えれば、金貸しの並外れた略奪闘争性も説明ができるのではないでしょうか?
昨年から始まった金融破綻後、水面下で世界は大きく動いている。近代以降、世界を動かしてきたのは圧倒的な資金力を持つ金貸し(ロスチャイルドやロックフェラーetc)だった。しかし昨年の金融危機で、アメリカの背後にいる金貸しの力が衰え、世界は多極化しつつある。
この多極化を主導してきたのは、欧州勢。独首相メルケルが金融規制を唱え金貸しを抑えると共に、同時に英仏首脳がG7→G20を誘導してきた。彼らは何を狙っているのか?
この欧州政治家の背後に古くからの欧州貴族がいる。世界を動かす欧州貴族勢力について、彼らの基盤を含め大きな構造を把握しておきたいと思います。これは世界史を正確に読み解くにしても不可欠な構造だと思います。
まず彼らの力の基盤は?世界中から略奪した莫大な金銀財宝を握っており、それを元手に市場や情報支配を行っている。
欧州支配勢力は世界中の富を略奪している。 ・12~13世紀 十字軍によりイスラムから略奪・15~16世紀 スペイン・ポルトガルによる新大陸(インカ・マヤ文明)からの略奪・16世紀以降 オランダ・イギリスによる植民地支配、インド・中国からの略奪.
このようにして世界中の金銀・財宝がヨーロッパに集積される。そして主にスペイン・ハプスブルグ系とイギリス系の2つに集積された。
その集積を元手にイギリスで1694年にイングランド銀行が設立され、さらに19世紀には産業革命が起こり、欧州発で近代市場が爆発的に拡大していく。
欧州支配勢力には大きく2つの勢力(貴族系)が存在する この構造は古く12世紀頃の神聖ローマ帝国に遡り、さらに古代に遡る。以下はユースタス・マリンズによる本の引用です。
中世を通じてヨーロッパのさまざまな権力の中枢は二つにまとまっていた。一つは神聖ローマ帝国王家(1138年~1254年)のホーエンシュタウフェン家を支持するギベリン派〔皇帝派〕。
もう一つは、神聖ローマ帝国の支配を巡ってフリードリッヒと競ったドイツのベェルフ大公から出たゲルフ派〔教皇派〕である。
その時ローマ教皇は、ゲルフ派と同盟し、ギベリン派と対決した。
そして結局、教皇側が勝利を収めた。近代史のすべては、この2つの勢力のあいだの抗争から直接に派生したものである。
ゲルフ〔教皇〕派は、またの名を「ネリ」「黒いゲルフ」「黒い貴族」とも呼ばれ、11世紀にイングランドを征服したノルマン人たちも、実はゲルフ派であった。
ロバート・ブルース(1274年~1329年)のスコットランド征服を後押しし、またオレンジ公ウィリアムがイングランドの王位を簒奪するのを支援したジェノバ人たちも、ゲルフ派だった。
ウィリアムの勝利はイングランド銀行と東インド会社の設立という結果を生んだ。そして、この二つの組織が17世紀以来世界を支配してきた。
それ以後に勃発したクーデター・革命・戦争はいずれも、ゲルフ派がその権力を維持し、増強するための闘争であった。そしていま、これが世界権力と呼ばれているのである。
ゲルフ派の権力は、銀行業と国際貿易を支配することによって成長してきた。その権力は、イタリアの中部を経てフィレンツェの北方ロンバルディア地方に拡大し、ここが金融の一大中心地となった。その結果、ジェノバ、ヴェネツィア、ミラノを含む全イタリアの銀行が「ロンバルト」と総称された。
今日でもドイツ語では、ロンバルトといえば「質屋」「動産質貸付銀行」という意味である。
ロンバルトたちは、中世世界全体を相手にする銀行家であった。近代史はかれらが北上して、ハンブルグ、アムステルダム、を経て、最終的にロンドンへと営業活動を移動したことから始まっている。
「偉大なアメリカの富」も、元をたどれば、ゲルフ派が植民地を相手に行った奴隷貿易から発生したものである。
このゲルフ派系統は現在もヨーロッパの多くの国々の王室を形成している。
今日、ヨーロッパを支配する各王室および、領国をもたない王室もすべて、オレンジ公ウィリアム三世の直系子孫である。
すなわち、オランダのユリアナ女王、デンマーク女王マルガレータ、ノルウェーのオラフ五世、スウェーデンのグスタフ、ギリシアのコンスタンティン、モナコのレニエ大公、ルクセンブルク大公ジャンなどである。
(※注:ハプスブルグの支配したスペイン・オーストリア・ドイツなど欧州中核部はここに含まれていない。ゲルフ派と別系統の貴族系(皇帝派)が支配している。)
神聖ローマ帝国は古代ローマ貴族の以来の貴族連合体に近く、完全な権力を形成しようとする皇帝派とそれに不満を持つ貴族と大きく2つの勢力に分かれ抗争していた。さらにこの神聖ローマ帝国系と別系統に金融系が存在する。
それが、2大貴族の抗争            ・ギベリン派(皇帝派) ―→ハプスブルグ系 ・ゲルフ派(黒い貴族)   (タクシス・サヴォイなど)               └――→ 英王室 他にゲルフ派と合流した国際金融家の系統が存在                      金融系(ユダヤ・フェニキア起源)   フェニキア →ベネチィア・ジェノバ      → ロンバルディア →スイス(ここでゲルフ派と合流?)         ↓          ↓        スペイン・ポルトガル―→ オランダ・イギリス―→アメリカ    以上のように大別されるだろう。 中世からスペイン・ポルトガルによる大航海時代までは貴族系(皇帝派)が優位。そして、イギリスが覇権を掌握した後は、ゲルフ派+国際金融系統が世界を動かしてきた。イギリス、アメリカを通じて、金融・軍事・思想を武器に17世紀以来の近代史を動かしてきた。
彼らの手先としてフリーメーソンが蠢き、欧州中核部の王室解体のためにフランス革命が行われ、アメリカ独立やロシア革命も彼らが企画したものだ。(ロスチャイルドやロックフェラーもゲルフ派+国際金融家から派生。)
しかし近代以降拡大を続けてきた金融市場も、近年ついに行き詰まってきた。この状況を踏まえて、金貸しの背後にいたゲルフ派貴族、そしてもう一方の欧州貴族系勢力が再び前面に登場してきたのだ。冒頭の英仏によるG8→G20への誘導は、欧州の2大支配勢力が合流して多極化を進めていることを示している。
近年のEU設立、環境保護主義の台頭も彼らの戦略の一環。 彼らは砂上の楼閣と化した金融市場をから、実物資産を握るため、世界資源(石油・食料・水)の支配を目指していると思われる。

ロスチャイルドやロックフェラーより上位にいる国際金融資本家は、古代のフェニキア商人の流れを汲んでおり、カルタゴ→ヴェネツィアと移動したという説もあるようです。
バビロニア(前18世紀、メソポタミア)が本格的な金融活動及び金融制度の源であり、フェニキア商人(前12世紀、地中海貿易独占)はバビロニアの商人・金融家の流れを汲んでいると思われる(これらはセム系国際商人と呼ばれる)。フェニキアが展開していた地中海沿岸の都市の1つがカルタゴ(シチリア島対岸にあるアフリカ大陸の都市)であり、フェニキア衰退→滅亡後も繁栄を続けた。
そのカルタゴも第三次ポエニ戦争(ポエニ戦争:前264~146 ※ポエニは「フェニキア」の意味)でローマ帝国に滅亡させられたが、戦争を担ったのは傭兵部隊であり、当時権勢をふるっていたマゴ家を始めとする国際金融家達は、莫大な資産を伴ってイベリア半島に脱出していた。その後情勢が落ち着いてから、地中海全域で拠点を立て直していったと思われる。
戦争に負けたカルタゴ金融商人が、宗教(キリスト教)という手段でローマ帝国を乗っ取り解体していったという「陰謀史観」がある。彼らも表面的にはキリスト教徒だが、キリスト教自体が彼らの代理人によってローマ国教にまで高められた。
※フェニキア≒ユダヤ説:カルタゴ滅亡後に、イベリア半島を中心に地中海沿岸にユダヤ人都市が多数忽然と現れた。また、カルタゴの祭祀はユダヤ教に近いと言われている。
彼らの拠点都市国家の1つがヴェネチア共和国(697年成立)だと考えられている。カルタゴとの共通点は以下の通り。
・経済形態(国際商業と国際金融を基礎) ・政治形態(近代共和制に近いもので、市民権を持つ貴族が総督=大統領・評議会=議会・顧問会議=内閣を選出し、それらが協力と牽制を伴いながら統治を行う) ・祭祀(どちらも仮面を使う) ・顔つきや服装 ・国際交易都市が国家となり、周辺地域を支配していくという構造
ヴェネチア共和国はもともと利子の取得を禁止していたが、14~15世紀に解禁。国際金融都市として急速に発展した。金融化として最も強大化したのはユダヤ教徒。メディチ家もヴェネチアに支店を持っていた。
12~13世紀にかけて、北イタリアからスイス・南ドイツの商業都市が「ロンバルディア同盟」を結ぶ。その後、ロンバルディア地方のイタリア人金融家がロンドンのシティーに進出する。
【仮説】カナン→フェニキア→ベネチア + ヒクソス→ハザールマフィア
ただ、カナン→フェニキア→ベネチア→近代のスイスという流れは重要な真実も含まれていると感じたので記事にしました。ヒクソスが偽ユダヤ人の上に立つという説も興味深いです。
ユータス・マリンズは本書(『衝撃のユダヤ5000年の秘密 太田龍・解説 日本文芸社 1995年刊』)で、ユダヤの根本的特徴を「寄生性」と定義している。
  英語では、パラサイト(Parasite 生物学では寄生生物、寄生虫、宿り木の意。古代ギリシャでは太鼓持ち的食客と辞書にはある)。つまり、ユダヤは次の3つの傾向を持っているということになる。
(1) 悪魔性  (2) 寄生性 (3) 欺瞞性
この3つをどんな具合に結びつけたらよいのであろう。この五千年来、人類は「カナンの呪い」にたたられてきたとマリンズはいう。
問題の焦点は、失われた「ノア書」の一部とされる「エノク書」である。そこには天使の一団がカルメル山に降りてきたこと、そして彼らは、人間の娘たちを娶って、その結果、ネフェリムの名で知られる巨人が生まれた、と記されている。現行の旧約聖書では「ノア書」「エノク書」は排除されている。これはローマ帝国がキリスト教を国教とした4,5世紀以降、意図的に、教会首脳部によって削除、隠蔽されたものと考えられる。「エノク書」については、17世紀以降、ある種のヨーロッパ人が執念深く探索して、今では三種ほどの古写本が発見され、それにもとずく英訳が流布されている。
本書「カナンの呪い」は 1、天から地上に降りてきた天使たちが、地球の人間たちに生ませた、異種交配の結果としてのネフィリム、または巨人たちの長が悪魔(サタン)である。
2、以降の人類の歴史は、神の民と、前記のごときものとしての悪魔の血統、その礼賛者との戦いの歴史、と看做されなければならない。
3、アダムとイブの二人の息子のうちの一人とされるカインは、このサタンの血統であり、
4、ノアの三人の息子のうちの一人、ハム、そしてその息子カナンも、サタンの血統に属する 5、ここから、ノアの「カンアンは呪われよ」という言葉を解するべきである。
6、悪魔(サタン)の血統のカナン族は、神の民ノアの継承者セム族を憎み、セム人種を根絶やしにしようとしてきた。
7、カナン族は、西暦1200年頃、フェニキア人と名乗り、その後はフェニキア人に成りすまし、カナン人は歴史から消えた。しかし、にもかかわらず、ユダヤのタルムードに記録されている「カナンの五つの遺言」はフェニキア人にしっかりと伝えられた。
8、現在ユダヤ人と呼ばれる人々は、実は、この悪魔の子、カナン族の流れである。彼らユダヤ人は、自分たちをセム人、セム族と称しているが、これは大掛かりで意図的な欺瞞であり、歴史の捏造である。
9、かくしてここに初めて、カナン族とその系譜の集団「悪魔の歴史学」の全貌が、人類の前に明らかにされた。
10、著者は「新版刊行によせて」の中で、カナン族によるセム人種皆殺しのための「ナァマ計画」を改めて取り上げる。2001年9月11日の事件こそ、このナァマ計画の最終仕上げの号砲である、というふうに論旨を展開する。
カナン族の主な風習として、本書は次の五つを挙げる。 1、 悪魔(サタン)信仰 2、 オカルト的儀式(儀式殺人) 3、 幼児人身御供 4、 人間嗜食(食人) 5、 性的狂宴
こうした秘儀を、カナン人とその系譜を引く、バビロニアタルムードとカバラを信奉する現在のユダヤ人、フリーメーソン、イルミナティーなどの多種多様な秘密結社は、ひそかに実践し続けているという。本書によれば、悪名高き「ベネチアの黒い貴族」は、実はカナン人そのものに他ならない。ベネチアの黒い貴族は、十字軍戦争を契機として中世ヨーロッパの権力構造に深く食い込んでいく。
ヨーロッパ大陸極西の小さなブリテン島を足がかりにして、魔法のように、あれよあれよと見ているうちに、七つの海を制し、五つの大陸に領土を有する大英帝国が出現する。
その力の源泉は、1694年に設立された、アムステルダムとロンドンを主たる基地とする国際ユダヤ金融資本に所有される民間私立営利会社としてのイングランド銀行である。
しかし、世界征服の総仕上げのためには、大英帝国とイングランド銀行だけでは力不足である。かくして彼ら(カナン人)は、1913年12月、米連邦準備制度(FRB)法の成立に成功する。
在の金貸しの起源とも言える「ヴェネチアの黒い貴族」とは誰なのか?
西暦480年頃に西ローマ帝国が滅びた後、ローマ帝国の一部の貴族がヴェネチアに避難した際に、特権を享受していた一部のユダヤ人もヴェネチアへ避難し、ヨーロッパの貴族階級に同化していった。
その中で現地人より色が浅黒かったので「ヴェネチアの黒い貴族」と呼ばれるようになる。
彼らはキリスト教国家とイスラム教国家の間の地中海貿易を独占していた。
そして黒い貴族は地中海貿易から大西洋貿易に移るためにヴェネチアからオランダへ、さらにイギリスへと移動していき、世界初の株式会社であるイギリス東インド会社を設立する。
ヴェネチアというものを日本人はほとんど知りません。非常に間違った形式的な歴史を教えられています。しかし、ヴェネチアというのは西暦480年頃に西ローマ帝国が滅びた後、ローマ帝国の貴族の一部がヴェネチアに避難してできたのです。
ヴェネチアはイタリア半島の東の奥のほうに位置しますが、そこを基地として避難場所としてローマ帝国の貴族の一部がそこに移動しました。そこからヴェネチアがイルミナティの正しい世界首都として成長していくように段取りがつけられたのです。
そしてヴェネチアが起こした重要な事件はたくさんありますが、そのうちの一つは11~13世紀に起こった十字軍戦争です。十字軍戦争はカトリックのローマ法王庁が旗を振ってエルサレムをイスラムから取り戻すと称して、4回くらい大戦争を起こします。
しかし、カトリックをそういうふうに煽動して十字軍戦争を起こすためには、西ヨーロッパから軍隊がエルサレムまで遠征するための途轍もない多額の軍資金が必要になるわけです。
それから軍隊を出すために、艦隊を組織しました。そのための資金は全部、ヴェネチアの「黒い貴族」が用意しました。用意したといっても、タダでくれるわけではありません。ローマ法王庁とかフランスや英国とかスペイン、ドイツとかの国々の王侯貴族に軍資金を貸し付けて「利子」を取るわけです。
そしてヴェネチアはイスラムにも目をつけます。それからビザンチン、東ローマ帝国の後継者としての東方ギリシア正教をも支配下に入れます。この三つの地域にヴェネチアは目をつけるのです。
そのような勢力を利用して、カトリックとイスラムを戦わせ、カトリックと東方ギリシア正教を戦わせます。
そして自分たちがそれぞれの地域に軍隊を動員して、十字軍戦争をだんだん大規模なものにしていく。大規模なものにしていくほどヴェネチアの黒い貴族はたくさんのお金を貸し付けて、利子を生み出していきます。
だから十字軍戦争というのは、ヴェネチアの黒い貴族が、最初から最後まで振り付けをしているわけです。そういうことが日本人にはまったく知らされていません。
「東方見聞録」で有名なマルコ・ポーロも、ヴェネチアの黒い貴族が送り出したエージェントだったのです。
大航海時代の背景はポルトガルとかスペインとか英国とかという、それぞれの国家ではなく、ヴェネチアに浸透する金融寡頭権力だったのです。そのようにして彼らは世界支配をさらに進めたわけです。
そして最後はキリスト教・カトリック教会を大分裂させることでした。1517年、マルチン・ルターがローマ法王庁に挑戦して、免罪符を否定する抗議の紙を張り出したら、あっという間に非常にわずかの時間に、全ドイツに広がりました。
しかし、そのルターの背後にいたのはヴェネチアの「黒い貴族」だったのです。ルターをヒーローに仕立て上げて、全ヨーロッパ、とくにドイツで、カトリックとカトリックに反対するプロテスタントという勢力が起こり、キリスト教会は真っ二つに分かれるわけです。
そして10~20年後にヴェネチアの「黒い貴族」はプロテスタントで脅かされているキリスト教会、カトリック教会に対して、プロテスタントと戦うための「イエズス会」という新しい修道会を組織したのです。
イエズス会の創設者イグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルを選抜して任務を与え、お金を提供して強固な組織にしたのはヴェネチアの「黒い貴族」だったのです。
また、ヴェネチアの「黒い貴族」はカトリックを分裂させて両方をけしかけ、両方に資金を与えカトリック教会の分裂とすごい殺し合いを、背後で操縦したのです。
プロテスタントとカトリックの争いがもっとも激烈に発展したのがドイツで、ドイツでは両派の宗教戦争によって人口が半分程度になってしまったという地域があるくらいです。ヨーロッパのキリスト教会の権威を壊滅的な打撃を与えることによって、ヴェネチアの黒い貴族は、彼らの世界支配を次の段階に進めようとしたわけです

シェークスピアの名作「ヴェニスの商人」は16世紀末1597年ごろの作品といわれる。喜劇の戯曲に分類される。作品は4つの物語で構成される。有名な人肉裁判において頂点に達するアントーニオとシャイロックの対立抗争の話し、3つの小箱によるポーシャの婿選びとバッサーニオの求婚の成功譚、ジェシカとロレンゾーとの駆け落ちの話し、ポーシャとバッサーニオの指輪をめぐる茶番劇の4つである。本論に入る前に、「ヴェニスの商人」の概略をおさらいしておく。主な登場人物は アントーニオ: 貿易商人。正義感が強く情に厚い。キリスト教徒 バサーニオ: 高等遊民。ポーシャと結婚する。アントーニオの友人だが、ポーシャと結婚するためアントーニオを保証人としてシャイロックより金を借りる ポーシャ: 莫大な財産を相続した美貌の貴婦人。人肉裁判の判事役。 シャイロック: 強欲なユダヤ人金貸し。別世界のひとで、ユダヤ教徒だが、最期に改宗させられる。 ジェシカ:シャイロックの娘。キリスト教徒ロレンゾと駆け落ち結婚する。 ロレンゾ:ジェシカの婚約者。  物語はイタリアのヴェニス(ヴェネツィア)。バサーニオは富豪の娘の女相続人ポーシャと結婚するために先立つものが欲しい。そこで、友人のアントーニオから金を借りようとするが、アントーニオの財産は航海中の商船にあり、金を貸すことができない。アントーニオは悪名高いユダヤ人の金貸しシャイロックに金を借りに行く。アントーニオは、金を借りるために、指定された日付までにシャイロックに借りた金を返すことが出来なければ、シャイロックに彼の肉1ポンドを与えなければいけないという条件に合意する。アントーニオは簡単に金を返す事が出来るつもりだったが、彼の商船は難破し財産を失ってしまう。シャイロックは、自分の強欲な商売を邪魔されて恨みを募らせていたアントーニオに復讐できる機会を得た事を喜ぶ。一方、シャイロックの娘ジェシカは純真で心が美しく、父の冷酷非道を嫌ってロレンゾと駆け落ちしてしまう。  その間に、バサーニオは、ポーシャと結婚するためにベルモントに向かう。ポーシャの父親は金、銀、鉛の3個の小箱から正しい箱を選んだ者と結婚するよう遺言を残していた。バサーニオはポーシャの巧妙なヒントによって正しい箱を選択する。バサーニオはポーシャから貰った結婚指輪を絶対はずさないと誓う。しかし、幸せなバサーニオの元にアントーニオがシャイロックに借金返済が出来なくなったという報せが届く。バサーニオはポーシャから金を受け取りベニスへと戻る。一方、ポーシャも侍女のネリッサを連れて密かにベルモンテを離れる。  シャイロックはバサーニオから厳として金を受け取らず、裁判に訴え、契約通りアントーニオの肉1ポンドを要求する。若い法学者に扮したポーシャがこの件を担当する事になる。ポーシャはシャイロックに慈悲の心を見せるように促す。しかし、シャイロックは譲らないため、ポーシャは肉を切り取っても良いという判決を下す。シャイロックは喜んで肉を切り取ろうとするがポーシャは続ける、「肉は切り取っても良いが、契約書にない血を1滴でも流せば、契約違反として全財産を没収する」。仕方なく肉を切り取る事を諦めたシャイロックは、それならばと金を要求するが一度金を受け取る事を拒否していた事から認められず、しかも、アントーニオの命を奪おうとした罪により財産は没収となる。アントーニオはクリスチャンとしての慈悲を見せ、シャイロックの財産没収を免ずる事、財産の半分を自分の娘ジェシカに与える事を求める。そして、本来死刑になるべきシャイロックは、刑を免除される代わりにキリスト教に改宗させられる事になる。  バサーニオはポーシャの変装に気付かずにお礼をしたいと申し出る。バサーニオを困らせようと結婚指輪を要求するポーシャにバサーニオは初めは拒んだが結局指輪を渡してしまう。ベルモンテに戻ったバサーニオは指輪を失った事をポーシャに責められる。謝罪し許しを請うバサーニオにポーシャはあの指輪を見せる。驚くバサーニオにポーシャは全てを告白する。また、アントーニオの船も難破せず無事であった事がわかり、大団円を迎える。 岩井克人氏はこの「ヴェニスの商人」の物語を経済学的に翻訳して一人ひとりの役柄に資本主義的意味を付与してゆくのである。シュークスピアが16世紀末に資本主義を意識してこの戯曲を書いたかどうかは疑わしい。当時は物語にもあるように重商主義(大航海時代)であり、15世紀中ごろから17世紀中ごろまでヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの海外進出が続いた。最初はスペイン人やポルトガル人が進出したが、1588年主導権を奪ったのはイギリスの無敵艦隊であった。シェークスピアはちょうどその時海外重商貿易で活躍した商人の舞台をヴェニスに移してヴェニスの商人という戯曲を書いた。アダムスミスが「国富論」を書いたのはアメリカ独立の年1778年であった。シェークスピアが経済学を意識していたはずは無いが、経済社会情勢の変化をその身でひしひしと感じ取っていたのであろう。そこにおける新しい社会階層の変化、重商貿易による富の蓄積とリスク、中世的共同体(利子をとらない)の価値観とユダヤ人金融業者の価値観の衝突などをしっかり意識していたに違いない。シュークスピアは新しい時代の息吹きを感じ取っていたに違いない。そう理解すれば岩井克人氏の「ヴェニスの商人の資本論」はあながち強牽附会のこじつけ論や表層の一致論ではなく、実体的意味を持っているのである。 ①人肉裁判におけるアントーニオとシャイロックの対立抗争 まずアントーニオとは何だろう。バサーニオやロレンゾなどとは同じキリスト教徒という兄弟盟約で結ばれる共同体社会を作っている。アントーニオは「古代ローマ人」的な盟約関係を表現している。その中では金の貸し借りは人格的なもので利子はとらない(いまのイスラム教社会はそうである)。同時に遠隔地貿易人である。マルクスがいうように「商品交換は共同体の果てるところで、共同体が共同体と接触する時点で始まる」。つまり異邦人同士のおこなう「沈黙の交易」である。共同体の構成員は相手が外部の異邦人である限り、反共同体的な商品交換を行うことが可能である。ユダヤ人の高利貸しシャイロックと何だろう。高利貸しとは共同体にとって危険な経済活動である。異邦人と非人格的で抽象的な関係の持ち方である。すなわち貨幣の社会に対する関係である。貨幣とは共同体にとってつねに外部を代表する者で、利子という貨幣の形で利益を獲得する高利貸し(金融業)に対して、共同体は自らの存在基盤を崩すものとして激しい敵意を示してきた。利子は他国のものに対してとってもいいと旧約聖書に書いてある。利子とは現在と将来との貨幣価値の差異の別名なのである。アントーニオとシャイロックの関係はキリスト教社会がユダヤ人に対して持つ異物的な蔑視であり、ユダヤ人からはそれに対する復讐なのであった。人肉裁判の争点はキリスト教共同体社会が慈悲の精神に訴え、ユダヤ人は契約(司法)の原理を主張する。この裁判の転結はポーシャという両義性のトリックスターの起死回生の論理である。契約の文章を突き詰める事で、肉と血を分けて提示し肉単独で取り出すことの不可能性でシャイロックの負けを宣言する。シャイロックの財産の没収、キリスト教徒の慈悲によってシャイロックのユダヤ人社会の解体を告げたのだ。最期にはシャイロックのキリスト教徒への改宗まで命じる。キリスト教社会も慈悲という論理で裁判に勝ったわけではなく、ユダヤ人の司法の論理(詭弁)で勝ったのである。結局キリスト教共同体もユダヤ人社会もいずれも裁判に負けているのだ。シャイロックの娘ジェンカもポーシャに似た両義性の変幻自在のトリックスターである。ユダヤ人社会とキリスト教社会の間の交換である。娘ジェンカがシャイロックの財産を持ってキリスト教徒のロレンゾーと駆け落ちするのは、ユダヤ人の財産の移動である。娘=金と読めばいい。高利貸しの死蔵する貨幣を広い市場の中へ開放することによって流通する形態に転換する行為であった(アメリカが日本の死蔵する財産を狙って、金融ビックバンで市場開放を要求したと同じ構図)。 ②ポーシャとバッサーニオの結婚、3つの小箱の謎、指輪をめぐる物語 財産と美貌と美徳を兼ね備えたポーシャ(交易の財宝)をもとめて投資する為に金を借りるバッサーニオはまさに冒険心に満ちた真のヴェニスの商人ではないか。主人公商人アントーニオは兄弟盟約に生きる古代共同体の代表に過ぎない。死んだ貨幣を流通で生かすことが商人バッサーニオの役割であった。主人公が憂鬱なのは、すでに資本主義に乗り遅れてしまったからである。バッサーニオがポーシャを獲得する時に判断した「貨幣そのものの価値形態は無内容で単純である」ということだ。貨幣それ自体に金や銀の価値があるのではなく、あっけないほどのつまらない形(紙幣・硬貨)を選ぶ。それが貨幣の姿であり謎である。死蔵される貨幣は貨幣自体に価値があるのではなく、貨幣が貨幣であるためには流通を通じて他の商品との等価関係の中でしか生きられないのである。貨幣は無限に増殖しようとする、すなわち貨幣は資本になろうとする。利潤は商品交換においては価値体系と価値体系との間にある差異から生み出される(中国的価値で生産された商品が、欧米で高いのものとして売れるから)。ポーシャがバッサーニオに与えた結婚指輪は、指輪=貨幣と考えられる。この指輪を巡ってバッサーニオは茶番劇を演じる。お金をめぐる人間喜劇である。このようにバッサーニオやロレンゾーは貨幣=女と結婚する事によって、資本主義的な人間となる。キリスト教共同体はユダヤ人から奪い取った貨幣によって、その共同体は解体し資本主義的社会へ変質したのである。 干ばつによる不作、長男の死亡、ジフテリアといった忌まわしい出来事の重なったダコタの大草原に決別して、ローラとアルマンゾは緑豊かな農場を夢見て、「大きな赤いリンゴのなる地」ミズーリへと旅だった。
二人はつつましい生活の中から貯めた百ドルで、マンスフィールドのはずれにある四十エーカーの土地を買い、二人の夢を少しづつ実現していった。岩尾根が四方八方に走る岩だらけの粗い土地は、じきに赤いリンゴのなる農場へと変わっていった。
ローラが執筆活動を始めたのは四十代半ばころからで、すぐれた養鶏家として知られるようになったローラは、各地で講演するようになり、それがきっかけとなって「ミズーリルーラリスト」という農業誌のコラムを担当するようになった。
やがて経済的な事情もあって子供時代の思い出を綴った作品を書き始め、六十代半ばで『大きな森の小さな家』を出版。次々に作品を発表して「小さな家」シリーズにまとめた。
ダコタからミズーリまでの旅の様子は、「わが家への道」に記されている。これはローラが旅の間記していた日記を、ローラの他界後、娘のローズが編集し、エッセイをつけ加えたもので、デ・スメットの旅立ちからマンスフィールドの土地を手に入れたところで終わっている。
ローラとアルマンゾの夢を実現した農場は、「ロッキーリッジ農場」と名付けられ、二人の永眠後、ローラ・インガルス・ワイルダー記念館として公開されている。

二人で話し合い、ローラが設計図を描き、わが家を農場の一部にしたいという思いから、二人で農場から資材を切り出して、出来る限り手をかけて建てられた。小さな小屋から始まって大きな家になった。
家具もアルマンゾが作ったものが多く、ちょっとした工夫がなされていたり、自然の木の持つ趣を生かしてあり、アルマンゾの大工の腕とセンスが伺える。
アルマンゾの永眠後もローラはロッキーリッジ農場で一人暮らしを続けていて、時折、ローズが様子を見に訪れていた。アルマンゾのように九十歳まで生きたいと願っていたローラは、その希望どおり、九十歳の誕生日を迎えて三日後に、自宅で息を引き取った。
ローラ・インガルス・ワイルダー(Laura Ingalls Wilder, 1867年2月7日 - 1957年2月10日)はアメリカ合衆国の作家・小学校教師。彼女はその幼年期の体験に基づいた子どものための家族史小説シリーズを著した。最も有名な作品『インガルス一家の物語』は、NBCで『大草原の小さな家』としてテレビシリーズ化され、日本でも二度にわたってNHK総合テレビにて放映された。
1915年、サンフランシスコで万国博覧会が開催され、地元に新聞社に勤めていたローズの招きで、ローラはこの町に二ヶ月間滞在した。ローラはローズやジレット(ローズの夫)と共に万博を見学したり、ローズの勤務していた新聞社にも顔を出してローズの同僚や友人に会い、楽しい時間を過ごした。
また、ジャーナリストとして働いていたローズから文章の書き方の手ほどきも受けていた。
滞在中、ローラはロッキー・リッジ農場で留守をあずかっているアルマンゾにあてて毎日のように手紙を書いた。その手紙はローラの永眠後、書簡集「大草原の旅 はるか」の第一部「サンフランシスコからの手紙」に収められている。