博多の最澄・空海

日米の戦争が勃発した時に、アメリカには日系人の他、大使館員、外務省役人、商社員、学者、留学生、旅芸人、サ-カス団など様々な人々が滞在していた。
戦争が始まると、国交が断絶するので交通も断絶する。
その場合、交戦国にいる人は自分の故郷に帰れないので、考え出されたのが"(捕虜)交換船"である。
1942年6月に、「第一次日米交換船」がスタートし、そこには色々な人間ドラマがあった。
そこには「人生をかけた選択」が行われたといってよい。
ある者は交換船に乗らずアメリカに残り、ある者は交換船で日本に帰ってきている。 交換船に乗らないということは、「敵性外国人」として収容所に入れられる可能性もあったし、日本に帰るということは日本で「敗戦」をむかえることになる。
当時、アメリカに住む多くの日本人は口には出さずとも日本が「戦争」に負けると思っていた。
「第一次日米交換船」で乗り込んだ人々の中には、都留重人・鶴見俊輔・和子兄妹など後に日本のオピニオンリーダーになる人もいれば、竹久千恵子などモダンガ-ルとよばれた女優、さらには後に「ジャニーズ事務所」を設立するジャニー喜多川など異色の人々もいた。
交換船は、「6つの階層」にわかれ最上階の「A」には野村吉三郎(駐米大使)・来栖三郎(特派駐米大使)、学者の都留夫妻は「D」、学生の鶴見兄妹は最下層の「F」だったという。
同じ船の中でこれだけ多彩な人材が押し込まれるとは圧巻である。
歴史を見るに、「人生を賭けた航海」というのなら、遣唐使船に乗り組んだ人々もそうではなかろうか。
圧巻の遣唐使船といえば、804年「同じ船団」で平安仏教の両雄「最澄と空海」が唐に渡っている。
最澄38歳、空海31歳の時、7月6日九州肥前田浦の港を発った遣唐使の船は4隻の船団で出発した。第一船に乗り込んだ23名の中に空海、第二船に乗り込んだ27名の中に最澄がいた。
空海が唐に長期間とどまって学ぶ「留学」だったのに対して、最澄は「還学生」であった。
「還学生」というのは、すでに学業なった短期の視察旅行をさせるためのもの。 最澄はすでに桓武天皇の寵僧であり、一方、空海は山野を浮浪する乞食僧の如き生活を長い間送り、入唐の前に急いで戒を受けた無名の僧であった。
いわば最澄は東大教授の留学、空海が私費留学生であり、全く格が違っていた。
実はこの船団は運命をわける航海でもあった。
出発してまもなく暴風雨に会い、四散する。第三船は帰国し、第四船は沈没している。
空海の第一船は海上を漂ったあげく、福建省霞浦県に漂着し、最澄の第二船は、明州寧波府に漂着している。

奈良の都には、東大寺ばかりではなく西大寺という寺もあった。東大寺は繁栄し、西大寺は没落する。
しかしながら、近鉄の駅名として名を残したのは「西大寺」の方である。そして最澄の師は西大寺である。
少しそれに似た関係が博多にもある。東長寺は繁栄し、東光院は没落している。
ただし、「東光」は小中学校の名前にもなっているので、人々が馴染んでいるのは「東光」の方。
とはいえ、多くの人々は、博多駅と吉塚駅の間の閑静な住宅街の中に在る「東光院」の存在にすら気づいていないようだ。
実際、1日に数人しか訪れていないようなコノお寺は、まごうことなく、あの最澄、つまり「伝教大師」が806年に建立したお寺なのである。
最澄は、804年遣唐使として中国に渡る折、航海の安全を願い、7躯の薬師如来を彫刻した。そして806年博多に帰った際に、その1躯を本尊とし薬師院を創立し、この薬師像を守る僧達が住む「東光院」も創ったのである。
常時30躯の仏像が並び、その名は広まり多くの僧侶が育ったが、その後博多の承天寺の末寺となり、戦国時代の博多焦土化にて衰退する。
さて、最澄が生まれたのは767年琵琶湖の西南端に近い滋賀郡 古市郷で渡来系の人々が多く住む地域として知られており、少年の父もその一族の出身であった。
少年の頃の名は広野。一族からも将来を期待されていた広野少年が目指しした近江国分寺は、奈良時代、全国に建立された官営の寺のひとつで、この国分寺の門をくぐることは、少年が早くもエリートコースに乗ったことを意味している。
少年が得度する14歳までの3年間、師の行表は朝な夕なに経文の暗誦、読誦、筆写などを徹底して教えた。少年は、それに応えつつ、彼の思想の根幹部分を成す「一乗思想」を学んだ。
太政官から「得淨行を三年以上つんだものでなければならない」という布令が出て、広野に正式に得度の証明が与えられたのは17歳の時だが、その時名を「最澄」と改める。
最澄は近江国分寺でさらに修行を続け、19歳の時に奈良東大寺で受戒し、国家公認の僧となった。
奈良の都は、営々と築き上げてきた「匂うがごとき都」であった。
桓武天皇が即位し、当時の奈良朝は律令国家としての爛熟 期を迎えていたが、その都を棄てようとしたのである。そして784年、ついに都は長岡に遷された。
最澄の東大寺戒壇院での「受戒」は785年4月だが、最澄はその年の7月には晴れて「国家公認」の僧になった栄達を捨てて、比叡山に入ってしまう。
都では華厳宗の東大寺を頂点として、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗の諸大寺が連なっていた。
西大寺は師の行表が籍を置く大寺で、最澄が生涯をかけて求めた天台学との本格的な出合いは、この時であったに違いない。
その最澄は受戒に備えて勉学にいそしみながら、政治の乱れ、社会の乱れ、そして何よりも仏教界の乱れを目の当たりにしたことであろう。
最澄は比叡山に登って、山間の窪地に小さな草庵を営み、比叡山寺と名付け、「一乗止観院」と号した。
そして最澄は、ひたすら「一乗思想」を伝える天台学の研究にのめり込んだ。
最澄が比叡山で学問研究に没頭していた頃、長岡の都では桓武帝が絶望的な状況の中で苦しんでいました。
側近であった藤原種継が暗殺され、無実の罪を着せられた弟の早良親王は、淡路への流罪の途中、兄への恨みを込めて絶食し、無念の死を遂げた。
度重なる洪水、母高野新笠の死、皇太子安殿のノイローゼなどが次々と桓武帝を襲った。
帝は、こうした不幸は自分が死に追いやった「早良親王」の祟りだと信じ込んだのか、長岡京を捨てる決心をする。
そうして選ばれたのは「山背国葛野郡」と呼ばれる地で、大小の池沼が散在する湿地帯であったが、「平安京」建設は急ピッチで進められた。
そんな折、最澄の書いた「願文」に心動かされた僧が、叡山に「法華経」による新しい仏教の立宗を目指して、教典研究に励む無名の青年僧がいることを桓武帝に報告した。
孤独な隠遁者は、思いがけない好運に恵まれる。
桓武帝は、和気清麻呂らが最澄に帰依する姿を見て最澄に救いを見いだし、登用を決意した。
そし794年9月、桓武帝の行幸を迎え、竣工した比叡山寺「一乗止観院」の落慶法要が盛大に行われると、以後、比叡山は王城守護の「根本道場」と見なされるようになった。
797年、最澄は内供奉として宮中に召された。内供奉とは、朝廷の内道場に仕えて天皇の安泰を祈ったり進言をしたりする役職で、定員が十名であることから、「十禅師」とも呼ばれていた。
そしてさらに5年後、最澄は高雄山寺に奈良の諸僧を集め、天台の講義を行い、これより前年には南都(奈良)16名の高僧を集め、法華十講を行った。
こうして、天台法華宗の立宗はひろく世間に認められるようになった。
803年、遣唐使の派遣が決定した際、最澄は天台の教えをさらに深く知るために「入唐求法」の旅に出ることを桓武帝に願い出る。
そして翌年7月、最澄は弟子の義真を通訳に連れ、遣唐使の一行とともに唐に向けて旅立った。
中国明州に無事にたどり着いた最澄は、中国天台宗第七祖「道邃」を紹介され、師から直接天台の奥義を学んだ。
そして弟子の義真とともに、大乗戒を授けられ、天台山国清寺の座主行満から天台の法門、秘蔵の典籍や法具までことごとく授けられた。
また最澄は、台頭していた密教を学ぶために、帰途の慌しさの中で真言密教の大家順暁阿闍梨を訪ね、「密教」までも学ぶ。しかしこれが空海との軋轢を生む結果になるとは、夢にも思わなかったであろう。
こうして最澄は8ケ月の短期入唐求法の旅を終えて、無事に帰国をするが、 帰国の際に持ち帰った経典・書籍は二百三十部四百六十巻に及んだ。
ところが805年の夏、最澄が帰国すると、彼のよき理解者であり庇護者であった桓武帝が、重い病の床についていた。
最澄は血を吐くような思いで密教の秘法を修し、天皇の病気平癒の祈祷を行う。しかし、最澄は最初からの密教修行者ではなかった。
最澄は、並はずれて優れた宗教者ではあったが、密教の秘法を深奥まで体得することはできていなかった。彼の祈祷の力は、すでに死期の近づいていた天皇には及ばなかった。
こうして最澄の後ろ盾となり、惜しみない援助を送ってきた桓武帝は、ついに70歳の生涯を閉じた。
最澄の名声が少なからず傷ついたところに、密教の正統さをまるごと受け継いだ空海が帰国する。
最澄は空海が正規の密教を学び、その経典を法具とともに大量に持ち帰ったことを知ると、相手が都ではまだ無名で、しかも自分より7歳も若い僧であったにもかかわらず、彼を密教の師として仰ぐ。
そのことが、「空海」の名を一躍有名たらしめることになったのには違いない。
最澄と空海は当初、仏法を広めるものとして協力したといってよい。空海は最澄に真言密教の入門灌頂*を授け、持ち帰った密教経典も求めに応じて快く貸してきた。
しかし、最澄が密教の根本経典のひとつである『理趣経』の解釈書『理趣釈経』の借用を申し込むに至って、空海は手厳しく拒絶する。
「あなたは密教秘法の伝授を受けるのに不可欠な、密教の行を修めていないではないですか」。
空海は最澄を、“宇宙の生命である大日如来との一体化を経験せずに、字面だけで密教を知ろうとしている”と批判したのだ。
「大日如来と一体化すること」によって超人的な力を獲得し、その喜びの中で人々を救うというのが空海の真言密教だかである。
密教は体得するもので、「全人的な没入」が必要でもあったにもかかわらず、最澄には別の立場もあった。
それは、天台法華宗という一門の教主という立場に他ならなかった。
それは密教ではなく「顕教」に軸足を乗せていたということを意味する。 こうして二人の巨人の出会いは最後には悲劇に終わった。

空海は774年讃岐の国に生まれ、12歳で「論語」などを勉強し15歳で都にのぼる。 18歳で当時の国立大学に入学を許可され、将来を嘱望された。
大学の勉強に疑問をもち、周囲の反対を押し切り大学を中退した。山岳修行を続けながら仏教をきわめようとしていた時、それまでに一度も見たことのない経典である密教の根本経典「大日教」と出会う。
当時の密教は日本ではそれほど重視されておらず、空海は正統な密教を学ぶために唐にわたる他はないと考えるようになった。
31歳の時、入唐留学生として遣唐使の一員となる許可が与えられ804年遣唐使一団に混じり、一路唐の長安をめざした。前述のとおり同じ船団には最澄の姿もあった。
空海は佐伯氏という中流豪族の一族ではあったが経済的にそれほど潤沢であったとも思えない。 また空海は「私度僧」という立場でもあり特有の不安定さがつきまとっていた。
空海が学ぼうとした長安の高僧青龍寺の恵果(けいか)は、胎蔵界つまり真理(大日如来)が宇宙で運動する発現形態、と金剛界つまりその運動が真理へ帰一していく形態の両方(両部)に通じていた。
しかし、それらの奥義を伝えるべき弟子に恵まれていなかった。 恵果は一目で空海にその資格ありとみた、というよりも恵果は空海を恵果自身の師匠である三蔵の「生まれ変わり」とみたのである。
そして自分の持つものすべてを空海に惜しげもなく開陳した。恵果は空海に会ってからわずか33ヶ月で最高位である「亜闍梨」の位を授け、空海を密教の正統なる継承者としたのである。 恵果は空海に早く帰国して日本に密教の奥義を伝えることを願った。
そして空海は、師・恵果のすすめで2年あまりの滞在で帰国を決意し806年10月帰国したのである。
しかしこれは「国法を犯す」ことだった。なぜならば、契約によれば「20年」は中国で学問の研鑽を積まねばならなかったからだ。
また一方で空海は、いつの日か許されて都に上る時が来るにせよ、都にはそこから別れようと唐に渡る決意をした「旧態依然」たる仏教がそこにあることを知っていた。
空海は「反動勢力」と戦うためにも密教の理論化・体系化が必要であった。そうして空海がこれから過ごす博多と太宰府には、得度受戒の儀式を行う戒壇院がある観世音寺があった。
空海は博多滞在のしばらくの時間をフル活用しようとしたにちがいない。
なぜならば最澄らとは異なり一介の私渡僧にすぎない自分が、勇んで都にでていったところで誰も相手にしないし、まして「国禁」を犯した立場なのだ。
空海はその間、唐より持ち帰ったものの目録を朝廷に送ってアピールしていく。
空海が朝廷に送った「御請来目録」に載っているリストには経典や注釈書が461巻、おびただしい数の法具や仏画、仏像などがすべて記されていた。
空海は、先に密教を「断片的」に持ち帰って日本の密教の国師と崇められる最澄に対して、自分の方が密教を体系的に受け継いでおり、「こちらが本道」という絶対的確信もあった。
そして博多に滞在していた空海に、807年の夏朝廷より勅令が来た。京ではなくまずは和泉国槙尾山寺に仮に住めと言うものであったが、とにかく空海の幽閉はとかれたのである。
空海はとりあえず槇尾山に居を移し、現在の槙尾山施福寺でさらに2年間すごす。
さらに朝廷が空海に「京にのぼりて住め」として与えたのは高雄山寺(現在の神護寺)であった。
天皇となった嵯峨天皇は空海の書や詩を愛していた。平安京をはさんで、東西に比叡山の最澄、高雄山の空海と平安仏教の二大リーダーが並び立った。
空海は806年留学先の唐から帰国して1年間は博多にいた。その証が博多駅近く祇園に空海が設立した東長寺である。
東長寺の門には「密教東漸第一の寺」とあり、「東長寺」の名は空海が東に長く密教が伝わることを願ってつけた名前である。
唐より帰国して博多にいたその1年間は空海にとって貴重な時間であった。空海は博多(大宰府)で、もちかえった密教の法具を整理し密教を理論化、体系化していった。それは新しい世界観をうちたてるために、必要な時間であったといえよう。
さて今日、我々が博多で目のあたりにするのは、最澄の「東光院の停滞」と空海の「東長寺の繁栄」のコントラストである。
東光院は、藩主黒田忠之によって戸時代初期の火災からの復興が、僧栄仙が招かれておこなわれ、その時に真言宗に改宗され、薬王密寺「東光院」と名も変り、「真言宗仁和寺派」の寺となった。
藩庁まるがかえの経営基盤だったために、維新後は次第に衰退してゆき、仏像等の保存を福岡市に委ねられて1981年に宗教法人総本山薬王密寺「東光院」は解散したカタチとなっている。