「金山」周辺の人々

大分県は全国の都道府県の中でも、突出して日本銀行と関わりが深い。歴代の日本銀行総裁31代のうち、4人を大分県出身者が占めている。
このうち井上準之助総裁が第9代と第11代の2回総裁に就任していることから、就任回数5回の大分県は、日本で1位となっているのだ。
付け加えると、大分県出身ではないものの、第28代の速水総裁と、第30代白川総裁が大分支店長を経験している。
というわけで、大分県は日銀総裁になるための「登竜門」のようにも見える。
さて日銀総裁の中でも「金解禁」で歴史に名を残したのが、井上準之助(当時、蔵相)である。
井上は、旧日田郡大鶴村(現・日田市)生まれで、生家は久大線の「夜明駅」に近い「井上酒造」という作り酒屋である。
東京帝国大学卒業とともに日本銀行に入行し、38歳という若さで営業局長を経験、49歳で本行初の生え抜きの日銀総裁となった。
1929年に就任した浜口雄幸首相は、経済の行き詰まり、金解禁の国際的圧力、軍部の暴走、財政再建の必要などに取り組むキーパーソン、つまり大蔵大臣としての入閣を乞うたのが、井上準之助であった。
政党政治が光を失いつつあるなか、朴訥だが山刀のように揺るぎない浜口と、スタイリストでナイフのように怜悧な井上という対蹠的な二人は、名コンビといわれた。
二人は、軍部や野党立憲政友会の猛反対を押し切り、金解禁、緊縮財政、軍縮を次々に断行していく。
浜口は、強い危機感と使命感で内閣を牽引するものの、東京駅で銃撃されて死亡する。
死に際して語った言葉「男子の本懐」は有名だが、その2年後の1932年、井上も選挙運動中に血盟団の凶弾に斃れている。
「軍事予算」の大幅削減を顔色一つ変えずにやってのける井上であったが、1929年10月のNY暴落は、誰も予想出来ないことであり、「旧平価」での金解禁は、世界恐慌という嵐に向かって、窓を開くような結果となる。
井上の緊縮財政が結果的に不況をさらに加速化させ、満州事変など軍部の独走に繋がっていくのは、歴史の皮肉である。
続く大分出身で、戦後初めての日銀総裁は「法王」とよばれた第18代総裁の一萬田尚登である。
一萬田尚登は、大分市野津原出身で、井上準之助総裁の秘書も務め、1946年に総裁就任。戦後の復興と経済の安定に尽力した。
8年半に亘り総裁を務め、総裁在職期間の最長記録を更新している。
連合国最高司令官マッカーサー元帥とも信頼関係にあったほか、インフレ防止を最重点課題とした金融政策を展開し、日本経済の安定に多大な貢献をした。
さらに平成の時代にはって、「バブル退治」を行った第26代三重野康総裁の名は記憶に新しい。
三重野は満州生まれだが、日本に帰国後は旧制大分中学校に入学、前大分県知事の平松守彦氏とは同級生である。金融引き締め策を相次いで実施するなどバブル退治を強力に推進したことから、「平成の鬼平」と称された。

大分県の日田は、江戸時代より交通の要衝として栄えた。瀬戸内海より、河川を利用すれば、有明海にも玄界灘にも出ることができる。
そこで江戸時代、日田は「幕府直轄領」となり、米作りばかりではなく木材も主要な産業となった。
明治時代にはいって、福岡県の矢部との県境に近い処で鯛生金山が発見され、海外からも人が押し寄せるほど活況を呈したが、1972年に閉山となっている。
個人的に、江戸幕府がこの地を「直轄領」にしたのは、「金山の存在」が幕府によって知られていたのではないかと推理して、「日田隠し」という稿をアップしたことがある。
先日、八女から車で1時間ほどかけて鯛生金山・地底博物館に行ってみると、「我が意を得たり」というような展示物と出会った。
「地底博物館」の順路に従って出口近くにいくと、松本清張が日田を舞台に「西海道談綺」(さいかいどうだんき)という小説を書いていることを知った。
1971年から76年まで連載されたこの小説は、ナント 日田の金山を「隠し金山」と想定している。
この小説は、1983年に松平健、古手川祐子らを主演として、テレビドラマ化された。
ストーリーを少々紹介すると、時は文化・文政の頃、作州・勝山藩の藩士・伊丹恵之助は、西国郡代地方手附への着任の話を持ちかけられる。
突然の話に驚く恵之助だったが、西国諸鉱山の金銀産出が急激に少なくなったことが公儀で問題となり、その実態調査という密命を帯びた着任であった。
こうして豊後・日田へ赴くことになった恵之助だったが、他方、恵之助の前任者・鈴木九郎右衛門が、謎の急死を遂げていたことを聞かされる。
恵之助は郡代から、現地視察を名目に、豊前・四日市の陣屋への出役を命じられたのを機に、周辺で鈴木急死の真相を探り始める。
そして、恵之助の前に、法螺貝を響かせる宇佐石体権現の山伏・行者の列などが姿を現す。
彼らは呪術的な超能力を駆使する変幻自在の集団として恐れられていた。
そして、ついに恵之助を待ち受ける大掛かりな策謀が動き出し、山中での神秘的な対決が幕を開ける。
ちなみに、松本清張は、本作の執筆にあたり、大分県中津江村(現・日田市)内にある金山跡を取材している。
もうひとつ「地底博物館」の展示物で印象的だったのが、鯛生金山の内部でも焼酎が作られていたという事実である。
その名ももズバリの「黄金浪漫」。30度の麦焼酎で金箔入り、鯛生金山内部の坑道の環境が、熟成させるのに理想の環境なのだそうだ。
坑内で焼酎を3年間ネカセルことによって風味を得るのだという。
また、金鉱が走る中津江村は、サッカー世界選手権では、中部アフリカに位置するカメルーンの宿泊地となったことでも知られる。
カメルーンの経済規模は日本の佐賀県程度だが、自力で水力発電をまかなっていることや、石油の採掘などで、サハラ以南としては最も経済的に成功した国といわれる。

鯛生金山を出て日田に向かう途中、「下筌(しもうけ)ダム」に遭遇した。前々から一度は見たいと思っていた場所だけに心弾んだ。
下筌ダムは、山林地主・室原知幸のダム建設反対の戦い、すなわち「蜂の巣城の戦い」で有名な場所である。
闘争のリーダー室原知幸の山林の領域に「鯛生金山」の金鉱脈が走っていることを知った時、室原智幸の反対闘争のイメージが、自分の中で幾分「変色」することにもなった。
室原氏の山林を流れる津江川の下流にある久留米がしばしば大水害に見舞われており、この地の「ダム建設」に当初から反対したわけではなかった。
ただ訪れた役人が、小学生を諭すように「建設省は地球のお医者さんです。信頼して任せて下さい」といったり、一方で「日本は戦争に負けたんです。それを思えばこれくらいの犠牲を忍ぶことが何ですか」といった高飛車な態度に出た。
その「横柄」さのひとつひとつが室原の逆鱗に触れたといえるが、室原氏の妻が「大変なことになった」と日記に書いていたのは、室原氏の性格を熟知していたからで、実際にその予想は正しかった。
早稲田法学部卒業の室原は、地元では「大学様」とよばれていた。
すでに60歳を超えていたが、国との戦いに備え自宅にこもり「六法全書」を片手に憲法、土地収用法、河川法、多目的ダム法、電源開発促進法、民事訴訟法、行政訴訟法までをも跋渉した。
そして、国との間での訴訟は75件を超えるに至った。
室原は国との戦いで「智謀」の限りをつくした。
たとえば国は土地収用法14条の適用にあたり、測量に当たって已むをえない必要があれば障害となる伐徐を県知事の認可で出来ることを定めているが、その障害物を「植物若しくは垣、柵等」と限定している。
これを字義どおり解釈すれば、小屋は厳然たる構築物として伐除の対象外となるはずだと考えた。
住民等は民法上の権利を居住性を具備した小屋を次々に増やす戦術にでた。
つまり実用ではなく、「法的戦術」のために小屋をつくりはじめ、いつしか黒澤明の映画「蜘蛛の巣城」にちなんで「蜂の巣城」とよばれた。
国側(建設省)は、小屋を法的に除去できるか「解釈論」が分かれたが、「河川予定地制限令」という明治以来ほこりをかぶって埋もれていた重宝な法令を持ち出した。
ただちに国は、標高338mのダム湛水予定線下の全域を河川予定地として「制限令」の適用区域とすることを告示した。
つまりこれらの小屋を河川敷内の「違反物件」として除去できるからだ。
国はしてヤッタリの思いであったろうが、室原はこの法令は河川工事によって「新たに」河川となるべき区域に適用すべきことを明確にしているが、ダム建設工事がはたしてこの河川工事の範囲に属するかという「反論」で応戦した。
室原の戦いは、「法律」による応酬ではすまなかった。
1960年6月20日、この日九地建は津江川河川敷にて仮架橋仮設工事を始めたが、反対派100人以上が川の水や人糞をかけるなどして、作業員の渡河を阻止した。
この水中大乱闘では大分・熊本の両県警から300人が待機しており、これを鎮めたが、建設省側に17人の負傷者を出した。
下筌ダム建設期間中、建設大臣は三人変わったが、変わるたびに室原知幸に会見を申し入れることが恒例となり、いつしか国側が室原にコビを売ったカタチになていく。
室原はそれに「面会謝絶」の木札で応えた。
裁判費用は室原一人の拠出であったにせよ、一般の村民は「監視小屋」につめることなどにより、その間 働くことさえできず、長期の闘争は日稼ぎに頼っている者にとっては深刻だった。
イツ終わるともしれない戦いに、住民達が生活の糧をこの地以外に求めるにつれて、「蜂の巣城」も縮小して室原の孤軍奮闘の様相を呈していった。
そして皮肉にも、山森を守るための費用捻出の為に山林を売らねばならなくなっていった。
裁判では国側が勝訴し、下筌ダムはついに建設の運びとなり、室原は訪れる人々に「ダム反対」を逆さに「タイハンムダ」と読ませた。
1970年春、下筌ダムは完成。室原は自宅に闘争本部を移し、最後まで反対を叫び続けたが、この年の6月28日に来客を送り出した後「気分が悪い」と言って、翌日に死去した。
享年70。葬儀にはすでに村を出て行った人、建設省関係の人も参列した。
涙ながらに弔辞を読んだのは当時の九地建の所長だった。
室原氏はこのダム反対闘争に1億円を超える私財をつぎこみ、その死後に判明した借財は2000万円近くだった。
最後に残された問題は室原宅の移転問題だった。室原宅が収用できなければ、下筌ダムの完全湛水(水を貯めること)及び松原ダムの試験湛水ができなかったからである。
この問題については両者間で和解成立。室原一家は日田市内に移ることとなった。
和解では、九地建が「その幅広い意見と批判は、貴重な経験、教訓として今後の建設行政に生かしてゆく」と表明した。
「公共事業、それは理に叶い、法に叶い、情に叶うものでなければならない。そうでなければ、どのような公共事業も挫折するか、はたまた、下筌の二の舞をふむであろうし、 第二の、第三の蜂の巣城、室原が出てくるであろう」と結んだ。
室原が語った「公共事業は法にかない、理にかない。情にかなわなければならない」は、その後の行政闘争の「灯(ともしび)」として生かされていった。

室原死後2年の1972年に鯛生金山が閉山しているが、室原の反対派の「水中乱闘事件」があった津江川は、かつて「砂金」流れる川であったはずである。
実際、「地底博物館」前では、多くの人々が「砂金とり」体験を楽しんでいた。
室原のルーツは、室町時代の豪族の末裔とも言われているが、この辺りの有力な山林地主でもうひとつの家が、北里家である。
北里氏は、肥後国小国郷北里に依拠した中世から続く小土豪、地侍の一族。清和源氏二代源満仲の次男源頼親を始祖と自称した。
鎌倉時代に源頼親の子孫が北里に下って永住したと伝承されている。
南北朝時代肥後桜尾城によって阿蘇氏に仕え、戦国時代後期には大友氏に属した。
江戸時代になって北里惟経が加藤清正に250石で召し出され、1633年小国郷の惣庄屋に任命された。
「加藤氏改易」後は移封してきた細川氏に臣従し、加藤氏時代から11代にわたって北里伝兵衛を称し惣庄屋を世襲した。
北里氏一族は熊本県阿蘇郡小国町を中心に繁栄し、地方議員・自治体首長・弁護士・医師などを輩出して、現在も地域の指導的役割を担ってきた。
まさに室原家隣り合った大山林主であったが、北里達之介氏は当時県会議員も務めており、ダム建設の説明会でも発言して、当初ははっきりとした反対派だった。
当時、反対の気運は村中に広がっており、「ダム反対」「守れ、墳墓の地」といった看板がたてられ始めた。
このあたりは富裕な土地で、日田杉の生長が良く、他にシイタケ、コウゾ、麻、茶などが収穫できた。地区には室原・北里両家のもとで山林労働を生業にしている人が多く、村がダムに沈むということは、父祖伝来の土地とそれまでの生活を失うということを意味していたからだ。
細菌研究で有名な北里柴三郎は、1853年に熊本県阿蘇郡小国町で、惣庄屋家の支流に当たる家に生まれた。
1871年、18歳で熊本医学校に入学してオランダ人医師マンスフェルトの指導を受け、医学への道を志した。
1874年、東京医学校(のちの東京大学医学部)に入学し、在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、「予防医学」を生涯の仕事にすることを決意し、その志を実践するため、1883)年に大学を卒業すると、内務省衛生局に奉職した。
1886年からの6年間、ドイツに留学し、当時、病原微生物学研究の第一人者であったローベルト・コッホに師事して研究に励んだ。
留学中の1889年に「破傷風菌」の純培養に成功、さらにその毒素に対する免疫抗体を発見して、それを応用した「血清療法」を確立し、この功績により一躍世界的な研究者としての名声を博した。
1892年に帰国し、その翌年には後の北里研究所病院を設立して、結核予防と治療に尽力。また、1894年、ペストの蔓延している香港に政府から派遣された北里は、病原菌であるペスト菌を発見するなど、予防医学の先駆者としても活躍した。
かって東洋一の「鯛生金山」近くで生まれた三人、日銀総裁・井上準之助、ダム反対闘争の山林地主・室原智幸、世界的細菌学者の北里柴三郎。
特に、金解禁の井上準之助が「金山」のすぐ近くで生まれたのは、面白い符合の一致である。
三人ともこの土地に古くから根付いた家の出身であり、山の「守り主的」な意識が、彼らにゆるがぬ「強靭さ」を賦与したのかもしれない。