サザンで史跡めぐり

横浜・関内駅北口を出て徒歩1分ほどに、割烹・天ぷら「天吉」がある。
赤レンガをあしらい、ペリー来航をイメージした飾り絵があるカウンター。テーブル席も落ち着いた雰囲気の店である。
「天吉」の店主は、5代目の原茂男。1872年創業で、開業当時は、真金町の大門前にあったという。それ以前の江戸末期から10年ほどは、屋台で営業していた。
初代・原庄蔵は川崎市武蔵小杉の出身で、そこから横浜に進出してきた。今のような天ぷらでなく、主にアナゴ、コハダなどの魚介類を揚げていたらしい。
3代目・原源蔵の代に関東大震災に遭うが、その後再建し、伊勢佐木町4丁目で、戦前、戦中を通じ、海軍の「横須賀海軍武官府指定食堂」として営業したそうだ。
つまり、海軍指定食堂だったが、1945年、横浜大空襲で全焼したが、翌年にはバラック建てで営業を始めた。
3代目が考案したかきあげは、「天吉」の名物で人気の品だそう。濱天丼に乗っているかきあげは小ぶりのものだが、大かきあげは卵1個を使ったボリューム感のあるものだそうだ。
この店、横浜でサザンオールスターズのコンサートなどがある際や、サザンのイベント、アルバム発売前後は、サザン関係のサークル、支部が予約してにぎわう。
というのも、桑田佳祐夫人、原由子さんの実家であるためだ。
さて、「天吉」の住所はといえば「馬車道」。この直截な地名は、桑田作詞作曲の「恋人も濡れる街角」の中の フレーズに登場する。
♪あ~あ~ ときおり雨の降る~ 馬車道あたりで、待っている~♪と、口ずさんだ人も多いだろう。
煉瓦で舗装された道や実際にガスを燃やしているガス灯の街路灯など、当時の面影を感じさせる物が設置されており、観光客も訪れる。
また、関内には近代洋風建築(大半が昭和時代建築)が残っており、この馬車道に何棟か残っている。
その由来をいうと、アメリカが江戸幕府に開国を要求し、日米通商修好条約が結ばれた。これにより貿易のため横浜港が開かれ、関に外国人居留地が置かれた。
その関内地域と横浜港を結ぶ道路のうちのひとつとしてこの「道」は開通した。
外国人はこの道を馬車で往来しており、当時の人々にその姿は非常に珍しく、「異人馬車」などと呼んでいたことから、この道は「馬車道」と呼ばれるようになった。
さらに明治初年には東京行きの日本初の乗合馬車がこの付近から出るようになったことでも有名である。

サザンオールスターズの曲には、歴史の舞台「鎌倉の地名」がたくさん登場する。桑田佳祐は茅ケ崎出身だが、高校が鎌倉高校出身なので、「鎌倉物語」をはじめ当地の地名が曲に登場するのは自然といってよいだろう。
そして歌詞の中には、よく知られた地名も登場するが、「愛の言霊」に登場する地名は、"閻魔堂""釈迦"など、あまり一般には知られていないので、かえって興味がわく。
閻魔堂は、1250年に建てられたお寺。正式名は円応寺だが閻魔堂ともよばれる。十王像がまつられている。この十王像とは、死者の生前の行いを調べ判決するいわゆる閻魔大王のこと。
「本尊」は鎌倉時代の運慶が作った作品。運慶が笑いながら作ったので、閻魔様の顔がどことなく笑っているように見えると言われていて、古来から「笑い閻魔」ともよばれている。
また、神奈川県鎌倉市の南部、「稲村ケ崎」で、戦前の教育ではあまりにも有名な場所。
1333年、後醍醐天皇から北条氏追討令を受けた新田義貞が鎌倉に攻め込んだ。稲村ヶ崎で竜神に祈り黄金の名剣を海に投じると、みるみる潮が引いたと言う言い伝えは有名。
その干潟をわたり鎌倉に攻め入り鎌倉幕府を滅亡させた。
鎌倉時代には、「和田合戦」など御家人同士の激戦地であり、現御成町にあった問注所での裁判の結果の処刑場でもあったため、現在でも人骨は埋まっており、工事で当時の人骨が出土することがあるという。
源義経の妻妾静御前が、源頼朝配下に捕われて鎌倉に送られた後、義経の男児を出生するが、男子が生まれた場合は殺すという頼朝の命により浜に遺棄されたと伝えられている。
桑田佳祐の初映画監督作品に「稲村ジェーン」がある。1965年の鎌倉市稲村ヶ崎を舞台として、湘南鎌倉市の稲村ヶ崎を舞台に、20年に一度の台風によってもたらされるという伝説のビッグウェーブ、"ジェーン"を待つサーファーたちを描いた。
また、江の島は馴染みの地名となったのは、落語の「大山(伊勢原市)詣り」に見られるように、江戸時代後期には江戸庶民の行楽地として"大山ー 江の島ー 鎌倉ー 金沢八景"を結ぶ観光ルートが流行した。
建て前は寺社参拝だが、景勝地や古蹟を訪ね、名物料理を味わい、名産を土産とするという側面が強くなってくる。
江の島の風光は多くの浮世絵に描かれ、歌舞伎の舞台となるなど、広く知られるようになる。
もとは寺であったが明治の廃仏毀釈により"宗像三女神"を祀る「江ノ島神社」となった。
江ノ島を有名にしたのは、1964年、東京オリンピック時にはヨット競技会場に選ばれ、マリンスポーツのメッカとして世にしられていく。
サザンの曲の中に頻繁に登場する江ノ島だが、「夏をあきらめて」のなかの江の島が、一番ではなかろうか。
♪岩陰にまぼろしがみえりゃ虹がでる。江ノ島が遠くに寝てる。このまま君とあきらめの夏♪

サザンオールスターズに登場する地名で学ぶ「現代史」にいく。「ラブ・アフェア」には、ハーバービューや「大黒ふ頭」といった名所が登場する。
1930年のシアトル就航以来30年間にわたり太平洋を横断した氷川丸の中にあるレストラン「ハーバービュー」で、格的なフランス料理が味わえる。
「ラチェン通り」は、茅ヶ崎駅から程近くの通りの名前。松が丘に別荘を建てていたルドルフ・ラチェン(1881~1947年)にちなんで付けられた。
さてサザンにおいて一番頻繁に登場する地といえば、湘南の海に浮かぶ「エボシ岩」である。
数年前、この場所の秘密を知って、実際に茅ヶ崎まで行ってソノ「姿」をカメラにおさめ、「チャコの海岸物語」や「ホテルパシフィック」の歌詞を思い浮かべた。
それは、茅ヶ崎の砂浜から2キロmほど先に唐突に突き出た5~6mの高さの烏帽子の形状の岩である。 昔、公家や武士などが用いた帽子である「烏帽子(えぼし)」に似ていることからこの名が付けられた。
1923年9月1日の関東大震災で、マグニチュード7・9の大地震は、茅ヶ崎と大島との中間点の海底を震源地として起こった。
これにより茅ヶ崎には烏帽子状の岩が隆起し、コノ岩がいつしか「エボシ岩」として茅ヶ崎名物となる。
ただ、誕生時のエボシ岩と今日ののエボシ岩とでは随分と形状が異なる。
実は1951年、アメリカ進駐軍による「砲撃の的」とされカタチが変わったのである。
浜にはずらりと米軍機関砲搭載機甲車が並び「エボシ岩」を砲撃練習の標的として実弾訓練をし、この演習は1年間続けられた。
当時、岩の中腹にあった八大竜王の社は無くなり、左に傾いていた烏帽子は、現在の右斜へと姿を変えたという。
サザン・オールスターズの曲の中に数多く登場する「エボシ岩」は、自分の中ですっかり馴染みの言葉となっていた。
しかし、この岩の秘密を知って以来、この「エボシ岩」という言葉が違って響くようになった。
すなわち、エボシ岩は「過去の海岸物語」の雄弁な証言者なのだ。
原由子がソロで歌った曲といえば「私はピアノ」が有名だが、それ以外にも「新・野毛山模様」がある。このタイトルの場所「野毛山」も、歴史を担った地である。
現在、「野毛山公園」は、神奈川県横浜市西区に位置する都市公園となっている。
約380本ある桜の名所としても有名で、園内からはみなとみらい地区も一望できる。
古くから、野毛浦(現:野毛町)に面した標高50mの丘陵一帯を野毛山と称していた。1859年、横浜が開港すると、開港場より東に外国人が居住、西の野毛山は日本人の豪商たちの住宅地となり、原善三郎や茂木惣兵衛らの邸宅が建てられた。
1887年、ヘンリー・スペンサー・パーマーによって野毛山に横浜水道の配水池が設置され、日本初の近代水道が始まったことでも記憶される。
第二次世界大戦中は陸軍に使用され、戦後1947年までは米軍に接収されていたが、1949年、日本貿易博覧会が開催、野毛山が第一会場となっている。
♪森今宵秋 のお祭り囃子 ホイ ホーイ ポッチャリ 虹を見たか  陽気な眺めですね  夜霧の野毛山  Oh! So Sweet♪

芸能界における加山雄三と桑田佳祐の関わりは、あまり知られていない。二人の間には、遠く維新の功労者「岩倉具視」が介在している。
加山氏の(本名:池端)の母方の高祖父は、政治家の岩倉具視である。
加山の母は岩倉具視の曾孫にあたる女優の小桜葉子で、本名が池端具子で、旧姓岩倉である。
小桜葉子は多くの映画に出演したが、メロドラマの美男スターとして活躍していた俳優の上原謙(池端清亮)と結婚し、芸能界から引退した。
岩倉具視といえば明治維新当時、下級公家ではあったが新政府軍と連絡をとりながら維新へと導いた人物で、時に「妖怪」とさえよばれた豪胆な人物である。
岩倉が説く公武合体派が尊譲派におされたために、1862年より5年間洛北の地で蟄居生活を強いられたことがある。
維新後、この岩倉氏が建てたのが、湘南茅ヶ崎のパシフィック・ホテルであるが、岩倉具憲(小桜葉子の弟) が実際の経営を行い、俳優の上原謙と子息の加山雄三らが共同オーナーとなっていた。
開業当初は著名人が多数訪れたことで有名となった。
1960年代「若大将」として名を馳せた加山雄三だったが、けっして順風満帆な芸能人生を歩んだわけではなかった。
1970年のパシフィックパークホテル倒産時には、最大23億円もの借金を抱え、1個の卵を夫婦2人で分けあって、卵かけご飯を食べたという苦労も味わったという。
テレビ番組「クイズタイムショック」では、全問正解パーフェクトを達成したことをよく憶えているが、こういう賞金や賞品によってしか海外でバカンスを過ごせなかった時期のことであった。
パシフィックパークホテルは18億円で売却できたものの、加山氏がこれだけの借金を10年がかりで返済したというのは、岩倉具視の豪胆さを彷彿とさせるものがある。
ところで岩倉具視は鉄道と関係が深い。岩倉が欧米使節として視察して一番痛感したことが、全国的な鉄道の敷設の急務であったという。
加山氏も鉄道マニアであり、西伊豆・堂ヶ島にある「加山雄三ミュージアム」には自身の鉄道模型コレクションが多数展示されているそうだ。
東京上野には岩倉高校という通う学校があるが、1903年鉄道界の恩人、故岩倉具視公の遺徳に因んで、「岩倉」の二文字を校名に冠し、鉄道員を育てる目的で「岩倉鉄道学校」としてスタートした学校である。
ところでサザンオールスターズの曲には岩倉氏と加山氏が共同オーナーだったパシフィックパークホテルのことを歌った「ホテルパシフィック」という曲がある。またサザンオールスターズと研ナオコの歌った「夏をあきらめて」にも、このホテルの名前が登場する。
♪潮風が騒げばやがて雨の合図/悔しげな彼女と逃げ込むパシフィック・ホテ~~ル♪
サザンオールスターズの「ホテルパシフィック」は、2000年夏に茅ヶ崎公園野球場で開催されたサザンオールスターズ茅ヶ崎ライブの記念曲として制作・発売されたものである。
加山の父で俳優の故上原謙が経営にかかわった会社に桑田の父親が勤めており、お互いの父親はマージャン卓を囲んだり、一緒に旅行に出かけるほど親しかったという。
桑田佳祐も幼い頃から遊びに行き、加山との古くからの知り合いで、桑田は「嘉門雄三」を名乗って音楽活動をしていたこともあるほどだ。
いわば加山家(本名:池端家)と桑田家は家族づき合いであり、そうしたことが桑田氏の音楽活動を大きな刺激を与えたということである。
桑田佳祐は、少年時代パシフィック・ホテルの「全盛期」を眺めて過ごし、後にこのホテルでアルバイトもしていたこともある。
桑田氏の音楽活動にとって、パシフィック・ホテルはきってもきれない存在であり、その意味でいうと桑田氏のサウンドは、岩倉具視がお膳立てをしたということになるのだ。

サザンオールスターズの「唐人物語(ラシャメンのうた)」は、下田が生んだ悲劇のヒロイン"唐人お吉"こと「斉藤きち」のことを歌にしたものである。
1953年、突如、ペリーが浦賀に来航し、泰平の夢を貪っていた。江戸幕府に日米和親条約の締結と下田、函館の開港を迫り、翌年これを締結した。
そして、1957年には下田に着任したハリスによって、日米通商条約の締結を迫られる。
対応に苦慮した下田奉行は交渉の進展の為、又、米側の懇請もあり、ハリスの看護人として、新内お吉と呼ばれる名妓お吉を差し出すことを決めた。
お吉は、はじめきっぱりと拒絶するが、奉行所の役人や名主は無論のこと、言い交わした船大工の鶴松にまで説得されて、泣く泣く領事館の置かれた玉泉寺に通う事を承知する。
必死のご奉公であった玉泉寺通いは、短期間で済んだのだが、そんなお吉を世間は、唐人お吉、異人の女房などと白眼視して迫害するのだった。
「唐人お吉」の物語は、古くから小説や演劇・映画などに取り上げられ、文学座では「女人哀詞・唐人お吉ものがたり」などが公演された。
お吉はこの玉泉寺通いが原因となって、人々のお吉に対する蔑視と嘲笑に耐え切れず、酒に溺れ、世間から孤立し、その後は、幕末、維新の動乱の中、芸妓として流浪の果てに下田にもどる。
鶴松と暮らし髪結業を始めたが、ほどなく離別。さらに小料理屋「安直楼」を開業したが、2年後に廃業。「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身をもちくずし、1891年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶った。
波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕は多くの人の涙を誘った。
ところで、1992年10月13日未明、旅公演先の伊東市で深夜のドライブ中、文学座俳優の太地喜和子が海へ転落し水死した(48歳)。
太地は文学座の巡業公演で静岡県伊東市を訪れ、前日、同市の観光会館で公演された「唐人お吉ものがたり」に主演。公演を終え、スナックで飲んだ後、「海を見よう」と乗用車で観光桟橋に出かける。
桟橋に係留していた知人の船を訪れたが誰もいないので車を後退中、誤って桟橋から転落した。
大地にとって「唐人お吉ものがたり」は念願の役で、その演技は鬼気迫るものがあったという。
♪ 名もないこの街に 異国の陽がのぼる。乙女は悲しみを 御国のためと知る。春はまだ夜は長く 金鳴る了仙寺。 運命(さだめ)と泣くもよし 儚(はかな)き世の情け♪
女優と役柄は"死に様"まで似ていた。