姿を消す時・現す時

歴史上の「絵師」の中で、もとから絵を志ざした者など一握りであろう。大概は、絵を描くほかに身を立てる術がなく、急場しのぎではじめた人が多いに違いない。
つまり、彼らは「絵筆」の中に、「光明」を見出したということだが、そんな絵師に、元禄時代の英一蝶(はなぶさ いっちょう)を思い浮かべる。
一蝶は、吉原の華やかな世界に身をおき、花魁の太鼓持ちをし、裏方の世界まで知り尽くしていた。
そして、蝶がかりそめの戯れを楽しむかのように舞う世界、吉原での時々を「絵筆」で留めおこうとした。
美人画も秀逸だったが、むしろ庶民を生き生きと描いた絵こそが出色だった。
例えば「吉原風俗図巻」では、客と遊女との喧嘩や、女が嘘泣きで客を巧みに引き止めている姿などを描いている。
ただ、こうした絵を一蝶が描いた場所が、絶海の孤島であったと知ったら、誰もが驚くに違いない。
というのも、ある日突然、晴天の霹靂にあったように、三宅島への島流しを申しわたされる。
表向きは馬を虐待した「生類憐みの令」違反だが、実際は吉原で大名・武士に多大の「散財」をさせたからだとされる。煌びやかな吉原の世界から一転して、死だけが待つ孤島へと移送された。
永久に生きては帰れない絶望の中で、一蝶は島民のために「七福神」などを描くが、「天神様」の表情がかなり怒っているのは、その当時の一蝶の気分を反映していたのかもしれない。
それでも一蝶は、人を喜ばせるのが性分だったようで、毘沙門天、恵比寿様などの絵を描いて漁民に渡した。
そんな流人生活の中、三宅島に流されていく途中に風待ちのため立ち寄った新島の梅田家が「地獄に仏」となった。
梅田家の人々が一蝶の絵を江戸で売ってくれ、一蝶の「画才」の評判が江戸で広まる。
江戸から注文がきはじめ、一蝶は背いっぱいの力をふるって懐かしい江戸での遊興の日々を描いたのである。
つまり一蝶は、絶海の孤島で絵師となったといえる。
前述の「吉原風俗図巻」は、三宅島で描いたもので、「四季日待図巻」では 眠ることなく朝日をおがむ神事の様子を、庶民の表情と共に生き生きと描いている。
神主さんから博打まで、裏で鶏をさばく人まで横幅約7メ-トルに描きこんだこの画は、一蝶の視野の広さと注意が隅々まで行き届く絵かきであったことを物語っている。そして1709年、奇跡がおこる。
将軍代替わりで、「生類あわれみの令」に関する流人が赦免となったのだ。深川寺前に居を構えると豪商に取り入り、「英一蝶」として再スタートした。
その後も名作を数多く残し、73歳で大往生した。
彼の作品の中に「雨宿り図屏風」という絵がある。
雨をさけるために武家屋敷の門前に身を寄せて凌ぐ人々の姿、坊主もおれば物売りもいるし子供達はむしろ雨にはしゃいでいるのに、ただ武士のみが困ったような陰鬱な表情で空を眺めている。
かつて、元禄時代を「峠の時代」とよんだ元通産官僚の作家がいたが、英一蝶は、桜の散るのを予感するように、己が時代の「予感」を絵の中に描きこんだに違いない。

江戸時代の浮世絵師・東州斎写楽とは一体何者なのか、いまだに「謎」である。
「写楽」という存在が謎を呼ぶのは、写楽の出現と消滅があまりに唐突だからである。
写楽の作品発表は1794年の5月から翌年の2月までおよそ10ヶ月間、作品は140点にものぼる。ただ写楽はその後忽然と姿を消す。
実は、浮世絵(錦絵)の製作は、裾野の広がりが大きい。版元の依頼にがよってまず絵師が原付大の版下絵をつくる。
これをそれぞれの絵師と息のあった彫師がうけて版木に糊ではりつけ、生乾きのところで紙をはがして墨線だけを残して、小刀、ノミで彫って墨線を彫り出す。
こうしてできた墨板は摺師に渡されて墨摺絵ができあがる。絵師は必要な色の枚数だけ一色ずつ彩色してまた彫師に渡す。
彫師はこれをうけて色ごとの版をつくる。摺師はそれに合わせて一色ずつ摺りだす。紙をのせて馬連でこすって摺る。大体、一つの板で200枚ぐらいを刷るという。
つまり浮世絵の制作は絵師・彫師・摺師の「共同作業」で、多数の人々がその制作に有機的に関わりあったといえる。
そんな係りの中心にいた「写楽」の正体を示すものが何もないのは、確かに不思議である。
実はこれだけの共同作業を束ねたのが版元の蔦谷重三郎という人物である。
「版元」というのは絵師と彫師と刷師とを束ねる総合プロデューサーだが、蔦屋は寛政の改革で財産没収の憂き目にあっている前科者なのだ。
写楽の生きた時代つまり松平定信の「寛政の改革」の時代は、奢侈や贅沢への取り締まりも強く社会生活への取り締まりの厳しい時代であり、前科をもつ出版元から依頼されて異様ともいえる「大首絵」を出すことと引き受けた「写楽」と名乗る人物は、かなり大胆不敵か差し迫った事情があったのではないか。
蔦屋重三郎にとっても、財産を没収された起死回生策としてプロデュースしたのが東洲斎写楽の浮世絵で、大きな顔に人間の様々な感情をはらませた「大首絵」は大人気となった。
役者のよじれた笑顔の裏には、媚や卑屈や傲慢など役者の内面をも浮き立たせ、モデルとなった役者側からすれば、何もそこまで描かなくてもといった気持ちにもなったであろう。
当時、狂歌でしられるあの大田南畝が、写楽はあまりにリアルに描いていたため、絵師生命を短くしたといううようなことを書き残している。
ところで2008年、ギリシアの島で写楽の肉筆絵が発見された。ギリシアの島と江戸とを結んだのはグレゴリオス・マノスというギリシアの外交官であった。
マノスは、ウイーンの万国博覧会で日本の文物をみて魅せられた。
そして日本の浮世絵のいくつかを買い取って、その後ギリシアのアジア国立博物館の館長となるのが、博物館の彼の寄贈作品の中に写楽の「肉筆絵」あった。これが写楽の作品であることは、役者「松本幸四郎」の肉筆絵が、細部にわたり浮世絵版画の「松本幸四郎」に限りなく近似しているからである。
そしてこの役者の活躍した時代などから判断して、写楽が「姿を隠してから4か月後の作品」であることが判明した。
つまり、写楽は姿を隠しても、愛好家のために絵を描いていた可能性がでてきた。
「美の巨人達」というテレビ番組で「写楽は何者か」という謎に迫っていたが、写楽の絵には、どこか拙さががあり、能役者だった下級武士ではないかという説がとなえられていた。
能役者は、役者達を細かく観察することができる立場にもあり、当番後の1年間程度の非番の間に集中的に創作を行うことが可能だからである。

歴史上の人物の中で、名をなしつつも忽然と姿を消し、時を隔てて違った姿で再び世に現れたとしたら、その姿は人々の想像を掻き立てずにはおかない。
10年ほど前に「天地明察」という作品で直木賞を受賞した作家がいた。
この作家は、囲碁の世界で「安井算哲」の名で知られた人物が、その後「渋川春海」という名で「貞享暦」制作を行ったということに「創作意欲」を刺激されたに違いない。
そんな例を、「昭和」の時代に見出すことができる。一人はラオス僧となって、もう一人はビルマ僧となって日本から姿を消した。
ただ二人の生き様は、あまにも対照的であった。
1961年5月20日、参議院庶務課に「参議院議員辻政信がラオスで行方不明」という情報がもたらされた。
政治家が異国の地で消息を絶つケースはあることだとしても、「ラオス僧」に変装していたという情報まで飛び交った、この辻政信とはいったい何者か。
辻政信は、旧日本陸参謀にして戦後はベストセラー作家、そして参議院議員に転身したという異色の政治家である。
数々の作戦に従事した「作戦の神様」、清廉潔白の士と謳われる一方、悪魔、無能、下克上の権化といった悪評も絶えない。
辻政信は1902年10月11日、石川県の今立という山里で誕生した。
父の亀吉は「炭焼き」の仕事をしていたが、漢書を嗜む教養人であり、政信もそんな父の影響を受けて読書好きに育つ。
父は政信が幼いうちに他界するが、臨終の際、息子に「えらい者になれ」という言葉を残した。
辻政信の人生を振り返ってみると、この言葉こそが彼の関心事のほぼ全てを占めたといってよい。
当時の農村にとって「えらい者」とは、師範学校を出た教師、あるいは士官学校を出た軍人のいずれかを指すが、辻は軍人の道を目指した。
幼年学校こそ補欠合格だったが、その後の辻は休日も机に噛り付いて猛勉強を重ね、士官学校では首席で卒業した。
その後入学した陸軍大学校でも相変わらずのガリ勉を続け、優等の成績で卒業、恩賜の軍刀を拝領する。
辻政信が携わった主だった出来事には、ノモンハン、マレー侵攻、ガダルカナル攻略といったものがあり、このうち、マレー侵攻における辻の評価は高い。
もちろん、彼一人が作戦を仕切っていたわけではないが、果断な作戦で敵の虚を突き、シンガポールを陥落させた功績の多くは彼に帰せられるものである。
しかし、辻その他の作戦における彼の評価は非常に低い。
特にノモンハン事件は、単なる不毛な土地の国境争いで無益に多数の兵を消耗したとして悪名高い。
同じようにガダルカナルでも、彼は敵を見くびって惨憺たる結果に終わっている。
戦績とは別の方面でも辻は悪名を残している。
ノモンハンで捕虜になって帰還してきた部隊に自決を迫ったとされているほか、シンガポールでは「華僑は皆潜在的な敵である」とばかりに虐殺命令を出している。
サイゴンで終戦を迎えた辻は、中国に潜入して日本再建のための情報収集を図るという名目の下、7人の青年士官と共に僧侶に化けて同地を抜け出す。
やがて日本に帰国した辻は、しばらくの間、各地を点々として身を潜めていたが、戦犯指定が「解除」された翌年の1950年、世人がアット驚くカタチで姿を現した。
そして戦後の逃避行を描いた自伝小説「潜行三千里」を刊行、ベストセラー作家に躍り出たのである。
売り上げはめざましく、辻はこの年の作家の納税額ランキングで10位になっている。
その後も辻は「ノモンハン」「ガダルカナル」といった人気作を矢継ぎ早に発表し、作家としての人気を不動のものとした。
しかし、辻は自分が作家として終わることをヨシとしなかった。
父親の「えらいものになれ」という遺言が彼の脳裏にこびりついていたのか、1952年、参議院選挙に打って出る。
元軍人の間では眉をひそめる者も多かったが、作家としての人気、持ち前の「雄弁」が功を奏し、辻は見事初当選を果たす。
その後も彼は衆議院議員選挙に3回、参議院議員1回当選し、辻の選挙における強さを物語っている。
だが、政界における辻は「一匹狼」の浮いた存在でしかなかった。
なるほど彼は時に正論を吐く。しかしその正論を実現するため、他者を味方につけていくという能力に「絶望的」に欠けていた。
「荒唐無稽な綺麗事ばかり言う奴」とか、「お得意のスタンドプレーか」だと、周囲の人間は鼻白むばかりの思いで彼を見ていた。
そんな中、辻は「ラオスの左派パテト・ラオに、ソ連や中共、北ベトナムがどれほどの軍事援助をしているかを観察する」、「ハノイに行き、ホー・チ・ミン大統領と会見、ラオス、ベトナムにおける内戦停止の条件を聞き出す」という名目で渡航願いを出す。
起死回生を狙っての政治的実績作りか、それとも他の目的あってのことかはよくわからない。
ラオスのビエンチャンから徒歩で高原地帯に消えていったのを最後に、彼は歴史の表舞台から姿を消してしまった。

世界の戦史上最も愚劣といわれるほどに過酷を極めた、歴史上最も悲惨な戦いといわれるインパール作戦において、「うたう部隊」と呼ばれた部隊があった。インド・ビルマ国境方面に配備された、第31師団の歩兵58連隊で、 武蔵野音大卒の兵士などで攻勢され、収容所で捕虜となっている間に演芸班を結成して披露し、喝采をうけていたという。
この部隊の存在こそが、竹山道雄の小説「ビルマの竪琴」の素材となり、主人公のモデルとなった中村一雄氏も、この「うたう部隊」に所属していた。
イギリス軍を主力とする連合軍に押されて、日本軍は壊滅状態になった。兵隊はイギリスが宗主国であったビルマを逃れて、同盟国タイに逃げ込もうとしていた。
映画では、音楽好きの小隊長(旧作は三国連太郎、新作は石坂浩二)の下で、隊員たちは暇をみては合唱をし、戦いに疲れた心を癒していた。
とりわけ音楽的才能にすぐれている水島上等兵は竪琴を巧みに伴奏をした。
ある夜、敵に囲まれるが、全員で歌った「埴生の宿」がイギリス兵の心を打ち、敵味方双方の合唱へと発展する。
実は、「埴生の宿」の原曲はイギリスで作られたもので、これによって日本兵は終戦を知り、戦いをやめて捕虜となって収容所にいれられる。
その一方で、敗戦を知らず頑強に抵抗している部隊を説得しに行った水島上等兵は、目的も果たせず「行方不明」になってしまう。
水島はその道中、高僧によって助けられるが、隊に戻りたい一心で恩人のビルマ僧の袈裟を盗み、僧になりすましてビルマを横断し、収容所に向かおうとする。
しかし、その途中で無残な日本兵の屍を目にする。
山の斜面にミイラ化した無数の死体、川の浅瀬にゴミのように積まれた白骨化した死体、密林で木にもたれたまま息絶えた兵隊の死体。
インパール作戦は失敗し、アラカン山脈から逃げ帰った兵隊の死体は街道を埋め尽くし、その街道は[白骨街道]と呼ばれた。
そうした中、水島の心の中で今までとは違った「何か」が芽生えていく。
収容所の日本兵達の間では、戻ってこない水島が死んでしまったのではないかという噂がたつが、その一方で肩にカナリアをのせた水島によく似たビルマ僧がいるという「目撃情報」が寄せられる。
そしてあのビルマ僧が水島であることを確信するようになる。
映画のラストシーンでは、日本兵は鉄条網を挟んで、水島に一緒に帰国することを促しつつ「埴生の宿」を歌う。
その仲間に対して、その僧は無言のまま竪琴を演奏し、「蛍の光」を奏でて別れをつげる。
小説「ビルマの竪琴」の最後に、仲間にあてた「手紙」の中で水島上等兵は、心の「葛藤」を次のように書いている。
「あの”はにゅうの宿”は、ただ私が自分の友、自分の家をなつかしむばかりの歌ではない。
いまきこえるあの竪琴の曲は、すべての人が心に願うふるさとの憩いをうたっている。
死んで屍を異郷にさらす人たちはきいて何と思うだろう!あの人たちのためにも、魂が休むべきせめてささやかな場所をつくってあげりのではなくて、おまえはこの国を去ることができるか?
おまえの足はこの国の土をはなれることができるのか?」と。