モノ~引退と転生

この地球上の物質は人間を構成する元素も含めて様々なモノに「転生」しつつ存在する。
戦時と平時で、ドラマチックに「転生」するのは、人間ばかりか、モノについてもあてはまりそうだ。
豊臣家滅亡への戦い・大阪の陣の原因となった「国家安康」の文字で有名な方広寺の鐘は、江戸時代には鋳潰されて「寛永通宝」として使われた。
聖なる寺の「梵鐘」が、手垢いっぱいの「貨幣」に転じるなんて奇想天外だが、事実である。
我が地元・福岡県庁前の「日蓮上人像」の製作は、さらに面白い。
佐賀県(肥前藩)は幕末期に日本で最初に「反射炉」(=金属融解炉)が作られたところであり、日本の最先端を走っていたとっいっても過言ではない。
この「日蓮像」本体は、佐賀県の谷口製作所で作られたが、佐賀藩の御用鋳物師の伝統をもつ谷口鉄工所は、もともとは「大砲」を製造していたところだ。
つまり「大砲」を作った工場で、鎌倉仏教の開祖の銅像が生まれたということになる。つまり人も工場も、どう転ぶかわかったものではない。
さて、福岡市博多区の南部と大野城市西部にまたがる地域に、かつて進駐軍が駐屯した町・雑餉隈(ざっしょのくま)がある。
今は、陸上自衛隊の春日駐屯基地がつくられ、基地とセットのように歓楽街が広がっている。
町の名前にも似て、この町には雑草のように逞しい人々を生み出した。
今や世界企業の「ソフトバンク」や地場のスーパー「マルキョー」などの創業の地である。
また、この地がモノ作りやにおいても、優良工場や達人を生み出したが、それは進駐軍が駐屯していたという歴史と関係がある。
雑餉隈の町工場の経営者・吉村秀雄は、オートバイのマフラーやカムシャフトなど「奇跡の部品」を生み出し、その手は「ゴッドハンド」とも称された。
吉村は、雑餉隈で製材所を営む家庭に生まれ、横須賀の追浜基地にあった予科練に14歳で入隊した。
しかし、霞ヶ浦航空隊での訓練中に落下傘事故で入院し、海軍を除隊となった。
太平洋戦争では、現シンガポール支部に転任となったが、1945年の終戦間近に実家のある雑餉隈で胃潰瘍の療養中に終戦を迎えた。
雑餉隈は、板付飛行場に近いこともあり、アメリカの進駐軍が駐屯し、街を行き来していた。
終戦後に吉村の実家は鉄工所をはじめたが、商売の足として使用していたオートバイに興味を覚えるようになり、オートバイ屋「ヨシムラモータース」を創業した。
吉村はシンガポール赴任で英語を覚えたため、オートバイ好きの米兵が出入りし、米兵はいつしか吉村のことを「POP」(親父)と呼んで親しんだ。
そんな吉村に運命の転機が訪れる。
1954年進駐軍の兵士からレース用にと「バイクの改造」を依頼され、板付基地で行われたドラッグレースに出場した吉村は、オートバイの加速に飛行機の離陸にも似た魅力を感じ、オートバイのスピード化に没入した。
勝利を重ねる町工場「ヨシムラ」の名は、瞬く間に全国に広がり、あの本田宗一郎でさえも「ヨシムラ」の部品に脱帽するほどであった。
そして吉村は、1965年九州から横田基地のある東京都西多摩郡福生町(現・福生市)に移り、「ヨシムラ・コンペティション・モータース」を設立する。
そこで、ホンダから部品を提供してもらいマシーンを改造するという契約を結んだものの、自らレース専門会社を設立したホンダは、態度を一転させて吉村との契約を断ち、部品の提供をストップした。
そこで吉村は、アメリカの市場に飛び込んだものの、共同経営者に会社を乗っ取られ、再起をかけた新工場も火事で焼失する。
この時、吉村自身も両手が動かぬほどの瀕死の重傷を負った。
そんな「絶体絶命」の吉村の前に現われたのは、「レースで勝ちたい」と願うバイクメーカーの技術者達であった。
そして吉村は家族と共に、一発逆転をかけ1978年「第1回鈴鹿8時間耐久レース」にうって出る。
そして並み居る大メーカーを退けて、優勝をさらって多くの人々に衝撃を与えた。
ところで、雑餉隈とその近辺には、西鉄「雑餉隈」駅と、JR「南福岡駅」が存在し、「南福岡駅」に近い相生町あたりには「渡辺鉄工所」がある。
この「渡辺鉄工所」は現在、鋼材を切るスリッターラインの技術において日本でトップクラスといわれる技術を擁しており、バスの車体や潜水艦の船体などを製作している。
実は、この工場もともとは軍事工場で、かつて「九州飛行機工場」とよばれていた。
太平洋戦争末期、敗戦色濃厚な日本の「起死回生の切り札」として、戦闘機「震電」がこの工場で開発された。
「震電」は、制作図面30万枚、2万工程という苦闘の果てに完成し1945年8月3日に初飛行を行った。しかし皮肉なことに、初飛行から約10日後、日本は終戦をむかえたのである。
終戦後、米軍はこの「震電」の開発に早くから目をつけており、米軍はこの九州飛行機工場のすぐ近くに駐留して、いちはやく「震電」を接収しアメリカに運んだ。
現在、アメリカ軍が駐留していた場所は、自衛隊春日駐屯地となっているが、その正門はほとんど渡辺鉄工所(旧九州飛行機工場)と向かい合うように立っている。
アメリカに移送された「震電」はスミソニン博物館に保管されることになった。
雑餉隈で開発された幻の名機「震電」は、日本に原爆を落とし、日本を敗戦へと導いた飛行機「エノラゲイ」と共に、今もスミソニアンの地で静かに眠っている。
2005年、福岡の地でこの飛行機製作に関わった人々の協力により、「震電」を復元しようとういう動きが起こった。
そして2006年の終戦記念日とその翌日の2日間、震電は「渡辺鉄工所」に再びその姿を現したのである。

戦いの勝者は敗者が使い残したものをどのように扱うのか。その露骨なケースといえるのが、太平洋戦争中に活躍した「戦艦長門」の扱いである。
それは人間でいうならば、いわば「公開処刑」のようなものだった。
「戦艦長門」は、1945年8月30日に、連合国軍のひとつの国のアメリカ軍に接収される。
「長門」は空襲によって中破したまま修復されておらず、煙突とマストは撤去されて、アメリカ海軍による詳細な調査の後に武装解除された。
そして、1946年3月18日にクロスロード作戦の「標的艦」として参加するため、マーシャル諸島のビキニ環礁へ出発した。
「クロスロード作戦」とは、要するに核実験のことで、この時「戦艦長門」の艦長はW・J・ホイップル大佐で、180名のアメリカ海軍兵が乗り込んだ。
しかし破損のために使用できるボイラーの数が限られ、「長門」は数ノットという低速しか出せず、途中、応急修理のためエニウェトク環礁に立ち寄ったほどだった。
1946年7月1日の「第一実験」では戦艦ネバダが中心に配置され、「長門」は爆心予定地から400mのところに配置された。
爆弾は西方600mにズレてしまい、その結果爆心地から約1.5 kmの位置となった。
この時「長門」は、爆心地方向の装甲表面が融解したのみで航行に問題はない程度の被害で済んだ。
7月25日の「第二実験」では爆心地から900~1000mの位置にあり、右舷側に約5度の傾斜を生じた。それでも「長門」は海上に浮かんでいた。
しかし、4日後の7月29日の朝、実験関係者が「長門」のいた海面を見てみると、既に同艦の姿は海上にはなかった。
7月28日深夜から29日未明にかけて、浸水の拡大によって沈没したものと見られる。
ただ、「長門」が2度被爆してなお4日後まで沈まなかったことについては、当時の日本では「米艦が次々沈む中、最後まで持ちこたえた」「長門が名艦だった証拠」、「日本の造艦技術の優秀性の証明」と喧伝された。
ところで、「ビキニ環礁」における核実験といえば、実験によって被爆した「第五福竜丸」を思い起こす。
数年前に、東京の夢の島にある福竜丸の展示館に行ってみると、展示館前の浜辺に置かれている福竜丸のエンジンを見て、船体とは「別の運命」をたどったエンジンの数奇な運命を知った。
第五福竜丸は被爆後、1967年に廃船になったが、エンジンは別の人物に買い取られていた。
そのエンジンは、その人物が所有する「第三千代川丸」にとりつけられたが、同船は1868年に三重県熊野灘沖で座礁・沈没しエンジンは海中に没した。
長い間海底に沈んで忘れ去られていたが、和歌山県海南市のミニコミ紙発行人らが中心になって、1996年12月、28年ぶりにエンジンが海中から引き揚げられた。
さらに、「核の悲劇を改めて訴えよう」と、生協や平和団体などとともに、船体と一緒に夢の島で展示するよう求める市民運動を進め、1998年3月に都に寄贈した。
東京都はエンジンの寄贈をうけ、2000年1月19日、第五福竜丸展示館に隣接する浜辺に展示することとした。
エンジンは船の心臓にあたる部分だけに、この場所に置かれたのは、もっとも相応しいであろう。
こうして「第五福竜丸」のエンジンと船体は、33年ぶりに「一体」となったのである。

東京タワーは1958年に完成した高さ333mの電波塔である。
関東一円に電波を送るのに必要な高さが、これだけ必要だったということだ。
一方、どうせ作るなら世界一の高さのエッフェル塔を超えるタワーを作ろうという考えもあったようで、当時世界一の高さだったエッフェル塔の300mを超え、完成した。
1958年からオスタンキノ・タワーに世界一を譲るまでの9年の間、東京タワーは「世界一の高さ」を持つ塔であった。
エッフェル塔を醜いといったのが、フランスのモーパッサンで、モーパッサンはエッフェル塔の見えない場所、つまりエッフェル塔の中で生活する時間が多くあったという。
東京タワーが美しいか美しくないかは、周囲の風景との関係、つまり見る「角度」によるだろう。
徳川家の菩提寺・増上寺の背景として立つ東京タワーは、悪くない。それはちょうど、浅草寺の背景としてスカイツリータワーが、見応えがあるように。
東京タワーが作られ始めたのは1957年で、その少し前に朝鮮戦争が起きた。
朝鮮半島の主権を巡っての韓国と北朝鮮の戦争で、韓国にはアメリカを中心とした国連軍、北朝鮮には中国・ソ連が付いて争い、民間人も含めると犠牲者は400~500万人にも上る激しい戦争であった。
その戦争にはアメリカ軍の戦車も参加していたが、激しい戦火を潜り抜けた戦車はボロボロになったものも多くあった。
それらをアメリカ本土まで持って帰るのはコストがかかるし、古くなってきたのでわざわざ持って帰るより「新型戦車」を作りたいというアメリカの思いがあった。
戦車装甲は戦車の砲撃を受け止められるほどに丈夫に作るので、とても質の良い鉄でできている。
スクラップとなっても溶かして使えば、建材としても優秀である。
良質な鋼材がなく鉄不足だった日本とアメリカの利害は一致し、日本はスクラップ戦車90台を建材として買い取った。
中にはろくに戦闘の機会がなかいまま日本に運ばれてきた戦車(M26パーシング)もあり、燃料や弾薬も装填されっぱなしだったようである。
そして戦車から作られた鉄骨は東京タワーの展望台から上の部分に使われることとなったが。 およそ3分の1の高さ分が戦車から作られている計算になる。

アフリカのモザンビークは現在、IMFが経済支援を行いつつ国際社会への復帰を目指している。
内戦は終結したものの内戦中に敷設され200万個にも及ぶ地雷が経済復興の大きな障害になっており、世界の「最貧国」のひとつである。
数年前、九州国立博物館における大英博物館展「100のモノが語る世界の歴史」を見に行った。
実は、その中で最も印象的なものこそ、モザンビークで製作されたモノで、97番目の展示物「銃器で作られた母像」であった。
「ライフル銃」を解体して、その部品、部品を見事に組み合わせて「母親像」をつくったもので、近くにいた小学生の「ターミネーターみたい」という率直すぎる声もあったが、母親像のその手には部品で作ったハンドバッグが握られており、確かに「力強い母親」のイメージとなっている。
ちなみにこのハンドバッグは内戦で使われた「ソ連製ライフルAK47」の弾倉から作られているという。
モザンビークでは1976年から92年まで激しい内戦が繰り広げられ、東西冷戦を背景に諸外国から敵対する各陣営に莫大な武器が提供された。
内戦後、700万丁の銃などが残されたが、それをミシンや農具といった生産的な道具に交換する「平和プロジェクト」が始まった。
2011年、地元の芸術家がこの廃棄された武器を使って、高さは102センチにもおよぶ「母」という力強いシンボルを作りあげたという。
さて、「ライフル銃」どころか、核兵器が解体され長崎で「転生」しているオブジェがある。
核弾頭を搭載可能なロシア軍の弾道ミサイルや原子力潜水艦に使われていたステンレスが、被爆地・長崎で溶解処理され、平和を願う「卵型」のオブジェに生まれ変わった。
米サンフランシスコを拠点にするNGO「世界核兵器解体基金」から、「ロシア軍の兵器を溶かしてもらえませんか」と、長崎県諫早市の鋳物メーカーの原田功社長に、いきなりの電話があった。
NGOの代表は、自分たちが核軍縮に取り組むNGOであること、兵器のスクラップを溶かして再生してくれる会社を探していることなどを説明した。
同基金はロシアの核兵器解体に資金協力をしている。大陸間弾道ミサイル(ICBM)や原潜を解体して出る金属のうち、放射能を帯びていないものを民間で生まれ変わらせる計画を立て、実行の場に選んだのが被爆地・長崎だった。
実は、原田社長は「被爆2世」で、両親は、長崎市内で被爆した。自身も児童約1300人が原爆の犠牲となった同市立山里小学校(旧・山里国民学校)の出身である。
原田社長は、突然の電話に驚いたが、「平和のために、お手伝いできるなら協力したい」という思いから、その製作を無料で引き受けたという。
ロシアからはステンレス部品10トンが長崎港へ到着した。
まず400キロを峯陽の電気炉で溶解し、長さ50センチ、重さ約9キロの金属塊(インゴット)21本と卵のオブジェにした。卵の重さ約8.3キロある。
実は、「卵型」にするというアイデアは原田社長の発案で、「卵は再生する平和の象徴だ」と思ったからだという。
原田社長には平和のために行動を何もしてこなかったという思いもあり、「兵器を解体」して生まれ変わらせる仕事に携われたことを光栄に感じたという。
インゴットは展示後、アクセサリーなどに加工され、その販売収益は、さらなる核兵器解体への資金となる。
旧約聖書「イザヤ書2章」に「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」という言葉があるが、原田社長によって、核兵器は「ステンレス製の卵」へと転生した。