冒険野郎と「お噺」

今学校で、子供への「読み聞かせ」や「語り」が教育活動の一つとして推奨され、小学校や図書館、グループあるいは個人によるボランティアの形で積極的に展開されている。
「読み聞かせ」は大人が子供へ絵本の物語を聞かせる行為である一方、「語り」は「ストーリーテリング」とも呼ばれ、本を用いず声だけで物語を語る方法である。
ただし、両者とも個人の「黙読」とは異なり、声を通じてその場にいる者が一つの物語を共有する点である。
この「読み聞かせ」の始まりは、社会事業的な側面も含んでいた。
明治半ば以降は資本主義の発展と相次ぐ戦争で、失業や貧困が問題となり社会不安が目に見えて増大した。
そこで、政府は対策として社会事業及び社会教化事業に取り組んだ。
また、民間でも貧民を救おうと奮起する篤志家や知識人が現れた。そうした時代背景から、児童文化草創期は、児童文学も子供への感化・教育事業の性格を帯びることになった。
さらに、「寄席」は近世から庶民の根強い人気を誇る演芸の一つだったが、特に教育者からそれが社会の風紀を乱すという声が上がる。
彼らは、寄席講談は古くから文字の満足に読めない下層の人民の生活の知恵や道徳心を養う場だったが、それは同時に猥褻なる思想も伝播したと考えた。
そうした場への子供の出入りは見過ごし難いことだったため、学校外で多くの時間を費やす子供たちのために、「教育的な娯楽」を与えることは大人達の急務でもあった。
そうした目的で東京で1911年に結成された「大塚講話会」の活動は、題材の開拓や話法の研究だけに留まらなかった。
地域の劇場で「口演会」を開くのみならず、小中学校で自ら口演を行った。こうして教師たちは、教室内だけでなく、語りを通じて学校外の社会活動にも参画するようになったのである。
さらにこの試みに刺激され、その後各師範学校や諸大学にも「お話研究会」が生まれ、相互に活発な交流がなされた。
こうして、「大塚講話会」の創設を契機に、教育者の間でも童話を語る動きが活発になり、教室童話の理論が構築されていった。
大正期に無垢な子供像を題材に氏ら小川未明らのロマン主義的な童話作家が新たに登場するは、そうした時代背景があってのことである。
さて「大塚講話会」は下井春吉という福岡の士族出の人物により創設されるが、下井は「ファシズム」の日本における最初の紹介者として位置づけられる一方、「白虎隊精神」を広めるに一役買った人物でもある。

東京の「文京区」は、学校が多く建てられた文字どおりの地域である。なかでも「音羽」という地区は、文部大臣をもつとめた「東大卒」で占められた鳩山ファミリ-のお膝元である。
この地域のランドマークといえば地下鉄の駅名ともなっている「護国寺」である。
「護国寺」といえば、あの「犬公方」とよばれた徳川綱吉が母親のためにつくったお寺で、数年前には「お受験殺人」などがおきたところで、一流中学や高校をめざす教育熱がとても高い地域でもある。
しかし、親の教育熱は「進学」に限られるわけではない。大正時代に、童謡歌手が注目をあびたが、「音羽」はその中心地となった。
大正時代に子供達に文語・教訓ではなくわかりやすい日本語で芸術性のある童話・童謡をつくろうという「赤い鳥」運動がおき、それに多くの文学者や音楽家などが賛同し参加した。
プロの大人の歌手が童謡を歌うと重すぎるというので、同じく子供の童謡歌手が求められた。
女優・吉永小百合のデビューは児童歌手であった。小学校5年生の時、人気ラジオ放送で「赤道鈴之助」(放送期間:1957年1月7日 ~59年2月14日(全42回))の児童歌手募集に応じたもの。オーディションがあり後の女優・藤田弓子も吉永とともに「赤道鈴之助」を歌っている。
ちなみに、このラジオ放送のナレ-ター役は当時中学生だった山東昭子(後の参議院議長)であったから、人材輩出という点では「赤道鈴之助」は、まさに「モンスター」ラジオ番組だったといってよい。
ところで、NHKのラジオ番組などに童謡歌手をたくさんに提供した「音羽ゆりかご会」なるものができたのが1933年で、音羽の護国寺内の幼稚園にてこの会が誕生したのである。
当時東京音楽学校の学生であった海沼実はアルバイトのつもりで子供達を集めて歌唱の指導をはじめたのであるが、これが日本における児童合唱団のはしりとなった。
この音羽に隣接した街が豊島区大塚だが、「ゆりかご会」創立から遡ること約20年の1915年に「大塚講話会」なるものが創設された。
「大塚講和会」は、ある意味「赤い鳥」運動の先駆的活動ともいうべきものではなかったか。
それは、童話を巡回して子供達に読んで伝えようという口演会であり、その活動の上に「音羽ゆりかご会」が出来たように思われる。
「大塚講和会」を創立したのは、福岡県士族・井上喜久蔵の四男として生まれた下位春吉という人物である。喜久蔵は、明治新政府への士族反乱、秋月の乱への参加者の一人だった。
一家は没落士族として、春吉は1907年、下位嘉助の養子となる。旧制東筑中学を卒業後、一家とともに東京に上京し、東京高等師範学校英語科に入学した。
下位はまず文学者、啓蒙家として出発し、詩人・土井晩翠に師事し1911年には「大塚講話会」を設立し、童話の創作やその語り口(口演活動)を行うと共に、1917年に「お噺の仕方」を発表した。
「お噺の仕方」は日本の童話史において重要な位置を占めるものと評価が高い。
下井は、師範学校などで教鞭を取る傍ら、東京外国語大学伊太利語科に学びイタリア語を身につけた。このことが下井の活動を「お噺」の世界から飛躍的に広げていく。
下井は、1915年、ダンテ・アリギエーリ研究のため単身でナポリに渡り、国立東洋学院(現在のナポリ東洋大学)の日本語教授となった。
ここで日本語を教えながら、イタリアの若い文学者と交流しつつ、与謝野鉄幹・晶子、泉鏡花、吉井勇などの作品をイタリア語訳する。
そして第1次世界大戦末期の1918年、下井はアルマンド・ディアズ将軍と知り合い、将軍から前線の取材をすすめられた。
新聞社の「通信員」として前線に赴いた下位は、まもなくイタリア軍に志願入隊し、戦闘行為に参加した。
下位がイタリアへ向かうことを決意した1915年は、前年7月にオーストリアがセルビアに宣戦布告し大戦が勃発していたのだが、1915年5月にイタリアもオーストリアに宣戦布告している。
この時期にイタリア行きを強行するのは、おそらく戦争が起きることを覚悟の上だったとしか思えない。
下位は最初、日本大使館から「通信員資格」で派遣されたようだが、1918年にはイタリア軍義勇兵として、自ら第一線を志願するあたり、かなりの情熱家であったのではなかろうか。
イタリア文学に魅せられ、日伊の友好のために死を賭して戦う勇猛さは、「誰が為に鐘は鳴る」の作者ヘミングウェイのスペイン人民戦線参加を彷彿とさせる。
しかも下井の所属したのは、アルディーティ(Arditi)と呼ばれる最前線部隊。アルディーティは、イタリア軍の中でも異色の突撃部隊で、志願者で構成し、山岳戦や塹壕戦などで突撃を行うコマンド活動が主な任務だった。
下井はアルディーティの一員として、有名なグラッパ峰攻防戦にも参加して、約3ヶ月の従軍であったが、この経験のおかげでイタリア政府から大戦十字勲章、コンメンダ勲章を授与された。
つまりイタリア政府より下井は「戦友」であり「最も親しいイタリアの友人」と認知されたのだ。
さらに下井はこの時に決定的な出会いをする。下井がいた第三軍にはガブリエレ・ダンヌンツィオが所属していた。下井はこの世界的な詩人と最前線で出会い、意気投合したらしい。
ダンヌンチィオは「フィウメ進軍」を行ったが、大戦後イタリア政府が最後まで領有を主張した港町フィウメ(旧オーストリア帝国・ユーゴスラビア領)の併合が、アメリカに拒否された。
これが愛国心に火をつけ「反英仏米」と「フィウメ併合」の集会が各地で開かれた。
ダンヌンツィオは、その最右翼にいた人物で、この頃から、国民の意識を束ねる「ファッショ」(束という意)という言葉が語られ始める。
1919年9月、ダンヌンツィオの義勇兵は、深紅のオープンカーで進軍し、フィウメ占領作戦を実行する。
下井は その中でフィウメと国内のファッショ勢力の連絡役になった。この「伝達役」をしているうちに、ファッショ運動の中心的な人物と親しくなった。
それが「ポポロ・ディタリア」の新聞を発行していたベニト・ムッソリーニである。
ただ「フィウメ占領」はイタリアの悲願でもあったが、イタリア政府は国際関係の悪化を懸念して国境線を封鎖し、占領軍の投降を促したためダンヌンツィオらは行き詰まる。
ここで、ムッソリーニは、優れた状況判断と調整能力を発揮し、1920年の大晦日、占領軍を降伏させた。
ダンヌンツィオはフィウメを去る一方ムッソリーニは、1922年にローマ進軍を行い、39歳の若さで総理大臣となる。
ところで下井は「突撃隊」の制服を借りての戦いに臨んでいる。
下位に突撃隊の軍服を渡したガヴィッリャ陸軍元帥とは、かつて駐日イタリア大使館付特命武官を経験し、日本軍に同道した日露戦争の戦場で近代的な戦術を学び、多少の日本語も解す親日派だった。
カヴィッリャは、自軍兵の士気高揚のために日本兵の優秀さを話してくれと、下位を最前線の塹壕に招き、下位はここで日露戦争における「日本軍の勇戦」を語って大変に歓迎されたという。
1924年12月、下位はイタリアから帰国した。この頃一時的に国士舘大学の教授と国士舘中学の校長となっている。
1924年夏ごろには皇国青年党を設立し、自ら主宰となるなど政治運動にも関わっていたが、資金繰りに行き詰って1927年ごろに解党している。
日本に帰国してからの下位は、日本放送協会のイタリア語部長や国際連盟教育映画部日本代表、日伊学会評議員、日本農林新聞社長などを歴任した。
イタリアとダンヌンツィオ、そしてムッソリーニとファシズムを紹介する講演活動を頻繁に行った。
1929年にはムッソリーニの主要演説29本を翻訳している。さらに、下位はイタリア各地の聖人伝説をわかりやすく説くエッセイ風の文章を書いていたという。
敗色が濃厚になり、ムソリーニの破滅が日々明らかになっていく中、雄弁に戦争の大義やファシズムへの讃歌を語る一方、イタリアの巷にひっそりと民衆と共に生き続けてきた聖人たち、村や町の小さな守り神たちの物語を綴っていた。
このことは、下井は情熱的に政治を語る側面と、市井の人々の生活の営みを語る文学者の側面をもっていたことを示している。
戦後、下位は「枢軸陣営」への支持活動により公職追放となり、不遇の中1954年12月日に死亡した。

会津若松の「白虎隊の自刃」で知られる飯盛山には、イタリアから送られた古代ローマ宮殿の石柱を象った記念碑が立っている。
それが奇異に思えた人もきっと多いに違いないが、その経緯を記すと次のとうりである。
下井によれば、ムッソリーニが、ダヌンツィオを通じて「武士道」や「白虎隊士」の話を聞く機会を得て、白虎隊の顕彰の為に「記念碑」を贈ってもよいという意向をもらしていたという。
だが、第二次世界大戦の戦局は日本・イタリア両国にとって悪化の一途をたどっために、記念碑の話には具体的な進展が見られず「沙汰止み」になってしまった。
しかし後に東京大学の学長となる会津出身の物理学者山川健次郎がこの話しを聞き、郷土会津の誇り「白虎隊」の墓所にイタリア記念碑を建てるという話を両国親善のために推し進め、古代ローマの碑が白虎隊士の眠る飯盛山に建てられることになったのである。
「白虎隊」は、会津戦争に際して会津藩が組織した16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。
城から上がる煙をみて落城と思った彼らは「もはやこれまで」と自刃して果てた。
いかに封建社会の出来事とはいえ、あまりに純粋無垢に死に急いだ彼らは、人々の涙を誘うものがある。
さて「白虎隊の話」に感激したのは、下井と交流のあったイタリア人ばかりではなかった。
世界ではじめてボーイスカウトを創始したのはイギリスのベーテン・パウエル卿であるが、ボーイスカトの創立精神の中に会津の「白虎隊」の出来事が絡んでいることはあまり知られていない。
ベーデン=パウエル卿は、イギリス陸軍の軍人でインドや南アフリカの戦争で活躍した「英雄」である。
当時イギリスの青少年の自堕落な姿に大きな不安を感じたパウエル卿は、戦争で体験した自然の中での自発的な活動が青少年年の育成に大きな可能性を開くものであると確信した。
そして1907年にイギリスのブラウンシー島という無人島で20人の少年達と実験的なキャンプを行ない、その体験を元に「スカウティング・フォア・ボーイズ」という本を書いた。
この本に書かれた野外活動の素晴らしさは世界の人々の心をうち、またたくまに「ボーイスカウト運動」として世界に伝播していった。
実はパウエル卿は、「ケンジントン公園」の近く住んでいたのだが、この公園はジェームズ=バリという人物が「ピータ-パン」の構想をえた場所としても有名で、この公園には「ピーターパン像」がたっている。
パウエル卿は、ただ単にこの公園近くに住んでいるというだけではなく、自分の息子にピーターという名をつけるほどの「ピーターパン」の愛好者であった。
つまりベーデン=パウエル卿の心の中の永遠の「ピ-タ-パン」像が、「ボーイスカウト」精神を生んだといえる。
ただパウエル卿の中で、そのピータンパン像に加え、もうひとつの「永遠の少年像」が加えられることになった。
パウエル卿がボーイスカウトの宣伝のため各国を遊説し、東京を訪問していた時に「白虎隊」の話を聞いていたく感動し、「会津白虎隊自刃の図」を贈られた。
パウエル卿は「この精神こそがボーイスカウトの精神なり」と応え、帰国後にこの絵を拡大した油絵として自宅に飾ったという。
1920年に34ヶ国が参加したボーイスカウト第1回大会がロンドン郊外で開催された時、パウエル卿は、ボーイスカウトの精神に「日本の武士道精神」を取りいれたことを明言している。
さて、下井がいう「ムッソリーニが白虎隊の話に感動した」というのは下井の”創作”の可能性がある。
下井の話の新聞報道がなされて有力者からの賛助も集まったため、やむなく外務省がムッソリーニに打診し、1928年にイタリアから送られた記念碑が会津若松市の飯盛山に実際に建立されたということ。
若き日の下井春吉の口演技術は非常に高く、長編の「ロビン・フット」や創作「ごんざ蟲」や「黄金餅」などの童話が知られている。そして、その指導書は、全国の教師たちから絶大な支持を受け、「童話のお父さん」とさえ呼ばれたこともある。
ところがその「童話のお父さん」は、実はとんでもない激情家でもあり冒険家でもあった。
飯盛山のイタリアから送られた記念碑は、福岡冒険野郎の口演術の証(あかし)といえるかもしえない。