夫婦において、相手の正体を全く知らずにいたとか、謎を秘めた相手と家庭を築いたとか、夢を完全に共有できたとか、色々。そして、人生もいろいろ。
1930年代、日本政府中枢にまで接近し最高国家機密漏洩を行った人物リヒヤルト・ゾルゲとはいかなる人物だったのか。
ゾルゲは若き日に第一次世界大戦に参加し自ら負傷している。
平等で平和のない世界を夢見て、共産主義が説く世界革命の思想に共感し、モスクワに本部をおくコミンテルン(国際共産党)のメンバ-となった。
ゾルゲはドイツの新聞社「フランクフルター・ツァイトゥング」の特派員という肩書きの元当時列強の情報が飛び交っていた上海に渡った。
そこですでに「大地の娘」で世に知られた女性アグネス・スメドレーと出会い日本の朝日新聞の特派員であった尾崎秀実と出会う。
尾崎もコミンテルンのメンバーでゾルゲの諜報活動の日本における最大の協力者となる。
ゾルゲが日本の最高国家機密にアクセスできたがこの尾崎と通じてなのであるが、この尾崎はなんと当時の近衛首相のブレーン集団であった「昭和史研究会」のメンバーなのであった。
社会主義に傾倒する尾崎が近衛のブレーンであったことは、「運命のいたずら」というほかはない。
何しろ近衛首相は日本における最高の名族である藤原氏の子孫で、行き詰まりつつあった中国や米国との関係の打開のために多くの国民の期待を担っての「首相就任」であった。
ただ近衛首相は若き日、当時社会主義者で「貧乏物語」で世にしられた河上肇に学ぼうと東大ではなく京大で学んだという経歴がある。
ところで、 近衛首相のブレーンであった尾崎がゾルゲに流した情報の中に、「独ソ戦」の命運を握るようなものがあった。
中国との戦闘が長期化する中、日本は、同盟国ドイツがソビエトと優位に戦えば北に進出しようという意見と、多くの資源がある南方に進撃しようという二つの考えがあった。
政府の最終決定は「南方進撃」であるが、実はゾルゲはこのことをモスクワに打電していたのだ。
結果的にソビエトは、日本の北進はないとすべての兵力を満州からヨーロッパへと振り向けることができたのである。
ところでゾルゲがモスクワにその情報を流したのはドイツ大使館からでであったが、ゾルゲはこの大使館に勤める武官オットーとすでに上海で出会っており、オットーの紹介でドイツ大使の私設情報担当として出入りするようになった。
オットーがドイツ本国へ送るべき日本に関する報告や分析もゾルゲが書いたとされている。
まさか日本の友好国のドイツ大使館から、敵対するソビエトのモスクワに国家機密が送られていようとは誰が想像しようか。
個人的な「ゾルゲ像」は得体のしれない怪人物といった感じだが、ゾルゲという人物の本当の姿は、篠田正浩監督の映画「スパイ・ゾルゲ」や日本人妻であった石井花子さんが書いた書物「人間ゾルゲ」を読むとかなり違う。
ゾルゲはオートナバイに乗った快活な好青年というイメージさえ湧いてくるのだ。それこそが人々の懐に入ることができた理由かもしれない。
ゾルゲの日本人妻・石井さんは銀座のラインゴールドというカフェでゾルゲと知り合い、1941年に逮捕されるまで共に暮らした。
実は日本の官憲は調査により情報がロシアに打電されていることを知っていた。ただその「発信源」がなかなかわからなかった。
多くの外国人を調べ、「夫の正体」をまったく知らない石井さんにゾルゲに変わったところがないか尋ねると時々釣りに出かけることがわかった。
特高は行楽を装い富士のふもとにある湖を張り込んだ。湖上に浮かぶ、魚の跳ねる音しか聞こえぬ静寂が覆う湖上のボ-ト上の二つの黒い影。
ひとつの影が湖に何かを投げたようだ。二人が去った後、特高は湖上にちぎられたメモを見つけた。紙面をつぎ合わせてみると、そこには暗号が書かれていた。
ゾルゲはついにコミンテルンのスパイであることが発覚したのである。
ゾルゲは尾崎とともに巣鴨刑務所で1944年11月7日ロシア革命記念日に処刑された。最後に「ソビエト・赤軍・共産党」と二回日本語で繰り返した。
石井花子さんは後にゾルゲの墓を見つけ出し、2000年に亡くなるまで花を手向け続けた。
日本における特攻作戦の始まりは、「桜花作戦」というものだった。太平洋戦争末期、日本が劣勢に立つ戦局を一気に挽回するために、特攻兵器「桜花」を導入する作戦だった。
「一発必中」と喧伝されたが、この特攻兵器こそは、世界に類を見ない有人誘導式ミサイルで、「凶器」とも「狂器」ともいえる新型兵器だった。
この「有人誘導爆弾」を思いついたのは、ひとりの海軍少尉だったが、提案を受けた航空本部は「軍令部」(=海軍本部)に意見を求めたところ、ちょうど「特攻兵器研究」の真最中で、この提案に飛びついた。
そして間もなく、正式な「試作命令」が空技廠に下ったのである。
そして、実際の設計は当初、提案に猛反対していた三木忠直技術少佐が担当することになった。
風洞実験結果など「基礎資料」を基にわずか1週間で基礎図面を書き上げ、さらにその1週間後には「1号機」を完成させた。
戦闘員の「人命」を考慮にいれなければ「飛行機」とは案外と簡単につくれるものなのだ。
帰還を考える必要のない兵器であることから、戦略物資である各種金属を消費しないように材料は木材と鋼材を多用し、車輪はなかった。
また、着陸進入を考慮した翼型ではなく、高速で飛行し「ある程度操舵ができる」程度にしか設計されていない。
ただし、この新兵器に対して実戦のパイロットから、「桜花作戦は成功しない、必ず全滅する」と、現実を直視していない上層部に対して血を吐くような批判も出た。
母機が敵艦隊に接近するためには、「制空権」の確保が前提となるのだが、制空権を握っているくらいなら、もともと「特攻」なんてする必要がないといった根本的な矛盾をはらんでいた。
さて「桜花」の発案者は、大田正一という海軍少尉だが、NHK番組で、大田少尉の息子が「父の実像」を追跡する内容のものがあった。
息子の大屋隆司氏(63)は、戦争中の父を知る元桜花搭乗員を訪ねながら、知られざる「大田正一」の過去と向きあうことになる。
隆司氏は父親の名が「偽名」だとは知らずに育ってきたが、中学生の時に母親から父親の本当の名前を聞いた。以来、隆司氏は母方の「大屋」姓を名乗った。
ただ息子は、それ以上詳しい話を聞くことはできなかった。
その後息子は、父親が「有人誘導爆弾」の提案者であることを知ることとなるが、子煩悩でやさしかった父と、そういう兵器を考え出せる非情さとが、どうしても結びつかなかった。
父は本当はどんな人間だったのか。父が背負い続けたものとはいったい何だったのか。それが知りたかった。
大田正一は、1928年15歳の時に海軍を志願し、日中戦争にも参加した叩き上げの軍人だった。
魚雷や爆弾を投下する攻撃機の搭乗員で、行く先を指示する偵察員として戦火をくぐり抜けてきた。
しかし1942年、ミッドウェー海戦に敗北以降、各地で消耗戦が続き戦況は悪化する一方であった。
そんな中、大田は戦局を挽回する秘策として思いついのが「有人誘導爆弾」であった。
桜花の構想は海軍に採用され、1944年秋には茨城県神ノ池に訓練基地ができた。
そして、各地から搭乗員が集められ「神雷部隊」が誕生する。
大田正一は発案者としてこの部隊へ特別待遇で迎え入れられ、一人表札を掲げられた個室が与えられた。
しかし1945年3月21日、初めての桜花攻撃を行ったが、2トンを超える桜花をつり下げその重みで動きが鈍くなった母機は桜花もろとも撃ち落され、1機も敵艦に到達することさえできなかった。
結局、神雷部隊は期待された戦果を上げることができず、敗戦までに829人が戦死している。
大田正一が桜花を発案したとされる1944年、不利な戦況を前に政府はどうにかして国民の士気を高め、もう一度戦局を打開できないかと模索していた。
実は軍や政府は死と引き換えに大きな戦火をあげる新兵器の登場が国民の戦意を高揚させる手段になると考えてきた。
ちょうどその頃、死を前提とした新兵器の必要性を仲間に説いていたのが大田正一だった。
さて、息子が父「大田正一」の実像を追うなかでわかってきたことは、大田正一は、自分が「有人誘導爆弾」に乗って戦局を挽回したいという一心から提案したにすぎない。しかも「自分が率先して乗っていく」と提案したものだった。
大田正一は、たかだか海軍少尉であり、いかに彼が「有人誘導爆弾」などを提案したとしても、上層部は簡単に一蹴できたはずである。
敵の艦船に体当たりするなど軍上層部の口からからは言い出しにくいことだが、現場のパイロットからの提案であれば抵抗も少なく、「我も彼も」と後に続く戦闘員が現れることも期待できる。
大田正一は、はからずも飛行機に乗ることなく「英雄視」され、各地の部隊で「桜花作戦」の必要を説く講演に引っ張り出された。
「桜花作戦」に参加する若者たちは、何も知らぬまま部隊に入れられた。
ところが悲しいことに、大田の講演を聞いた後に、この作戦に参加することを呼びかけたところ、一人がその意思を表明するや、次から次へと「自分も」と名乗りを上げていった。
結局、大田正一の提案はピタリと軍上層部の意向に沿うものであり、上層部によって都合よく利用されたというほかはない。
桜作戦の失敗が続いた後も大田正一は新聞に「英雄」として登場し、このことがさらに隊員たちの気持ちを逆撫でした。
結局、多くの戦死者を出して終わった特攻作戦だったが、発案者である大田正一は自ら桜花に乗ることはなく終戦をむかえた。
そして、大田正一は終戦の3日後、零戦に乗って海に飛び込み、自殺を遂げたとされていた。
その時の様子を目撃した隊員は、「戦闘機が古いミシンが縫うように、するすると空に舞い上がったと思ったら、いつのまにか見えなくなった。
ところが後で、漁船に助けられたという連絡がはいった」と語った。そして同僚たちの中に、大田の目撃情報が寄せられるようになった。
実際、大田正一は生きていた。「横山」という偽名を使い、1951年頃から大阪でひっそりと暮らし大屋義子さんと出会い素性を隠して家庭を築いた。
義子さんは、初めて大田正一を見たとき、かっこよく頼りがいがあると思ったという。
しかし、まもなく騙されたと思うようになった。すぐに仕事をやめてしまうからである。
しかし真相は、戸籍を抹消した大田は働こうにも、必要な書類が出せなかったのである。
婚姻届は出せず、仕事はいつも不安定で20以上の職を転々とし、家計は義子さんが支えた。
義子さんは夫になぜ「偽名」なのか、「戸籍」がないのか、その理由を聞いたことがあった。
しかし、肝心なことは教えてくれず、義子さんも、子供たちのこともあり、それ以上深入りすることをためらった。
大田は、近所の人ともあいさつ程度で友人と呼べる人はおらず、一人椅子に座りずっと空を眺めていることが多かったという。
大田正一は1994年12月7日に亡くなり、妻の大屋義子さんは90才を超えて健在である。
終戦からまもなく出された「流れる星は生きている」(1949年)は、満州から日本に引き揚げた人々の実体験を語ったもので大ベストセラーとなった。
この本の著者は「藤原てい」で、夫は戦争中満州にあった気象台に勤めていた。
日本の敗戦が決定的になり、男は軍の動員命令があって不在。女ばかりとなった観象台(気象台)にあって、藤原ていと三人の子供達は、他の家族と共に日本への決死の逃避行を行った。
「流れる星は生きている」が大ベストセラーになったことに一番刺激を受けたのが夫の藤原寛人である。作家に転じて「新田次郎」のペンネームで知られるようになる。
ちなみに藤原夫妻の次男は「国家の品格」で知られる数学者・藤原正彦である。
新田次郎(藤原寛人)は、長年気象庁で気象観測の実務に携わってきた。富士山測候所に勤務した体験をもとに、小説「芙蓉の人」(1975年)を書くが、実体験にもとづくだけに、富士山頂の冬の苛烈さの描写には、鬼気せまるものがある。
実は「芙蓉」とは、美女を意味する言葉で、富士山が別名「芙蓉峰」とよばれることと、測候所に生きた人々の生き様を重ねて表したものである。
さて、小説の主人公である野中到(のなかいたる)は、筑前国(福岡県)早良郡鳥飼村で黒田藩士野中勝良の長男として生まれた。
野中は日本に高地観測所がなく、様々な自然災害を防ぐことができないでいることを憂い、私費で富士山頂に気象観測所を設置することを志し、1889年、東京大学予備門(後の第一高等学校、東京大学教養学部)を中退して気象学を学んだ。
野中到の父・野中勝良は東京控訴院(現東京高等裁判所)判事であったため、そうした息子の志について容易には理解しなかった。
その父親が心を動かしたのは、同じ福岡市出身の東京天文台長・寺尾寿の言葉であった。
寺尾は東大物理学科出身で、フランスで天文力学を修め、29歳の若さで東大星学科教授に就いていた。
その長男である寺尾寿は、初代国立天文台長として日本天文学会をつくった人物。
続く次男・享が法学博士で東大教授、三男・徳は医学博士で、四男・隆太郎は弁護士で裁判官という「スーパー・ブラザーズ」である。
当時3776mという高地で冬季の気象観測をしている国はなかった。
野中到の父親である勝良は、たまたま東京天文台長の寺田寿から、「もし、富士山で冬期の気象観測に成功したら、それこそ世界記録を作ることであり、国威を発揚することである」と聞いてから俄然息子を応援するようになり、その資金捻出のため、福岡県の旧宅を売り払った。
野中は1893年に、福岡藩喜多流能楽師の娘・千代子と結婚し、この妻千代子が富士山測候所の建設に果たした役割ははかりしれない。
野中と妻千代子との間には当時2歳の娘・園子がいたが、野中が御殿場に滞在して観測所建設の指揮を執ると、妻千代子は姑の反対を押し切って、御殿場に向かい会計を担当した。
千代子から見て、野中の計画は綿密だが、食料や衣料の準備に甘さがあると感じたからである。
御殿場でそれらの調達を担当しながら、自分も夫と共に富士山頂で越冬観測をしようとひそかに決意した。福岡の実家で防寒具を整え、山で足腰を鍛えた。
ただ、野中がいかに気象観測のエキスパートであったとしても、野中夫妻は山に関してはまったくの素人であった。
氷点下20度以下の寒さや強風の中でともに倒れ、心配して登ってきた慰問隊にようやく救出されたりしたこともある。
さて、藤田寛人は作家活動を続けながらも、同時に気象庁職員として長年勤めて1966年に退職するが、公務員時代の最後の大仕事が、気象庁測器課課長として携わった富士山頂の気象レーダー建設であった。
それは、野中夫妻が最初に気象観測を行った地点において取り付けに成功したものである。
つまり、明治期の野中夫妻の80日を越える「冬季観測」の成功という先例の上に建つもので、藤原にとって野中夫妻は、尊敬する先輩という範疇を超えた存在であったといえる。
富士山に気象観測レーダーの建設責任者となったが、そこには世界最初の高層観測所という名誉のために、国家の為に見返りを求めずに打ち込む姿があった。
そして、野中一家の誰もが、前人未到の「高層観測」という同じ方向に向かった。
息子は自らの夢のために一筋に進み、父は私財を投げうって息子の夢を支え、それに従う妻がいた。
新田次郎(藤原)は、彼らの姿を「芙蓉の人」いうタイトルに込めた。