「鉄路」が結ぶ技術

鉄道を作るためには、質のよい鉄の大量生産が大前提になる。1950年代当時の製鉄業界の勢力図は、「高炉」をもつ八幡、富士、日本鋼管と、「平炉」をもつ川崎製鉄、神戸製鋼、住友金属があった。
ただ、「平炉」による企業は製鋼メーカーとはいっても、原料として一貫メーカーから「銑鉄」を買わなければならない情けない存在で、高炉の企業とは大きな格差があった。
その原鉱石もほとんど中国から輸入をあおぎ、品質も種類も雑多な原料から製造しなければならなかった。
写真などで、真っ赤に溶けた鉄が勢いよく帯状に流れていく姿をみることができるが、1950年代でさえも、下駄を履いた工員が働いていたという。
靴ではなく下駄を履いたのは、溶鉄が飛び散ったのを瞬時に飛び退くことができるからだ。
さらに人間の五感にたよって鉄の出来具合を判断するまるで江戸末期の「反射炉」そのままのことがおこなわれており、実際に生産された鉄の質もマバラであった。
この状況を転換したのが、川崎製鉄の西山弥太郎で、戦後の経済復興のキーパーソンといっても過言ではない。
西山は、アメリカのような「銑鋼一貫」の大工場を作らなければ、日本は貧相な町工場だけの国になってしまうと考えた。
西山のビジョンは、熔高炉(高炉)、平炉(転炉)、圧延設備を一貫して連動させる設備で、そこまで原料を運び貯蔵し製品を送り出す船、貨車、トラックなどの「輸送設備」がワンセットとなった「一貫大工場」の実現であった。
日本は資源を欠くとはいえ、その供給先は太平洋にむかって無限に開いており、「銑鋼一貫」の大工場の立地を検討し、最終的に千葉に決めた。
1950年ごろから各界の協力やら資金集めに奔走し、1955年に千葉製鉄所第一期工事が完成し、川鉄は高炉二基をもつ本格的な製鉄所となった。
西山は、全身全霊をあげて事業に取り組み、1966年水島製鉄所の完成を目前にして亡くなる。
しかし「千葉製鉄所」の完成、そして川崎製鉄の躍進が経済界に与えた影響は計り知れない。川鉄に続いて、住友金属、神戸製鋼も川鉄に続き、地鳴りがするかような日本製鉄業の前進がはじまった。
連合軍の占領政策で腰がひけていた経営者達は、豪放磊落と評される西山の後背を追ううちに、大借金をして大胆に設備するまでに変貌したのである。
実は、川鉄の本体・「川崎重工」の車輌部こそが「新幹線の車体」の製造にあたり、近年では中国の「新幹線」に技術供与をしで、再び注目をあびた。

新幹線開業遡ること30年の1934年に、日本は中国満州で「夢の超特急」を完成させ営業運転を開始していたことは、あまり知られていない。
満鉄(=南満州鉄道株式会社)がその技術の粋を集め、日満両国がその威信を賭け、世界に先駆けて完成実用化したその列車は、大陸縦貫特別急行「あじあ号」であった。
初代新幹線(ひかり号)にも通ずる流線型のモダンなフォルムと、スカイブルーに塗装された蒸気機関車に牽引された「あじあ号」は、当時の世界各国の主要鉄道を凌ぐ、平均時速82.5Km・最高時速120Kmで運行した。
それにより、それまで2日かかっていた「大連─新京間701.4Km」を、8時間30分で接続した。
ちなみに、当時日本国内で最も速かった営業車輌は、特急「つばめ」は最高時速95Kmで、最高時速100Kmを超える蒸気機関車は存在しなかった。
ところで、超特急「あじあ号」が誇ったのは「速さ」だけではなかった。全車輌が、寒暖の差が激しく厳しい満州の気候に対応する為に密閉式の二重窓を備え、客車には冷暖房装置を完備していた。
その意味でも、「夢の超特急」に相応しい列車だった。
満州は、戦後日本のいわば「実験場」であり、鉄道においてもそれがあてはまる。
というのも、この「あじあ号」製作に深く関わった十河信二(そごうしんじ)こそが、日本の「新幹線計画」を実現した時の第四代国鉄総裁であったからだ。
十河は1909年に東京帝国大学卒業後、鉄道院に入庁、鉄道院では主に経理畑を歩み、1930年に南満州鉄道株式会社(満鉄)に46歳で入社し「理事」を務める。
1931年関東軍による「満州事変」が勃発すると、政府の方針転換により、1938年に辞職し54歳で浪人となった。
十河は満鉄の理事を辞職したあと浪人生活を送っていたが、愛知県西条市長、鉄道弘済会会長、日本経済復興協会会長を務めていた。
1950年代前半の国鉄は事業損益は184億円となって危機的状況にあった。当時の国鉄は幹線の輸送力増強が急務であり、その設備投資にかかる費用が莫大なものとなっていたからだ。
また、国会議員からローカル線の建設の要求が高まっており、その建設費が国鉄の財務を圧迫していた。
それに輪をかけるように、桜木町事故、洞爺丸事故、紫雲号事故と相次ぐ事故により、世間からの非難の的になっていた。
大事故のたびに総裁が引責辞任するため、3代目総裁が辞任した時には、後任のなりてがなかった。そんな国鉄を外部から見ていた十河信二は、国鉄の行く末を心配していた。
そんな十河だが、同郷(愛知県西条市)の三木武吉が国鉄総裁候補に推薦したことで、十河に白羽の矢がたった。
しかし十河は高齢を理由に、総裁就任を断った。すると三木は「君は赤紙を突きつけられても、祖国の難に赴くのを躊躇するのか。こんなにも国鉄が苦しんでいるのに、ただそれを見過ごすだけの不忠者か」とたたみかけ、 結局十河は三木の挑発に乗るかたちで、1955年5月、総裁の職を引き受けた。
ただし十河は、総裁就任にあたって「3つの条件」を出した。国鉄経営に自主性を与えること。国鉄経営について最終決定権を国鉄総裁に与えること。赤字線の建設を強要しないこと、以上3点である。
この時すでに東海道の広軌新幹線を実現したいと思っていたが、政治問題になるのを恐れて、まだ話には出さなかった。
ともあれ、国鉄は十河の下で経営の建て直しと信頼回復に努めることになった。
当時の東海道線は、すでに輸送量の限界近くになっており、新幹線開設が待たれていたが、これ以上の輸送力増加は不要と考える勢力も存在した。
それは、航空機輸送の発達と、モータリゼーションの時代の到来を見越してのことであった。
そうした勢力と戦うためにも、東海道線の「抜本的」な輸送力の拡大が求められていたのだ。
ただ、十河が総裁に就任する1952年には、赤字体質の改善と幹線の輸送量の増強を東海道線の「狭軌複々線」での輸送力増強がすでに決まっていた。
だが十河は「広軌新幹線」建設にこだわり続け、総裁に就任するやいなや副総裁と技師長に「広軌新幹線」の研究と報告を求めた。
しかし「狭軌複々線」での増強案が決まっていたから、当然ながら副総裁と技師長は「広軌新幹線」に乗り気ではなかった。その結果、報告の内容は既存のデータをなぞっただけの代物だった。
これを見て十河は、何より体制つくりが先決と考え、技師長を辞任させ、後任には桜木町事故の責任問題で国鉄を去っていた「島秀雄」を再び招き入れることにした。
島秀雄は、もともと戦争中航空機の開発をしていた人物で、当時、住友金属工業の取締役の職を勤めていた。
十河の再三の依頼にもかかわらす、島は国鉄に戻り仕事をすることに難色を示す。
かつて三木の依頼を一度は断った十河だったが、今度は島を強引に説得し「副総裁格」の技師長としてまねき、島は1955年12月1日に正式に就任した。
こうして国鉄は十河総裁、島技師長のもとで「広軌新幹線」実現へと動き出した。
十河は満州の「あじあ号」と同じく、機関車が客車を牽引する「動力集中方式」であった。しかし、島は「動力分散式」の電車を提案した。
島は、これまで電車の欠陥といわれる振動や騒音の改善が進んでおり、電車の数多いメリットを生かすべきであると主張したのである。
電車は車両を軽量化できるし、線路や鉄橋の建設コストを抑えることができる。エネルギー効率もよく、加速減速性能も優れている。
そうした利点は、東海道のように需要が多い地区の高速運転に向いていると説いた。
しかし十河は、「電車」による高速化の実現が、自動車の普及に間に合うのかということが心配だった。
そこで島は、小田急電鉄から鉄道技術研究所に開発依頼がきて、すでに特急電車の研究開発が進んでいることを報告する。
そして、小田急電鉄の運行が成功すれば、国鉄内部の「電車反対派」も説得できると訴えた。
というわけで、満州の「あじあ号」と東海道「新幹線」との間に、もう一章の新宿と小田原を結んだ小田急線開発の「ストーリー」が介在することになる。
技術的見地からみて、「小田急電鉄特急」は「新幹線」の試作品というものだった。
その「試作品」は、狭軌鉄道としては、当時「世界一」という記録を出したのだ。驚くことに、その時小田急特急「SE3000」は、整備状態がよかった国鉄の線路上を走っての記録達成だった。
そもそも小田急にとって強力なライバルは国鉄であった。
東海道線が東京ー小田原間を75分で結ぶのに、小田急は戦時中の酷使で線路が傷んでおり、新宿ー小田原間が当時の車両で100分かかった。
新宿か小田原・箱根への温泉直通が「売り」の小田急であったが、このままでは東海道線にまったく対抗できない。
生き残りをかけて連日会議を重ねたが、ある日ひとりの男が劇的に軽量化した新型特急を開発しようという「新しい提案」をした。
提案者は、取締役運輸担当の山本利三郎で、戦前、鉄道省・東京鉄道管理局の列車部長だった人物で、首都圏における鉄道のあり方につき、様々なアイデアをもっていた。
そして1954年、山本の情熱が実ってスーパーエクスプレス(SE車)の開発が承認された。
目指すは劇的に車体が軽くてスピードがでる特急列車だったが、小田急の技術だけでは自ずから限界があることは明らかだった。
そこで山本は思い切った行動に出る。向かった先は、なんと国鉄の「鉄道技術研究所」で、そこは敵方の「心臓部」といってよい。
山本は大胆にも、ライバルから「鉄道技術の粋」を得ようとしたのである。私鉄から特急開発の技術援助を求められるなど、鉄道技術研究所にとっても前代未聞のことであった。
しかし意外なことに、「鉄道技術研究所」はその申し出をこころよく引き受けた。
当時の「鉄道技術研究所」には、終戦で仕事を失っていた陸・海・空軍の優秀な技術者が集まっていたが、当時の国鉄本体は「高速電車」に対して否定的な意見が強かった。
そうした「否定的意見」を打ち消すためにも、小田急からの申し出は、鉄道技術研究所にとって「渡りに船」、「技術者魂」を揺さぶられる機会でもあった。
そして私鉄と国鉄の「垣根」を超えた新しい「車両開発」が進み始めた。
当時の鉄道技術研究所には2人の優れた技術者がいた。そのひとり、三木忠直は「モノコック構造」を提案した。
車体の骨組み部分を大胆に簡素化する一方、車体に丸みをもたせて、パーツではなく全体の強度をあげていくというものだった。これにより車体は流線型になった空気抵抗は従来の電車の3分の1に減らすことに成功した。
もう一人の松平精は台車の研究をしていた。蛇行動がおこいない新型台車の制作に取り組んだ。
台車にかかる重心をバネの組み合わせで分散させることで、安全でしかものりごごちのよい車両を作り出した。
こだわったのは、二車両で3つの台車をとりつける「連接車」のアイデアだった。
保守が難しくなることから小田急の工場担当者からは異論もでた。しかし通常、二車両なら台車が4つのところを3つにすることにより、車体を軽くできる。
また連接車は、カーブでの遠心力を抑えられるというメリットもある。遠心力が下がれば揺れも少なくなり、乗り心地も向上する。
ほかの技術者からも様々な提案があった。例えば高速での安定をますために、車高を一般のものより300ミリ低くし、重心を下げた。
こうして「新型特急構想」が「技術者魂」に火をつけアイデアがアイデアを生んだ。
ただ、高速運転をさせるとなると、確実に停止するための安全装置が必要である。そこですでに航空機に取り入れられていた最新技術を取り入れ、ディスクブレーキを採用した。
そして昭和30年、従来の取引や資本関係にとらわれない、純粋な技術的見地から車種が選ばれ、具体的な製造を開始した。
「小田急ロマンスカー」というモダンな名前がつき、初代3000形(SE)が、当時の線路状況が良い国鉄に貸し出されて、当時の狭軌鉄道における世界最高速度(145km/h)を樹立した。
このことは、日本の高速電車の広がりや「新幹線開発」に多大な影響を与えたことはいうまでもない。
実は、新幹線の技術のルーツは、太平洋戦争末期の特攻機「桜花」(おうか)にまで溯る。実際の設計は当初反対していた前述の三木忠直技術少佐が担当することになった。
「桜花」は帰ってくるための補助車輪も燃料も積んでいない飛行機であり、技術者としては絶対に作りたくないモノであった。
三木は、戦争が終わった時まだ働き盛りの30代だったが、戦争責任問題でなかなか就職はできず、ようやくて国鉄の外郭団体である「国鉄鉄道技術研究所」に職を得ることができた。
当時の国鉄は、発展する「航空旅客産業」の発展に対しても危機感を募らせていた。確かに東京ー大阪間の7時間と1時間30分では、勝負は目に見えているように思われた。
三木らは「東京―大阪3時間への可能性」と銘打った一大プランを打ち出し、1958年7月、遂に国鉄総裁の前で、その実現可能性を力説した。
そして国鉄総裁は三木の情熱と確信に押されて「新幹線プロジェクト」にゴーサインを出すこととなったのである。
結局、新幹線開発には、小田急ロマンスカー開発のコンビ三木忠直と松平精らが生み出した「航空機」開発の技術が余すところ無く注入されることになった。
まず第一に空気抵抗の少ない流線型の車体が、粘土細工によって、幾度となく試作された。
この開発に当たって、三木の脳裏には自分が作った急降下爆撃機「銀河」の「流線型ボディ」が常にあったという。
また、世界最高水準の250キロを超える超高速走行には、車体の「揺れ」を防ぐ技術開発が必要であった。そのために、ゼロ戦の機体の揺れの制御技術を確立した松平精がまねかれた。
さらに、安全面を重視する時、電車が近づいた時や地震があった時など、安全装置が働いて、新幹線が「自動で停止する」ような仕組みが必要とされた。
それが「自動列車制御装置」(ATC)であるが、やはり軍で「信号技術」を研究していた河邊一という技術者がこの実験に取り掛かり、この問題も解決していった。
かくして、満州における「あじあ号」運行を序章とし、製鉄業躍進と航空技術採用を本編とし、小田急ロマンスカーの試作を伏線にして、「新幹線誕生物語」は完結する。