現代法医学は語る

英国の文豪ウィリアム・シェークスピアが、背骨が曲がり、醜悪な容貌をもつ「悪の権化」として描いたのがリチャード3世(1452~85)。
どれくらいの「悪い」のかというと、次のとうり。
15世紀後半のイギリス、ランカスター家とヨーク家が王位をめぐって争った「薔薇戦争」のただ中、ヨーク家のエドワード4世がランカスター家のヘンリー6世から王位を奪いとり、ひさしぶりに平和なひと時が訪れたかに思えた。
しかし、その平和を楽しまないひとりの人物こそが、リチャード。犬にまでほえられるほどの醜さを怨み、世の中のすべてを忌みきらう。
彼の心を慰めることといえば、「王冠」を夢見ること。
そして、良心を投げうって、ひたすら「悪人」になりとおす決意をし、謀りごとを次々と実行してゆく。
最初の犠牲者が兄のジョージ。
病弱で疑心暗鬼の王の耳にGではじまる身内が王の命をねらっている吹き込んだ。即刻ジョージは謀反の疑いで捕らえられる。
折しもロンドン塔へ送られる途中、実弟リチャードとすれ違い、「身の潔白」を訴えながら、牢獄へと向かう姿があった。そこが終焉の地となるとは知らずに。
先王ヘンリー6世の遺骸にすがって泣くアンをみて、リチャードは、アンをさらなる野望実現のために利用しようとする。
実は、アンは先王の息子エドワードの妃であり、義父と夫をリチャードに殺されていたのだ。
当然はげしい怒りの言葉が投げつけられるが、リチャードは、王と夫を殺したのは「あなたが美しすぎる」から、あなたへの愛ゆえに心ならずも殺人を犯したのだ、と口から出まかせを言う。
さらには、そんなに憎ければ自分を刺し殺せと、自分の剣をアンに握らせて、その切っ先を広げた胸に当ててみせる。
そんな「大芝居」に、アンはまんまと懐柔されてリチャードの指輪を受けとることになる。
こうして、あらゆる権謀術数を駆使して晴れて王冠を手にしたリチャードだが、二人の王子が邪魔で、刺客を雇って王子を殺しアンをも殺害する。
そのかわりに、ランカスター側のヘンリーが結婚しようとしている先王の娘エリザベスと結婚して王位の安泰を図ろうとする。
その目論見を実行する前に兵を挙げたリッチモンド公ヘンリーの軍勢に攻められ、悪逆のかぎりをつくしたリチャード3世は戦死する。
最後に積年の内戦に終止符を打つべく、ヘンリーはヨーク家のエリザベスと結婚し、ヘンリー7世となり、「テューダー朝」がはじまる。
リチャード3世は、これほどの「悪行」をつくしたものの、どこか人々を魅了するのは、日本史の松永久秀という人物を思い起こす。
しかし、リチャード3世は、実際にそれほどの「悪」の限りをつくしたのか。
2012年、レスター市の駐車場で「リチャード3世」の人骨が発見されるという「世紀の大発見」があった。そこは、もともと修道院があって「聖歌隊席にリチャード3世を埋めた」という記録がある。記録などによると、リチャード3世の身長は170センチ前後で、人骨には武器によ切り傷や刺し傷があり、1485年の「ボズワースの戦い」でヘンリー・チューダーに敗れ、32歳でなくなったリチャード3世の遺骨と判断された。
DNA鑑定などにより、その実像が明らかになると、リチャード3世は劇中に見られるような兄クラレンス公爵、妻アン、二人の甥(エドワード5世と弟リチャード)を次々と殺した証拠は一切なく、そして、むしろ勤勉で公正な支配を進めたとされた。
シェークスピアが戯曲を書いた16世紀後半は、リチャード3世を倒したヘンリー7世の孫にあたるエリザベス1世の治世下だったため、リチャードの悪逆非道ぶりを強く打ち出す必要があったようだ。
また、王朝の開祖ヘンリー7世が打ち破った相手だけに、王朝の「正当性」を主張する必要もあったであろう。
容貌においても、確かに背骨が湾曲する病気にかかっていた痕跡が認められたものの、 ダンディー大学で頭蓋骨から復元した亡き「王の面影」は、ハンサムで温和な表情に満ち溢れていたという。

「キリシタン屋敷跡」とされる東京都文京区小日向一丁目東遺跡で、2014年7月に3体の人骨が出土し、調査が進められていた。
そのうちの1体が、DNA鑑定や埋葬法などの分析を総合した結果、禁教時代のイタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチ(1667~1714年)である可能性が高いことが判明した。
シッドチは、徳川6代将軍に仕えた新井白石が尋問し、『西洋紀聞』などにまとめたことで知られている。
「キリシタン屋敷」は、鎖国禁教政策のもとで、キリスト教の宣教師や信者を収容していた屋敷である。
島原の乱(1637~38年)の5年後、玄界灘・筑前大島に漂着したイタリア人宣教師ジュゼッペ・キアラ(~1685年)ら10人がすぐに江戸送りとなり、伝馬町の牢に入れられたことをきっかけに、宗門改役の井上政重の下屋敷内に牢や番所などを建てて収容所としたのが「キリシタン屋敷」の起こりである。
1792年の宗門改役の廃止まで使用され、20人のキリシタンが収容されたと記録に残っている。
さて、キリシタン屋敷跡のある場所で、発見された人骨の1体は、国立科学博物館によるミトコンドリアDNA鑑定で、西洋系男性、現在のトスカーナ地方のイタリア人のDNAグループに入ることが判明、さらに人類学的分析で、中年男性、身長170センチ以上であることが判明した。
キリシタン屋敷に収容されたイタリア人は、2人の宣教師しかいないことが明らかになっているが、それがキアラとシドッチである。
この2人のうち、文献史料にある「47歳で死去、身長5尺8寸9分(175・5~178・5センチ)」というシドッチに関する記述が一方の人骨の条件にピタリと当てはまったのだ。
しかし、ふたつのイタリア人の人骨がシドッチかキヤラであるかを決定的にしたのが、その「埋葬法」であった。
文献史料によれば、シドッチはキリシタン屋敷の裏門の近くに葬られたとされている。
今回発見されたイタリア人人骨の出土状況は、シドッチ埋葬についての記述と一致し、棺に体を伸ばしておさめる「キリスト教の葬法」に近い形で土葬されていたという。
一方、84歳で死去したキアラは、小石川無量院で「火葬」されたという記録が残っている。
「土葬」か「火葬」かという埋葬法の違いは実に大きな意味を含んでいた。
何しろ、二人は同じイタリア人宣教師でありながら、日本でたどった道は全く違うものであったからである。
キアラはキリシタン屋敷に禁獄中に転向し、「岡本三右衛門」と名を改めて、幕府の禁教政策に協力、比較的優遇された生活を送った。
このキアラこそが、遠藤周作の『沈黙』のロドリゴ神父のモデルになった人物で、亡くなった時は「仏教徒」として火葬されている。
遠藤周作は、「沈黙」のあとがきに実在の「岡本三右衛門」について次のように紹介している。
「本文の岡田右衛門ことロドリゴとちがって彼はシシリア生まれ、フェレイラ神父を求めて1643年6月27日、筑前大島に上陸し、潜伏布教をこころみたが、ただちに捕縛され、長崎奉行所から江戸小石川牢獄に送られた。ここで井上筑後守の尋問と穴吊りの刑を受けて棄教、日本婦人を妻として切支丹屋敷に住み、1685年84歳にて死んだ」。
その一方で、1706年に屋久島に上陸したシドッチは「伝道の目的を重んじ、伝道用祭式用の物品をたくさんに携帯し、食料品よりもその方を多く持って上陸した」といわれるほどに、日本での伝道を強く願っていた人物だった。
しかし、念願の日本にたどり着いた直後に捕らえられ、死ぬまで江戸のキリシタン屋敷で獄中生活を送ることになる。
幸い、白石との出会いを通して、キリスト教をはじめ、地理学、欧州情勢など自らの持てる知識を伝える機会を得、白石の取りはからいによって、それなりの待遇を受けていた。
ところが白石が引退した後、「伝道をしない」という条件下である程度の自由が認められたが、シドッチはその本来の目的を忘れてはおらず、身の回りの世話をしていた役人夫妻を入信させたことで「地下牢」に閉じ込められ、そこで亡くなっている。
シドッチが体を伸ばして土葬されたのは、彼が「キリシタンとして」死んだことを物語っている。

1920年、ロマノフ王朝最後の皇女アナスタシアが発見されたというニュースに衝撃が広がった。そのニコライ2世は、皇太子時代に滋賀県大津で巡査に傷つけられたことがある。
ニコライ2世と妻アレクサンドラとの間に四人の娘が生まれ、その末娘こそがアナスタシア・ニコラエブナであった。
父母は、娘達に深い愛情を注ぐのだが、夫婦そろって社交嫌い。特に母のアレクサンドラは、ロシア宮廷の堅苦しいしきたりに馴染めず、世継ぎも生めないことから肩身も狭く、公式行事の参加を嫌がった。
ただ夫妻はアレクサンドル宮殿に行くのが楽しみで、宮殿の裏の湖の「子どもたちの島」で、姉妹達はそれぞれ自分の家を持って遊んでいた。
末娘のアナスタシアは4姉妹の中でも一番性格が明るく、よく人の真似をして笑わせるのが好きな子だった。
しかし、アナスタシアが3歳になろうとする1904年2月に日露戦争が始まるが、ロシアは日本に破れ、ロシア全土で敗北への抗議が広がっていった。
その一方、同じ年8月に皇室にとって「男子誕生」の喜ばしいニュースがあった。
男の子アレクセイ・ニコラエヴィッチの誕生は、ロマノフ家に幸せを運んできてくれるはずだったが、アレクセイは「難病」を抱えていた。
そしてこの難病は、ロマノフ王朝に予想以上の暗い影をなげかけることになる。
父ニコライ2世はよき家庭人ではあったが君主としての資質に欠けていた。
そうした王室の心の隙間に入り込んだのが、怪僧ラスプーチンである。
皇后アレクサンドリアは、皇太子アレクセイの病をきっかけにラスプーチンに傾倒し、宮廷に入り込む。
ラスプーチンは最初に宮廷に呼ばれた時、ベッドのアレクセイに何事かを話しかけるや、アレクセイはたちまち元気になった。
この怪人物は、いつしか「超能力者」として見られることになり、皇后や皇女たちや、お付きの女医、さらには多くの女性の心を魅了してく。
しかし、皇后のラスプーチンへの偏愛ぶりは、ラスプーチンを嫌う他の聖職者や権力者の憎しみと反感を買うことになる。そしてラスプーチンは、1916年についに暗殺された。
こうした王室の乱れは、ロマノフ王朝から知識人や国民を離反させ、「反体制グループ」が台頭する一因を成した。
さらに第一次世界大戦への参加により国民生活はますます困窮し、ロマノフ王朝はまさに風前の灯火となった。
そして1917年早春、ついにその日はやって来た。手に手に武器を持った民衆が、粉雪の舞う広場になだれ込んでゆく。
人々は口々に「自由を!」「平和を!」などと叫びながら走っていた。 「ロシア革命」勃発である。
かくして2月革命によって樹立された臨時政府は、独裁君主体制の廃止を宣言。ここに皇帝ニコライ2世は退位し、ついに300間続いたロマノフ王朝も終焉の時が訪れたのである。
臨時政府によって監禁された皇帝一家は、ウラル地方のエカテリンブルクに移送され、そこにある大きな館に幽閉された。
この頃、ニコライ2世の家族は長女のオリガ21才、次女のタチヤナ20才、三女のマリア19才、四女のアナスタシア17才、唯一の男子であった皇太子アレクセイに至ってはまだ14才だった。
そして1918年7月、エカテリンブルクの館にて裁判手続きを踏まぬまま、銃殺隊によって家族・従者とともに銃殺された。
だが、ロマノフ王家は滅びたものの、なぜか末娘アナスタシアだけは生きているという噂が広がった。
彼女に好意を持つ兵士によって密かに助けられ、どこかに匿われたというのだ。
アナスタシアという名前には「復活」の意味が含まれていて、皇女アナスタシアの生存に関する書物が数多く出版された。
そしてハリウッドは、アナスタシア生存を題材にした映画を制作して反響をよんだが、そのリメイク版がイングリッド・バーグマン主演の「追想」(1956年)で、さらに有名となった。
ロシア帝国の元将軍(ユル・ブリンナー)がニコライ2世が4人の娘のためにイングランド銀行に預金つまり、ロマノフ家の遺産に目をつける。
元将軍はセーヌ川に身を投げて救助された「記憶喪失」の女性(イングリッド・バーグマン)を生存が噂されるアナスタシア皇女に「仕立て」て遺産を手に入れようする。
しかし、これはあくまでもフィクションで、人々は「アナスタシア伝説」をある種の「都市伝説」に過ぎないと思っていた。
ところ、映画の展開に合わせたかのように、一つの「衝撃的事件」が起こった。
氷もまだ溶け切らぬベルリン市内を流れる運河のほとりに一人の女性が流れ着いたのだ。
その女性は体に深い傷を負い、軽い記憶喪失にかかっており、そのうえ精神錯乱に陥って衰弱が激しかった。
やがて、介抱され自分を取り戻した女性は、にわかには「信じられない」ことを口にし始めた。
自分は、かのロシア皇帝ニコライ二世の4女アナスタシアで、革命政府によって処刑されるところを運よく逃げて来たと言うのである。
そして病院を抜け出した彼女は、精神錯乱の末、市内を流れる川に飛び込み自殺をはかった。
しかし、彼女は運よく助けられることになった。
しばらくして回復した彼女は、自分はかのロシア皇帝ニコライ2世の末娘、アナスタシアで、ボルシェビキ政府によって殺されるところを、間一髪、命からがら逃げ出して来たと主張し始めたのである。
事実、その女性が持つロシア宮廷に関する知識は驚くべきものだった。
足がひどい外反拇趾であること、額に小さな傷跡があるという「身体的特徴」もアナスタシアと一致した。
それに加えて、彼女は、アナスタシア本人しか知り得ないと思われることを知っており、巷間では「アナスタ・ブーム」が巻き起こった。
その後、彼女はアンナ・アンダースンと名乗り、ドイツで「ロシア王室遺産」をめぐる訴訟を起こす。
裁判は長期化の様相をみせるが、その間彼女こそアナスタシアだと信奉する人々から、手厚い施し物を受けて生活することができた。
彼女は1984年に84才で亡くなるまで、自分は正真正銘のアナスタシアだと主張し続けた。
果たして、彼女は本物のアナスタシアだったのか。
1991年になって、エカテリンブルク近郊で、ロマノフ家の遺骨が発掘され、 皇帝一家が全員殺害されており、一人も生存していないことが明らかになった。
それらの遺骨は、その後の「DNA鑑定」で皇帝一家のものと判定された。
一方、アナタスシアを名乗ったアンナ・アンダーソンも、その死後10年の1994年、「DNA鑑定」でアナスタシアの一家との血のつながりは否定された。
こうして、「DNA鑑定」によって、数十年の長きに渡って論争された「アナスタシア伝説」も、ようやく幕を閉じた。
以上みたように現代の法医学は、リチャード3世の人物像の虚実を明らかにし、二人のイタリア人宣教師の生き様を露(アラワ)にし、「アナスタシア伝説」に終止符をうった。

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